散々暴れ回ったあげく、まるで今日一日の用事を全部済ませましたと言わんばかりのすっきりした顔の弔くんは、検査やら諸々の事情で帰って行った。
今日はこのまま、オールマイトの拠点に戻るらしい。靴を履きながら振り返りざまに「おい燈矢、忘れんなよ。お前に陽火を“貸してやってる”だけなんだからな」と、地獄の捨て台詞まで吐いて、丹念に燈矢のメンタルを刺すことも忘れない。
「ふざけんな陽火くんはモノじゃねえんだぞ!!」という、お前の口からそれが出るのも何だかなあという叫びは、弔くんがドアを閉める音とほぼ同時に鳴り出した車のエンジン音に綺麗に掻き消される。もうね、物理的に引き離すしか無理なんですよコレは。
ギャオギャオになってしまった燈矢を抱き上げて、父さんに引き渡して面倒を見させることしかできない。
「お父さんもうあいつ家に入れないでよ! 可笑しいじゃん、俺たちの家なのに!」と珍しく正当性しかない訴えを一生懸命伝えているが、燈矢の訴えに傾聴以外の選択肢を持たない父さんは困り果てた顔で「……仕方ないだろう」と絞り出しては反射のような勢いで「仕方なくなくない!?」とキレられ、「どっちだ、わからん」と頑張っている。訴え無視し続けて三年前に大変なことになったからな、もう二度と燈矢を無視するなよ。
みんな学校があるからと各々準備をしては、玄関前で言い争っている父さんと燈矢に「いってきます」と律儀に声をかけていく。
俺も久しぶりに登校するので「いってきます」と父さんを癇癪でぶん殴り続けている燈矢の頭をぽん、と軽く撫でた。
燈矢は顔は思い切り怒ったまま、声もまだトゲトゲしているのに、「いってらっしゃい!」とだけはちゃんと返してくれる。
ちぐはぐしてて可愛いな……良い子だなこいつ……。その調子で怒りを全て父さんに吸収させておいてくれ。帰ったら機嫌、なおってるといいな……。
放課後の遊びの誘いを全てなぎ払い、ワンチャン狙いで就職希望を出す友人に「履歴書もってきて」と適当にあしらい、這う這うの体で帰ってきたら、意外にも燈矢は拍子抜けするくらい普通だった。
午後に病院に行って専門のトレーナーとリハビリをして来たらしい。いつも通りの平和なルーティンだ。朝の喧騒は無かったかのように、夕食は穏やかな空気に満ちている。
父さんはというと、どこかでそこそこ面倒な事件が起こったらしく、居間のテレビでは生放送のニュース番組に映し出されている。リアルタイム労働パパ、いつも大変ですね。頑張ってください。
アナウンサーが「エンデヴァーの動きが硬いですね、珍しいことです。個性の相性がよくない相手のようで、これは苦戦を強いられている様子」ともっともらしく解説しているが、それたぶん今朝の家庭内いざこざの後遺症。心労が抜けてないだけだと思います。
テーブルの上には湯気の立つ料理と、カチャカチャと控えめな食器の音と、みんなが各々学校のことやどうでもいいような取り留めのない話をぽつぽつ落としていく声があって、絵に描いたみたいな普通の夕食風景が成立している。
俺はというと、本当は出来るくせに甘えたい気持ちが勝っている焦凍が「魚の骨、きれいに取るの教えて」と言うので、仕方ないなと膝に乗せて、箸の先でどうやって身をほぐして骨を避けるかを一つずつ教えてやっていた。
小さな手がぎこちなく真似をして、うまくいくとちょっと誇らしげに顔を上げる。実にほのぼのとした時間だ。
かつては焦凍が息をしているだけで気に食わなかった燈矢も、今は八歳下の弟の甘えに対して驚くほど寛容になったらしく、ちらりと見るだけで特に口出しする様子もない。
たぶん、かつて自分が憎まれていたという自覚が一切ない焦凍が、“あまり関わったことはなかったけど、ようやく帰ってきた兄ちゃん”として燈矢を認識していて、純粋に懐いているからだと思う。はにかみながら「燈矢にい、あそぼ」と寄っていくの、正直かなり可愛いし、そりゃあ当たりも柔らかくなるよなという気持ちになる。
あと、悪いのは全部父さんだってことを、きょうだい全員でこれでもかというほど言い聞かせたのも大きい。
燈矢が悲しい気持ちになったのは父さんが悪いし、燈矢が瀬古杜岳で酷い目にあったのも父さんが悪い。
ここに関しては温厚な冬美ですらフォロー不可で、父嫌いの男兄弟は一切手加減せずに責め立て続けた。さすがに燈矢本人が「あんまりお父さんのこと虐めないで」と止めてきたから渋々黙ったけど、それは燈矢の顔を立ててやってるだけだからな……という気持ちは全員共通認識だし、二度と調子に乗るなよ……の精神を胸に刻みつつ、これからも日々監視していく所存である。
父不在の穏やかな空気の中で、燈矢が何でもない顔で「陽火くん、醤油とって」と言う。
声のトーンも、目つきも、朝のそれとは別人みたいに落ち着いている。俺が腕をのばして醤油を手渡すと、「ありがと」と短く言って受け取る。
その一連の動作があまりにも自然で、あまりにも穏やかで、だからこそ俺の中の危機管理能力が全力でやべえぞと叫ぶ。平和だ。平然としている。何事もなかったみたいな顔をしている。でも燈矢は、この顔をしている時の方がやばい。
感情を一旦保留にしている状態は、つまり力を溜めているということだ。逃げられない未来なので、これから起こるであろう何かに対して諦めと覚悟をセットで抱えたまま、とりあえず俺は黙って飯を食べきった。
俺は寝てるんだか起きてるんだか分からないまどろみの底で浅く眠っていた。
小さく襖が開けられた音がして、意識が“起きる”の方へ傾いていく。昨日と全く同じだが、昨日と違って覚悟はできている。
布団がほんの少しだけめくれる気配がして、続いて誰かがやけに器用な動きで俺の寝床に潜り込んでくるのが分かった。
俺は目を閉じたまま、ため息もつかずに、胸の上にぺたりと伏せてきたその頭をゆっくり撫でる。指先に触れる髪は少し湿っていて、すぐにぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえて、抑えきれない水分がじわじわと服に染みていく感触が伝わって来た。
「陽火くん……」
小さくて、掠れていて、頼りない声。しばらくはそれだけだったのに、「陽火くん、陽火くん」と何度も呼ぶうちに、声量が少しずつ大きくなっていく。
縋るみたいに掴まれていた俺の服も、最初は指先でつまむ程度だったのが、だんだんと力がこもって、最後にはまるで逃がさないと言わんばかりにぎゅっと押さえつける強さに変わる。
薄橙色をした豆電球の頼りない光にようやく目が慣れてきた頃、案の定というか予定調和というか、燈矢が俺の腹の上にがっちり跨っていた。
さっきまで胸に顔を埋めていたはずなのに、気づけば体勢を変え、両膝で俺の腰を挟み込む完全制圧である。あまりにも的確な捕縛術、未来のヒーローとして有能すぎる。物理的にも精神的にも重い。夜中に久しぶりの号泣恫喝コースだ。
「あのガリチビが言ってたの、嘘だよね? ️陽火くんは俺がいちばん大切で、いちばん大好きなんだろ? 大人になっても俺と一緒って言ったじゃん! 嘘ついちゃダメなんだよ!」
言ってないなあ……。そんな将来の約束してないんだよなあ……。
涙と鼻水と感情が全部ごちゃ混ぜになった顔で、至近距離からそう叫ばれているわけだが、ここで事実を言うとどうなるか。間違いなく燈矢はそれを“弔くんに対する攻撃カード”として握りしめて武器にする。そして弔くん側が大爆発する。
どっちを選んでも待っているのは地獄。完全なる詰み盤面。というか、燈矢って弔くんのこと心の中でガリチビって呼んでたんだ……。
「弔くんくらいの年齢だとさ、身近な年上に憧れるってのがあるだろ。
そういうのって、ちゃんと大人になった時には整理されるし、結局俺は選ばれないよ」
「陽火くんが選ばれない訳ないだろ油断すんなよ!!」
ええ……そこ怒るところなんだ……。豆電球の薄橙色が瞼の裏に滲んで、涙で濡れた燈矢のまつ毛だけが妙に光って見える。
「やだ、陽火くんずっと一緒にいて。俺のものにならないなら誰のものにもならないで。人のものになるくらいなら今ここで死んでほしい……」と縋る声は涙でぐちゃぐちゃで、喉の奥から搾り出すみたいに震えている。
「死んだらもう、こうやって一緒にいられないなあ」と返すと、「やだ……」とひん、と小さな獣みたいな声が漏れて、力が抜けた身体がそのまま俺に倒れ込んでくる。
その頭を撫でながら、結局同じ布団で並んで横になって夜をやり過ごすことになるわけで、部屋は静かで、外の音も遠くて、薄暗い中で燈矢の呼吸だけが近い。
眠っているのか起きているのか分からない、意識の縁を漂うような声で、置いてかないで、誰も選ばないで、人のものにならないで、と何度も何度も繰り返しながら、服の端を離さずに縋り付いてくるたびに、俺はただ黙って背中を撫でるしかない。これは何なんだろうな。嫉妬にしては、弟が兄に向けるものとしては粘度が高い気がする。
治療のかいがあって、最初の頃よりも見た目には薄くなった火傷跡も、触るとまだ薄い段差が指に伝わる。
熱かっただろうな、痛かっただろう。あんな酷い目にあった上に、起きた時にはよく分からないところで一人きりだったんだ。帰ってくるまで、どれだけ怖かったんだろう。そう考えてしまうから、俺は燈矢のことを甘やかすことしか出来ない。
もう散々酷い目にあったんだから、これからは楽しいことだけあってほしい。だから、明日の俺が困るのも分かっているのに、今夜の燈矢を見捨てられずに否定もできず甘やかすのみだった。
朝、起きたら燈矢はいなくなっていて、布団の中に残っているのは人肌の名残みたいな微妙なぬくもりだけ。
時計を見るとまあまあ早い時間で、たぶん朝のランニングにでも行ったんだろうなと察する。俺と違ってあいつは自己鍛錬に余念が無い。頑張り屋さんだ。
とりあえず顔を洗って、水でも飲むか……と思って部屋を出る。無駄に広い日本家屋は、顔を洗うとか水を飲むとか、そのレベルの行動ですらちょっとした移動イベントになってしまう。
庭に面した廊下をとぼとぼ歩いていると、向こうに父さんと母さんが並んで立っているのが見えた。そんなに距離が離れていないから、会話も普通に聞こえてくる。
「あら、花を植えたんですね」
「好きだっただろう」
「知っていたの」
「ふん、覚えていただけだ」
─────みたいな、何かこう、歩み寄ってますよ感を全力で出しているやり取りである。それを眺めながら、俺の中から自然に湧き出てくるのは「癪に障るなあ……」という非常に素直な感想だった。
なんだァ……? 母さんが花好きって情報、はじめから持ってたのに今まで放置してたのか……?
両親の関係が少しでも良くなるならそれはそれで喜ばしいはずなのに、それを軽く上回る勢いで「何だこの男」という父さんへのヘイトがじわじわ溜まる。
そんな中、庭の端の方からスポーツウェア姿の燈矢が現れて、いかにもランニング帰りですという爽やかさで二人に駆け寄っていくのが見えた。
そして開口一番。
「お父さんお母さん離婚して!」
とんでもねえオネダリである。
間髪入れずに「俺母さんについてく」「俺も」「ごめん父さん、私も」「ばいばい父さん、こっちの方が人数多いから家は母さんに財産分与してね」と、様子を見ていた夏雄と焦凍と冬美と俺がほぼ反射で父を捨てにかかった。
朝ご飯の時間も近いし、これだけ騒いでいたら全員集合もするだろう。まあ、この程度の騒ぎはいつものことなので、言うことを言ったら弟妹たちは各々自分の準備に戻って行った。
突然子供たちに捨てられて困惑している父さんが喋る前に、燈矢はまるで『安心して!』とでも言うように自分の胸を叩いて父さんに向かい合う。
「俺が父さんについてくよ。別に同居したまま離婚できるだろ? そしたら俺、陽火くんと兄弟じゃ無くなって、俺が陽火くんとケッコンできるじゃん! そしたらずっと一緒だ!」
おめめキラキラで「最良の解決策見つけた!」みたいな顔をしているが、できません。日本の法律では両親が離婚しても兄弟は兄弟です……。
「訳のわからないことを言ってないで、勉強しろ!」と父さんが声を荒げると、燈矢は燈矢で一歩も引かずに「なんで! どうして父さんはいつも俺の言うこときいてくんないの!?」と真正面からぶつかっていく。
すごい、珍しく父さんがそんなに悪くない流れだ。父さんは一瞬だけ言い返し方に詰まり、「そういう……そういう問題じゃない! 社会の勉強……おい陽火、これは『社会科』か!?」と突然こっちにパスを投げてきた。
兄弟で結婚ができないのは学校のどの授業だったか、小学校くらい……? たぶん燈矢も習ったはずだけど、忘れているか知らなかったことにしている。
「社会科の公民。もしくは家庭科でも学ぶやつ」と答えると、燈矢は都合の悪い俺の言葉を掻き消すように「わかんないよ! お父さんとお母さん離婚してよ!!」と泣き声でゴリ押してくる。
そこで母さんが穏やかな声で「お母さん、もう少しお父さんと結婚していたいかなあ」と言った。
場の空気一気に変わる。父さんが「れ、冷……」と呟いて足が一歩母さんに近付いた。それと同時に、俺の中の警報が鳴りっぱなしになる。
「くそ! 歩み寄りがキツイ、逃げるぞ燈矢!」と宣言して、俺は燈矢を抱えて庭から撤退を選んだ。両親が仲良しになってうれしいな、という段階は轟家ではとっくに過ぎている。
数年前から少しずつ見えてはいたけど、これはちょっと過剰成分です! いま急に濃縮をぶち込まれるとただただキツいだけだ。
俺に抱えられた燈矢はびーびー泣きながらシャツを掴んで、「お父さんとお母さんが離婚してくんないと、陽火くんとずっと一緒にいられないじゃん」と理屈になってない理屈をぐずり続けていて、俺は「うんうん、そうだね」みたいな理解ある彼くん的な適当な相槌も打てず、かと言って否定したらまた大発狂馬乗り号泣に戻るのが目に見えているので、背中をぽんぽんしながら宥め続けるしか無かった。
これもしかして、俺が将来誰かと結婚したいなと思ったら、この燈矢が小舅になるんですか? 平和のために一生独身を宣言しようかな……。
