予約済の人生設計
俺が前世の記憶を取り戻したのは三歳の頃で、ここが漫画の世界だと分かったのは五歳の終わりだった。その間の二年近く、俺は自分が近未来SF世界へ異世界転生したものだと信じていた。
信じていたというより、それ以外に思いつかなかった。駅前の広告塔では頭部が金魚鉢になっている女優が化粧品を宣伝し、腕を長く伸ばして閉まりかけた電車の扉を押さえる人間もいる。テレビをつければ、派手な衣装を着た職業ヒーローが道路を壊した犯罪者を捕まえ、その横で補修会社の作業員が壊れた道路を直していた。
現場に来たヒーローの名前は大きく報道されるのに、夜通し道路を直した人たちの名前は最後まで出ない。前世と似たようなものだなと思った記憶がある。
誰もが持っている不思議な能力は個性と呼ばれていた。魔法やスキルと呼ばず、遺伝子の変異として学校で説明されるあたりも近未来SFらしいと思ってしまった。
俺の家族にも個性があって、父さんは指先を少し温められ、母さんは一日に三回だけ塩と砂糖を舐めずに判別できる。妙に回数が少ないが、母さんは料理中にかなり重宝していた。
十歳上の兄ちゃんは狼に似た異形型で、頭としっぽと、うっすら背中に灰色の毛が生えている、二足歩行の狼のような姿をしていた。本人が狼だと主張しているので狼なのだろう。近所の子供から犬のお兄ちゃんと呼ばれると耳を立てて訂正し、犬と狼の骨格の違いを語り始めるものの、子供は二分も聞かずにどこかへ行った。
俺自身の個性は《仮縫い》という。指先から細い半透明の糸を出し、壊れた無生物の断面を数時間だけ縫い合わせることができる。
初めて使ったのは、兄ちゃんが尻尾で落とした植木鉢だった。割れた鉢を両手で押さえていると指先から糸が伸び、亀裂を勝手に走って形が戻った。家族全員が喜び、父さんは将来有望だと俺の頭を撫で、兄ちゃんは自分が壊したことをなかったことにしようとした。
その日の夜中、個性の効果が切れて植木鉢は再び割れた。
音を聞いた兄ちゃんが不審者だと思って二階から飛び降り、庭に面した犬走りを踏み抜いたため、最終的に植木鉢より床の修理代の方が高くついた。
《仮縫い》は物を直す個性ではない。
ひび割れた水道管を業者が来るまで塞いだり、破れた通学鞄を帰宅まで保たせたり、事故車の外れかけた部品を救助が終わるまで固定したりする能力だ。重い物ほど早く切れ、強い衝撃を受ければ数秒で外れる。人体には作用しない。衣服を床や壁へ縫い付けることはできるが、大人が本気で引っ張れば簡単にちぎれる。
戦闘に使えないこともないと兄ちゃんは言ったが、ヴィランの上着を地面へ仮縫いして足止めしようと近づいたところで殴られたら痛いし死ぬ。俺の腕の長さは普通だった。相手の上着へ触れられる距離は相手の拳も届く距離になってしまう。
兄ちゃんは俺の個性に夢を見て「ヒーローになれる、指先から糸を出して街を飛び回るんだ」と、前世でいうスパイダーマンみたいな展望を見込んでいたが、実は俺自身、この世界で【子供が憧れる職業ナンバーワン】のヒーローにはあまり興味が無い。危ない世界では真っ先に退場する側の人間です、安全を愛しています。
前世でも危険を冒した経験はほとんどない。駅の階段で知らない人が財布を落とした時に拾って追いかけたくらいで、あれも財布を持ち逃げしたと誤解されたら嫌だという恐怖の方が大きかった。
家族は穏やかだった。父さんは買ってきた健康器具を三日で便利な物干し台にし、母さんは毎年ベランダで野菜を育てては水をやるのを忘れて俺の仕事になり、兄ちゃんは俺が幼稚園へ入ってからも疲れたと言えば背負ってくれた。
俺が兄ちゃんの背中で眠ると、母さんがもう歩かせなさいと注意する。兄ちゃんは今しかできないからいいと言い、俺は大人になっても可能なら続けてほしいと思っていた。ふかふかの背中、寝心地が良い。
そんな普通の家の隣に、周囲から浮くほど高い塀で囲まれた屋敷があった。
門から玄関まで距離があり、幼児だった俺には屋根の一部と庭木の先しか見えなかった。住んでいるのは炎を使う有名なプロヒーローと、その家族だった。
家主はランキング上位の男で、テレビに出る時は顔の周囲まで炎で覆っている。道で会った時には炎を消していたが、消しても怖かった。眉間の皺が深く、幼児が挨拶しても一度見るだけで通り過ぎる。
俺はヒーローを警察官と消防士と芸能人を鍋へ入れて煮たような職業だと思っていたため、子供向けの愛想くらい必要なのではないかと考えた。ただ、隣の怖いおじさんへ職業指導をする勇気はなかった。
屋敷には何人か子供がいたらしい。姿を見ることは少なかったが、音はよく聞こえた。子供だけで遊んでいる時の明るい声も聞こえたけど、怖い音の方が多かった。
俺と兄ちゃんが庭で遊んでいる時、塀の向こうから泣き声が聞こえたことがある。兄ちゃんは投げかけたボールを受け取らず、耳を伏せて塀を見た。何があったのか聞くと、風だと言った。「なんで」と言って泣く風があるとは知らなかったが、兄ちゃんの顔が妙に硬かったので追及しなかった。
兄ちゃんは俺よりずっと耳がいい。壁を隔てたテレビの音まで聞き分けられる。だからこそ、聞こえなかったふりをしているのだと何となく分かった。
しばらくして、隣の家の長男が死んだという話を聞いた。今思うと、あの時泣いていたのは彼の声だった気がする。
父さんと母さんは事故だと言った。夕食の後、小声で話している時には訓練や山火事という言葉が混じっていた。遺体は全部は見つからなかったらしい。屋敷の門には何日もマスコミが並んでいた。俺は毎朝その前を通って幼稚園へ行ったが、死んだ子供の顔を知らなかったので、誰のために悲しめばいいのか分からなかった。
家の中から聞こえる泣き声は、長男が死んでから一時期減った。静かな方が良いはずなのに、塀の中へ人間がいなくなったようで気味が悪かった。
隣家の末っ子は俺と同い年で、同じ幼稚園へ籍を置いていた。
轟焦凍。髪の右側が白く、左側が赤い。瞳の色も左右で違い、顔が妙に整っている。幼児の顔は大体丸くて鼻水を垂らしているものだと思っていたが、焦凍くんは小さい頃から将来イケメンになることが確定していた。
俺はその頃、転んで前歯を一本欠けさせており、笑うと隙間から空気が漏れた。乳歯で助かったが、マヌケ顔に拍車がかかったことは確かだ。世の中は平等ではない。
もっとも、焦凍くんを幼稚園で見かける日は少なかった。家で何か特別な教育を受けているらしく、週に一度しか来ない時もある。
朝から来ても昼前に使用人らしいお婆さんが迎えに来た。俺も兄ちゃんが風邪をひくと高確率でうつされて休んだため、同じ組なのに一か月近く顔を合わせないことさえあった。
会えば少し話す程度で、いつも一緒に遊ぶ友達ではない。年少の頃はまだ返事があった。
俺が描いた灰色の生物を兄ちゃんだと説明すると、犬だと言われた。狼だと訂正したら、狼の耳はもっと尖っていると言われた。俺は毎日兄ちゃんの耳を見ているので腹が立ったが、絵の耳が丸かったことは事実だった。あと四足歩行にしたのも悪かったかもしれない。部活帰りで疲れきって、リビングのいちばん邪魔なところで寝ている兄ちゃんの絵だったが、冷静に見ると犬だなこれ……。全裸五体投地兄ちゃんのつもりだったけど……。
焦凍くんは歳を重ねるほど口数が減った。
幼稚園へ来ても教室の端で黙って座り、先生が遊びへ誘っても首を振る。ほかの園児が話しかけても、聞こえているのか分からない顔をしていた。
元々明るい子ではなかったものの、以前なら給食の人参が嫌だとか、積み木を触るなとか、言いたいことくらいは言っていた。
年々無表情になっていく隣んちの子を見れば、何か辛いことでもあったのかと思う。
塀の向こうから聞こえる声を合わせると、隣の子供、普通に虐待を受けているのではないかという疑いも育った。冷蔵庫の横には、子供や家庭についての相談窓口が書かれた磁石が貼ってあったので、俺は椅子を引っ張ってきて、何度か番号を見た。
児相に連絡を入れたらワンチャンないか。住所も名字も知っている。泣き声が聞こえることも言える。けれど電話へ出た大人が、幼児の話をどこまで信じるのか分からない。
父親は現役の上位プロヒーローだ。訓練です、個性の制御に必要な指導です、子供が泣いていたのは家庭の事情ですと言われたら、俺は何も証明できない。
この幼児ボイスでプロヒーローの家を通報する勇気が出なかった。
母さんへ、隣の子がよく泣いていると話したこともある。母さんは玉葱を切る手を止め、よその家のことは簡単に分からないのよと言った。包丁を持ったまま長く黙っていた。目から涙が出ていたが、玉葱のせいだけなのか分からなかった。
兄ちゃんへ相談する案も考えた。兄ちゃんは塀の向こうの音が聞こえるたび、耳を伏せた。何もできない自分を責めている顔をしていたため、俺が新しい材料を渡せば余計に困らせる気がした。
善意は一応握っていた。今思えば、誰かに手を開かせてもらうのを待っていただけかもしれない。自分一人では握りしめたまま動けず、動かないことへ言い訳が欲しかった。その言い訳は、焦凍くんが大きな火傷を負って幼稚園へ戻ってきた日に、とんでもなく都合の良い形で現れた。
久しぶりに教室へ来た焦凍くんの左目の周囲には、火傷の痕があった。まだ治療の途中らしく、皮膚の一部に薄い保護材が貼られていて痛そうだ。
先生たちは普段より明るい声で焦凍くんを迎え、ほかの園児には怪我について聞かないよう話した。聞くなと言われた幼児が見ないわけはない。皆が焦凍くんの顔をちらちら見た。目が合うと慌てて逸らす。そもそも焦凍くんはあまり幼稚園へ来ないので、見慣れていない子も多かった。
無口で、左右の髪色が違い、顔に大きな火傷がある。有名ヒーローの息子だとも知っている。
焦凍くんは以前から、父親の話をすると分かりやすく不機嫌になるので、有名ヒーローの息子というのが利点にはならない。近寄りにくい条件が見事に揃っていた。
赤と白の髪。左目の火傷。炎を使う父親。死んだ長男。高い塀。子供の泣き声。それまで頭の中で別々に置かれていたものが、急に一本の線でつながった。
「ヒロアカかあ~~……」
隣にいた園児が、俺の顔を覗き込んだ。
「ひろあかってなに? 」
「なんだろねえ」
この世界は『僕のヒーローアカデミア』だった。前世にあった漫画で、個性を持たない少年が最高のヒーローから力を譲られ、雄英高校へ入学する物語。
爆発する幼なじみがいる。眼鏡をかけた真面目な男子がいる。蛙みたいな女の子もいる。入学直後にクラスで戦闘訓練をして、どこかの施設でヴィランに襲われる。俺がはっきり覚えているのはそのあたりまでだった。
長期連載作品だったため、完結したらまとめて読もうと思って積んでいた。電子書籍で買った巻もあったが、買ったことに満足して開いていない。途中の出来事はSNSで断片的に見た。主人公の力に何か追加能力が出たらしい。敵側にも複雑な事情があるらしい。轟家には色々あるらしい。何がどうなったのかは知らない。
強いていえば、透明人間の女の子の素顔がめちゃくちゃ可愛いと判明した時の盛り上がりだけは鮮明に覚えている。普段ほとんど見えなかった透明少女が実は美少女だったことで、界隈に大量のファンアートが流れてきた。手袋とかは見えるから、つまり普段は全裸……!? と世界がはしゃぎ回り、俺もめちゃくちゃいいねを押した。ブックマークした。描いた人の過去作品を遡り、別衣装の絵まで保存した。
前世の記憶容量の九割がそこへ使われているような気がする。
なぜだ。今世の命に関わる情報を優先してほしかった。
轟焦凍が主要人物だったことは覚えている。父親を嫌い、父親から受け継いだ炎を使おうとせず、雄英の体育祭で主人公と戦う。その時に何か言われ、炎を使ったような気がする。顔の火傷も原作にあった。母親が関係していたはずだが、細部は出てこない。
つまり、隣で起きていることは原作通りである可能性が高かった。俺が児童相談所へ連絡し、焦凍くんの生活環境を変えれば、物語の流れが変わる。性格が変わる。雄英へ行かなくなるかもしれない。主人公との関係が変わり、本来助けるはずの誰かを助けなくなるかもしれない。
原作が崩壊したら世界まで崩壊するのではないか。漫画の世界へ転生した人間が原作を変え、知らないところで滅亡を招く話など、前世でいくらでも読んだ。俺には先の展開が分からない。変化が起きても修正できない。主人公の顔と名前は分かるが、今どこに住んでいるのかも知らない。
そこへ自己保身の力がものすごい勢いで湧いてきた。俺は……我が身が……可愛い……!
一応個性はあるけれど、戦闘向きではない。《仮縫い》で世界を救えと言われても、崩れかけた壁を数時間支えるくらいしかできない。その数時間後には壁と一緒に崩れる。
俺は死にたくない。家族にも死んでほしくない。原作通りなら少なくとも物語が始まり、学園生活が続くだけの世界は残るはずだ。
そう考えると、俺の手の中で汗ばんでいた善意は、原作を守るという立派な名前をもらってするりと逃げた。おしまいです。
自分でも情けないとは思った。しかし五歳児に世界の命運を背負わせる方が間違っている。前世の記憶があっても、俺は今世で特別な力も地位も持たない。精神年齢だけで何でも解決できるなら、前世の大人は全員立派に生きていたはずだ。実際には朝の電車で席を取り合い、会議の資料を前日に作り、弁当が割引される瞬間を狙って並んでいた。俺もその一人だった。
それでも焦凍くんを完全に放っておくのは、さすがに寝覚めが悪い。ほかの園児は火傷を怖がって近づかない。先生も気を遣い、必要なこと以外は話しかけていない。
焦凍くんは窓際の椅子へ座り、昼食後も一人で外を見ていた。隣人の縁もある。俺は椅子を引きずっていき、少し離れた場所へ置いた。何を言えば慰めになるのか考えた。大丈夫と声をかけるのは違う。明らかに大丈夫ではない。痛かったねと言われても、本人は痛かったことを知っている。可哀想と言えば怒りそうだった。前世の記憶がある大人として、もう少し現実的な見方を与えてやろうと思った。
「医療技術が進んでてよかったね、跡はのこったけど、目玉つぶれてないもんな。不幸中の幸い」
焦凍くんがこちらを見た。左目もきちんと俺を追っていた。何も答えない。言葉選びを完全に間違えたかと思った頃、口の端がほんの少し持ち上がった。声は出なかった。火傷がひきつれただけかもしれない程度の動きだったが、俺には笑ったように見えた。
慰めに成功した。少なくとも怒られなかったので良しとする。俺はそのまま、朝に兄ちゃんが牛乳を飲もうとしてテーブルのコップをしっぽで薙ぎ倒した話をした。焦凍くんから返事はなかった。次に、父さんが毎朝ランニングをすると言って装備を用意したあと、三ヶ月何もしていない話をした。やはり返事はない。昨日の給食に入っていたグリーンピースを誰かが床へ落とし、先生が探している間に別の子が踏んで平らになったことも話した。焦凍くんは窓の外を見ていたが、立って別の場所へ行かなかった。嫌ではないのだろう。俺は返事を必要としていなかった。家でも兄ちゃんへ結論のない話をする。兄ちゃんは相槌を打つものの、途中から聞いていないことがある。耳が俺の方を向いていても、尻尾がテレビに合わせて動いていればテレビを見ている。焦凍くんには分かりやすい尻尾がないので、聞いているかどうか判断できなかったが、判断できなくても俺の口は動く。
焦凍くんが火傷してからしばらくは、幼稚園へ来るたび何となく近くにいた。
毎日来るわけではない。三日続けて休んだ後、午前中だけ現れ、その翌週は一度も来ないこともあった。会えば俺が喋り、焦凍くんはほとんど返さない。たまに俺が描いた兄ちゃんのことを犬と言う。狼だと訂正すると首を小さく傾げる。
以前より口数は減り、機嫌の悪い日も増えた。俺の積み木を置く音がうるさい、机から少しはみ出た給食の皿が邪魔だ、兄ちゃんの話は聞きたくない。
言葉にできる日はまだ良かった。何も言わずに俺の折り紙を凍らせたこともある。先生に叱られると、俺が近くへ置いたのが悪いと言った。
普通の同い年として付き合っていたら、このあたりで確実に疎遠になっていたと思う。俺にだって感情はある。何もしていないのに八つ当たりされて喜ぶ趣味はない。だがしかし、俺は原作知識があるゆえに、焦凍くんが今現在酷い目に遭っている子供だと知っていた。知っているだけで、同じ言葉の重さが少し変わる。ある日、俺が兄ちゃんと公園へ行った話をしている途中で、焦凍くんが突然こちらを睨んだ。
「おまえにおれのきもちはわからない! 」
「分かんないねえ」
「なら、しゃべるな! 」
「ごきげん悪いね」
会話はそこで終わった。悪くないと反論する顔をしていたが、俺は折り紙を持って別の机へ移った。
翌日、焦凍くんは幼稚園へ来なかった。三日後に現れた時、俺は兄ちゃんのシーツを洗濯機へ入れたら全てが毛だらけになった話をした。前回怒鳴られたことについては触れなかった。
助ける勇気はないが、敵にはならずにいてやろう。優しいな、俺。何もしない人間が自分を優しいと評価するのはどうかと思うが、無視されても次に話しかける程度には優しい。俺がヴィランに襲われた時はワンチャン助けてくれ。そのくらいの打算は許してほしい。
幼稚園を卒園すると、俺と焦凍くんは別の小学校へ通った。家が隣なので、ときどき門の前ですれ違う。挨拶をすれば返事がある日もあり、完全に無視される日もある。俺は特に気にせず、次に会えばまた挨拶した。
焦凍くんの家からは相変わらず訓練の音が聞こえた。夏なのに庭木へ霜が降り、冬の朝には塀の上まで氷が這っていることがあった。
焦凍くんは順調に強くなっていた。父親への反抗も順調だった。
帰宅時間が被り一緒に帰っている時に、電気屋さんのテレビに映るエンデヴァーを見ると顔を硬くし、炎は絶対に使わないと言った。俺の薄い原作知識と大体合っている。よしよし、原作通り。世界はまだ崩壊しない。
その間、俺は元気に将来の夢を語っていた。強くて俺とずっと一緒にいてくれる人に飼われ、安全なところで生きていたい。
幼稚園の頃から言っていた俺の夢だ。前世で働く大変さを知っているため、今世では養われる選択肢を早めに確保したかった。
飼われるといっても、庭へつながれて残飯を食べたいわけではない。冷暖房のある室内で暮らし、栄養のある食事を出され、具合が悪ければ病院へ連れていってほしい。
俺も《仮縫い》を使った仕事をするし、家の壊れた物は応急処置する。簡単な家事もやる。散歩は自分で行ける。留守番は得意。いつでもご機嫌。かなり飼いやすい人間だと思う。
母さんには、人間は飼われるものではないと何度も注意された。父さんは俺の将来の夢を聞いて頭を抱えた。兄ちゃんは自分が一生面倒を見てやると笑ったが、兄ちゃんには兄ちゃんの人生がある。俺を飼うために婚期を逃されても後味が悪いので断った。
夢は口に出せば叶うという。どこで聞いた言葉かは忘れたが、募集は広く行った方がいい。
小学校でも中学校でも、将来の夢を聞かれれば答えた。友達に笑われ、教師には考え直すよう言われた。それでも口に出すのは無料だった。
中学三年になる頃、俺は災害設備や公共施設の保全を専門に学べる私立の工業校から推薦をもらえそうになった。《仮縫い》との相性が良く、就職実績も安定している。
校舎は少し古かったが、演習設備は新しく、トイレも改修されたばかりだった。食堂で食べた鯖味噌定食も美味かった。骨が二本残っていたことを除けば高得点。
推薦の話を家族へすると、母さんは赤飯を炊き、父さんは少し高い寿司を頼んだ。兄ちゃんは俺の祝いだと言いながら、自分が食べたい唐揚げを二キロ買ってきた。
将来は保全会社へ入り、原作の中心から離れた場所で堅実に働き、いつか条件の良い飼い主に引き取られる。人生設計は順調だった。
日曜日の午後、玄関の呼び鈴が鳴るまでは。
扉を開けると焦凍くんが立っていた。家へ来るのは幼稚園の頃以来だった。黒い上着を着て、両手には何も持っていない。顔はいつも通り無表情に近かったが、目に妙な圧がある。轟家の人間が突然訪ねてくると訃報を連想してしまう。縁起でもないが、実績があるので仕方がない。
「どうしたの」
「話がある。中でいいか」
押し入り寸前の圧だ。客側からこの言い方あるのか? と思いつつ、家族は買い物や仕事で出かけていたので特に問題は無い。俺は焦凍くんを自分の部屋へ通した。床には進路資料が積まれ、机の上には朝に飲んだ牛乳のコップが残っている。底に白い膜が乾いていたので、教科書を立てて隠した。窓際のサボテンは冬になると完全に死んだ見た目になるが、春には何事もなかったように伸びる。俺より過酷な環境へ強い。
冷蔵庫から麦茶を出し、氷を二つずつ入れた。焦凍くんはコップへ手をつけず、床に置かれた進路資料を見ている。学校で、話を聞く時には身体を相手へ向け、途中で遮らず、安易に否定しないよう習った。俺は両手を膝へ置き、傾聴の姿勢を取った。
「どしたん? 話聞こか」
「進学、なんであそこなんだよ」
「推薦いけたから……? 」
「俺は雄英だ。おまえは違う」
どしたほんとに。推薦以外に何を答えればいいのか分からなかった。
焦凍くんが雄英のヒーロー科へ推薦で入ることは知っている。原作通りだ。めでたい。俺が設備保全の学校へ行くこととは関係がない。
焦凍くんは学校案内の表紙を見たまま、俺はここにいない、三年も違う、どうして相談しなかった、と切れ切れに言った。声が小さく、口の中で言葉が絡んでいる。俺は初めて、焦凍くんが別の学校へ行くことを嫌がっているのだと理解した。
幼稚園卒園後はずっと別の学校だったので、高校だけ合わせる発想はなかった。家は隣である。たまに門前で会うくらいの関係だ。なんでショックを受けているんだこのイケメン。
俺が首を傾げると、焦凍くんはヴィランに家族を人質に取られた被害者のような顔でこちらを見た。
「俺に飼われたいって言ったのに」
「言って……ないが……? 」
「約束した」
「何を」
焦凍くんによると、幼稚園の昼寝の時間、俺たちは小指をつないで約束したらしい。
焦凍くんが強くなり、ずっと俺と一緒にいて、将来は俺を飼う。俺はその内容を初めて聞いた。たしかに幼稚園の頃から、強くてずっと一緒にいてくれる人に飼われたいとは言っていた。焦凍くんが近くにいる時にも口にしただろう。名前を出した記憶はない。
昼寝の記憶に至っては、よく眠れたことしか残っていない。布団へ入ればすぐ寝ていた。小指を絡められても気づかなかった可能性が高い。
焦凍くんは何度もした、俺も指を握り返したと言い張った。寝ている人間は反射で手を握ることがあるのではないかと思ったが、目の前の顔があまりにも確信に満ちている。
ここまで言い切るなら、ガキの俺が何か余計なことを言ったのかもしれない。
前世の記憶があるとはいえ、今世の幼児期を一言一句覚えているわけではない。寝る前に焦凍くんへ、強くなったら飼ってねと軽く頼んだ可能性くらいはある。俺は昔から口が軽かった。兄ちゃんにも、昨日食べた菓子を一生買ってほしいと頼んだことがあるらしい。一生はいいすぎだ、話を大きめに盛る癖がある。
問題は、幼児の俺が忘れている口約束を焦凍くんが十四歳まで正式な契約として保管していたことだった。学校が違っても卒業後に飼えると説明すると、三年も離れると言われた。
今も別の学校だと指摘すると、だから高校は同じだと思っていたと返された。その予定は俺へ一度も共有されていない。焦凍くんの中では、俺の人生に本人が最初から配置されているらしい。俺が推薦先へ行けば、そこで知り合った別の人間に飼われる可能性がある。それが困ると言う。
条件の良い飼い主がいれば検討するのは当然だと答えた。焦凍くんは低い声で何度も、なんで、と聞いた。なぜ自分では駄目なのか。なぜ相談しなかったのか。なぜ三年間離れて平気なのか。なぜ自分以外の人間に飼われる可能性を残すのか。
俺は一つずつ、焦凍くんが駄目だと言っていない、進路を決めるのに隣人へ相談する習慣がない、家が隣なので離れる感覚がない、将来の条件は比較した方がいい、と答えた。
どの回答も焦凍くんを納得させなかった。“なんで”の在庫が尽きない。
父親への反抗だけでも面倒そうな男へ、幼なじみとの飼育契約破棄という新しい問題を抱えさせたまま雄英へ送り出していいのか不安になってきた。原作で焦凍くんは、もっと無口で周囲と距離を置いていた気がする。今のまま入学すれば、主人公との重要な会話の途中で、幼なじみが他人に飼われようとしている話を始めるかもしれない。これくらいはしかねない天然さも持ち合わせている男だ、原作崩壊まったなし。
少なくとも彼の未来のクラスメイトは困るだろう。同じ学び舎へ置いておけば、現状維持で落ち着く可能性が高い。俺は現状維持が好きだった。未知の変化は危険である。
雄英は入学直後にヴィランから襲撃されるが、俺の記憶では学校はその後も続いていた。普通科なら戦闘訓練には参加しない。プロヒーローとヒーロー候補が集まる学校なので、一般の工業校より避難誘導も早いかもしれない。
推薦は惜しい。食堂の鯖味噌にも未練がある。それでも、今後の人生でこの状態の焦凍くんを世に解き放つより、俺が同じ敷地へいる方が世界に優しそうだった。なんか……飼ってくれる気だったらしいし……。
「分かった。雄英の普通科を受ける」
「絶対受かれ。勉強は俺が教える」
「推薦を断って落ちたら、責任を取ってね」
「取る」
焦凍くんの肩から少し力が抜けた。顔はほとんど変わっていないが、部屋の空気が軽くなった気がする。
飼育契約については改めて検討することになった。焦凍くんは、住む場所を用意し、食費を払い、病気になれば病院へ連れていき、俺が働きたければ働かせ、辞めたければ辞めてもいいと言った。料理は蕎麦しか作れないが、今後覚えるらしい。兄ちゃんが遊びに来るための部屋も用意すると言う。
人権を自然に剥奪しようとしているわりに、待遇が俺の理想とかなり近い。俺の夢が原因なので強く抗議もしづらかった。俺は条件を確認するため、もっと良い飼い主が見つかった場合について尋ねた。
「もっといい飼い主がいたら、普通にそっちへ行くかもしれないよ」
「俺以上の飼い主なんていないだろ」
「じゃあ今のところ第一候補ね」
「今のところをつけるな」
焦凍くんは自信満々だった。表情が動かないせいで、俺には事実を告げているようにしか見えない。左手が少し強く握られていたが、進学先を変える話をして緊張しているのだろう。
話がまとまったことに安心し、雄英普通科の募集要項を探した。焦凍くんは明日から勉強を教えに来ると言った。推薦入試が決まっている人間は時間の使い方が豪快だ。英語が苦手だと伝えると、自分も得意ではないが俺よりはできると答えた。事実だろうが、教わる側として少し腹が立つ。
焦凍くんはようやく麦茶を飲んだ。氷がほとんど溶けて薄くなっている。俺も残りを飲み、今後ヴィランに襲われた際には飼い主候補として働いてもらうと伝えた。
「焦凍くんでも負ける可能性はワンチャンあるけどね」
「また犬に頼るのか」
「犬? 」
「ワンチャンだ」
焦凍くんは最近まで、俺が口癖で言うワンチャンを犬のことだと思っていたらしい。
俺の兄ちゃんが狼に似た異形型なので、俺の中では助けてくれる存在のイメージが犬なのだと勝手に解釈していた。俺が困るたびに犬へ救いを求めていると考えながら、一度も訂正しなかったことになる。
意味が分からなくても本人が困っていなければいいと思ったと言われた。妙なところで寛容だ。兄ちゃんを犬と呼ぶと拗ねるので、本人の前では言わないよう念を押した。焦凍くんは狼だったなと答えた。年少の頃に俺の絵を犬だと判定したことまで覚えているらしい。俺より幼稚園時代の記憶が鮮明だった。ますます、何か余計なことを言った気がしてくる。
家族が帰宅した後、俺は推薦を断って雄英を受けることになったと説明した。母さんは買い物袋を床へ置き、父さんは話の途中で眼鏡を外した。兄ちゃんだけは、幼稚園の頃から焦凍くんに飼育予約されていたらしいと伝えると、床へしゃがみ込んで笑った。尻尾が棚へ当たり、置かれていた箱が落ちかけたので、俺が《仮縫い》で棚へ留めた。
「夢、叶ってんじゃん! 口に出しとくもんだな! 」
「応募した記憶がないんだけど」
「昔のおまえ、今より口軽かったぞ。絶対なんか言ってる」
「そういう気がしてきた」
母さんからは人間同士で飼う飼われると言うなと叱られ、父さんからは雄英を受けるなら本気で勉強しろと言われた。兄ちゃんは寝るまで思い出しては笑っていた。
翌日から焦凍くんは本当に毎日うちへ来た。英語の問題集を開き、間違えたところへ容赦なく印をつけ、休憩時間には自分で麦茶を注いだ。「将来のために綴真くんの好きな味を調べたいです、試してみてもいいですか」と申し出たらしく、夕食の味噌汁を作って帰った日もある。豆腐の大きさが不揃いだったが、大きいものは俺の椀へ入っていた。飼育計画は俺が思うよりずっと前から始まっていたらしい。当面は首から予約済みの札を下げたつもりで、雄英合格を目指すことにした。

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