燻琉 朔という男のはなしをしよう。

 古着屋の名前は “ASH & QUIET”。看板に書かれたその単語に、店としての公式な意味はない。
 灰と静寂だとか、燃え残りの比喩だとか、人生哲学だとかそういう解釈は、だいたい客のほうが勝手にしていく。
 外観は正直、入りやすいとは言えなかった。通りから少し奥まった位置、昼でも薄暗いガラス、何屋なのか分からない控えめな照明。初めて来た人なら一度は足を止めて、それでもやっぱりやめる。そういう店構えだ。それなのに、扉は不思議とよく開く。古着屋にしては客層が妙に広く、年齢も職業もばらばらで、共通点を挙げるとすればだいたい「誰かの紹介」だった。

「ここ、一見さんお断りなんですか?」

 慣れてきたバイトにそう聞かれると、朔は小指のない利き手で値札の角を揃えながら、少し困ったように笑う。

「そんなことないって。入りにくいからそうなっちゃっただけ」

 本当に、すべてに意味はない。店の名前は、たまたま目に留まった単語を並べただけだし、妙に勘繰られがちなその小指も、幼い頃に個性の扱いを誤って失っただけの話だ。何かを隠しているわけじゃない。ただ、説明しない。それだけで人は勝手に想像を膨らませ、勝手に納得するらしい。

 売上はそこそこ。毎日もそこそこ。人間関係は、あまり踏み込まないスタイルだ。一度人に入れ込んでしまうと、自分でも加減が利かなくなるという悪癖がある。そのせいで何度も痛い目を見てきたことも、ちゃんと覚えている。
 外見や態度が軽薄に見えるというマイナスポイントは、気楽な交友関係を維持するにはむしろ都合がいい。深く関わらない理由を、相手に考えさせなくて済むからだ。

 世界は相変わらず、ヒーローだのヴィランだので騒がしいが、ここは変わらない。店に並ぶのは、海外から仕入れた、日本ではあまり見かけない色合いの服ばかりだ。正直、自分なら選ばないだろうなと思うものも多い。それでも、誰かの目に留まって、誰かの日常に紛れ込んでいく。そういう役割でいい。

 そんなふうに日々をやり過ごしていたら、最近になって新しい常連ができた。高身長という分かりやすい特徴と、誰の紹介でもないという、この店では珍しい条件。その二つが揃っていたから覚えた。“あかり”と名乗った青年は、たぶん、人懐っこい性格なのだろう。

 確かに、彼の身長だと日本人向けの規格では袖や裾が足りなくなるだろう。身長に見合って体格が良かったり、異形型個性だったりすれば、そういう方向に振り切ったメーカーもあるにはあるが、細身の高身長というのは需要が少ない。
 結果、海外メーカーの服を選ぶほうが早い、という結論になる。理屈としては理解できる。できるのだが、一応、ファッション業界の端くれに身を置く者として言わせてもらうなら、彼の服のセンスはどうしても受容できない。

 今日はピンク地に紫の虎が大量に並んだジャケットを、何の躊躇もなく「これください」と笑顔で買っていった。これを仕入れた自分が言うのも本当にどうかと思うし、売ってる側が何を言うかという話ではあるのだが、それでも、やめてほしい。

 最近になってようやく気付いてしまったのだが、あかりくんはどうやら服を選ぶ基準が“触り心地”しかないらしい。
 バイトの子はあっけらかんと、「需要と供給が合致してるならいいんじゃないですか。次来た時はこれ勧めましょう。黄金のパンツ。手触りいいから、多分ほんとに買ってくれますよ」と言う。自分も自分で、「買うだろうなあ……」と妙に納得してしまいながら、ふわふわしているのにさらさらとした、最高の触り心地を誇る最低なデザインのパンツをラックに並べた。
 大量に仕入れていると、どうしてもこういうのは混ざる。商売としてやっている以上、買ってもらえるのは正直ありがたい。それでも、あのスタイルの良さをぶち壊す一端を、自分が担ってしまっているのだと思うと、少しだけ心苦しい。

 あかりくんの次の来店は、いつもより早かった。

「ミスター、ここが俺のお気に入りの店だよ」
「ここがあの、数々の殺人ピエロファッションの聖地……」
「俺のこと、殺人ピエロだと思ってた?」

 どうやら友人を連れてきたらしい。「いらっしゃい」と声をかけると、いつものように笑顔で「どうも」と返ってくる。

「自由に服を買う権利を剥奪されちゃって、保護者がつくことになりました」
「どうも、保護者です」

 あかりくんに“ミスター”と呼ばれた黒髪の偉丈夫は、舞台俳優のように隙のない笑顔を向けて、丁寧に会釈をしてきた。その完成度の高さを見た瞬間、ああ、これは信用ならない人間だぞ、と勘が働く。仕事には関係ない。だからこちらも、同じように整えた笑顔を返した。

「とりあえず、いつもみたいに好きな服をカゴに入れて持ってきて。おじさんが最終チェックしてやるから」
「はーい」
「嘘だろ、真っ先に黄金のパンツに向かっていった」
「なんか、ここら辺にいつも俺好みのやつが並んでんの」
「罠でしょ、それ」

 バイトの子が、あかりくん専用に作った、とにかく触り心地だけは良くて、まったく売れない柄の服コーナーだ。罠であっている。

「ほらミスター、触って」
「わあ、ふわさら」

 最終的に三着ほど選び、カゴをミスターの前に差し出したあかりくんが、「チェックをお願いします」と丁寧に頭を下げる。ミスターはうんうんと満足げに頷いたあと、カゴには一瞥もくれずに言った。

「そこの棚の上から三番目のジャケットと、向こうの壁に掛かってるシャツを。
それから、グレー系で股下のサイズが合うパンツがあれば出して。このカゴの中身は全部戻してもらえるかな。無かったことにしよう」

 「そんなあ!」という、あかりくんの情けない声を完全に無視して、持ってきた服をまとめて「試着」と押し付ける。試着室の向こうからも何か抗議めいた声が聞こえてきたが、ミスターは最初から最後まで、きれいさっぱり無視していた。
 やがてカーテンが開いて、あかりくんが姿を現す。その瞬間、誰が合図したわけでもないのに、店員たちから自然と拍手が起きた。

 なんてまともな。
 なんて素敵なファッションなんだ。

 まず、線がいい。肩から背中、腰、脚へと落ちていく縦の流れが一切途切れない。高身長という特徴を誇示するでもなく、隠すでもなく、ただ「そういう身体である」ことを自然に受け入れた服の選び方だ。
 ジャケットは余計な装飾がなく、肩線は正確で、袖は長さを稼ぐために無理に伸ばした感じがない。
 腕を下ろしたときに布が溜まらず、動いた瞬間に遅れて追従する。いい生地だし、いい裁断だ。
 中に合わせたシャツも主張しすぎない色味で、白でも黒でもない、光の当たり方で表情が変わる中間色。視線が一点に集中せず、全身をなぞるように流れていく。
 パンツは細身だが締め付けがなく、股下の長さがきっちり合っているから、脚がやたら長く見える。いや、実際に長いのだが、嫌味がない。全体として静かで、理性的で、何より「ちゃんと人間の服」だ。奇を衒わず、触り心地だけに逃げず、着る人の輪郭をそのまま肯定している。ああ、こういう服を売りたくて、この店をやっているんだ、と久しぶりに思う。
 棚に並んでいたときはただの在庫だったものが、誰かの身体に乗った瞬間に完成形になる。その完成形が、自分たちの店から生まれたという事実が、胸の奥を静かに満たしてくる。店員たちが拍手したのも当然だ。売れたからじゃない。正解だったからだ。

 それに比べて、だ。あのピンク地に紫の虎が大量に並んだジャケット。あれは何だ。生地は良かった。触り心地も最高だった。だが、今こうして正しい服を目の前にしてしまうと、やっぱり最低だったな、という結論にしか辿り着けない。
 あれはなんだったんだろう、変な夢だったのかな。

「な、なんで祝福されてんの……」
「お前のファッションセンス、店員にもストレスを与えていたんじゃないか?」

 ミスターの言葉に、誰も答えなかった。視線を逸らす者、作業に戻るふりをする者、拍手の余韻が残ったまま動きを止めている者。それこそが返答だった。

 

身体を煙に変えて動かす個性。煙になっている間は形を保てず、強い風・吸引・火など外からの影響を強く受ける。操作を誤ると煙が散り、戻るはずの身体が欠ける。煙化中は常に集中が必要で、恐怖や動揺があると制御が乱れやすい。完全に元に戻れる保証はなく、使うたびに「自分が減る」危険を抱えるため、精神的負担が非常に大きい。