「なんで“あかり”がいるのよ……!」
頭上、遥か上空から落ちてきたマウントレディの声は、怒声というより苛立ちを噛み殺しきれなかった舌打ちに近かった。音量は抑えられているはずなのに、夜気を伝ってやけに鮮明に耳に届く。その一言だけで、現場の空気が一段重く沈んだのが分かる。
「静かに」
すぐにベストジーニストが低く、しかし有無を言わせない調子で制する。マウントレディは反射的に口を閉じ、両手で口元を塞いだ。その仕草はヒーローとしては不釣り合いなほど子供じみていたが、それだけ今の状況が“想定外”であることを物語っていた。
誰もが同じことを考えている。
考えうる限り、最悪の展開だ。
作戦は、BAR拠点に“あかり”がいることを前提に組まれていた。最大戦力を投入し、被害を最小限に抑えた状態で捕縛する。そのために、捕縛術と環境制御に長けたシンリンカムイが最前線に配置されていたはずだった。
それが、なぜ。
視線の先、廃工場の奥。
割れたコンクリートの床と、無機質なタンクが並ぶ脳無格納区画。その中央に、青年……いや、よく見ればまだ少年と呼ぶべきかもしれない背中があった。
“あかり”は、そこにいた。
戦闘態勢ではない。逃走の気配もない。立ち姿だけでわかる、戦闘に慣れていないことが分かる無防備さで脳無を管理するタンクのひとつに手を置き、じっと立ち尽くしている。まるで温度を確かめるみたいに、あるいは中にいる“何か”の存在を感じ取ろうとしているみたいに、祈りのようにも見えた。
「どうする?」
低く短いギャング・オルカの問いは、迷いではなく確認だった。ここから先は判断ではない。調整だ。
誰も即答しないのは、答えが一つしかないと全員が分かっているからだった。
脳無格納庫の制圧は、BAR拠点の制圧と同時でなければ意味を成さない。
黒霧が健在である以上、戦闘が始まった瞬間、格納庫外に配置された脳無がBAR側の戦力と合流する可能性は極めて高い。それ自体は想定内であり、エンデヴァーや公安職員が対応に当たっている。問題は、ここに保管されている“格納庫内部の脳無”まで動かしてしまうことだった。
向こうには爆豪少年が囚われている。BAR側の戦力が増えれば、それだけ救出作戦の難度は跳ね上がる。外に出ている脳無だけでも十分に脅威なのに、この格納庫に眠る個体群までワープで送り込まれれば、戦況は即座に制御不能に陥る。
さらに、プッシーキャッツの一人が依然として行方不明だ。彼女が生きていると仮定するなら、最も可能性が高いのはこの廃倉庫─────脳無を保管し、管理する格納庫だ。
そして、その中央に“あかり”がいる。
最悪だが、同時に好機でもある。
確保と制圧を同時に行う必要がある以上、ここで逃がすわけにはいかない。
「……最初のプランで行く」
ベストジーニストが静かに口を開く。声は落ち着いていて、迷いはない。その場の情報を紡いでほつれを直していく、そういう堅実な働きがヒーローの本質だ。
「現在の位置関係なら、私が個性を展開し、瓦礫から対象を保護しながら拘束できる。
マウントレディには予定通り真上からの破壊をお願いしたい。落下物は私が制御する。対象への衝撃は最小限に抑えられる」
マウントレディが真上から廃倉庫を叩き割る。その瞬間に生じる崩落と衝撃を、ベストジーニストが即座に個性で制御し、対象の周囲を繊維で包み込む。
脳無の封じ込めと同時進行で“あかり”の拘束を完了させ、瓦礫が到達する前に戦場から切り離す。被害を最小限に抑えるために組まれた、最短かつ最善の手順だった。
マウントレディが深く息を吸う。鈍器代わりに握りしめた車を振り下ろすために掲げた。
夜空に伸びる巨体が、月明かりを遮る。
「……行くわよ」
その瞬間だった。
倉庫の奥で、動きがあった。
ほんの一瞬、だが確かに。
“あかり”が、こちらを見たわけではない。ただ、突然何かを察したように身体の向きを変え、次の瞬間、奥へと駆け出した。
ためらいも、恐怖も見せず、ただ“行かなければならない方向”を知っている動きだった。
「─────っ」
ベストジーニストの指が跳ねる。
繊維が解き放たれ、空間を切り裂くように伸びた。だが、距離が一歩、足りない。
マウントレディの拳が倉庫を叩き割る。
轟音とともに天井が崩れ、鉄骨とコンクリートが雨のように落ちてくる。その破壊は予定通りだった。予定通りすぎるほどに。
瓦礫が地面に叩きつけられ、衝撃が遅れて身体を揺らす。粉塵の中で、誰かが舌打ちした。
最悪の流れだ。
確保は失敗。制圧は始まってしまった。そして今、この倉庫の奥には、“逃げたあかり”と、脳無と、行方不明者の可能性が残されている。
ベストジーニストは、落下途中の瓦礫を視界の端に追いながら、判断を切り替えた。
逡巡は一瞬もない。迷っている時間はない。ここで躊躇すれば、最悪の形で戦力が解き放たれる。
─────対象は取り逃がした。
その事実が、胸の奥で鈍い重さを持って沈む。だが今は噛み締める余裕すらない。
繊維が解き放たれる。
一本、二本ではない。床を這い、空を裂き、タンクの列を縫うように伸びた無数の糸が、瓦礫が落ち切る前に脳無へと絡みついた。
首、肩、胴、関節。動き出す兆候を見せた個体から順に、締め上げ、固定し、床へ縫い止める。破壊ではない。封じ込めだ。
……最優先すべきものに、糸が届かなかった。
繊維は、確かに伸びていた。
距離も、角度も、タイミングも、理論上は完璧だったはずだ。それなのに、ほんの一歩、ほんの一拍、届かなかった。その“わずか”が、決定的だった。
なぜ動いた。
なぜ、あの瞬間だった。
思考が、制圧と並行して逆走する。
“あかり”は、こちらを見ていなかった。逃走の気配もなかった。戦闘の構えもない。ただ立って、タンクに手を置き、何かを感じ取っているようだった。
ならば、きっかけは外ではない。こちらの動きではない。
─────内側だ。
瓦礫が落ちる前、戦闘が始まるよりも先に、あかりは“何か”を察知した。音か、振動か、あるいはもっと別の、……“誰か”が、いる。
瓦礫とタンクの間を縫うように視線を走らせながら、ベストジーニストは間断なく機動隊へ指示を飛ばし続ける。
「ラグドールよ! 返事をするのだ!!」
プッシーキャッツの一人、ラグドールは、チームメイトである虎によって発見され、拘束から解かれていた。
ひとつ、胸の奥の重石が外れる。だがその瞬間、聞きなれない声が闇の中から這い出るように近付いてきた。
「すまない虎、前々から良い“個性”だと……丁度いいから……貰うことにしたんだ」
笑っていないのに、確かに嗤っている声音だった。喉を震わせるでもなく、感情を乗せるでもなく、ただ音程だけが人の形をなぞっている。こちらの牽制も制止も、存在しないかのように素通りして、言葉だけが続く。その口調は台本を読む朗読に似ている。しかし棒読みではない。むしろ、完璧に演技できる者が、わざと“下手に聞こえる芝居”を選んでいるような、不自然な余裕があった。
一語一語が丁寧で、抑揚は正しく、だからこそ生身の熱がない。感情を理解しているが、共有する気はない、という距離感が声音だけで伝わってくる。聞く者の神経を逆撫でするのは、威圧でも怒気でもなく、その「相手の反応を最初から想定している」調子だった。逃げ場のない静けさの中で、その声だけが、こちらを観察するための道具として響いていた。
「こんな身体になってから、ストックも随分と減ってしまってね……」
闇の縁から一歩、影が形を持った瞬間、ベストジーニストは迷いなく繊維を走らせた。思考より先に身体が動く。相手が言葉を選ぶ前に制圧する。それが最善だ。糸は正確に絡み、関節と体幹を封じる。
「ああ、酷いなぁ。君もそう思うだろ? “あかり”」
拘束された当人は、こちらを一瞥もしない。敵意を示した側を無視する、意図的な軽さだった。
「さっきは危なかったね。僕が教えてあげなかったら、君はこの瓦礫の下敷きで死んでいたよ」
違う、と口を開くより先に、闇の奥で“灯火”が揺れた。風もないのに、儚い炎がひとりでに震える。今にも消えそうで、それでも確かに在る光。それを見た瞬間、胸の奥を鷲掴みにされるような衝動が走る。
守らなければならない、という考えが理屈を追い越し、使命感として身体を支配する。
この光を消そうとする存在そのものが、許しがたい敵に変わる。だが次の瞬間、その激しさは裏返り、どうしようもない罪悪感となって喉を塞いだ。声にすれば壊れてしまう気がして、悲鳴を飲み込む。
理由のない寂しさと、取り返しのつかない絶望が、頭と四肢を同時に駆け抜け、立っていることすら困難になる。ただ、失ってはいけないものがそこにあるという感覚だけが、異様な重さで残り続けていた。
それが“何”なのか、瞬時に全員が理解した。無理やり意識をずらし、意識を立て直す。
「“火継”だ! 機動隊、下がれ!!」
ベストジーニストの声が裂けるように響いた。判断は一瞬だった。さきほどまで保護対象として想定されていた“あかり”は、もはやその枠に収まらない。
“あかり”は、明確な殺意を帯びて立っている。
灯火は揺らぎではなく、指向性を持った攻撃として周囲の空気を侵食し、こちらの動線と呼吸を奪いにかかっていた。視線は合っている。だがそこに対話の余地はない。感情は怒りとして定着し、譲歩も誤解も許さない温度まで燃え上がっている。
彼はいま、保護対象から敵になった。
ライトが一斉に向けられ、白い光に切り取られたその顔には、これまでの資料には存在しなかった表情が浮かんでいる。怒りだ。抑えも、飾りもない、生身の感情。
「よくも殺そうとしてくれたな……めっちゃくちゃ“嫌なこと”してやるからな……!!」
声は震えていない。ただ低く、鋭い。だが言葉は酷く幼い。まるで癇癪を起こした子供のような言葉の選び方だった。
「ふふ、元気だね。弔の躾がいいのかな? さあ僕の後ろに隠れて、教え子の飼い犬くらい守ってあげるよ。君の思う“いやがらせ”を頑張りなさい」
「ありがとうございます! “先生”よろしくお願いします!!」
その瞬間になって、ベストジーニストは、致命的な前提をひとつ見落としていたことに気づいた。
───────“あかり”は、十代の可能性がある。
未成熟で、感情の制御が十分ではない年齢だった。恐怖や怒りを、言葉や距離で処理できない段階の心。
廃倉庫制圧の判断は、戦術としては正しかった。だが、結果として“拘束できなかった”という事実が、彼の視界を歪めた。繊維が届かず、瓦礫が落ち、巨大な質量が頭上から叩きつけられる。その一連は、彼の目にはこう映ったはずだ。
自分を、廃倉庫ごと押し潰そうとした。
守るための破壊も、最短で終わらせるための侵攻も、そこにいた未成年の感覚には区別がつかない。ただの“殺意”として、まっすぐに突き刺さる。
そして、その状況を作ったのが誰か。
今、闇から出てきたこの男だ。
“先生”と呼ばれた存在は、まるで舞台に上がる俳優のように、自然に一歩を踏み出した。
計画は、判断は、倫理は──────すべて後手に回った。
怒りを剥き出しにした“火継”は、まだ子供だ。
だが、その背後に立つ男は違う。
これは単なる作戦失敗ではない。
未成熟な感情を、最悪の形で“点火”させてしまった。その引き金を、この男は、最初から握っていたのだと。
「よし、やるか」
お茶でも淹れようかという軽さで、その言葉が落ちた瞬間、巨大な悪意が世界に口を開いた。
思考が意味を結ぶ前に、繊維をまとめ、方向を変える。仲間を守る。それ以外を切り捨てるために、身体が先に答えを出す。
叫びも命令も、爆ぜる音に掻き消され、現場は騒音にまみれた沈黙へ沈んだ。理解より早い判断が、恐怖を押し潰す。だが、その沈黙は救いではない。すべてを抉り、これから起こる最悪だけを、静かに確定させていった。
