好きな人に好きになってもらう方法を知らなかった。子供の考えることなんて単純で、嫌われたくないなら、とにかく優しくすればいいと思った。
それが今も続いているだけだ。もう癖なのだから、惰性と言ってもいいだろう。
ヴィルと初めて会ったのは、母の仕事について撮影所へ行った時だった。化粧室の隅で、金色の髪をした子供が台本を読んでいた。周囲の大人に休めと言われても、自分が納得するまでページを閉じない。綺麗な子だと思った。それより先に、ひとりで頑張っているのが寂しそうだと思った。
後に話すと、余計なお世話だと怒られた。アタシは寂しくなかったし、勝手に可哀想だと決めつけるのは失礼よ、と。
まったく正しい。ヴィルは昔から、自分の足で立つ人だった。
それでも俺は、彼のそばにいたいと思った。親が敷いてもいない道へ飛び乗り、髪や化粧を学んだ。ただ好きなだけでは、ヴィルの仕事場には立てないからだ。
幸い、今ではヘアメイクアーティストとして多少は名を知られている。もっとも、世間にとって俺は「あのヴィル・シェーンハイトの専属」なのだろう。それで構わなかった。
ヴィルは生まれつき美しい。けれど、あの髪も肌も立ち姿も、毎日の積み重ねで作られている。魔法で誤魔化せるところほど、自分の手で整える人だ。
そんなヴィルの髪へ指を通す。シャンパンゴールドの髪が照明を受け、指の間で色を変えた。
「可愛いね。今日の君も本当にチャーミングだ」
「またそれ? ロジェ、アタシは可愛いで済ませられるほど手を抜いていないわ。美しいと言いなさい」
鏡越しに睨まれた。ヴィルにとって、美しいという言葉は努力への評価だ。分かっていながら、俺はつい可愛いと言ってしまう。
世間の前では隙のない人が、俺にだけこんな顔を見せてくれる。それが嬉しかった。
「ごめんね。俺は愛しいものを見ると、みんな可愛いと思ってしまうんだ」
「謝る気がないでしょう」
「ばれた?」
「何年一緒にいると思っているの」
呆れながらも、ヴィルは目元を和らげた。
髪を整え、仕上げにオイルを馴染ませる。ヴィルは鏡の中の自分を正面、右、左と確かめた。どれほど長く専属を務めても、最後は自分の目で確認する。
「はい、出来上がり。今日のヴィルも世界で一番可愛らしいよ」
「最後まで訂正しないのね。……でも、仕上がりは完璧よ」
「足元に気をつけて、行ってらっしゃい」
「アタシを誰だと思っているの?」
立ち上がったヴィルは、一度だけ背筋を伸ばした。そこにいるのは、自分に求められた以上のものを差し出すヴィル・シェーンハイトだ。
スポットライトは彼のためにある。眩しい光の中へ進む背中を見送りながら、俺はこれでいいと思っていた。舞台袖にいる人間が、主役の隣まで望んではいけない。
扉へ手をかけたヴィルが振り返る。
「本当に、ロジェってダッドみたいね」
気を許した笑顔だった。
その言葉が胸を抉ったことを、ヴィルは知らない。
ああ。
…………俺は、どこから間違えたんだろう。
隠していたつもりだったが、同じ事務所の年上の友人にはあっさり見抜かれた。「お前、失恋したんだろう」と肩を組まれ、失恋には新しい恋だ! と女性を紹介された。
ミレイユは小柄で黒髪の、頬が丸い女性だった。今日のために買ったというハイヒールが足に合わず、歩き始めてすぐ踵が赤くなっていた。
近くの店で歩きやすい靴を選び、家まで送った。穏やかで話しやすい人だったが、恋にはなれなかった。別れ際、彼女は困ったように笑った。
「ロジェさんには、もう好きな人がいるみたい」
初対面の女性にまで分かるらしい。
友人から証拠をマジカメへ上げろと言われていたので、贈った靴と、それを受け取るミレイユの手を撮って投稿した。
楽しい時間だった。気を使ってくれてありがとう。ただ、しばらくは静かに過ごしたい。
そう書き添え、スマホを伏せる。ほんのちょっと、長い恋の終わりに疲れているだけ。しばらく休めば、いつもの俺に戻れるはず。
寮へ戻った夜、控えめなノックで目を覚ました。日付はもう変わっている。消灯後のポムフィオーレ寮で、誰かの部屋を訪ねる者は珍しい。
「誰だい? 今開けるよ」
「…………」
返事はなかった。
「ヴィル?」
扉の前に立っていたのは、一番あり得ないと思っていた人だった。
部屋着の上に寮服の上着を羽織り、長い髪を背中へ流している。急いで来たらしいのに髪は乱れておらず、メイクも落としていた。ただ、目元が赤い。
「どうしたんだ、こんな時間に」
「どうした、ですって?」
声にいつもの鋭さがない。ヴィルは胸元でスマホを握っていた。
「ロジェ。アンタ、どういうつもりなの」
「なんの話だ?」
「勝手に距離を置いて、何もなかったような顔で他の女と出かけて……アタシが何かしたなら、言いなさい」
「ここは冷える。中へ入って」
「廊下で騒ぐつもりはないわ」
部屋へ通し、ホットミルクを作った。普段なら夜の糖分を気にするヴィルが、何も言わない。
机へ戻ると、ヴィルはスマホを置いた。画面に表示されていたのは、俺のマジカメだった。靴とミレイユの手。その下に「恋人ですか?」「デート!?」というコメントが並んでいる。
「これは友人に紹介されて会っただけだよ」
「知っているわ。コメントも全部読んだもの」
「なら、どうして」
「アタシ、この子より綺麗でしょう」
ヴィルらしくない、弱い声だった。
言ってしまった本人が、一番傷ついた顔をした。
「分かっているわよ。最低な質問だって。あの子にはあの子の美しさがある。そんなこと、アタシが一番分かっている」
目元へ浮かんだ涙を、苛立ったように拭う。
「泣いたら腫れるでしょう。明日は撮影があるのに……最悪」
その途端、堪えていたものが切れた。
「アンタは誰にでも優しいわ。アタシが疲れていたら飲み物を用意して、髪が傷んでいたら手入れをする。あの子の足が痛そうなら靴を買う。だったら、アタシにしてくれたことの何が特別なのよ」
頬を張り飛ばされたような衝撃だった。
優しくすれば好きになってもらえると思っていた。何も要求せず、与えていればいいと。ただ、俺は基本的に全ての人に優しく、親切を心掛けてもいた。
そのせいで、何も伝わっていなかったなんて。
「愛しいものはみんな可愛いんでしょう」
ヴィルの声が震える。
「だったら、もうアタシは可愛くないの? アタシが何か間違えたなら直すわ。分からないまま捨てられるなんて嫌よ」
「綺麗だね」
「今の話を聞いて、どうしてそうなるのよ」
指で涙を拭う。ヴィルは俺の手を振り払わなかった。
「君があまりにも綺麗だからだ」
「褒めて誤魔化さないで」
「誤魔化していないよ」
「アタシが欲しい時には可愛いと言って、今になって綺麗だなんて。アンタ、本当に腹が立つわね」
涙を零しながら睨まれた。それでも俺には、やっぱり、どうしようもなく可愛く見える。
「ねえ、ヴィル。俺は君のダッドにはなれないよ」
「……当たり前でしょう」
「君を守るだけで満足できるほど、立派な人間でもない。友達でも、専属でも、そばにいられればいいと思おうとした。でも無理だった」
ヴィルが息を止める。
頬へ手を添え、顔を寄せた。ヴィルは逃げなかった。
「嫌なら、突き飛ばしてくれ」
「そのくらい、自分で判断なさい」
「難しいことを言うね」
「本当に嫌なら、とっくに床へ転がしているわ」
唇を重ねた。
触れたのは一瞬だった。離れると、ヴィルは指先で自分の唇に触れた。
「……レモンの味は、しないのね」
「どんな味を期待していたんだい?」
「昔読んだ本に書いてあっただけよ」
耳まで赤くして目を逸らす。
ああ、なんて可愛い人なのだろう。
「それから、アタシはダッドのために新しい下着を選んだりしないわ」
「赤い顔でなんてことを言うんだ」
「ロジェがアタシを子供扱いするからでしょう! 随分悩んで選んだのよ。なのに他の女に靴を贈るし、連絡は短いし、静かに過ごしたいなんて投稿するし……アタシにどう受け取れと言うの?」
「ごめん。君から離れようとしていた」
「最悪ね」
「うん」
「最低ね」
「それも認めるよ」
最後に落ちた涙へ、そっと口づける。
「可愛い人。君が好きだよ。初めて会った時から、君のそばへ行くことばかり考えて生きてきた」
「……アタシもよ」
拗ねた声が返ってきた。
「どうして分からなかったの。アタシが誰にでも髪を触らせると思っているの? 仕事でもないのに部屋へ呼んで、ロジェが選んだものを身につけていたのは、ロジェだけよ」
「君の特別扱いも分かりにくいね」
「アタシのせいにする気?」
「俺が鈍かった」
「そうよ。きちんと反省なさい。……アタシは、アンタと、いつどうなってもいいように……ちゃんと準備していたのに」
ヴィルは俺の胸へ額を押しつけた。「鈍感」と小さな声が聞こえる。手の置き場に迷っていると、背中へ腕が回った。
「ぼさっとしないで。こういう時はロジェから抱きしめるものじゃないの?」
「注文が多いなあ」
「アタシを好きになったのなら、これくらい応えなさい」
腕を回すと、ヴィルの身体から力が抜けた。
「念のため言っておくけれど、すぐに許すつもりはないわよ」
「許してくれるまで、そばにいてもいい?」
「当然でしょう。ロジェを一人にしたら、また勝手に物分りよく諦めるんだから」
頬をつねられた。痛かったが、手を離してほしいとは思わなかった。
俺たちは随分と遠回りをした。
舞台袖へ下がろうとしていた俺を、主役が引き戻してくれたのだ。
今度こそ間違えない。
君を愛しているのだと、もう二度と分からないままにはさせない。

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