ちゅう、ちゅう、ネズミがチュッ。
ネズミがネズミが、チュッチュッチュッ。
笑いを含んだ軽やかな少女の歌声が、湿った裏路地に弾むように広がっていく。跳ねる足取りが汚水の溜まった水たまりを遠慮なく踏み、ぴしゃりと濁った水音を立てるたび、腐った臭気と生温い飛沫が空気に散った。
点滅する街灯の光が一瞬だけ闇を切り裂き、少女の細い影と、その足元を埋め尽くすように蠢く無数の小さな影、そして壁面を這い上がり流れ落ちる黒い群れを映し出す。ネズミ、ネズミ、ネズミ。毛並みの光るもの、皮膚が透けるほど痩せたもの、目だけが異様に赤く光るものが、歌に合わせるように一斉に走り、跳ね、擦れ合い、少女の進む方向へと吸い寄せられていく。
彼女は振り返らない。ただ鼻歌まじりに歌いながら進むだけで、その背後では爪の音と歯の擦れる音が重なり合い、路地そのものが生き物の腹の中のように脈打っていた。
「あたしったらホントにシアワセ! すっとずっと、『ご希望のチケットにつきましては、厳正なる抽選の結果、残念ながらご用意する事が出来ませんでした。またのご利用お待ちしております』だったけど、ようやくよーやく、あたしのチケット届いちゃった! お前たち聞いてる? あたしの席がご用意されたの!」
甲高く弾んだ声が裏路地の壁にぶつかり、汚れたタイルと錆びた配管の隙間を跳ね返りながら滲んでいく。
彼女は言葉の勢いのまま、足元のゴミ袋を踏み潰し、割れた瓶を蹴散らし、踊るようにくるりと回った。スカートの裾が弧を描き、濁った水が遠心力で散る。その軌跡に呼応するように、ネズミたちも一斉に動く。円、円、円。少女を中心に、無数の小さな身体が同心円を描き、爪音と擦過音が規則正しいリズムを刻む。ひげが触れ合い、尾が絡まり、黒と灰色の塊がひとつの生き物のようにうねりながら回転する。
ここにはネズミしかいない。人の気配はなく、応える声も拍手も存在しない。それでも彼女は疑わない。赤く光る無数の目を観客席に見立て、湿った路地を舞台にして、当選通知という名の祝福を噛み締める。街灯が一度だけ強く瞬き、少女の笑顔と、歯を剥いたネズミたちの影が壁一面に広がった。その瞬間、幸福という言葉がひどく不吉な意味を帯びて、この場所に定着した。
「しかも……しかもね、“あかり”って結構ステキなのよ! 階段でね、あたしに手を差し伸べてくれたの! 王子様みたいって思わない!?」
ネズミの返答を待つことも、期待することもなく、少女は自分の胸を抱きしめるようにして、きゃあと可愛らしい歓声をあげた。声は裏路地の奥へ弾み、湿った空気に溶けて消える。その瞬間、群れは一斉にざわめき、ひげを震わせ、尾を打ち鳴らし、祝福の拍手の代わりに爪音を重ねる。彼女はそれを肯定と受け取り、満足そうに頬を紅潮させた。
「あたしってキモくないんですって! ちゃんと可愛いって! 聞いてるお前たち? お前たちだって、ぜんぜんバッチくなんてないんだから! みんなあたし達のコト、バカにして! 汚いって! 害獣っていったけどさ! ヤッパあいつらがおかしかったのよね! ドブネズミなんて呼びやがって! クソども! あたしの可愛さに嫉妬しやがって! お前らの方が群れるしかできないクソネズミのくせに!」
言葉の調子がひび割れ、次の瞬間には甲高い悲鳴めいた怒声へと変わる。少女は髪を振り乱し、頭を掻き毟り、足元を踏み鳴らして癇癪を起こした。水たまりが跳ね、ネズミたちもまた怯えたように、あるいは煽られたように四方へ散り、すぐに再び彼女の周囲へと戻ってくる。
怒りと被害意識が空気を満たし、路地の壁にこびりついた罵倒が、過去の記憶の残響のように反射する。少女の感情に引きずられるように、群れは荒れ、走り、歯を剥き、彼女の内側で渦巻く憎悪をそのまま形にしたかのようだった。
「あたし、ちゃんと、ヒーローに助けてって言ったのに、あいつは助けてくれなかった。でも、“あかり”はあたしを助けてくれたの。だから、あたし、“あかり”のコト好き……。あの人のためなら、何だってしてあげていいの。優しいんだもん、いいのよ、その他大勢でも。あたしの格好、褒めてくれて、お前たちのコトも「可愛い」って言ってくれたの。覚えてるでしょ。ネズミって可愛いよなあって、お前、撫でて貰ったの、忘れんなよ」
語尾は次第に溶け、独り言のように甘く伸びていく。
少女はしゃがみ込み、一匹のネズミの背をなぞるに撫でた。群れはざわめき、彼女の足元に密集し、擦れ合う体温と臭気が路地を満たす。彼女の世界では、それは拍手であり、同意であり、過去を肯定する証拠だった。
虐められてます、助けてください。声を絞り出すだけで胸が裂けそうだった、もっともっと小さかった日。勇気を振り絞って差し出した手は、救いではなく見世物として掴まれ、無理やり繋がされてから、状況はさらに悪くなった。
助けを求めるたびに標的は鮮明になり、失敗するたびに暴力と嘲笑は増えていった。誰に言っても同じだった。空虚な正論、力ずくの見せかけだけな解決。そのすべてが積み重なって、逃げ場は削られていった。
“あかり”だけが違った。「環境が悪いから逃げれば?」その言葉は軽く、命令でも説教でもなかった。けれど言うだけでは終わらなかった。寝る場所も、食べ物も、替えの身分も! 画面越しに差し出された選択肢は、現実のどんな支援よりも具体的で、あまりにも簡単だった。
“あかり”は少女に何も求めなかった、ただ与えてくれた。ゲームの中で会っていただけの、初期アバターのフレンド。それだけの関係だったはずなのに、“あかり”は気軽な親切の形で、彼女を丸ごと救い上げてしまった。
だから少女にとって、救いとは制度でも正義でもない。名前を呼んでくれたこと、可愛いと言ってくれたこと、価値があると肯定されたこと。そのすべてが“あかり”に結びつき、忠誠と好意と依存が、区別のつかないまま胸の奥で絡まり続けている。ネズミたちは黙ってそれを聞き、赤い目を瞬かせながら、彼女の足元で肯定の輪を作り続けていた。
裏路地を出る時、彼女は一人だった。さきほどまで道を埋め尽くしていたはずのネズミの群れは、排水溝にも壁の隙間にも影を残さず、最初から存在しなかったかのように消えている。
街路灯の下、乾いた舗道に響くのは、彼女自身のものだと分かる確かな足音だけだった。パタパタと軽やかで、どこへ向かうにも迷いのないリズム。その歩調に合わせてスカートが揺れ、布の奥、外からは決して見えない暗がりの中で───── 一度だけ、確かに、ネズミの「ちゅう」という小さな鳴き声がした。少女は振り返らない。ただそのまま歩き続ける。彼女が連れていくのは、もう姿を持たないものだけだった。
