夜の道は、昼より音が少ない。車も少ないし、人の声もしない。だから足音がよく聞こえる。自分のぶんと、音のぶん。円は、その音がちゃんと二つあるのを、歩きながら何度も確かめていた。
円はもう、ランドセルを背負っていない。赤くて、少しだけ角がすれていて、音とおそろいのランドセル。一年遅れて、「おねえちゃんといっしょ!」と音が笑ったランドセルは、家に置き去りにしてきてしまった。
「……音、つかれてない?」
今の自分の声が、少しだけ低いことを、円は知っている。大人の声。安心する声。だからこの声を使う。音がこわがらないように。音は、少し遅れてうなずいた。
「だいじょうぶ……たぶん」
たぶん、という言葉がつくところが、音ちゃんだな、と円は思う。低く掠れた声だけど、なんにも変わらない。ずっとおんなじ、音ちゃんの喋り方。
音の見た目は、手が大きくて、知らないお兄さんみたいだ。七歳になったある日、突然、音の個性が壊れてしまった。
黄色いスカートがお気に入りだったのに、小さくて似合わなくて履けないと泣いていた、可哀想な音ちゃん。
でも、歩き方は同じだ。靴を引きずらないように、ちゃんと前を見て歩く。小さいころから変わらない。
音の個性は、きっと本当は円と同じものだったのだろう。知らない大人に、性別も自在に、変身できる。
でも音ちゃんの個性は壊れてしまったから、大人の人たちは「むずかしい」「しかたない」「様子を見よう」って言った。
でも、様子を見ているあいだに、音は一人で、暗い部屋に閉じ込められた。円はそれが、ずっと、すごくいやだった。
円は『あかり』のことを思い出す。
キラキラして、あったかいもの。最初にもらったときは、よく分からなかった。ただ、息がしやすくなった。音に分けたとき、はっきり分かった。これは、「だいじょうぶだよ」って言ってくれる感じだ。声じゃないけど、ちゃんと伝わる。かみさまが、私たちを守ってくれている。
「音」
円は立ち止まって、音のほうを見る。
「なあに?」
「手、つなご」
そう言って、円は手を出す。音の手は大きい。ごつごつしている。でも、こわくない。音は一瞬だけ迷って、それから手を重ねた。
「……おねえちゃん」
「うん」
「わたし、あしたもこのまま?」
何度も繰り返された質問に、何度も同じ答えを返す。そんな事ないよ、なんて言えない。
「うん。でもね」
円は、ちゃんと考えてから言う。考えないで言うと、嘘になる気がしたから。
「ちがっても、音は音だよ。おねえちゃん、まちがえない」
「……ほんと?」
「ほんと。だって、音の声、分かるもん。言い方も、考え方も、ぜんぶ」
音は、少しだけ安心した顔をする。でも、すぐにまた、こわそうな顔になる。
「……このさき、こわい」
それは、とても正しい感想だった。円もこわい。これからどうなるか分からない。学校も、家も、もう戻らないかもしれない。でも、円は知っている。
「でもね。やさしいひとたちが、味方だよ。ここにいれば大丈夫だよ」
今、二人がいるところは団地だ。古くて、色んな人がいる。怒鳴り声がしない。助けてと言ったら、助けてくれた。音のことを可笑しいなんて言わない。変だなんて、一回も言わないでくれた。個性事故だねって、勉強を教えてくれる“おばけくん先生”は言ってくれた。事故なんだって。事故ってことは、音はやっぱり、悪くない。ちいちゃい子には、たまにあることなんだって。運が悪かったって。可笑しくないの、ちょっとだけズレちゃっただけ。
ふたりの住む部屋は本当は、小学三年生と小学二年生の子供が借りられるものではない。お金だってないし、身分保証? のカードもない。
それでも、この団地の人たちは、円と音を受け入れてくれた。
働き方を教えてくれた。ふたりで生きていくための方法を教えてくれた。個性を使って大人のふりをしている自分たちを、普通の大人より出来ないことも分からないことも多い自分たちを、可笑しなものではなく、「そういう人」として扱ってくれた。
夜、布団に入ると、音は男の人の身体のまま、ちいさく丸くなる。体は大きいのに、寝方はずっとおんなじ。
円も大人の身体のままで、すっかり変わってしまった大切な妹の身体を、静かに撫でる。
「あかりさまに会えたら、たくさんありがとうって言おうね」
そう言って、円は部屋のランプの中をのぞき込む。ガラスの内側に、小さなひかりがある。この団地の部屋には、どこにも“あかり”がある。だからきっと、みんな優しいのだろう。怒鳴る声がなくて、助けてと言えば手が伸びる。あかりさまのご加護が、ここにはちゃんと行き渡っている。
テレビでは、あかりさまは悪いヴィランだと、みんなが言っている。危ないとか、あやしいとか、だめだとか。円は、その言葉を聞くたびに、少しだけ首をかしげる。
もし本当に、あかりさまが悪い存在だったとしても、それでもあかりさまは、円と音にとってはかみさまだ。
だって、こんなに優しい世界を作ってくれた。こんなにあたたかいひかりを、分けてくれた。それを悪いことだ、いけないことだと言うのなら、じゃあ円は、自分もヴィランでいい。音も、きっと同じだろう。
どんなに「あれはだめ」「これはキケン」って言われたって、円には、それより先に出てくる言葉がある。
───────じゃあ、どうして、あなたたちは助けてくれなかったの。
檻のついた小さな部屋で、泣きじゃくっていた音が、笑い方を思い出せたのは、“あかり”のおかげだ。
円が、音を助けるために、学校も家も、未来も、全部置いていく勇気を持てたのも、“あかり”のおかげだ。
だから、もし私たちのかみさまが、この世界から嫌われているのだとしたら。
だったら、なおさら。
私たちだけは、かみさまを、うらぎっちゃいけない。
今度は、私たちの番だ。
今度は、私たちが、あかりさまを助ける番。
「こんど、あかりさまに会いたいって、手紙を書こうよ」
音がそう言って、少しだけ声を弾ませる。
「団地に住んでます。あかりさまに、お会いしたいです、って。山本さんにお手紙書いたら、きっとあかりさまに渡してくれるよ」
今日も、ポストには会報誌が届いていた。“編集部の山本さん”は、信頼できる人だ。円が書いたお便りにも、ちゃんと返事を書いてくれた。難しいことは言わないで、でも誤魔化さないで、子供の言葉を子供のまま受け取ってくれる。
「明日、かわいいレターセット、買いに行こうね」
そう言って、円と音は指切りをした。
小さな約束だった。
もし返事が来なくても、待とうね。
もし会えなくても、信じようね。
もし、あかりさまが困っていたら───────
そのときは、
呼ばれなくても、助けに行こうね。
会いに行くね。
