にゃん、という気持ちだ。
言葉としては無意味だが、今の心境を言葉にするならこれ以外に思いつかない。さっきまでの熱がまだ身体の中に残っている。
マッチングアプリで引っ掛けた男は、プロフィールに二十五歳と書いていたがたぶん違う。もっと若い。というか、二十五の時点で俺より十も下だし、それ以下となると、さすがに犯罪臭がしてくる。まあ、黙っておくか。
一試合終わったあとのベッドで、タバコを吸おうとカバンに手を突っ込む。が、指先は虚しく空を掴んだ。最近、電子タバコに変えようかと血迷っていたせいで、ライターを持ってきていない。
カバンに手を突っ込んだまま、情けなく倒れていると、さっきまで俺を抱いていた男が、今度は水を持って戻ってきた。
テーブルにコップを置く、硬い音がした。その直後、サリ、と頭を撫でられる。
まだ少し余韻が残っていたせいで、喉の奥から妙な声が漏れたが、「可愛い」と甘やかすみたいな声音で肯定されたので、まあ良しとする。
休憩じゃなくて宿泊にしとけば良かったか。
いや、仕事あるしな……。
でも、あと一回くらい出来ないか?
そんなふうに、どうでもいい欲望を頭の中でぐるぐる転がしていると、「ライター忘れちゃった?」と声をかけられた。
カバンに突っ込んだままの手が、惨めったらしく潰れたタバコの箱を握っていたからだろう。
「うん」
短く答えると、「一本ちょうだい」と言われる。
うん、いいよ。持ってけ。
ごろりと身体を転がして、顔を見る。
胸の前で、ぼんやりと光るあかり。その淡い光にタバコを近づけると、ちゃんと火がついた。一度、深く吸ってから吐き、俺のほうへ差し出してくる。
ああ、そのあかりって、ちゃんと熱源として意味があるんだ。
有難く受け取って、一服しながら「ありがと」と言葉にする。
人の振り見て我が振り直せ、ってやつだ。職場で散々ひどい扱いを受け続けた結果、人に対して感謝を忘れない人間にはなれた気がする。
同時に、ストレス発散のために、行きずりの人間とセックスしまくる人間にもなった。
選択肢は二つしかない。
致命的な性病にかかって死ぬか、ブラック企業の搾取で、意図せず死ぬか。どちらにせよ長くは持たない。
地獄or地獄の未来に思いを馳せながら、目の前の男の観察をしていた。未来がありそうで羨ましい。ハンドルネームの“あかり”って、個性由来なのかな。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、あかりはさっさと服を着こみはじめた。どうやら二回戦目はなさそうだ。残念。
次の約束、したいな……と思いかけて、ふと思い出す。
そういえばこいつ、二回目NGの人だった。遊び目的だから情が移らないように、ってやつだろう。ちゃんとしてやがる。
タバコの灰を落としながら、「にゃん……」と呟く。意味はない。
「どうした、猫ちゃん」
ふざけた調子で顎の下を撫でられたので、遠慮せず擦り寄っておく。
飼われたい。来世はこういうやつのペットの猫になる。ペルシャ猫とか、そういう手入れが行き届いたやつ。
でも俺は可愛い猫ちゃんじゃない。
まあ、抱かれたという意味では猫かもしれないが、実態はごく普通の、地味めなオッサンだ。だから出来ることといえば、「仕事いきたくない……」と、細い悲鳴をあげるくらいだった。
仕事がブラックすぎて、もうだめだ。ストレスで死にそう。
今日だって、ストレス発散のためにセックスしたのに、明日になればまた同じだけのストレスを溜めさせられる。今日はお前で当たりだったけど、たまに普通にNGプレイしようとするやつもいるし。
そんな愚痴を、取り留めもなく垂れ流していたら、「マチアプガチャ外れた時、どうしてたの」と聞かれた。
それで、個性のことを教えた。
この、やたら手間がかかるわりに、びっくりするほど使い勝手の悪い個性。事前にテンプレをいくつか作っておいて、いざという時はそれを引っ張り出す。即興が理想らしいけど、そんな余裕がある状況なんて、だいたい危険じゃない。
「制約が多い方が強いって、定番じゃない? それ使って上司たち、ぶっ潰せるんじゃない?」
あまりにも軽く、ケロッとした顔で、冗談みたいに笑って言われた。だからこそ胸の奥に引っかかる。
いやいや、そんな。
個性を公で使うのは、敵のやることだろうが。
揺れかけた理性の中から、ギリギリ残っていた正論を引きずり出す。自分でも驚くくらい必死だった。
「それに、個性で人をどうこうするのは……」
「労働基準法違反って、大犯罪してる相手だろ」
被せるように、あかりが言った。彼の胸の炎が、ちらちらと輝く。全てを肯定してくれるみたいな、勇気づけてくれるみたいなあたたかな光だ。
「これって正当防衛だよ」
あまりにも迷いがなくて、反論の余地がなかった。
俺が今まで必死に守ってきた「やっちゃいけない線」を、まるで最初から存在しなかったみたいに、指で弾かれた気がした。あかりはイタズラを仕掛けた子供みたいに笑っている。やっぱりこいつ、結構若いよなあ。
あかりとは、その日以降会えなかった。
連絡を取ろうと思ったが、アプリは退会済みになっていた。違うマチアプに移動したのかもしれないし、もう使うのをやめたのかもしれない。どちらにせよ、俺の生活圏からは静かに消えた。
代わりに残ったのは、あの夜に言われた言葉だった。
制約が多い方が強い。正当防衛だろ。
個性《三段噺》は、準備に向かない能力だ。
即興で三つのお題を結び、現実が納得する筋道を作らなければならない。奇跡は起こせない。過去も変えられない。ただ、「起こり得る可能性」を、少しだけ強調することしかできない。
「長時間労働」──いつものことだ。
「社内不倫」──噂は聞いていた。
「偶然の録音」──それだけが、賭けだった。
どれも珍しくない。どれも、すでに兆候があった。
物語はこうだ。
過労で判断力の落ちた管理職が、社内で関係を持っていた相手とのやり取りを、誤ってオンライン会議の録音に残す。録音は保存され、別部署のチェック工程で発見され、労基調査の流れの中で表に出る。そこから、未払い残業、隠蔽体質、ハラスメントが芋づる式に発覚する。
ただ、隠れていたものが、順番通りに表に出るだけだ。
三段噺は、現実に「それはあり得る」と思わせた瞬間に成立する。だから俺は、物語を作っただけだった。
結果は、想像よりも静かだった。
噂が立ち、調査が入り、上層部が次々と姿を消した。社内の空気は急速に冷え、責任の所在を押し付け合う声だけが残った。俺は、その中で淡々と退職の手続きを進め、退職金を受け取った。
俺はただ、「予定されていた結末」を少し早送りしただけだ。こんなもんで良かったのか? という呆気なさと、思ったよりザマアとは思わないもんだなという冷静な思考だけがある。
しばらくして、一緒に辞めた元同僚から、“あかり”を受け取った。辞めた時に比べて顔色がよく、明らかに元気になった同僚は「これのおかげで毎日ぐっすり眠れるんだ」と胡散臭いことをいう。手放そうと思えば出来たが、なぜか出来なかった。安いラブホのベッドの中で、見上げていたひかりに似ていたからだ。
なんとなく、勧められるままに《あかり教》というものに入った。宗教のわりに、驚くほど何も求められなかった。祈りも義務もなく、善良であればそれでいい、という曖昧さだけがあった。その距離感が、ひどく居心地が良かった。
次の仕事を探して見つけたのは、新進気鋭のアプリ開発会社だった。
面接の日、面接官として現れたのが、あかりだった。
驚きすぎて、椅子から転げ落ちた俺を引っ張り起こしながら、「あれ?」と首を傾げる。その顔が、やっぱりガキっぽくて─────ああ、やっぱりこいつ、絶対二十五じゃないな、ということだけは確信できた。
そのくせ、随分と偉い立場らしい。立ち振る舞いも、質問の仕方も、完全に“面接官”だった。
これはもう不採用だな、と思った。
だが、結果は採用だった。
仕事は忙しい。けれど、毎日が楽しい。同僚との関係も悪くない。
あかりも忙しいのだろう。たまにしか会えないが、仕事以外では友人として付き合っている。深入りもしないし、距離を取りすぎることもない。
今のところ、それでちょうどいい。いや、うそ、ワンチャンまた、にゃんって出来たらラッキーくらいは、思ってる。少なくとも、もう逃げるために抱かれる必要はない。俺の意思で、有りだなって思ってる。それだけ。
