いきてきたるif(それから)③

 トレーニングルームに入り、さっきまでギャンギャン吠えていた弔くんは、グローブを外された途端に吠えるのをやめた。
 開始の合図も無く人を殺すと決めた生き物の目で、獲物の喉までの距離と角度だけを測っている。
 父さんはトレーニングルームの真ん中に立ったまま一歩も動かない。腰も落とさない、呼吸も乱さない。個性を起動する気配も、腕を振りかぶる気配もない。弔くんから視線を外さずに「やってみろ」とだけ言う。
 オールマイトは父さんから「貴様は手を出すな」と釘を刺されて壁際に下がり、ハラハラした顔で見守っていた。質量が減ったなと思ったら、これが普段の姿らしい。ただの八木なんとかさんだ。
 あの神話みたいな体躯が、急に現実の人になった。ヒーローとしての“圧”が抜けた分だけ、まるでそこら辺のちょっと大柄なおじさんに見える。私生活が透けない人だけど、オフのNo.1ヒーローってもしかしてめちゃくちゃ貴重なんじゃないか?

 俺が目を離している間も時間は進み、弔くんは一息、床を蹴る。音がしない。動きも軽い。なのに殺意だけが重い。
 瞬きの間に間合いが詰まって、指が開いたままの手が父さんの喉元へ伸びる。五本全部で掴む、それだけで終わる個性。けれど父さんは避けない。避けるための足さばきすら見せない。喉に来る軌道の“手前”に、手の甲がぺし、と当たる。ほんの数センチの返し。叩くというより、厄介な虫を払う動きに近い。その瞬間、弔くんの腕の内側の角度がズレる。勢いの行き先が分解される。伸びた腕が空を切り、身体だけが慣性で半歩前へ滑る。
 「っ……!」と短い息が漏れて、驚愕と苛立ちを飲み込む音がする。
 弔くんはすぐ姿勢を立て直すために床に手を置く。その手が触れた部分だけ、ぐずり、と崩れた。床が砂みたいに脆く砕け、粉が舞う。指を立てたから“掴む”判定に入ったのか。これってめちゃくちゃヒーロー向きじゃないか? 災害とかで要救助者の保護で活用できるだろ。
 父さんはその崩れをちらりと見ただけで、何も言わない。言わないのに“続けろ”とでも言うように、同じ場所に立っている。
 弔くんは二度目。今度はフェイントを混ぜる。左で牽制して右で首、という単純な読み合いじゃなくて、視線、肩の沈み、踏み込みのリズムで父さんの反応を引き出そうとする。子どもがする動きじゃない。誰かに教え込まれた型だ。戦闘センスがいいし足も速い。なのに父さんの手の甲がまたぺし、と鳴る。
 左を払って、右も払う。叩き落とすんじゃない。触れるだけで、弔くんの“決めた軌道”だけを壊す。
 弔くんは歯を食いしばって、今度は低く潜る。腰を落として膝裏を狙い、体勢を崩してから喉へ。そういう最短の解体手順。なのに父さんは、足を引かない。膝を守るためのガードすらしない。手の甲がまた、ぺし。今度は頭の側面を軽く打って、視界の端を弾く。弔くんの身体が一瞬だけ浮く。浮いた瞬間に狙いが外れて、床に手をつく。そこがまた崩壊して、ぼろぼろと穴が広がる。粉塵が舞い、弔くんの荒い息が白くなるように見える。狭い肺で必死に酸素を掻き集めている。怒りだけが太い。なのに父さんの呼吸は一定だ。力量の差が残酷なくらいに可視化されている。
 八木さんは壁際で拳を握りしめ、出したい手を出せずに喉を鳴らす。助けたいのか、止めたいのか、どっちの手を伸ばすべきか分からない顔だ。父さんが思いっきりぶん殴ってたり、個性を使って制圧していたら止めやすかっただろう。だけどこれじゃ止められない。子どもの癇癪を大人が適当にあしらっているだけだからだ。

「さすが、本物の父親は違うね……。私ではこうやって向き合う事も出来なかった……」
「あの人、俺の事ぶん殴って鼓膜破って吐血させましたよ」
「え」

 勘違いされても困りますが、あの人がそこそこ手加減とか人の面倒を見るとかが出来るようになったの、最近なので……。八木さんの困惑を無視して、弔くんvs父さんの、あまりにも一方的な戦いの観戦に戻る。

 父さんはただの強い大人として、弔くんの全力の攻撃をぺしぺしと払い続ける。個性も使わず、過剰に壊さず、でも絶対に触れさせない。
 弔くんは何度も突っ込む。喉、目、耳、指、急所の順番を変えて、角度を変えて、速さを変えて、殺すための最短を探す。
 探せば探すほど、父さんの動きは単純になる。払い、払い、払い。まるで「それは違う、やり直し」と言い続けるみたいに、同じ動作で否定される。最後には、弔くんのほうが先に“崩れる”。身体じゃない。心の手順がほどける。手が空を掴み、床を壊し、粉塵の中で息を荒くして、それでも届かない現実に、目がいよいよ獣のそれになる。
 俺は次々と出来ていく床の穴と粉塵を見ながら、馴染みの修理業者の営業さんに『あとででかいの一発頼みます』と予告メールを打った。即座に『おまちしてます♡』と返信が来る。ハートをつけるな、ハートを。我が家のおかげで今年のボーナスが上がったらしい。これからもお互い助け合っていこうな。

 それにしても、弔くんは本当に昔の燈矢みたいだ。必死で、一生懸命で、胸が苦しくなるくらい健気だ。前例を知っている分、どうしても肩入れしてしまう。
 目の前では小柄な子どもが目を血走らせながら「死ねええぇ!壊れろ!!」と実父に飛びかかり、襲われている実父が向かってきたハエを叩くように弾きながら「叫ぶな軌道が分かるだろうが、やり直し」と繰り返している光景を眺めつつ、現実逃避みたいに少しだけほのぼのしてしまっていた。

 直後、耳元で「ただいま!」と、やけに近い声がする。反射で肩が跳ねて振り返ると、距離感を間違えたみたいな位置に燈矢が立っていた。
 病院の検査から帰ってきたらしい。薬が入った白い袋と検査結果であろう薄い紙の束を持った手が、俺の視界の端で揺れた。目の前の粉っぽい修羅場と、耳元の子どもみたいな帰宅宣言の温度差が凄い。

 燈矢は俺の顔を覗き込んでから、すぐ拗ねた顔になる。「なんでおかえりって言ってくんないの。俺、玄関で待ってたのに」言い方が責めてるのに、要求はただの儀式で、叶えれば機嫌が戻ると分かってるやつだ。
 俺は「聞こえなかったんだよ」と雑に言って、軽くハグをする。抱き寄せた途端、燈矢は肩口に額をぐりぐり押し付けてきて、わざとらしくもう一度「ただいま」と繰り返した。確認作業の追加です。「おかえり」と返し、背中をぽんぽん叩く。たったそれだけで満たされたのか、燈矢はすぐに体を離して、今度は客人に視線を移した。
 八木さんが居場所に困ったまま立っているのを見て、燈矢は短く「どうも」とだけ挨拶する。礼儀の形だけ置いて、次に指先がトレーニングルームの惨状へ向いた。崩れた床、舞う粉、ぺしぺしと払い続ける父さんと、殺意の手順で突っ込んでいく弔くん。その全部を一秒で飲み込んだ燈矢が、眉間に皺を寄せて嫌そうに言う。

「なにこれ。敵襲?」
「そうとしか見えないけど、鍛えてあげてるのかもしれない」
「お父さん、遊んでやってるだけだろ」
「はぁ!?」

 俺たちの会話が聞こえたのか、弔くんの視線がこちらに向く。

「ふざけんなよ! こっちは殺す気でやってんだよ! なんで死なねえんだよこのデカブツ!」

 燈矢は鼻で笑って、「やっぱこいつ敵じゃないの? 人んち来て人のお父さん殺そうとしてるのまともじゃないだろ」と言いながら、こめかみの横で指をくるくるする下品なジェスチャーを始めたので、やめなさいの意味を込めて手首を掴んで下ろさせた。
 俺が止めるより先に意図が伝わってしまったらしく、弔くんがギャワンと吠えてこちらへ向かいかけた、その直前。父さんが無言で腕を伸ばし、首根っこを摘むみたいに捕まえて、また素早くグローブを装着した。外すのは面倒なのに付けるのは簡単らしい。実に理にかなっている。
 「ふざけんな! 死ね!」と、語彙が二つに退行した弔くんは父さんに掴み上げられながら大暴れしている。あまりに雑な持ち方なので、俺は眉をひそめて「今どき猫でもそんな持ち方しないだろ……」と呟きつつ受け取りにいった。
 腕を伸ばした途端、弔くんは待ってましたとばかりに俺へ飛びついて、ガシッとしがみつく。

「こいつが俺のこと殴った! “ぼうりょくをふるわれた”! みただろ陽火、俺はとっても“きずついた”!」

 捻じ曲げた事実を、さも正当な訴えみたいな顔で並べ立てて、グローブ越しに父さんを指さす。見てたからね、それは違うって分かるんだよ……。
 “ぼうりょくをふるわれた”と“きずついた”だけ、発音が妙にぎこちない。言い慣れてないというより、最近教わった言葉を丁寧に再生している感じだ。暴力を振るわれた、傷付いた。これは極最近、誰かに教わった概念なんだろう。しかも悪い方向に。言えば勝てる、言えば止まる、言えば自分の正しさが確定する。そういう誤学習の匂いがする。
 弔くんは俺の服にしがみついたまま、視線だけ父さんへ突き刺し続けて、勝ったつもりの顔で肩を震わせていた。

 たぶんその言葉を与えたんだろう八木さんは、静かに顔を覆っている。
 怖いだろう、やさしさで差し出した言葉が、ねじ曲がって返ってくる現実が。こういうのは子ども相手だと本当に多いので、今後覚えておいてほしい。
 特殊な環境で育った子どもほど、“通じる言葉”を覚えた瞬間に、それを武器として最短距離で振り回す。意味を理解しているというより、「これを言えば大人が動く」「自分に優位に働く魔法の言葉」という結果だけを学習してしまうからだ。
 俺は弔くんを抱え直し、頭を撫でてやりながら、わざと大げさに「おうおう可哀想に、暴力的なおっさんでごめんな」と宥めておく。俺が味方だ、と確認できればそれで満足するらしく、弔くんは耳元でくふくふと小さく笑った。

 一方、目の前の燈矢は面白くなさそうに目を細め、「なにこいつ」とボソッと呟く。すぐに言い直すみたいに、悪口を混ぜて繰り返す。「なにこのチビ」だんだん語尾が尖っていく。

「お客様だよ」
「じゃあ帰らせよう。こいつ邪魔」
「帰らない!」

 燈矢の「帰らせよう」が刺さったのか、弔くんはギャンッと犬みたいに反応して、力いっぱい俺にしがみつきながら「陽火と一緒じゃなきゃ帰らない!」と宣言した。腕が細いくせに力だけは妙に強い。
 燈矢も同じ熱量でブチ切れ、「てめえだけ帰れよ!!」と返した。完全に縄張り争いだ。俺が弔くんを降ろさないことで安心しているのだろう、弔くんが勝ち誇ったみたいに鼻を鳴らし、燈矢の眉間の皺が深くなる。
 「燈矢、燈矢くんよ……。弔くんは焦凍と同じくらいでだろ。子どもにそんな怒らない……」と宥めても、燈矢は納得しない顔のまま、舌打ち寸前の息を吐き、弔くんは「子どもじゃねえし」と小さく悪態をつきながら俺の服を握り直した。どっちも譲らない。譲らないまま、俺を真ん中に置いて“次の一手”を探している。

 とりあえず今日はもう泊まっていったらいいんじゃないか、と俺が提案した瞬間、父さんと燈矢がほぼ同時に却下した。その却下をさらに却下して、「いや、もうこの状態で帰らされたら可哀想だろ。どうするにしても本人が納得するまで説明しないと、一生信頼関係結べないよ」と言いながら、言葉じゃなく視線で弔くんを示した。
 この子は強制的に切り上げたら次はもっと面倒になるタイプだ。このタイプの面倒さは反抗期が全て俺に向かって来ていた頃の燈矢で体験済みですのでね、わかってしまうのですよ。
 かつて同じような面倒さを誇っていた燈矢は、過去の自分を完全に棚上げして即座に「知ったこっちゃない」と吐き捨てた。一方、多少は人の心が蘇ってきている父さんは口をもごもごさせ、短く息を吐いてから「……仕方ない」と雑に許可を出した。雑すぎる許可だが、この人なりに譲歩しているのが分かるのでありがたく受け取る。父さんの場合は弔くんは居てもいいが、オールマイトが宿泊するのが本当に嫌と言うだけだろう。
 八木さんは「炎司くん……! 本当に、本当にありがとう!」と父さんの手を握りしめ、父さんは父さんで「気安く触るな!」とキレて振り払う。父さんの挙動が完全にギャルゲーのツンデレ攻略対象になっていて、本当に嫌。俺は見なかったことにして手を叩き、「とりあえず話をまとめるから居間に行こう」と全員を促す。
 文句を言う燈矢、離れない弔くん、居場所に困る八木さん、腕組みして不機嫌を隠さない父さん。ぞろぞろと、妙なパーティみたいな面子で居間へ移動した。

 

 

 居間に着くなり、なぜ一般家庭にこれがあるのか分からない会議用ホワイトボードを引っ張り出し、ペンを握る。こういう時は可視化が一番強い。俺はまず「啓悟」と書いて丸をつけた。

「俺としては、啓悟くんもいるし、あと一人二人増えてもいいだろって思ってる」
「俺まだ会ったことない」
「寮に入っちゃったからな。次の休みは帰ってくるって言ってたよ」
「ふうん」

 興味があるのかないのか分からない返事。けれど、完全に拒絶するよりはマシだ。
 啓悟くんは二年前、父さんが連れてきた子だ。痩せて小柄で、俺はてっきり夏雄より少し年下くらいだと思っていたが、実際は冬美と同い年だった。体格と目つきと雰囲気が年齢を誤認させるタイプで、そういう子はだいたい、育つべきところで育っていない。
 家庭環境が複雑で、公安に預けられていたらしい。公安に預けられるきっかけが父さんの仕事で、そういえばそんな子どももいたな、と父さんが様子を見に行ったら、到底“子どもを育てる”環境下にいなかったらしく、慌てて引き取ってきたという流れだ。
 彼が来たばかりの頃は俺も俺で、「すごい! 我が子すらまともに育てられないのに素晴らしい博愛の心!」と実父相手に煽り散らした。
 でも啓悟くんは何も悪くないし、公安とかいうクソのカスみたいなドブの組織……前世からの引き継ぎ好感度の低さで公安のことを個人的に憎んでいるので、本当に同情しかない。保護されて数年経ってたらしいのにあんなに痩せていたのは、たぶん公安が粟や稗しか食べさせていなかったからだろう、可哀想に。燈矢が帰ってくる少し前に寮生の学校へ入学したので、あまり長く一緒に暮らせなかったが、俺としてはもう一人の弟という気持ちだ。

 啓悟くんは変なところ遠慮がちだが、明るくて優しい。自分を軽薄に見せるのが唯一の欠点かもしれない。甘え下手なところもあるけど、ちゃんと自分の芯がある良い子だ。だからきっと燈矢とも仲良くなれると思う。
 ……いや、仲良くなって“もらえる”と言った方が正しいか。燈矢のほうが基本的に他人を拒絶するからな。俺はホワイトボードの「啓悟」の丸を軽く叩いて、みんなの視線をそこに集めたまま、次に何を書くべきかを頭の中で組み立て始めた。

「弔くんもまとめて父さんの扶養に入れて……養子とかになれば一番楽なんだけど」
「気軽に扶養家族を増やすな」
「もう誤差でしょ」

 父さんの文句は聞かなかったことにする。ここが通れば、弔くんは執着している“俺”を物理的にも生活圏的にも手元に置ける。情緒は確実に安定するだろう。ただしその場合、オールマイトの養子という立場をどう処理するか、俺には分からないレベルのややこしさが山ほどあるはずだ。
 案の定、八木さんは申し訳なさそうに肩をすぼめ、「公安との契約でね、私が転弧……」
「弔だっつってんだろ!」
「……弔の保護者であることが、契約に含まれているんだよ。これを守らないと、彼は……」

 そこで言葉が途切れる。ああ、なるほど。たぶん、とんでもない犯罪者の近縁か、あるいは弔くんがときどき口にする“先生”という存在が、想像以上に危険なのだろう。
 オールマイト級の最高戦力が“保護”という名目を持っていないと、表に出せない。常時監視か、隔離か、その二択を突きつけられるレベルの警戒対象。確かに、この攻撃性と個性の強度なら、すでに準犯罪者扱いされていてもおかしくない。

……こんな子どもを犯罪者扱い? まだ何もやってないのに? 公安くんって最低! ザコ! ボケ! カス! 解体されて消えろ、人の足引っ張るしか能のない腐った蜜柑共が……。

 おっといけない、前世からの恨みが溢れた。個人的感情を引き出しに押し込み、何事もなかった顔でホワイトボードにペンを走らせる。

「無茶を通した契約としてオールマイトの保護下にいなきゃいけないなら、まずはオールマイトが父さんの養子に入って」
「待て」
「待たない。そして形式上“孫”として転孤くんがうちに入れば……」
「弔って言え!」
「はい、弔くんは俺の甥になって、うちの子扱いです」
「一回、実印取りに戻っていいかな」
「乗り気になるな貴様ァ!! 無理な理屈を通すな!!」

 ダメか。結構いい案だと思ったんだけどな。

 

 

 結局、No.1とNo.2の癒着を疑われる、という至極もっともな理由で却下されたが、代替案として“半同居”という形に落ち着いた。
 うちは無駄に家が広い。オールマイトも多忙なため、弔くんが家に一人になる時間は、他のヒーローが交代で監視につく扱いになった。そっちの方が公安のカス共にもやってますよ感を与えることができるしな。
 その“他のヒーロー”は父さんだったり、父さんが忙しい時は事務所所属のヒーローが派遣されて泊まり込んだりする。
 無駄に広い庭の一角には、お泊まり用の部屋まで新設された。父さんの事務所では、美味しいものがたくさん食べられて、特別手当も出て、源泉かけ流し温泉付きの良い部屋に泊まれるという、ハッピー任務として大人気らしい。エンデヴァー事務所の福利厚生扱いだ。作ってくれないか? 寮……という意見も出たらしい。さすがに庭に寮は嫌かも。

 最後まで反対を貫いていた燈矢は、今も弔くんと仲が悪い。
 だが、うちの弟妹は総じて根本が穏やかな性質なので、情緒発達的には多少の刺激があった方がいいだろう、たぶん。
 弔くんは弔くんで、口調は相変わらず嫌味ったらしく攻撃的だが、冬美に「そういう言い方は傷つくからやめて」と叱られたとき、一瞬目を丸くしてから「ごめん」と謝り、それ以降その言い方をしなくなった。年上の女の子に弱いのかもしれない。かわいいね……。

 それにしても、弔くんの年齢が夏雄よりひとつ上だと知ったときは本当に驚いた。小さくて、細すぎる。啓悟くんのときも実年齢を誤認したけれど、それよりもひどい。年相応に育てられなかった子どもが、こうして並んで存在している事実を前に、俺はホワイトボードの消し跡を眺めながら、これ以上増えないことを祈るべきなのか、もう増える前提で考えるべきなのか、判断がつかなくなっていた。

 なんかもう考えるのめんどくせえな。作るか、エンデヴァー孤児院。出資するから名前だけ貸してくれないか、父さん。
 ぼんやり考え込んでいると、背中に衝撃が走った。軽い体重がドン、と勢いよく当たる。

「何考えてんだよ」
「弔くんのこと」
「ふうん」

 その返事の直後、弔くんの口元が満足そうにムフッと歪んだ。可愛い。可愛すぎて、反射で両手でほっぺを挟んでしまう。頬が柔らかい。前はもっと乾いていて、赤く荒れて、触れるのも躊躇う質感だったのに、最近は少しずつ落ち着いてきた。
 アレルギーかアトピーか、正確な病名は知らない。けど夜中、グローブのせいで掻けないとキレながらグズっていた日に、俺が代わりに「余計に痒くなるから、薬塗っておこうな」って毎晩塗りたくっていた生活の成果だろう。俺が育てました、このやわらかほっぺたを。

 そこで、空気が露骨に冷えた。今度は衝撃じゃなく、怨念みたいな声が降ってくる。

「なんで俺のことじゃないの。俺のこと考えててよ」

 背後に気を取られていたら、正面の膝に重みが来る。座ってる俺の膝へ、勝手に乗り上げてくる燈矢だ。猫かな……。

「燈矢のことも毎日考えております」

 俺が即答すると、燈矢は満足するどころか、むしろ目を細めて怒りもあらわに声を荒らげた。

「俺の分減った! こいつのせいで減った!」

 ギャン! と叫んだあと、そのまま俺に縋り付いて怒るので、仕方なく撫でくりまわして宥める。背中からの圧と膝の重みで、俺は完全にサンドされた。左右から情緒が押し寄せてくる。

 弔くんは、燈矢の情緒不安定を馬鹿にする発言を冬美に咎められて以来、口には出さずに態度でだけ見せるようになった。
 よくなったのか悪化したのか分からない。“言わない偉さ”と“態度の悪さ”が同居していて、むしろ手強い。いまも弔くんは、俺の肩越しに燈矢を見て、鼻で笑うみたいに息を鳴らした。

 「何笑ってんだてめえ!」燈矢が即座に噛みつくも、弔くんも「うるせ」と負けない。そこから一拍置いて、わざとらしく言い換える。

陽火、こいつが“いじめる”。俺は“き ず つ い た”」

 覚えたての概念を都合よく振り回すの、やめなさい。しかも“傷ついた”だけ発音がゆっくりなのが煽り度高い。燈矢は燈矢で「俺のが虐められてるだろ!! とられてんだぞこっちは!」とさらに火がつき、膝の上で体勢を変えて弔くんに睨みを飛ばす。
 弔くんは背中から俺にのしかかる位置を微調整して、燈矢の視界に入るようにわざと顔を寄せた。挑発の才能がお互い無駄に高い。

「俺を挟んでキャットファイトするのやめてくださ~~い……」

 俺が情けない声を出すと、二人とも一瞬だけ動きが止まって、その一瞬の静寂が逆におかしくて、笑いが漏れる。
 賑やかだ。うるさい。面倒くさい。でも、この騒がしさは、少なくとも“生きている”方向の騒がしさだ。原作崩壊後の世界としては平和だろう。そもそも元の原作をそこまで読み込んでないから、何がどう変わったのか正確には分からない。それでも、たぶん結果としては悪くない。

 俺は両側から押しつぶされながら、そういうふうに雑に結論づけた。一応ハッピーエンドではあるだろう、たぶんな。