跡月纏人は、夜に歩くのがわりと好きだった。大好きってほどでもないし、別にロマンを感じてるわけでもない。ただ単純に、昼間より楽だからだ。人が少ないし、目も合わないし、大ヒーロー社会に蔓延る、なんかよく分からない正義感とか説教臭い空気が夜になると勝手に引っ込む。
ありがたい話だと思う。街は静かで、足音と自分の呼吸と、アスファルトの生ぬるさだけが残る。そのくらいがちょうどいい。
今夜のマーカーは三つ。上限の十にはまだまだ余裕がある。だからどうした、という話ではあるけれど、上書きされないというのは心の余裕が出来る。安心というよりは、単に「面倒が起きない」という感覚に近い。頭の片隅で常に数を数えているのも、もはや癖というより生活習慣だ。歯磨きみたいなものだと思っている。
別に悪いことをしている自覚がないわけじゃない。申し訳ないな、と思わなくもない。それも“報酬”が手に入り、気持ちよく酒を飲んだら覚えていられない程度のものだった。
使えるものを使って、楽に金になる方向へ流れているだけ。夜の街を歩きながら、そんな風に自分を納得させて、跡月纏人は今日もふらふらと足を進める。重い覚悟も、立派な理由もない。そうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだろう。案外、跡月にとってはこの世界は“生きやすい”ものだ。
マーカーの一つ目は昼間、カフェのカウンターで付いた。店員が無造作に受け取った紙ナプキン。まあ、唾がべったり付いた箸よりはマシだろう、と思う。
二つ目はコンビニのドアノブ。これは完全にミス。くしゃみの拍子に飛んだ唾が、どうでもいい他人に命中したらしい。頭の中に、知らない誰かの行動半径が勝手に浮かび上がってきて思わず舌打ちした。こういう無駄が一番腹立たしい。だからマスクは外せない。呼吸が浅くなろうが、ラーメンを諦める羽目になろうが、これはもう癖だ。健康より効率優先。
三つ目だけが、今夜の本命。
VTuberの“中の人”。最近はこれが一番ウケがいい。絵の皮の下に本当に人間の肉が詰まってるのか、みんなやたら気にしたがる。
行きつけの店、最寄り駅、帰る時間帯、部屋の階数。そういう細切れの情報が、驚くほど簡単に金になる。跡月はそれを「情報」と呼んでいる。罪とか責任とか、そういう重たい単語は使わない。考えると面倒だからだ。何かしら法に触れると言うなら、買った方が悪い。
位置は、あっさり分かる。
頭の奥に、細い糸を一本張られたみたいな感覚。引っ張られるでもなく、主張するでもない。ただ「そっち」と教えてくるだけ。今は歩いている。少し早足。角を曲がって、立ち止まって、また動く。振り返る気配はない。
跡月は距離を取る。尾行はしない。する意味がないからだ。見られるリスクを背負うほど、彼は仕事に情熱的じゃない。知っていればいい。後で辿るだけで、欲しいものは勝手に手に入る。
全くもって気楽な仕事だ、以前はもう少し“まとも”に探偵ごっこで稼いでいたが、あれよりもこっちの方が稼げる。同じ下衆の勘繰りならこっちの方が簡単で良い。
昔のことを、たまに思い出す。
会社員だった頃とか、恋人がいた頃とか、週末に予定があって来月の話をしていた頃とか。
まとめて思い出すと、わりと普通で、わりと面倒な生活だった気もする。別に不幸じゃなかった。むしろ恵まれてた方だろう。でもある日、続ける理由だけが急に見当たらなくなった。失ったというより、どこかに置き忘れて、そのまま探す気にもならなかった感じだ。必死になって取り戻すほど大事なものでもなかった。
跡月纏人は善人じゃない。
かといって、ヴィランだと名乗れるほどの覚悟もない。誰かを殴ったこともないし、殺したいと思ったこともない。
今やっていることが誰かを危険に晒している自覚は、なくはない。ただ、それを深刻に受け止めるほど誠実でもなかった。
何か起きたら、そのとき考えればいい。怒られたらやめる。捕まりそうなら逃げる。それだけの話だ。人生はそこまで重く考えなくてもいいものだろう。この調子で、問題なく生きられているんだから。
スマホが震える。
購入希望のメッセージ。内容を確認して、値段を打ち、条件を書く。直接会わない。ログは残さない。余計なことは喋らない。
向こうが勝手に一線を越えたなら、それは向こうの責任だ。そういう最低限の線引きだけは、跡月なりにきっちり守っている。安全第一だ。
ふと、マーカーが一つ消えた。
距離が切れた感覚。たぶんシャワーだ。体液が洗い流されて、頭の奥に張っていた糸がすっとほどける。跡月は小さく舌打ちする。三十分も遡れなかった。今日はツキがないらしい。まあいい。また付ければいい。
跡月は、自分の勘をそこそこ信用している。
占いとか直感とか、そういうロマン寄りの話じゃない。もっと生活に密着した、身も蓋もないやつだ。金になりそうか、面倒を連れてきそうか、関わったあとで後味が悪くなりそうか。そのへんを嗅ぎ分ける感覚だけは、やたらと外れない。
会社員だった頃より、今のほうがよっぽど冴えている気がする。真面目に働いていた頃は、こういう勘は全部「考えすぎ」で片付けられていたのに、今はそのまま使える。便利な話だ。
その男を見つけたのは、完全に偶然だった。
夜の繁華街の外れ。ネオンが途切れて、酔っ払いも減ってくるあたり。最初は異形型個性者かと思った。けど、すぐ違うと分かる。角もない、鱗もない、目立つ体型という訳でもない。
ただ全身に、不自然な火傷の跡が残っている。皮膚は引き攣れて、色もまだらで、雑に貼り直したみたいだ。遠目でも分かるくらい、焦げた匂いが微かに漂ってくる。
─────ああ、はいはい。
こういうのはだいたい碌でもない。何かをやらかすか、既にやらかしている。
すれ違いざま、跡月はわざとマスクを外した。
咳き込む。喉の奥を鳴らす、少しわざとらしい咳。唾が空気に散る感覚を、彼はもう正確に把握している。
ほんの一瞬、視線が交わった。男の目は妙に静かだった。驚きも警戒も、怒りもない。ただ、こちらを“見た”という事実だけを残して、足を速める。
マーカーが、ついている。
咳で飛んだ唾が、男のコートのどこかに触れたのだろう。頭の奥に、あの“位置”の感覚が生まれる。細い糸みたいな、切れそうで切れない存在感。
追うつもりはなかった。
正確には、“追いかけ続けるつもりはなかった”。最初から捕まえる気も、話しかける気もない。
ただ、離れた場所から様子を見るだけだ。距離は十分に取る。角を曲がるタイミングも、信号も、全部偶然の顔をさせる。尾行はしない。マーカーがある以上、視線を向ける必要すらない。
跡月の勘は、はっきりと“大きな金”の匂いを拾っていた。こういう男は、だいたい金になる。本人が金を持っているとは限らない。でも、金になる“情報”を抱えている可能性が高い。
表に出せない過去とか、消したい痕跡とか、誰にも知られたくない居場所とか。そういう類だ。
久しぶりだった。こういう、頭の奥がじわっと熱くなる感じ。理屈じゃなく、これは逃したら後悔するやつだ、と身体が先に判断している。少し浮かれていたのだと思う。だから、いつもならやらないことをした。距離を詰めた。
ツギハギの男がどこへ向かうのかも分からないまま、路地へ、さらに奥へ。治安の悪さを示すみたいに、足元のゴミが増えて、灯りが減っていく。
細身で強そうに見えないからだろう。異様な火傷も、路地裏の暗がりでは見えにくかったのかもしれない。どこからともなく集まってきた不穏な奴らに声をかけられて、囲まれるまでが早かった。
「なあ」
低い声が一つ。続いて、笑い声。
男は立ち止まった。振り返らない。逃げる素振りもない。何か言葉を交わしたように見えた。短いやり取りだ。内容までは聞こえない。跡月は一瞬、ああ、失敗したかもしれない、と思った。
次の瞬間、炎が走った。
蒼い。
赤でも橙でもない、温度の想像が追いつかない色。炎は空気を裂くみたいに広がり、人の輪郭をなぞって、一気に抱え込む。
悲鳴は上がらない。声を出す暇がない。熱が痛みに変わる前に、肉が焼け、骨が鳴り、上半身だけが瞬時に炭になる。
落ちた。
炭化した上半身が自重に耐えかねて砕け散り、残された下半身が遅れて地面に崩れる。
断面からは、焼ききれなかった断面の動脈が熱で膨張し、どろりと煮えたぎる脂混じりの血を噴き出した。
焼けていない腰から下が、意思を持たない生き物のように、地面を激しく叩いて暴れ回る。熱で縮みあがった筋繊維が、断裂した神経に何かを伝えているのだろう。膝をありえない方向へ折り曲げ、靴が脱げて落ちる。ズブズブと音を立てて肉が地面に擦れ、生白い脂肪が剥き出しになる。神経が命令を出しきるまでの、ほんの数秒間の無機質なダンスだった。
ツギハギの男は、おもむろにしゃがんだ。
焼け落ちた上半身のない身体、その下半身のポケットに手を突っ込む。迷いがない、手馴れた動きだった。財布が引き抜かれた音がやけに大きく聞こえる。男は中身を確認するでもなく、コートの内側に押し込む。
跡月はそこで、初めて気付いた。膨らんだ内ポケット。何度もやっている。これは罠だ。チョウチンアンコウとか、そういう。あいつは自分自身を疑似餌にして、狩りをしていたんだ。
─────やばい。
言葉になる前に、身体が先に引く。呼吸を殺し、音を立てないように後ずさる。靴底が路面に擦れないよう、重心を落とす。心臓がうるさい。鼓動が、この距離でも聞こえてしまいそうだ。
マーカーの糸が、まだ繋がっている。切れない。消えない。視線を向けなくても、男の位置が分かる。それが今はただの恐怖でしかない。
一歩。もう一歩。
逃げられる。そう思った瞬間だった。
「……ああ」
低い声。独り言みたいな、でも確実にこちらを向いた声。跡月の背中が、凍る。振り返る前に分かってしまう。見られている。気配じゃない。確信だ。
男が立ち上がる。火傷で引き攣れた顔が、こちらを向いている。目が合う。笑っている。口角が無理に引き上げられた、歪んだ笑みだ。驚きも疑問もない。「見つけた」という顔ですらない。ただ、確認しただけの表情。
蒼い炎が灯る。
さっき見た色。温度の想像が追いつかない、現実感のない光。逃げなきゃ、と思ったときには、もう遅い。足が動かない。肺が空気を吸い込む前に、世界が青く染まる。
熱い、の前に、視界が揺れる。
皮膚が縮む感覚。自分の呼吸音が、途中で途切れる。
最後に見えたのは、蒼い炎の向こうで、火傷だらけの顔がこちらを見ながら、確かに笑っている、その瞬間だった。
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地下と地下を繋ぐ隠しドアが、低い音を立てて開いた。焦げた匂いが、遅れて流れ込む。燈矢はそれを誤魔化すように背中で扉を閉め、肩の力を抜いてから声を作った。留守番をしていた弟の存在を意識した、わざと柔らかい調子だ。良い子でお留守番をしてくれた弟には、ご褒美をあげなきゃいけない。
「陽火くん、ただいま。お土産持ってきた」
コートの内側から、ずしりとした塊を取り出す。革が焼けた匂いのする財布が、いくつも重なっていた。
「おかえり~。お土産ありがと、今日も大量だぁ……」
「陽火くん、嬉しい? これ全部小遣いにしていいよ。好きなゲーム買いな」
燈矢は笑って言う。そこに罪悪感はなく、ただ弟を喜ばせたい気持ちだけがある。
「ありがたき……」
陽火のおどけた感謝の言葉に、燈矢の火傷で引き攣れた頬が自然と優しく緩んで笑みを描く。ふたりの兄弟のゆるやかな空気の中で、財布の焦げ臭さだけが、静かな地下に薄く残っていた。
