通りから一歩外れた細い路地に、小さな店がひとつある。看板は色あせて読みづらく、昼でも薄暗い場所なのに、どういうわけか客足が途絶えない。吊り下げられたランタンのあかりだけが、店の入口をやわらかく照らしていた。
揚げ油の音が、今日も規則正しく弾けている。唐揚げは好きだ。特別な料理じゃない。技を誇るものでもない。ただ、誰かの腹を満たすためだけに存在しているところがいい。幼い頃の思い出に縋っているのかもしれない、“幸せな食卓”というイメージは、唐揚げが並びがちだ。
肉を切って、下味をつけて、待つ。時間が必要な料理は、焦らせない。人の心と同じで、急いでも美味くはならない。
閉店時間にはまだ少し早い。私は厨房で手を止めて時計を見た。仕込みは十分、油も落ち着いている。
今日は、もう新しい客は取らない。そう決めて、カウンターの向こうを見ると、バイトの子たちが片付けを始めていた。そのうちの一人が、わざとらしく肩をすくめて、にやにやしながら言う。
「今日、“お得意様”が来るんですか?」
言われた言葉に、胸の奥が一瞬で熱くなる。私は視線を逸らして、できるだけ平静を装った。
「そう。だから君たちは早上がりでいいから。もう閉めるよ」
声が少しだけ早口になる。すぐに別の子が乗っかってきた。
「えー。2人っきりになりたいんだあ~」
冗談の皮をかぶった確信。その言葉に反射して、私は声を荒らげる。
「違います。最初期のお客様だし、贔屓にしてもらってるんだから特別待遇は当たり前だろ」
言い切った瞬間、自分の顔が熱いのが分かる。言ってることだって結構めちゃくちゃだ。耳まで赤いのだろう。バイトの子たちは顔を見合わせて、はいはい、と楽しそうに笑いながら帰り支度を早めた。扉が閉まり、店に静けさが戻る。私は一人になって、ようやく息を吐いた。
恋じゃない。
何度も、何度も、心の中でそう言い聞かせてきた。恋なら、まだ健全だ。期待して、独占したがって、失うことを恐れる。よくある話で、救いもある。
でもこれは違う。私はあの人を欲していない。隣にいてほしいわけでも、触れてほしいわけでもない。ただ、見られていたい。誰の期待も、役割も通さず、私という存在を、そのまま受け取られていたい。それだけだ。
それを人は心酔と呼ぶのだろう。危険で、不健全で、戻れないやつだ。どっちがマシかと言われたら、恋心の方がずっと健全だ。それでも私は、そちらを選ばなかった。心酔を選んだ。それはつまり、本物でしかないということだ。私はそうやって、自分を納得させ続けている。
この店は以前の店主からただ同然でゆずってもらったものだ。法的に、譲渡でかかるお金を国に払っただけなので、前店主からしたら無料譲渡だろう。
手料理を振る舞っただけでこうなった。理由を聞く勇気はなかった。聞かなくても分かってしまったからだ。その人にとって、私はもう“そういう存在”になっていた。私は何もしていない。ただ料理を作って、出しただけだ。それなのに、世界は少しずつ、私を中心に傾いていく。それが異常だと理解できる程度には、まともに育ってしまったせいで生きにくい。
せめて、“好きなこと”と個性が噛み合わなければ良かった。私の個性は私の意志とは関係なく、いつの間にか蓄積していく。
それは良い効果だけではなく、私自身に危険を招くことも多々あった。私の料理を食べる程に、私はその人にとって郷愁を覚える誰か、なにかに見える。また会いたいというだけなら良い。だけど懐かしいということは、既に失ってどこにもなくなったものを示すこともあるから。
彼を迎える用意をしながら、彼と出会った日を思い出す。
入口にはCLOSEDの札を掛けたまま、いつもは店内にあるランタンをドアの外へ移動させてあかりを灯しているのが、“はいっていいよ”の二人の合図だ。
あの日は、朝からずっと雨が降っていた。細い路地に水たまりがいくつも出来て、店の前を通る人影もまばらで、シャッターを下ろしてしまおうかと何度も考えながら、それでも油の温度を保ったまま、私は一人で厨房に立っていた。
店を引き継いだばかりで、客はほとんどいない。バイトもまだ雇っていない。静かすぎる店内で聞こえるのは、換気扇の低い音と、外で雨がアスファルトを叩く音だけだった。
ドアベルが鳴ったのは、CLOSEDの札を出そうかと思った瞬間だった。
反射的に顔を上げると、そこに立っていたのは、背の高い若い男性。肩や前髪はしっかり濡れていて、傘を差していないのが一目で分かる。
雨宿りのために、たまたま見つけた店に飛び込んできた、という風体だった。人懐っこそうな雰囲気で、私を見ると自然に笑みを作る。ラブラドールレトリバーみたいだな、と失礼ながら思ってしまった。
「いらっしゃいませ」
そう言いながら、私は棚からタオルを取って差し出した。深く考えたわけじゃない。ただ、濡れたまま座らせるのが気になっただけだ。
「どうぞ。よかったら使ってください」
彼は一瞬きょとんとした顔をしてから、すぐに笑って受け取り「ありがとうございます! 助かったあ」と大袈裟に感謝を示してくれた。
雨はすぐに止みそうになかった。彼はカウンター席に座り、メニューを開いたまま、しばらく悩んでいる様子だった。
「あったかい飲み物と食べ物、お兄さんのおすすめで選んでください。全部美味しそうで俺じゃ決められないや」
この人懐っこさは上に兄か姉がいるなと思いつつ、ちょうど、新しいメニューに載せる予定の試作がいくつかあった。味は悪くないと思っているが、誰かに食べさせて意見をもらったことはない。今後おすすめになるという予定のものだが、大丈夫だろう。「ちょうど良いものがあります」と、少しずつ小皿に盛って出した。唐揚げ、簡単な副菜、スープ。特別なコースじゃない。ただの“つまみ食い”だ。
彼は、どれもちゃんと味わうように食べてくれた。大げさなリアクションはしない。ただ、噛んで、飲み込んで、少し考えてから、「おいしい」と言う。そのテンポが心地よかった。
その間にも、私の個性は、確実に作用していたはずだ。
料理を食べさせている以上、例外はない。今までだって、そうだった。少しずつ、少しずつ、相手の目が変わっていく。懐かしそうに細められて、私の奥に、誰か別の影が映るようになる。母親だったり、恋人だったり、昔の友人だったり、失った誰かだったり。
だが、彼の目は違った。
確かに懐かしそうではあった。やわらかくて、あたたかくて、胸の奥をくすぐるような色をしていた。懐かしい、という感情は確かにそこにあるのに、その視線は、まっすぐ私に向いている。私の向こう側に、誰もいない。人ではなく、風景とか、匂いとか、もう戻れない“世界そのもの”を見ているような気配だけがあった。
今までに一度もなかった反応だった。個性が効いていないわけじゃない。効いているのに、歪んでいない。ズレていない。ねじれていない。食べ終わったあと、彼は、ぽつりと笑って言った。
「なにか個性でやってるでしょ」
親しげに細められる瞳が、そういう“感覚”に慣れている人のものだった。
心臓が、嫌な音を立てる。ぎくり、と身体が強ばる。頭の中が一瞬で真っ白になる。違法だ。犯罪だ。ヒーロー社会において、無許可の精神干渉はアウトだ。言い訳は出来ない。でも、私は自分で操作出来ない。料理をやめるという選択肢は、私にとっては更生じゃなく、自殺に近い。料理が好きで、これを仕事にしたかっただけで、だから何度危険な目にあっても、諦めたくなくて─────。
言葉が出てこない私を見て、彼は少し慌てたように、両手を横に振った。
「責めてない責めてない!」
そして、少し照れたように笑いながら、続ける。
「懐かしい気持ちになってさ、嬉しかったから。もう二度と行けないところのこと、思い出せたんだ。ありがとうって言いたいだけ」
柔らかく微笑む彼の“懐かしい”話をそのまま聞いた。
雨音が窓を叩く音が耳に流れ込む中、カウンター越しに向かい合って、私は油の匂いと一緒に流れてくるその言葉を受け止めていた。
遠い異国の話だと言う。地図を広げれば載っていそうで、けれどどこか現実感が薄く、聞いているうちに、私は無意識のまま記憶の引き出しを探ってしまう。
あとになって調べたらよく似た名前の国はあった。音の響きも、綴りも近いものは確かに存在していた。けれど、彼が口にした国と完全に一致するものは、この世界のどこにもなかった。
荒れた国だったらしい。人々は当たり前のように銃を持ち歩き、命は驚くほど軽く、街には若者ばかりが溢れている。ある程度上の年代の人間は、戦争や貧困でごっそりといなくなってしまったからだと、彼は淡々と語った。
仕事で赴いたその国で、いくつも危ない目にあったとも言った。誘拐されかけた話、流れ弾がすぐそばを掠めた話、約束の金が払えず額に銃を突き付けられた話、帰りの車が途中で故障して囲まれた話。どれも笑い話のような口調なのに、内容だけを拾えば笑えるものじゃない。
それでも彼は、そこに友人がいたと言った。護衛をしてくれた青年の話をした。自分より若くて、よく笑って、銃の扱いは上手いのに基本的な安全管理は知らないからと杜撰で、暇な時は文字を教えてくれと強請ってきたらしい。真面目で、勉強熱心な男だったという。
私の個性の影響が蓄積していたせいだろう、彼はとても饒舌だった。言葉が途切れない。まるで、長い間しまい込んでいた記憶が、私の料理をきっかけに溶け出しているみたいだった。
「死んだのは俺だけだったらいいんだけど、きっと俺を庇おうとして一緒に死んでしまっただろうなあ」
冗談みたいな口調なのに、言葉の選び方だけが、妙に正確だった。その言葉を口にしたとき、彼ははじめて悲しそうに視線を下げた。さっきまで軽やかに動いていた表情が、一瞬だけ、底に沈む。
私はそこで初めて気づいた。この人は、今、“死んだ”と言った。比喩でも、冗談でもなく、ごく自然に、自分のことを死者として扱った。私は戸惑った。彼がオカルトの世界で言う“前世”の話をしているのか、それとも、私の個性の影響が鈍るほどに精神をやられている人なのか、判断がつかなかった。
沈黙が落ちる。その沈黙を破るように、彼はふっと笑った。私のほうを見て、軽い調子で言う。私の個性を理解したうえで、理解したまま、受け入れるみたいに。
「バレなきゃいいんだよ。俺もまたここの唐揚げ食べたいし。一緒に悪巧みしよう」
そう言って、子供みたいに指を差し出してきた。反射的に絡めた自分の指の感触を、私は今でもはっきり覚えている。軽くて、あたたかくて、取り返しのつかない約束の感触だった。
それから、彼はこの店に金銭的援助をしてくれるようになった。大きな額ではないが、無理のない頻度で、確実に、途切れることなく。名義は毎回違う。個人名義だったり、よく分からない会社名だったり、海外口座だったりすることもある。
それでも、私には分かってしまう。これは彼だ。証拠はない。確信だけがある。きっと普通なら、どこかで問題になるのだと思う。でも私は意識的に調べない。知らなければ、知らないままでいられるからだ。
問い詰めたことは一度もない。謎が多い人だと思う。けれど、彼が自分から言わない限り、私も聞く気はなかった。知ってしまえば、この関係に名前がついてしまう気がしたからだ。
スポンサー、パトロン、協力者、支援者。どれも違う。どれも、しっくりこない。彼は、ただ来る人だ。それでいい。
たまに顔を出して、カウンターに腰掛けて、この世に存在しない遠くの国の思い出話をしてくれる。それだけで良いことだ。名前の無い関係が、私たちにはふさわしい。
必要なのは彼が“来る”という事実であって、彼の正体ではない。
ドアベルが鳴る。雨の日も、晴れの日も、時間帯もまちまちなのに、なぜか私は、足音を聞いた瞬間に分かる。振り返る前から、胸の奥が静かに熱を帯びる。彼は、いつもと同じ顔で立っている。背が高くて、人懐っこい雰囲気で、少しだけ疲れたような、それでいて安心しているような顔で、当たり前みたいに言う。
「こんばんは、オーナーのおすすめをください」
私は、その言葉を聞くたびに、胸の奥で何かが整列するのを感じる。今日も世界は壊れていない。私はここにいていい。彼はここに来た。それだけで、充分だ。だから、できるだけ穏やかに、できるだけ普通に、私は答える。
「お待ちしておりました、すぐに御用意いたしますね」
私たちは今日も、互いの名前を呼ばない。匿名の秘密を共有して、一食を共にするだけだ。
