かわいい禁止令
恥ずかしい話をしよう。俺は中学を卒業するまで、好意を表すための語彙だけが幼稚園から一歩も進んでいなかった。
普通の会話はできる。国語の成績も悪くない。むしろ俺の個性は《瞬読》で、手で触れて開いた本なら、瞬き一回ぶんの時間でページの最初から最後まで読める。
文字なら読める。辞書も読んだ。類語辞典も何冊か読んだ。それなのに俺の頭の中では長らく、『好き』『とても好き』『見ているだけで胸が苦しいほど好き』『将来を左右されても構わないくらい好き』のすべてが、たったひとつの言葉へ集約されていた。
かわいい。
何を見てもかわいい。好きな菓子も、格好いい靴も、休日の予定も、人生で初めて恋をした男も、みんな仲良くかわいいでまとめた。個性以前に日本語の運用方法をどうにかしろという話だった。
原因は分かっている。俺には姉がひとり、妹がふたりいる。女きょうだいに挟まれて育った真ん中長男という、家庭内政治においては中間管理職と人身御供を兼任する立場だ。
幼い頃から姉妹の買い物につき合わされ、服や髪飾りを左右へ掲げられては、繰り返し選択を迫られてきた。
「どっちがいい?」
どちらでもいいと答えれば怒られる。好きなほうを言っても怒られる。
「俺は青いほうが好き」
「お前の好き嫌いは聞いてない。どっちがかわいいか聞いてるの」
質問文に好き嫌いを含めず、回答後に評価基準を開示するのは卑怯ではないだろうか。
だが当時の俺には反論する語彙も、姉へ逆らう度胸もなかった。かわいいほうを選び、なぜかわいいのか説明し、もう片方を傷つけない言い回しまで要求される。
妹たちの機嫌が悪い日は、正解そのものが存在しない場合さえあった。そうして俺は相手の顔色を読み、声の調子を聞き分け、望まれている言葉を素早く差し出す能力を身につけた。
個性とは関係なく、家族によって鍛えられた生存技術である。
結果として同調と協調が得意になり、初対面の相手ともそれなりに話せる、そこそこ明るい人間に育った。そこまではよかった。
大問題だったのは、好ましいものを評する際に使用する言葉が、家庭内でほぼ『かわいい』に統一されていたことである。
いちばんいい。いちばん似合う。いちばん好き。見ていると嬉しくなる。全部かわいい。幼児向けの単語帳みたいな頭で中学三年まで生き抜いてしまった。
なまじ、それが許される種類の人間だったのもいけないと思う。
俺がもっと暗くて無口なら、男子中学生が何にでもかわいいかわいいと言っている状況を自分で不審に思っただろう。
ところが俺は人と話すのが好きで、恥をかいても翌日には大体忘れ、相手が引いていなければ成功判定を出す性格だった。
好きな文房具をかわいいと言い、よくできたサポートアイテムの映像を見てかわいいと言い、姉が買ってきた限定菓子の箱をかわいいと言う。
周囲からも、瞬木はそういう言葉遣いをするやつなのだと認識されていた。人間に向かって連呼する機会がなかったので、致命的な誤解を生むこともなかった。俺が恋をするまでは。
中学生ですよ。恋ぐらいしますよ、ねえ。
相手は同じ結田付中学校の切島鋭児郎くんだった。
当時の切島くんは今より髪が長く、染めず、前髪を下ろしていた。目つきは鋭いのに、話しかけると驚くほど人当たりがよく、誰かが困っていれば先に身体が動くくせに、自分のことになると急に弱気になる。
俺にはそのちぐはぐさが、どうしようもなく好ましく見えた。
好きになった明確な瞬間は覚えていない。俺は本なら一瞬で読めるが、人間は頁をめくるようには読めない。昨日まで友達だったはずの相手が、ある朝から教室へ入ってくるだけで目につくようになった。
笑えば嬉しい。落ち込んでいれば心配で俺まで悲しくなる。廊下で姿を見かけると、用事もないのに歩く速度を合わせたくなる。辞書で調べるまでもなく恋だった。俺は自分の感情を理解すると、持ち前の積極性を遺憾なく発揮した。隠すという発想が、そもそもなかったのである。
「切島くん、今日もかわいいね!」
朝の挨拶で言った。
「その筆箱かわいい!」
赤黒い、ごつごつした筆箱だった。
「体育のとき転んだのにすぐ立ったの、めちゃくちゃかわいかった!」
膝から血を流していた。
今これを書いている俺は、自分の肩を揺さぶって止めたい。相手は男らしさに憧れ、自分の臆病さを嫌い、プロヒーローの紅頼雄斗を心の師と仰いでいた男子中学生だ。
そういう子に向かって、あらゆる言動をかわいいの一語で処理していた。罵倒と受け取られなかったのは奇跡だ。あるいは切島くんの人格が、俺の想像以上にできていた。
「かわいいはねえだろ」
切島くんは最初のうち、少し困ったように笑っていた。強く否定するでもなく、怒るでもなく、ただ自分には似合わないと言いたそうに眉尻を下げる。その顔を見た当時の俺は、照れている、かわいい、と判断した。救いようがない。俺の個性が過去へ戻れるものだったなら、あの頃の自分を全力で殴り飛ばし、紅頼雄斗のインタビュー全集を音読させていたところだ。
残念ながら《瞬読》に時間移動の機能はない。本を一瞬で読めるだけである。試験前には重宝されるが、俺が読んだからといって他人の頭へ内容が移るわけではないので、最終的には要点をまとめたノートを作らされる。姉妹からは「個性より字が読みやすいことのほうが便利」と評されている。俺もたまにそう思う。
切島くんはヒーローを目指していた。最初から自信満々だったわけではない。
硬化という戦闘向きの最強にかわいく素敵で無敵な個性を持ちながら、自分より派手で強そうな個性を見ては落ち込み、肝心な場面で足が動かなかったことを引きずっていた。
雄英高校を受けると聞いたときも、俺は驚くより先に嬉しくなった。あの切島くんが、自分で行き先を決めたのだ。だったら俺の答えも決まっていた。
「俺も雄英に行く! ヒーロー科は無理だけど、サポート科を目指す!」
廊下の真ん中で元気よく挙手した俺に、切島くんは目を丸くした。今考えると、志望校を追いかける宣言としては十分に重い。相手が切島くんでなければ、教師へ相談されてもおかしくなかった。雄英だぞ雄英、舐めるな雄英を。
「マジか! 一緒に頑張ろうな!」
けれど彼は、晴れた日のように笑って拳を差し出した。俺はそれへ拳を当てながら、切島くんの笑った顔はやっぱりかわいいなあと思っていた。言わなかったのではない。その直後に三回言った。
雄英のサポート科を選んだこと自体は、恋だけで決めたわけではない。《瞬読》は戦闘にはほとんど役立たないが、設計書、整備記録、素材の規格表、個性使用に伴う危険性の資料とは相性がよかった。
読めることと作れることは別なので、入試までの期間は工具の扱いも製図も死ぬほど勉強した。本を開けば知識は一瞬で入る。その代わり、手を動かして失敗する時間までは短縮できない。
頭では溶接の適正温度を知っているのに、実際にやれば金属板へ穴を開ける。旋盤の安全な使い方を全部覚えているのに、最初の作品は寸法が一ミリずれる。
知識だけ先に詰め込まれ、身体が追いつかない感覚は、急な坂道を頭を下にして転げ落ちていくようだった。
それでも面白かった。誰かの個性を理解し、その力を安全に、より強く使える道具へ変える。ヒーローになれなくても、ヒーローが間に合う範囲を広げることはできる。そう思うようになってからは、雄英へ行く理由の半分くらいは自分のものになった。残り半分は、もちろん切島くんである。そこは譲れない。
俺たちはそれぞれ合格した。切島くんはヒーロー科、俺はサポート科。合格通知が届いた日は親どころか、いつも俺に手厳しい妹たちに抱きつかれ、夕食には俺の好物が並び、妹は最後の唐揚げまで譲ってくれた。姉は酒を飲み「あんたいっぱいがんばってたもんねえ~!!」と号泣していた。素面の時にもう一度言ってほしかったが、酔ったあともいつも記憶を残してるはずの姉はこれだけ都合よく忘れているらしい。人生で最も祝福された夜だった。
問題が発覚したのは、その翌日である。雄英で使う鞄を買うため、姉たちと出かけた。俺が店頭に並んだ鞄を見比べて、黒いほうがかわいいと言ったところから、話がおかしくなった。
「前から思ってたけど、あんたのその、なんでもかわいいって言うの、ちょっとキモいよ」
末の妹が鏡越しに言った。あまりにも自然な調子だったので、一瞬内容が頭へ入ってこなかった。え、今この流れでなんでキモイと言われた……?
「いちばん好きって意味なんだろうけど、全部同じ言葉だから薄っぺらい。まさか好きな相手にも言ってないよね?」
妹が追撃した。
「誰に何を言ったのか、最初から説明して」
姉が鞄を棚へ戻し、店の隅にある椅子を指さした。家庭内査問が始まった。俺は素直に座り、切島くんへかけてきた言葉を思い出せる限り申告した。
《瞬読》は記憶力まで保証する個性ではないが、好きな相手との会話は個性の関係なく覚えているものだ。朝の挨拶。服装。髪。走り方。硬化した腕。転んで立ったこと。ヒーローを目指すと決めたこと。紅頼雄斗の動画を見て泣いたこと。全部かわいかった。ひとつ話すたび、姉妹の顔から表情が消えていく。
「最悪」
姉が言った。
「よく嫌われなかったね」
妹が言った。
「切島さん、聖人か何か?」
末の妹が言った。
そこから一時間、俺の言語運用に対する徹底的な批判が行われた。
『かわいい』は相手によっては褒め言葉だが、望んでいない相手へ執拗に使えば評価の押しつけになること。相手がやんわり否定しているのに続けるのは、好意ではなく自己満足であること。好きという感情を全部ひとつの言葉へ詰めれば、何が好きなのか伝わらないこと。辞書を一瞬で読めるくせに会話で使える言葉がひとつなのは、宝の持ち腐れを通り越して宝への侮辱であること。最後のは勢いで言われただけだと思う。
ともかく、俺は初めて理解した。これは、やばい。理解した途端、過去の記憶が一斉に意味を変えた。
切島くんの困った顔。微妙に逸らされた目。笑って流された否定。
あれは照れではない。本当に困っていたのだ。
憧れのヒーローが紅頼雄斗で、もっと漢気のある男になりたいと願い、自分の弱さと必死に戦っていた人間へ、俺は何年もかわいいかわいいと言い続けていた。褒める方向が九十度どころか、二百七十度くらいずれている。目的地から遠ざかって一周しかけていた。
中学卒業から雄英の入学式まで、俺は幾度となく布団の上でのたうち回った。思い出しては枕へ顔を埋め、足をばたつかせ、隣室で寝ている姉から壁を殴られた。
切島くんへ謝罪の連絡を入れようとして文章を作り、改めて自分が長年かわいいと言い続けていた事実を文字にするのが耐えられず、消した。
電話をかけようとして、声を聞いた瞬間にまたかわいいと言う可能性を恐れてやめた。
俺の頭には大量の言葉が入っている。好ましい、愛らしい、魅力的、勇ましい、精悍、端正、快活、雄々しい。分かっている。意味も使い方も知っている。知っているのに、切島くんを目の前にすると全部が『かわいい』へ吸い込まれる。恋とは語彙を破壊する魔物なのかもしれない。
悩んだ末、俺はひとまず『かわいい禁止令』を自分へ出した。
切島くんに関してだけは、絶対に口にしない。頭へ浮かんだら、何が好ましいのかを考え、相手が嬉しいと思える言葉へ翻訳してから出力する。
俺は本を読むのが速い。考えるのだって、少しくらい速くできるはずだ。過去は消せないが、雄英での三年間を使えば挽回できる。俺が気持ち悪かったことは認めよう。だからといって恋を諦める気は、さらさらなかった。反省と失恋は別件である。
入学式の日、校門前は新入生と保護者で混み合っていた。巨大な校舎も、テレビで何度も見た正門も、実際に立つと妙に現実感が薄い。
ここが雄英高校。オールマイトをはじめ、数え切れないプロヒーローを輩出してきた学校であり、俺がこれから三年間、一生懸命新しい知識を吸収する学び舎だ。出来れば切島くんとの新しい関係に一歩踏み出す場になってほしい。頼む! この通り!! 邪魔にならない程度にそういうイベントがあってもいいと思う!!
欲望のままに雄英校舎を拝んでいると、遠くから俺の名前を呼ぶ声がした。
「読人!」
振り向いた俺は、その場で呼吸を止めた。
切島くんがいた。髪が赤かった。ただ染めただけではない。以前は額へ落ちていた髪を、硬化した岩のように鋭く上へ立てている。黒髪の頃とはまるで印象が違った。目つきの強さが隠れず、本人がずっとなりたがっていた、前を向いて突き進む男の姿に近づいていた。似合っている。すごく似合っている。初めて見る髪型かわいい。赤もかわいい。気合いを入れて整えてきたことまでかわいい。
俺の頭の中で禁止語が立て続けに飛び跳ねた。危ない。入学初日、最初の一言でたてたばかりの誓いを台無しにするところだった。俺は奥歯を噛み、脳内の言葉を一度ばらばらにして、正しい形へ組み直した。
「髪の色、変えたんだ! すごく似合ってる。髪型も格好いい!」
言えた。俺は心の中で拳を握った。正解である。百点だ。入学前の俺にしては百二十点を与えてもいい。
切島くんは大きなつり目をぱちんと瞬かせた。それから一瞬だけ、妙な間があった。ほんの少し首を傾げ、何かを確かめるように俺の顔を見る。まずかっただろうか。赤が似合うだけに留めて、髪型には触れないほうがよかったか。いや、格好いいは本人の目指す方向に合っている。姉妹による最終確認も受けた。間違っていない。
「ありがとな! また三年よろしく!」
次の瞬間には、切島くんはいつものようにニカッと笑った。眩しい。かわいい。危ない。俺はすぐさま、笑顔が快活で格好いい、と脳内変換した。
「うん! 切島くんと同じ学校で本当に嬉しい。クラスは別だけど昼休みは会えるし、校舎が離れてても俺が行くから。あ、授業の邪魔はしない。ヒーロー科は訓練多いだろうし、疲れてる日はちゃんと言ってね。それとサポートアイテムが必要になったら相談して。まだ作れるもの少ないけど、資料なら一瞬で読めるし、切島くんの硬化に合う素材も調べて───」
浮かれた俺が一息で喋る間、切島くんは笑いながら相槌を打っていた。ただ、ときどき不思議そうに俺を見た。少し首を傾げ、何か足りないものを探しているような顔をする。
俺は特に気にしなかった。俺がとんちんかんな発言をして、優しい切島くんを困らせるのは珍しいことではなかったし、何より今回は、正しく褒めることに成功した達成感でいっぱいだった。
かわいいの代わりに格好いいと言う。たったそれだけだが、こっちのほうが切島くんは嬉しいに決まっている。格好いいのは事実なのだから、嘘にもならない。俺は過去の失敗を反省し、相手の望む言葉を選び、恋する人間として確実に一歩成長したのである。
だからこのときの俺は知らなかった。俺が二年以上、雨の日も風の日も、元気な日も落ち込んだ日も、顔を見るたび飽きずに言い続けた言葉が、いつの間にか切島くんの中で、俺から向けられる好意そのものとして定着していたことを。
入学式の日を境に、それが突然ひとつも聞こえなくなったせいで、彼が密かに「もしかして髪、似合ってねえのか」と悩み始めていたことを。
俺は本なら一瞬で読める。
人の心は、残念ながら一頁目さえ読めていなかった。

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