この荒れ果てた大地にどこにでもいるはずの孤児兵と同じような、取るに足らない人間だ。
ただし彼女には、最初から「存在を証明する紙」がなかった。両親にすら国籍証明がなかったのだから当然だろう。
砲撃と飢餓が支配する土地で、他のきょうだいたちは母の腹の中で半端なかたちで死んでいった。
その中で、なぜかサイーダだけが五体満足でこの世に押し出されてしまった。
結果どうなったか。
彼女は両親にとって「丈夫な労働用の駒」として、4歳まで酷使され続けた。
では、なぜ4歳で解放されたのか?
───────彼女に「個性」が出現したからだ。
サイーダの個性は、便利で、恐ろしく、そして生きづらいものだった。眠れば身体が泥のように溶ける。意識を失えば、そのまま死ぬ。
神に罰を与えられたかのような、忌まわしい力だった。
けれど、その泥にはひとつ利点があった。
嫌なものを丸ごと引きずり込み、沈黙させられた。
はじめて両親を泥に沈めようとしたとき、サイーダの胸に浮かんだ感情はなんだと思う?
「助けて」でも「どうして」でもない。
───────正解は、「死ね」。
だが生まれたての個性は未熟で、両親は逃げ延びた。それが彼女の人生最初の「失敗」だった。
その後はどうしたか? 簡単さ。
盗んで生き、奪って喰らい、喉を潤すために他人を襲った。
「私の個性なら、誰だって沈められる」と信じていた。
実際に何度も試した。
銃を持つ少年兵を路地に沈めた。
寝ていた老人に手を伸ばした。
武装兵に喧嘩を吹っかけたこともある。
けれど、どういうわけか一度も殺しきれなかった。
標的は泥からすり抜け、あと一歩というところで国連の兵士や現地の義勇兵が現れる。
殺したいと願った相手は、いつも生き延びてしまった。
だから彼女は「殺人鬼」になれず、ただ「いつでも人を沈められるかもしれない奴」として生き残り続けた。
それが、サイーダの「運」だった。
そんな彼女が出会ったのは、瓦礫の町で奇妙に楽しそうな人々だった。
共同炊き出しをし、掃除をし、互いに小さく声をかけ合う。誰かが笑えば隣の誰かも笑う。銃声が響くたび、わざとらしい冗談を言って場を和ませる。
狂気のような光景だった。
眺めていると、小柄な老婆が温かいパンを差し出してきた。
「あなたもどうぞ」と。
……サイーダは心底怯えた。
爆撃よりも、銃撃よりも、その一片のパンに。
自分のための食べ物なんて、人生で初めてだった。
老婆は続けて言った。
「ここは避難民のシェルターよ。空き部屋がある。若い人の力が必要なの」
狂気のような善意に、サイーダは住処を得た。
そこで与えられたのは、初めての「正当な報酬」──────働きに見合う金と食事。
彼女は笑った。金なんて興味はなかった。
欲しかったのは、安心して眠れる部屋と、満腹になる飯だけ。
「……じゃあ私は今まで、何のために生きてたんだろう?」
サイーダは疑った。この奇妙な平穏は、部屋に置かれた小さなランプ───────《あかり》のせいではないかと。
だから彼女はそれを水に沈め、壊してみた。それが視界に入る度に、感じたことの無い感情が外から入ってくる。サイーダの何かを壊す、恐ろしい“あたたかさ”だ。
消してしまえば、いつものクールで冷徹なサイーダに戻れるはずだと信じた。
……何も変わらなかった。1度与えられたものは、捨てたとしても無くならないのだ。与えられたパンは血肉になる。
それと同じように、この場所は昨日と今日が同じように穏やかで、満たされていて、誰にも怯えなくてよかった。
その瞬間、彼女は悟った。
「これが……幸せなんじゃないか?」
生まれ落ちた瞬間から与えられ続けた不幸は罰だったのだろう。
なら、この平穏は────罰が終わった証なんじゃないか、と。
彼女が《あかり》を壊したと知った仲間たちは、自分のものを分けようとした。だがサイーダは首を振った。
もし神がいるなら、それは彼らが信じる《あかりさま》だ。
そして自分を許したのも─────きっと《あかりさま》だ、と。
その信仰を持ち込んだのは、小柄なアジア人の女だった。
売れば金になる医療品を必死に抱え、なにも持たない他人のために命を賭けて歩き回る狂気の人道家。狂っていたが、信じ難いほどに良い女だった。
彼女の口から語られる《あかりさま》の物語は、優しく、美しかった。
「弱き者のために光はともる」と。
サイーダは、初めてその言葉を信じてもいいと思った。
だが今ではもう、その女も、避難民のシェルターも、そこにいた敬虔な信者たちも、すべて瓦礫の下に埋もれてしまった。
雨季がくれば、瓦礫の下で眠る彼らは花を咲かせる肥料になるのだろう。
サイーダだけが、生き残った。またしても「運の悪い生存者」として。
彼女に残ったのは───────教えられた信仰心だけだった。
だからサイーダは車を奪い、船にしがみつき、四度も航路を間違えながら日本に辿り着いた。
日本では、さぞ《あかりさま》の話題で満ちていて、町中に巨大な教会がいくつも建っているものだと思っていた。
だが、現実は違った。
ここでは《あかりさま》は「怪しいカルト」か「子供のおまじない」か、そのどちらかでしかなかったのだ。
サイーダは混乱した。他人の言うことなど、もとより信じられなかった。
だからこそ、自分の目で《あかりさま》を確かめることにした。
この時点でも、サイーダはまだ人をひとりも殺していない。
可愛いヤツだった、と言えなくもない。
けれど彼女は思い始めていた。
最初に殺す相手は、《あかりさま》でもいいのではないかと。
もし神でなければ殺す。そしてそのあと、自分も死ぬ。
それがいちばんスマートな人生の終わり方だ、と。
サイーダは長い旅のあいだ、いくつもの街で生き延びた。
その過程で武器商人や亡命者、難民支援団体を装ったスパイや傭兵から、情報を買いもしたし奪いもした。
断片はどれも歪で、不確かで、噂と真実の境界は曖昧だった。
だが、その中にあった。
《あかりさま》の情報が。
サイーダはそれらの話を糸のように繋ぎ合わせた。すると一本の道が浮かび上がった。その先に、《あかりさま》がいる。
辿りついた答えは信じがたいものだった。
《あかりさま》は、ヴィラン連合という組織に属している。小さな島国のちっぽけな悪の組織に! しかも、ただの青年だと!? もっとこう、得体の知れないかたちをしている者だと思っていた。
異形型個性とかで、7対の翼を持ち見上げるほどの巨躯とか、あまり学のないサイーダは上手く言語化できなかったが、とにかく“普通”と違う者だと思っていた。
「まさか」─────そう思う一方で、サイーダの胸の奥で確信が灯った。
その青年こそ、自分が水に沈めて壊した《あかり》と、まったく同じ輝きを持っている、と。
理屈ではなかった。泥に沈む自分の奥底に、ひとつの光が触れていた。
それが間違いなく“同じもの”だと告げていた。
ある国では、医療の神が戦争に敗れ、異国で「蝿の王」と呼ばれたという。
ある土地では、豊穣の女神がよそでは「破壊の魔女」として恐れられた。
神が人か悪魔かなど、場所によっていくらでも変わる。
ならば──────ここ日本で《あかりさま》がヴィランと呼ばれていても、不思議はない。
サイーダはそう理解した。彼女にとって、神とはもともとそういうものだった。
サイーダは静かに笑った。ようやく辿り着いたのだ。
幾度も死に損ない、運悪く生き延びてきた道程は、ここに至るためだったのだと。
「神を確かめる」───────その旅が、ようやく終わる。
サイーダは泥の底から這い上がるように、最愛のヴィランを探し始めた。
