明日も、明後日も、その先も

 

「婚約を解消していただけませんか」

 

 その一言を伝えるために、イゼルディアは何度も言葉を飲み込んでいた。顔を上げられず、婚約者の胸元に飾られた銀の留め具ばかり眺めていると、幼い頃から慣れ親しんだ声で名前を呼ばれた。以前なら、それだけで嬉しくなったものなのに。

 

「イゼルディア、君が怒るのも無理はないと思っている。僕は禁術にかかっている間、随分ひどいことをしたのだろう。すべてを覚えているわけではないが、君を傷つけてしまったことは、本当に申し訳なく思っているんだ」

 

 セヴランが伸ばしかけた手を引っ込める。イゼルディアが身を退いたからだった。留学から帰国した日など、彼が差し出した手を握っただけで浮かれてしまい、帰りの馬車で母に呆れられていたのに。今は触れられるのが怖かった。許してしまいたくなるから。あんなに苦しかった日々を、彼が帰ってきてくださったのだからと片づけてしまう自分が、何よりも嫌だった。

 

「……お許しくださいませ。禁術については存じておりますし、あなたも被害に遭われたのでしょう。ですから、あの方をお慕いしていらしたことについて、もう何も申し上げるつもりはございません。ただ、わたくし、以前のように接していただくたび、どうしても思い出してしまうのです。また同じことが起きたらと思うと、怖くて……」

 

 ほかの女性を伴って歩く彼を見た時も、嫉妬は見苦しいと言われた夜も、イゼルディアは翌朝になれば学園へ通った。彼が正気に戻った時、安心して帰ってきていただけるように。けれど本当に禁術で正気を失っていたのだと知ってからは、何を信じればよいのかわからなくなった。あの方はわたくしを愛してくださっている。何度もそう言い聞かせていた自分が、今となっては哀れでならない。

 

「……君は、僕と結婚するのが怖いのかい」

 

「ええ。ごめんなさい。わたくし、こんなはずではなかったのに。あなたのお嫁さんになることが、ずっと夢でしたのよ」

 

 セヴランは何か言いかけて、やめた。困らせてしまったのだと思うと、イゼルディアはますます申し訳なくなる。けれど、今ここで慰めてしまったら、また何もなかったことにしてしまう。いつもそうだった。彼のことが好きだから、彼に嫌われたくないから、言いたいことを飲み込んで笑っていた。

 

「……僕は、君がまだ怒っているだけだと思っていたんだ。魔術が解けたことを説明すれば、安心してくれるだろうと。君に婚約を解消したいと言われるまで、どうして以前のように笑ってくれないのか、そればかり考えていた。

イゼルディア、君がどれほど悲しかったのか、聞かせてもらえないだろうか。これまでのことも、全部」

 

 イゼルディアは迷った。何を今更、という気持ちがなかったわけではない。あんなに寂しかったのだから、気づいてくださってもよかったのに。けれど、それを口にしたところで過ぎた日々が戻るわけでもない。どうせ別れるのなら、最後くらい、物分かりのよい婚約者でいる必要はないだろう。

 

 約束していたお茶会に来ていただけなかったこと。留学先へ送った手紙に返事がなく、何かあったのではないかと心配していたこと。誕生日に会えなかった年には、彼からいただいた古い贈り物を眺めて過ごしたこと。初めは禁術にかかっていた頃の話をしていたのに、気づけば、それより前の出来事まで口にしていた。

 

「わたくし、あなたがご友人とお過ごしになるのは嫌ではありませんでしたのよ。ただ、たまにはわたくしのことも思い出していただきたかったの。お忙しいときには、お手紙を一通くださるだけでよかったのです。……わがままを申し上げておりますわね」

 

「そんなことまで我慢していたのか。……すまない。僕は君に甘えていたんだと思う。ずっと好きでいてくれると、勝手に信じていた」

 

 その言葉を聞いて、イゼルディアは泣いた。謝ってほしかったはずなのに、実際に謝られると、もう何も言えなくなってしまう。彼が悪かったのだと認めてくださることが嬉しくて、けれど、そんなことを言わせた自分が惨めでもあった。セヴランが差し出してくれたハンカチには、昔、彼女が刺繍した花が残っていた。

 

 まだ使ってくださっていたのね。

 

 そんなことが嬉しい自分にも、腹が立った。

 

 

 

 

 婚姻の延期が決まったのは、それから半月ほど経った頃だった。父は難色を示し、母も、時間を置けば気持ちが落ち着くのではないかと心配していた。何年も前から準備が進められていた婚姻なのだから、無理もない。イゼルディア自身、仕立屋から婚礼衣装の仮縫いについて問い合わせが届いた時には、返事を書けずにいた。

 

 母と一緒に生地を選び、刺繍の図案について何度も相談した衣装だった。一番美しい自分をセヴランに見ていただくのだと、あんなに楽しみにしていたのに。

 

「婚約を解消することになっても、君を責めないでほしいとお願いしてきたよ。悪いのは全てあの時油断した僕だ。両家の事だからすぐには動けない……でも、君が迷っている間に、僕の方から結婚を急がせるようなことはしたくないんだ」

 

 セヴランが自ら両家の当主へ話をしてくれたおかげで、結婚式の日取りはいったん白紙に戻された。彼の配慮がありがたかった。それと同じくらい、こうして婚約者ではなくなっていくのだという寂しさもあった。

 

 もし今、愛していると言われたら、自分は何と答えるのだろう。

 

 尋ねる勇気はなかった。

 

 彼が帰ったあと、イゼルディアは母の部屋を訪ねた。子供の頃のように膝へ顔を伏せると、母は何も聞かずに髪を撫でてくれた。もう、セヴランを許してあげなさいとは言わなかった。

 

 

 

 

 それから、彼と会わない日々が続いた。イゼルディアは本を読み、刺繍をし、友人たちと観劇へ出かけた。領地にいる祖母を訪ね、隣国から取り寄せたという菓子もいただいた。薄い生地の間に蜂蜜を使ったクリームが挟まれていて、あまりに美味しかったので、セヴランにも召し上がっていただきたいと思った。

 

 庭師が珍しい薔薇を咲かせた日にも、彼に見せたくなった。きっとあの方は「薔薇に含まれる魔力成分は……」と、頼んでもいない講義を始めるのだろう。面白い本を読めば、物語そのものより作者の思考について考察し始めそうな彼の顔が浮かんだ。

 

 少々困った方なのだ。けれど、そんな彼の話を聞くのが好きだった。離れてみると、自分がどれほど彼のことばかり考えていたのか、嫌というほどわかる。

 

 もう婚約者ではなくなるかもしれないのだから、忘れる努力をしなくては。

 

 そう決めて本を閉じた翌日に、彼から手紙が届いた。

 

 誕生日を祝う言葉と、短い近況。返事は不要だと添えられていたので、その日は引き出しへしまった。翌朝、やはり礼状くらいは書くべきだろうと思い直し、便箋を取り出した。

 

 最近読んだ本について書いた。以前、セヴランが好きだと話していた古い魔術書で、イゼルディアには難しかったが、挿絵の植物が美しかった。彼は留学中、その植物について調べていたのではなかったかしら。そんなことを考えながら筆を進めていると、便箋が二枚になっていた。

 

 返事は五日後に届いた。

 

 彼は植物のことを覚えていた。イゼルディアが庭園に植えられないかと尋ねたことまで書かれており、気候が合わないため王都では栽培が難しいのだという。残念ですわ、と返すと、今度は似た花を咲かせる別の植物を教えてくれた。庭師に相談したところ、そちらなら育てられるらしい。

 

 母に頼んで庭の一角へ植えていただくことにしたと知らせると、花が咲いたらぜひ見てみたい、と返事が来た。

 

 その手紙を読んだ日は、一日中機嫌がよかった。

 

 

 

 

 二人が再会したのは、王宮の夜会だった。セヴランは魔術師として招かれており、イゼルディアは父に伴われて出席していた。黒髪に濃紺の礼装がよく似合っている。久しぶりに会う婚約者は相変わらず美しくて、彼女は自分の趣味がちっとも変わっていないことを思い知らされた。

 

 セヴランは遠くから一礼してくれたものの、近づいてはこなかった。気遣ってくださっているのだろう。わかっているのに、寂しかった。以前なら、人目も気にせず自分のところへ来てくださったのに。

 

 結局、夜会が終わる頃になって、イゼルディアの方から彼を探した。

 

「お久しぶりです、セヴラン様。……あの、お時間をいただいてもよろしいかしら。今日はまだ、あなたとお話しできておりませんもの」

 

 彼は連れに断り、庭園へ案内してくれた。夜の庭には魔術灯が灯され、小径を歩きながら二人は近況を話した。セヴランは新しい研究を始めたらしい。彼女が興味を示すと、いつものように詳しく説明してくれたが、途中で話が難しくなりすぎたことに気づいたのか、慌てて言葉を選び直した。

 

「まあ、わたくし、あなたのお話を聞くのは昔から好きでしたのよ。全部を理解できているわけではありませんが、楽しそうにしていらっしゃるのを見るのが嬉しくて。……どうぞ、続きをお話しになって」

 

 セヴランは嬉しそうに笑って、続きを話し始めた。

 

 五歳の頃、初めて顔を合わせた日もこうだった。難しい魔術の話など理解できなかったけれど、彼が楽しそうだったので、イゼルディアまで嬉しくなった。そのあと、銀の盆に一つだけ残っていた苺の砂糖漬けを譲っていただいたのだ。あの時は、なんて優しい方なのかしらと思った。

 

 今も、そう思う。

 

 帰り際、馬車へ乗るために彼が手を差し出してくれた。イゼルディアはためらわずに応えた。

 

 

 

 

 それから二人は時折会うようになった。初めは家族を交えてのお茶会だったが、以前のように庭園を歩き、馬車で街へ出かけることも増えていく。

 

 セヴランは研究の都合で会えない時には、必ず事前に知らせてくれるようになった。イゼルディアも、友人との約束があれば彼からの誘いを断った。そうすると次はいつ会えるだろうかと、彼の方から尋ねてくれる。それが嬉しくて、以前の自分ならどれほど無理をしてでも彼に会おうとしただろうと、考えることもあった。

 

 ただ、すべてが元通りになったわけではない。

 

 ほかの令嬢と話している彼を見れば、あの日々を思い出す。返事が一日遅れただけで、また何かあったのではないかと不安になる。こんなにも疑い深い女だったかしら。以前は何があっても信じていられたのに、今では自分の心を持て余してしまう。

 

 ある日、とうとうイゼルディアはそのことを打ち明けた。

 

「君にそう思わせてしまうだけのことを、僕はしてきたんだね。……イゼルディア、僕は君と結婚したいと思っているよ。でも君が不安なまま頷いてくれることは望んでいないんだ。もしまた何かあったら、遠慮せずに話してほしい。僕も、君が何も言わなくてもわかっているつもりになるのは、もうやめるから」

 

 セヴランは、自分も被害者だったのだとは一言も言わなかった。

 

 イゼルディアは彼の肩に頭を預けた。セヴランが背に腕を回してくれたので、そのまま甘えることにした。

 

 ああ、わたくし、この方が好きなのだわ。

 

 好きでいることが怖くなって、もう結婚したくないと申し上げたのに。あれほど苦しんだのに、今は彼の隣にいると安心する。困ったことだった。自分のことなのに、さっぱりわからない。

 

 けれど、もう一度この方と生きてみたい。

 

 その気持ちだけは、以前よりもはっきりしていた。

 

 

 

 

 婚礼衣装について問い合わせが届いたのは、その翌月のことだった。仕立屋は、保管している衣装の寸法を確認したいらしい。

 

 久しぶりに見る衣装は、記憶にあった以上に美しかった。白い絹地には細かな刺繍が施され、裾には小粒の真珠が幾つも縫い込まれている。母と一緒に選んだものだった。これを着てセヴランのお隣に立ち、彼の母が身につけている、あの美しい指輪をいただくのだと、何度も考えた。

 

 あの指輪は、今も大切に保管されているのかしら。

 

 気になってセヴランへ手紙を書くと、数日後、母上から預かってきたので、よければ見に来てほしいと返事が届いた。

 

 

 

 

 薔薇の庭園で、セヴランが待っていた。テーブルには二人分のお茶が用意され、小さな銀の盆には苺の砂糖漬けが載っている。イゼルディアが席につくと、彼は上着の内側から小箱を取り出した。

 

「子供の頃、何度か結婚式ごっこをしたね。懐かしいな。……本当は、もっと早く渡すつもりだったんだけど」

 

 箱の中には、見覚えのある指輪が収められていた。幼いイゼルディアの指には大きすぎて、嵌めてもくるくると回ってしまったものだ。いつか君が大きくなったら、と彼は笑っていた。あの日のことを、覚えていてくださったのね。

 

 セヴランは指輪の箱を開いたまま、彼女に向き直った。

 

「……僕と結婚してくれないだろうか。以前と同じように戻ってほしいとは、もう言わないよ。君が何を好きで、何を嫌だと思うのか、これからも一緒に話していきたい。僕のことも、もっと知ってほしいんだ。……君が望んでくれるなら、明日も、明後日も、その先も、ずっと君と一緒に生きていきたい」

 

 長いこと夢に見ていた瞬間だった。

 

 彼から結婚を申し込まれて、美しい指輪をいただいて、二人で将来の話をする。幼い頃に読んだ恋愛小説にも、こんな場面があったような気がする。

 

 もっと早く、こんなふうに話ができていたら。

 

 そう考えなかったわけではない。過ぎた日々を取り戻すことはできないし、これから先も、きっと何度か喧嘩をするのだろう。お互いにわからないことがあって、悲しくなる日もあるかもしれない。

 

 それでも今度は、何も言わずに泣いているのではなく、どうして悲しかったのかを話したかった。彼が楽しそうに魔術の話をする時には、知っていることも知らないことも、もっと教えていただこう。イゼルディアの好きな本も、庭師が育ててくれた花も、まだ見せていないものがたくさんある。

 

 それに、せっかく二人で生きていくのだから。

 

「……セヴラン様。わたくし、まだ上手にお話しできないこともございますし、これから先も、きっとあなたにご心配をおかけすると思いますの。それでも、あなたのお隣に立ちたいという気持ちは、ずっと変わりませんでした。……いいえ。変わってしまったと思っていたのに、また、そう願うようになったのです」

 

 セヴランの顔がくしゃりと歪んだ。あら、泣いていらっしゃる。幼い頃から一緒にいるのに、こんなお顔をなさるなんて知らなかった。彼はいつも賢くて、何でも知っていて、イゼルディアが困った時には必ず助けてくださった方なのに。

 

 知らないことが、まだたくさんある。

 

「ええ。わたくし、あなたと結婚いたしますわ。……本当は、ずっとそう言いたかったの。もう一度信じさせてくれてありがとう。わたくし……あなたのことが好きよ。だいすき」

 

 セヴランはとうとう泣いてしまった。イゼルディアは驚いたけれど、彼が懐からハンカチを取り出したところで、自分まで泣いてしまう。隅には、昔、彼女が刺繍した小さな花が残っていた。

 

 二人で泣いていては困るのに。

 

 指輪を嵌めていただいたのは、落ち着いてからのことだった。幼い頃には大きすぎたものが、今はぴったりと収まっている。陽の光に翳すと、細工の隙間まで美しく輝いた。

 

 セヴランが彼女を抱きしめた。

 

 薔薇の香りがした。

 

 

 

 

 結婚式は、その年の秋に執り行われた。

 

 ヴァルクレール公爵家の末娘は、誰もが見惚れるほど美しい花嫁になった。母と選んだ婚礼衣装に縫いこまれた小さな真珠は、歩くたびに柔らかな光を放っている。父は娘の姿を見るなり泣いてしまい、母も目元を押さえていた。兄からは、やっとお嫁に行くのかと笑われたが、その声が震えていたので、イゼルディアは何も言わずに抱きついた。

 

 祝宴には、二人の幼い頃からの知人も大勢招かれていた。イゼルディアは夫の腕を取り、客人たちに挨拶をして回った。時折、彼が魔術の話に夢中になるので、袖を引いて次の方へご挨拶に参りましょうと促す。セヴランは名残惜しそうに話を切り上げ、彼女と歩き出した。

 

 晩餐の最後には、小さな銀の盆が運ばれてきた。

 

 載せられていたのは、苺の砂糖漬けが二つ。

 

 イゼルディアが夫を見上げると、彼は昔と同じように、そのひとつを彼女の前へ差し出してくれた。小さな銀の匙に載せられた苺を、少々恥ずかしく思いながら口に運んでいただく。

 

 あの日、五歳の自分はなんて優しい方なのかしらと思ったものだ。たったひとつのお菓子を譲っていただいただけで、こんなに幸せな気持ちになれるなんて。

 

 けれど、今日は残りのひとつをセヴランに食べていただきたかった。幼い頃のイゼルディアは、彼も本当は苺の砂糖漬けが好きだったことなど、知らなかったのである。

 

 イゼルディアは空いた匙を受け取り、もうひとつの苺を掬い上げた。夫の口元へ差し出すと、セヴランは驚いた顔をしてから、嬉しそうに笑って、彼女の手から苺を食べてくれた。

 

 人前でこんなことをするのは、はしたないかしら。

 

 気になって周囲を確かめると、母が笑っていた。兄は何やら父に耳打ちしている。どうせろくなことではないのだろう。イゼルディアは気づかなかったふりをして、夫に向き直った。

 

 これから先も、こんなふうに二人で分け合っていけたらよいと思う。美味しいものも、嬉しいことも、時には悲しいことさえも。何もかも半分ずつとはいかないだろうけれど、少なくとも、ひとりで全部を抱え込む必要はないのだ。

 

 セヴランが彼女の指先へ口づけた。左手には、幼い頃から憧れていたあの指輪が輝いている。

 

 イゼルディアは幸せそうに目を細め、もう一度だけ、大好きよ、と囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 黒髪の男の人が好みだった。物心がついた頃から好きだったので、何か理由があるのかと尋ねられても困る。

 黒髪の人に優しくしてもらったことも、特別な思い出があるわけでもないし、そもそも黒髪というのは魔力の強い者に現れやすい特徴で、平民には滅多にいない。いたら速攻で良い感じのおうちへ養子に求められるか、おらが家の宝くらいの勢いで大切に育てられるかしている。だから、黒髪の男の人を見かける機会なんて、そうそうあるものではなかった。

 

 結局、英雄譚に出てくる偉大な魔道士や、わたしが一生会うこともない偉い偉いお貴族様くらいにしか黒髪はいない。それでも、絵本に描かれた黒髪の王子様を見るたび、どうしようもなく胸が温かくなった。

 どうしてわたしの髪は黒くないのかな。そうしたら、置いていかずに済んだのに。時々、そんなことまで考えてしまう。誰に置いていかれたのかも、どうして髪の色が関係あるのかも、さっぱりわからない。

 

 ただ、黒髪の男の人を見ると懐かしくて、少し寂しくて、いつか会えたら今度こそ手を離さずにいたいような、そんな気持ちになった。なんだったっけ、約束したような気がする。しわしわのおばあちゃんの手を、誰かが握って……また、次も…………。

 

 

 

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