それでもやっぱり時間は勝手に進むし、この出来事も、弔くん自身も、誰もわざわざ口にしなくなって、世間のニュースとしても話題に出されなくなった頃には、ふとした拍子に思い出すくらいで少しずつ薄れていった。
人間の優れた機能、忘却。
救いにもなるし、見て見ぬふりの言い訳にもなる。いろいろ考えたがこの件に関して、俺にできることってほとんどない。
弔くんは哀れみを侮りとして受け取る子なので、プロのカウンセラーでもない俺が余計な手を出したら悪化しかしない。
ここは彼の養父を信じよう。うちの実父とは違って自分ができないことは外部からの助けを的確に求められるひとだ。弔くんが特別難しいってだけで、オールマイトは養父としては精一杯やってるし全力で向き合ってると思う。ちょっと優しすぎるところが弔くんの性質と反りが合わないけど、いずれ弔くんの成長と共にいい感じに……いい感じに、なってくれないかなあ……。
いまだに思い出したようなタイミングで殺そうとしてくる養子のことを見捨ててないから、信頼出来る。さすが“正義の擬人化”って思う。ほんとに。
弔くんは相変わらず週の半分くらいは泊まりに来て、今日も隣の部屋で寝ている。
俺は寝てるんだか起きてるんだか分からないまどろみの底でうとうとしていた。小さく襖が開けられた音がして、意識が“起きる”の方へ傾いていく。
燈矢か焦凍だろう。たまに夏雄も来る。怖い番組を見た時にだけ冬美も来るから、お兄ちゃんは心配です。あまりにも弟妹が可愛すぎるが、年齢がみんな……そろそろ兄離れしてもいいくらいなもので……。でもまあ、こっちとしても“来ないで”と言う理由がないので、そのままずるずると甘やかしの共犯を続けている。
案の定、布団が少しめくれて、誰かが器用に潜り込んできた。
俺は目を閉じたまま、反射で頭を撫でる。まだ分かんないな、誰の頭だこれ。ちょっと猫っ毛っぽい。
悩んでると、布団の中の重みが腹の上に移動した。ぐえ、と情けない声が漏れた瞬間、くすくす笑う気配が顔の上から降ってきて、これがだれかすぐ分かった。重みの移動が遠慮ゼロだし、笑い方に悪意が滲んでる。燈矢の笑い方とも似ているが、あいつの笑いは甘えが煮えたような重さだ。悪意の重さとは違う。
「あのさあ」
弔くんだ、と理解した瞬間に、どろりとした悪意が言葉になる。
「俺はそんなに“可哀想”か?」
有無を言わせぬ雰囲気に、言葉が出ない。目を開けても部屋は暗すぎて何も見えないのに、距離だけはやけに近いところから笑い声が聞こえる。
腹の上で馬乗りになって、俺の顔を覗き込んでいるんだろう、という確信だけが先に来る。
「だよなぁ」
俺の返事を待たずに、結論だけを落とす声。
「俺は“暴力を振るわれた”んだろ? それってとっても“傷つく”やつだ」
いつか聞いた時よりも言い回しが滑らかで、音と意味がちゃんと結びついている。覚えて、理解してしまったのだろう。
「“可哀想”なら、“慰めて”もらえんだろ?」
「慰めって、そんな恐喝みたいにぶんどっていくものではなくてですね……」
なんとか反論を絞り出して、とりあえず退かそう、という判断だけが先に立つ。
俺は弔くんの腰のあたりに手を当てた。そこで、違和感が走る。通常なら指先に引っかかるはずの布の抵抗がない。厚みも、縫い目も、予想していた感触が一切ない。
あれ? と思って、見えないまま手を少しだけずらす。やっぱり、布じゃない。触れているのは、ひどく近い体温と、妙に直接的な感触だけだった。夜の冷えと人肌の温度差がはっきり分かるくらいに。
「……」
言葉が喉で止まる。見えないのに、どういう状態なのかを頭の中でリアルに想像できてしまった。暗闇の中で、弔くんの笑いがまた小さく鳴った。
「なんだよ、お前もノリ気か」
年齢に見合わない、妙に湿度を帯びた声が耳元に落ちてきて、距離が近すぎる、と理解するより先に、唇の横をかすめるような生温い気配が触れた。ずれた、と拗ねたみたいな声が聞こえた、その瞬間だった。
「とうさーん!!」
闇夜を切り裂くみたいな甲高い悲鳴が、自分の喉から出る。
時間にして数秒も経っていないはずなのに、次の瞬間には実父が物凄い勢いで駆け込んできた。
勢い余って壁が軋む音がして、別の部屋から弟妹たちの「なに!?」「うるせー!」という悲鳴が重なる。
部屋の暗さは、父さんのヘルフレイムの前では冬の影みたいにあっけなく溶けて、視界が一気に現実へ引き戻された。いや、熱いから普通に電気を付けてくれ。
俺の悲鳴に取るものも取らず飛び込んできた父さんは、布団の上で押さえ込まれている俺と、ほぼ脱ぎかけの半裸状態で「邪魔すんなよ」と露骨に苛立っている弔くんを見比べて、数秒フリーズしたあと、真顔で言った。
「……合意か!?」
「合意で父さん呼ぶ意図はなに!? 3Pのお誘いだとでも思いましたか!!?? たすけてください俺にもわけがわからない……」
咄嗟すぎて普通にキレかけたが、言い切る前に声が裏返って、情けないSOSに変わる。
そこへ一緒に駆けつけたオールマイトが現場を見て完全に固まり、次の瞬間あわあわし始めた。頼むから慌てないでくれ、今はとにかく、この状況から俺を助けてほしい。
「どうしたの?」という眠そうな冬美の声が聞こえてから、父さんたちの行動は早かった。
寝ぼけまなこの弟妹たちが集まってくる前に、No.1とNo.2ヒーローが二人がかりで手際よく動く。状況説明も説教も後回し、とにかく今は“収束”が最優先だという判断が一致したのだろう。
弔くんにさっと服を着せ、乱れた布団を整え、空気を片付けて、「なんでもないですよ」という顔を完璧に作って、やってきた弟妹をそれぞれを部屋へ戻していく。
「あんたが起こしたんだろ!」という夏雄の正当すぎる文句は、「ごめんな、俺が寝ぼけて騒いだせいで」と俺が割って入ることで、どうにか矛先を変えてもらえた。「ぐぬぬ」と声に出して悔しがるのが可愛いね……。俺のことは責めづらいのだろう、父さんだけをじっと睨みつけてから自室へ引き上げていった。
いちばん面倒になりそうな燈矢も、父さんの言うことだけは素直に聞くので、「わかった、寝る」と短く返して部屋に戻る。遅れてやってきた母さんにすらもこの惨状を悟らせないように誤魔化し、全員分の足音が廊下の奥へ消えたのを確認して、ようやく本題だ。
俺の布団の上で、不満げに頬を膨らませている弔くんを前にして、事情聴取が始まった。
Q.何故このような行動に至ったのか。
A.やられてきたことが、本当はひどいことで、本来ならそういうのは“すきなひと”とやるものだって教わったから。
あまりにもまっすぐで、あまりにもズレている答えだった。
弔くんはあっけらかんと俺を指さして、「こいつがいちばん“すき”のやつだから、陽火とやればいいんだろ」と言う。計算も悪意もない。ただ、学んだ情報をそのまま当てはめただけの顔。
それを聞いた瞬間、俺はオールマイトに向き直って、素で怒鳴っていた。
「ふんわりした言葉で濁すから、こういう解釈になるんですよ!」ふわふわ言葉は、都合よく受け取られるって分かってたでしょうが! せめて説明に『両者合意のもと』くらい入れないとダメだろ!
俺たちの反応が、自分の想定していたものと違ったのだろう。弔くんは身体は動かさず、視線だけをゆっくり動かして俺たちを順番に眺め、小さく「……陽火は、俺のこと“すき”じゃなかったのかよ」と呟いた。
「好きですが!?」
考える前に腹から声が出た。被せる、というより突撃だった。直後、隣の部屋から壁ドンと一緒に「陽火にいほんとにうるさい!」と夏雄の怒声が飛んでくる。ごめん、ほんとにごめん。でもこの返答は、速さと勢いがないと一生効かなくなるやつだから……!
「わかった、弔くん。説明しよう」
俺は一度だけ深呼吸して、言葉を組み立てる。
「弔くんがされてきたことは“暴力”で、弔くんは“傷ついた”。だから“慰め”を求めるのは正解。ただし、その“慰め”はこの形じゃない」
「“すきなひととやる”って、あいつが言った!」
「それはオールマイトが悪い」
「そうだ! こいつが悪い! 嫌い!」
「も、申し訳ない……!」
「養父を名乗るならちゃんと向き合え! ふわっとさせんな!」
「こいつ、いつも俺にわかんないこと言う! 舐めやがって!」
「子供だからって説明責任を放棄するのは如何なものかと思いますよ!」
「セツメーセキニンはたせ!」
俺と弔くん、二人がかりで畳みかけると、八木さんはみるみる小さくなっていく。父さんは自分が巻き込まれないように極力気配を殺しつつ、静かに状況を見ていた。
今ここで一言でも口を挟んだら、人格批判から入る暴言をお見舞いしてやるからな……という無言の圧だけ飛ばしておく。
本人を目の前にして散々悪口を言い続けていたら、だんだん楽しくなってきたのか、弔くんの表情が目に見えて明るくなる。攻撃で元気になるタイプの子なので仕方ない。機嫌が上向いたのを確認してから、俺は改めて声をかけた。
「弔くん」
「なに」
「弔くんがされていたのはおかしいことだった。でも、ああいうのは“すきなひととやる”って説明は、配慮の塊すぎるふわふわ言葉で、わかりにくかったね」
「あいつ、説明が下手すぎ」
「うう……」
真っ直ぐ指を突きつけられて、八木さんはこの数分で一気にげっそり痩せたみたいに見える。
「“すきなひととやる”っていうのはね、『お互いに理解して、自由に選んで、力が対等で、結果の責任を引き受けると合意した相手とだけ、行為が成立する』って意味。だから、今日のはおかしかった」
「…………ふわふわ過ぎる!」
「ほんとそれ。反省してほしい」
「はい……」
思い出したように八木さん批判を入れながら、弔くんの頭を撫でる。ちょっと前は振り払われていたが、いまでは胡乱な目をしつつも抵抗なく受け入れてくれるのだから、本当に俺は弔くんの中で“すき”の場所に置いてもらえてるんだなと嬉しくなった。
「……今はまだこのルール、ちゃんと分かってないだろ? でもそれって弔くんくらいの年齢なら普通に分かんないことだから。
自然と理解できるくらい大人になってから、“すきなひと”と、ちゃんと交際してからやろうな」
そう言ったら、弔くんは少し考える顔をしてから、とりあえず納得したみたいに頷いた。
……なんで俺が情緒的性教育みたいなことしてるんだ? とも思うが、周囲を見渡すとこの役を担える大人がいない。
独身貴族だったNo.1ヒーローと、家庭環境破壊をフルコンプしてきたNo.2ヒーロー。消去法で残るのが俺なの、どう考えてもおかしいだろ。前世込みで一応“大人だった記憶がある”というだけで、この役目を押し付けられている気がする。
あまり俺に甘えんなよ、実父と養父。俺のような優れた息子は稀有な存在なんだからな!
そうして一件落着、無事に終わった……はずだった。
翌日。
「おい燈矢」
「うわ話しかけてきた」
朝っぱらから妙に機嫌のいい声の弔くんが、普段なら絶対に話しかけない燈矢にこえをかけている。嫌な予感がした瞬間、弔くんが堂々と宣言した。
「大人になったら、陽火が俺と“コーサイ”してくれるって言った」
言ってない。言ってないし、ニュアンスが全部ズレてる。俺の昨日の奮闘は何だったのか。俺の一晩の苦労が数秒で踏み潰されておしまいになりました。くそ!! 隙を見せた俺が悪いのか!?
「さっさと兄離れしてどっか行けよ。こいつはもう俺のものにしたから」
「死ね!!! お前んじゃねえだろ、俺の陽火くんだろうがあ!!!」
最悪なモテ期が来てしまったな……と、俺が箸を持ったまま遠い目をした瞬間、食卓はひっくり返り、皿が悲鳴を上げ、居間は怪獣大戦争になった。
嫌な予感がした時点で自分の食事だけは反射で保護していた冬美、夏雄、焦凍、俺は、妙に手慣れた動きで戦場から静かに撤退する。ここで無駄に巻き込まれると普通に怪我をする。弔くんが来るようになってから、このタイプの争いは何回もあったので慣れました。今日が一番やばいけど。
廊下に出た途端、冬美が小さく息をついて、俺の顔を見上げた。「陽火くんは優しいけど、優しすぎるから大変だね……」やさしい声が、逆に心に刺さる。夏雄も肩をすくめる。「付き合う相手は選んだ方がいいとおもう」焦凍は眠そうな目で、的確に要点だけ落とす。「よくわかんねえけど、陽火にいの趣味はあんまりってのはわかった」俺はもう、素直に頷くしかない。
「仰る通りでございます……」
背後の居間では、荒れ狂う未成年達をプロヒーロー二人がかりで押さえつけている。地獄絵図。地獄絵図。
わかっていたはずなのに、なぜか忘れていたな……。説明しても通じない相手というのはいるし、説明を聞いた上で自分の都合のいい単語だけ拾って突撃してくるタイプがいるってこと……。
居間の方から「離せ!」「死ね!」「俺のものをどう使おうが関係ないだろ!」「だからそれはテメエのもんじゃなくて俺のなんだよ!」という声が飛んできて、父さんの「落ち着け!」というどこにも届かない静止と、オールマイトの慌て声が混じる。今ナチュラルに俺の人権剥奪されてませんでした?
冬美は俺の皿を見て「冷めちゃうよ」と言い、夏雄は「こっちで食べとこ」と言い、焦凍は黙って箸を進めた。母さんが花屋のパートに早番で出勤していて良かったな。こんな修羅場に巻き込まれたら可哀想だ。
────そして翌日、冷蔵庫に新しい紙が貼られていた。達筆で、短く、圧が強い。『陽火は物ではない。所有権を主張しないように』父さんの字だった。オールマイトの追記で小さく『※交際の意味は各自辞書で確認してから使用すること』と書いてある。俺の所有権は俺にだけあるので……弔くんが大人になる前までには俺の人権というものを理解してもらえるかな……無理かな……無理かも。
