新拠点と呼んでいるこのビルは、正直に言えば「拠点」と言えるほど立派な代物じゃない。
外壁のコンクリートはところどころ剥がれて鉄筋が覗き、窓ガラスは割れているか、割れたままベニヤで塞がれているかのどちらか。夜になると風が隙間を縫って入り込み、どこかで必ず、意味の分からない軋み音が鳴る。誰かが歩いているようにも聞こえるし、配管が悲鳴を上げているだけにも聞こえる。慣れないうちは、間違いなく「何かいる」と思う類の音だ。
建築基準法的に見れば、さっさと解体して更地にした方がいいレベルの老朽化物件だと思う。耐震も怪しいし、配線もたぶん終わっている。
それでもこのビルがまだ立っているのは、単純な理由だ。オーナーがいない。正確には、どこにいるのか分からない。連絡もつかない。手続きも進まない。結果として、誰のものか分からない建物が、誰にも触られないまま放置されている。
俺としては、ドクターの元で個性を回収されて脳無の素材の何かになってるんじゃないかと思っている。ドクターは人間という資材のリサイクル意識が高い。
今は協力関係にあるけど、さっさとヒーローに捕まって欲しいタイプのマッドドクターだ。脳無はこちら側の戦闘力なので、捕まっちゃったら困るんだけどな。でもあの人、自分の孫も素材にしてたし……愛情の無い狂人って本当に怖い。うちのオニイチャンを見習って欲しい。
ここは「幽霊ビル」だの「ヤクザの死体が埋まってる」だの、好き勝手な噂が立っているらしい。そのおかげと言ってはなんだがやって来るのは、肝試し目的の悪ガキか、行き場のないホームレスくらいだ。それも、通路側の廊下が崩れて上がれなくなってからは事故の危険があるとして誰も来なくなった。
通路が繋がっていた部分の“気楽に入れる”部分は、床は埃と瓦礫でざらつき、階段の踊り場には古い酒瓶や吸い殻が転がっている。
誰かが住んでいた形跡もあるし、途中で諦めて出ていった形跡もある。要するに、どこにでもあるタイプの廃墟。だからこそ都合がいい。誰も守らないし、誰も気にしない。
俺たちは俺たち用の、妙に小綺麗に後付けされたルートを通って上階にまわっている。“先生”が最後に残してくれた親心として、有難く使わせていただこう。
ここは「ヴィランが潜んでいそうな場所」としてはあまりにも分かりやすくて、一方で普通に物理的に危険だからこそ逆に見落とされやすい。俺たちは今、そのビルの中にいる。
結果だけを並べれば、世間的には「大勝利」なのだろう。
ヴィラン連合が隠れていたBARは壊滅。“先生”は捕縛。脳無の在庫は根こそぎ回収。ヒーロー社会が長年喉に刺さったままにしてきた棘を、ようやく引き抜いた、という形だ。
ニュースは正義の勝利を祝福し、解説者は安心したように頷き、誰もが「これで一段落だ」と言いたがる。ついでに雄英の不手際を叩いて好き勝手文句を言って、平和な日常の出来上がりだ。
─────でも、盤面をもう一段引いて見れば、別のものが見える。
ヴィラン連合の主要メンバーと呼ばれる面々は、全員生存。欠けた駒はない。逃げた者も、切り捨てられた者もいない。
ミスターは「俺、毎回ぶつけられるんだけど」と全治二週間の怪我を愚痴っていたが、一番大怪我のメンバーでもこの程度だ。そう言われると、ミスターって毎回マグネにぶっ飛ばされては誰かにぶち当たって打撲負ってるな……ちょっと運がないのかも。
“先生”は捕まったが、あの場であの瞬間殺されていない。握りしめている情報量が桁違いだから、あの場で殺してない限りもう殺せない。死刑確定だとしても、すぐには吊られないだろう。だからいずれ奪還も視野に入れて動ける。
ついでに、正直なところ吊った程度で死ぬ気もしない。心臓を抉り取っても、ワンチャン生きていそうじゃないか? オールマイトくらいしか“先生”を殺せるヴィジョンが湧かないが、そのオールマイトが燃え尽きてしまったので、現代社会ではもう“先生”を止めることは出来ない可能性がある。
そう考えると、あの一連の戦闘でヴィラン連合が失ったものは、実はほとんどない。
代わりに得たものは何か。ヒーロー側最大戦力……オールマイトという象徴を、やせ細った無力な姿に固定した。それだけだ。
それだけで十分すぎるほどの戦果。
英雄は倒れ、しかも死なずに、ただ「かつての姿には戻れない」という形で残った。これほど扱いやすい“勝ち”があるだろうか。
さらに言えば、ドクターの存在はまだ完全には辿られていない。脳無の在庫は確かに回収されたが、それは「今そこにあった分」にすぎない。補充は可能だ。時間さえあれば、いくらでも。
“先生”が大暴れしていたあの混乱の最中、すでに目星をつけていた人間をまとめて回収した、という話もある。素材は潤沢。質も量も申し分ない。
ヒーローたちは「終わった」と思っているだろうが、こちらから見れば、ただ盤面を整理しただけだ。
あと思ったより弔くんのメンタルの調子も悪くはない。
強制親離れは弔くんに良い影響を与えてくれたらしい。良かったね……絶対言えないけど、“先生”ってだいぶ毒親だからね……。自分が面倒見てる子供に搾精義務を課して、子供量産させて個性だけ引き抜いて素材にして殺すのって、本当に邪悪だからね……。
まあ、俺たちは今できることを精一杯やるしかない。
「はーい、回収できた個人資産です。各々、自分のあったら持ってってね」
そう言いながら、机の上にダンボール箱をドンと置く。軽い音のわりに中身はぎっしりで、雑に放り込まれた私物同士がぶつかって鈍い音を立てた。
スピナーが一番に覗き込み、「あ、Switch」と少しだけ声を弾ませて手に取る。トガちゃんも負けじと箱に腕を突っ込み、「私のたまごっち!」と拾い上げて満足そうに抱えた。
BARの上の階は、もともと複数人の名義を噛ませて借り上げていたオフィスだったが、現在はほぼ無人で運用していた。表向きは会社としての規模が大きくなったから、治安のいい場所に移転する─────という、誰も疑わない理由を用意して、移転作業中という体裁を取っていただけだ。
実際のところは、連合の面々が自由に出入りして仮眠できる場所を確保するための方便だったんだけど、ビルごと縦に真っ二つにされたせいで、話は少しややこしくなった。
もしかして、会社が移転作業中……一般人がいないという状態になったからこそ、ヒーローによるBAR襲撃が発生したのかもしれない。いや、爆豪くん拉致ってたから無理か? そもそも時間帯も終業後だから関係ないか……。物的被害による保険料がアップする程度だろう。
移転作業中でも当然契約は生きているので、会社には保険金が振り込まれた。倒壊の危険があるためビルには入れないが社員の私物を回収したいと申請したら、崩れた階の中から拾える限り拾ってくれたので、その点は正直ありがたい。
この大ヒーロー社会では、ヴィランとヒーローの争いで一般人の財産や家屋が巻き込まれるのは珍しくない。その分、補償制度だけは妙に整っていて、保険金の下りも早い。
この話を正直に全部したら、たぶん全額弔くんにカツアゲされるから言わないけど。気持ちとしては俺だって連合に回したい。
ただ、この金はたぶん公安あたりに動きを監視されているだろう。なんかそういう粘着質な事しがちだからアイツら。
BARに近すぎたせいで、もう十分警戒はされている。だからこそ、こういうところでは清廉潔白を演じないといけない。
俺の私物は、そもそもほとんどが連合に寄付という形で回っていたものばかりなので、無くなってしまったものについては諦めるしかない。業務用オーブンも、寝心地の良いソファも……まあ、仕方ない。仕方ないんだけど。
……あっっ。
「俺の中華鍋!」
三年育てた、俺の大切な中華鍋くん!!? あるはずがないと頭では分かっていながら、反射的にダンボールをひっくり返した。
自宅拠点で育てて持ち込んだ、俺の大切な二代目中華鍋くん……! 一代目は実兄の火力に負けて二年目で溶けちゃって、二人で反省して新たに作り直して三年……買ってすぐに洗剤で洗って、火にかけて、水分を飛ばして、煙が出るまで空焼きして、油を入れてはキッチンペーパーで薄く伸ばす。それを何度も繰り返して、少しずつ油膜を重ねて……良い感じに育ってきた中華鍋くん……。
ダンボールの中身が床に散らばる音だけが虚しく響く。当然だ。ここにあるのは、あくまで“オフィスの階層”に置いてあった物だけなのだから。
「中華鍋って、あのでけえの?」と、心底どうでもよさそうな弔くんの声が背後から聞こえる。俺は答えず、そのまま床に膝をついて絶望していた。大切に……本当に大切に育てていたのに……!!
「あれじゃないとチャーハンは、もう出来ない……!」
「は? 俺のぱらぱらチャーハンどうすんだよ」
「あともう三年待ってもらうしか……」
ミスターのルービックキューブはあるのに、なんで俺の中華鍋……! と嘆いていると、当のミスターが片手でくるくると色を揃えながらこちらを一瞥し、「可哀想に、これあげるから元気だしな」と軽い調子でポイと投げて寄越した。
ありがとう……。鍋はまた新たに育てるから、今度はヒーローに襲撃されないような拠点にしようね……。俺も置きっぱなしにしたのが悪かった。自宅に置いとけばよかった……。
中華鍋のことで頭がいっぱいになっていたけど、ふと冷静になって思い至る。
そうか、BARが壊滅ということは冷蔵庫の中に置いていたものも、全部今頃は回収されたか、処分されているんだろうな。
みんなの分のチーズケーキと、ラムネゼリー、作っておいたのに。そう口にした瞬間、「俺たちのおやつが!!」とトゥワイスが悲鳴みたいな声を上げた。空気が一気にざわつく。これには弔くんまで同調。露骨にめちゃくちゃ不機嫌な顔になる。
「先に言っとけよ!!」
「爆豪くんも食べるかなって……」
「食わねえ顔してただろ!」
いや、それは、うん。確かに食べない顔はしてた。でも、最初から「お前の分はない」って線引きするの、感じ悪いじゃないですか。
おもてなしの気持ちは確かだったんです。ちょっとジュネーブ諸条約に抵触しちゃって追放処置受けたけど……。爆豪くんの人権を軽視していただけで、悪気は欠片もなくて……。
一通り、食の恨みで好き勝手に怒鳴り合ったあと、弔くんはソファに背中を預けて、深く、長いため息をついた。怒りが抜けきったあとの、少しだけ疲れた顔。天井を見上げるでもなく、床を見るでもなく、どこにも焦点を合わせない視線のまま、ぽつりと呟く。
「まあ、しょうがねえか。一回ゼロに戻した方が分かりやすいだろ。……また始めりゃいい」
それは慰めというより、確認に近い言葉だった。失ったものを数えるためじゃなく、残っているものを再認識するための区切り。弔くんはゆっくりと身体を起こし、両手を一度、パンと鳴らす。軽い音のわりに、その場の空気がきっぱり切り替わる。
「『やりなおし』だ。今度は先生の手を借りないで、俺たちだけで頑張ろうぜ」
当たり前みたいな口調だった。無理をしている感じも、強がっている感じもない。むしろ、前よりも少しだけ楽しそうですらある。仲間を増やす。協力者が必要だ。拠点も、資材も、ルートも、また作る。次の作戦だって、もう頭の中では組み始めているはずだ。
オールマイトはもう役立たず。象徴は壊れた。戻らない形で壊れた。残っているのは、処理するだけの抜け殻だ。あとは殺すだけで済む、簡単なお仕事。そういう認識が、弔くんが歌うように語る言葉で誰の中にも当たり前のように共有されていく。
「楽しくなってきたな」
弔くんがそう言って笑う。子供みたいな無邪気さと、底の見えない暗さが混ざった笑い方。それを見て、俺たちもつられて笑う。
失ったものは多い。でも、致命的なものは何一つ失っていない。世間が勝手に俺たちを敗者にしてはしゃいでいるだけ。ここからいくらでもリカバリーできる。ゼロからでも、また積み上げればいい。それが出来る面子が、ここに揃っている。
全くもって、未来は希望に満ち溢れていた。
