デスサキュバス【Death Succubus】
高い攻撃性を有するサキュバス亜種。通常のサキュバスが食事および繁殖を目的として人間を襲い、対象を生かしたまま精気を奪う傾向を持つのに対し、デスサキュバスは捕食衝動と殺傷本能が極端に強く、吸精に留まらず生き血を啜り肉を食らう例が多い。交渉性や擬態能力を備える個体もあるが、総じて人間社会との共存は困難とされる。
出典『夜魔分類総覧・第七改訂版』/目綿兎 森蔵 著
今一瞬、存在しない情報が脳内を通り過ぎていったが、目の前のデスサキュバス老人に対するドン引きは、まるで収まる気配を見せなかった。
「お断りいたします……」
一応、礼儀だけは守って丁寧にお断りすると、ドクターも本気で言っていたわけではないのか、「残念じゃのお~~。父親を見習って、未来のために種子をまけばよいのに」と、妙に素直に拗ねた。そんな、人の実父のことをタンポポみたいに言わないでほしい。一応、あちこちに種を飛ばしたわけではないのだ。ひとつの土地にだけ、集中的に繁殖しただけであって────。
だめだ。何ひとつフォローになっていない。こんにちは、タンポポ畑に紛れ込んだセイヨウタンポポ(環境省指定要注意外来生物)です。
ここに残ると決めたのは俺だ。だが、なぜ“残された”のかは分からない。
突然のデスサキュバスでいろいろ吹っ飛んだのもあるが、この悪のドクターが俺に何を望んでいるのか、いまいち読めない。
下手をするとここから、俺を主人公にしたR18ドスケベ同人誌が開幕してしまう危険性すらある。弔くん、毎月そんな目に遭わされてたんですか? 可哀想すぎる。俺がここで止めてやるからな……!
現実味を帯びた非人道的カス老人の暴挙に、心の中でそっと覚悟を決めていたのだが、当のドクターは「なに、そう警戒せんでもよいじゃろ。言ってみただけだ。貰えたらラッキー、くらいの」と、ひどく適当な調子で答えた。
そんなワンチャン狙いで搾精病院を開業しないでください。
「陽火、おまえはワシに似ている」
!?
「その長い足も精悍な顔つきも、ワシの青年時代の写し身のようじゃ。ここまで似ている他人は、そうおらんな」
!?
「インテリジェンスな裏方担当、ワシらは荒事に向いておらん。いつまでも、安全圏から仲間の帰りを待つことのみ……。ああ、言わんでも良い。ワシらは少しだけ時代がズレた……“魂の双子”、と言ったところか……」
!?
な、なんでそんな酷い悪口を突然言うんです……!? そんなに親しくしていなかったのに、焦凍の顔が走馬灯のように通り過ぎた。赤ん坊の俺の腕をハムハムしていた、あの可愛いキュートなベビが俺の双子の弟です!! この老人なにをいっているの……! 怖い……。
「ワシにはのう、長い長い時間があった。積み上げるだけの時間が。
人を解きほぐし、繋ぎ直し、削り、継ぎ足し、よりよい形へ寄せていく時間がな。無駄もした、失敗もした、多くのものを捨てもした。じゃが、それでも残るものは残る。技術とは、そういうものじゃ」
そこでいったん言葉を切り、ドクターはひどく満足そうに笑った。自分の歩いてきた泥道すら、いまでは勲章のひとつに数えているような顔だった。
「善意も悪意も、使う手が変われば呼び名が変わるだけじゃ。本質は残る。おまえの本質はワシと同じものじゃよ。極めて古典的な管理じゃ。壊れかけた者を拾う。落ち着かせる。居場所を与える。離れたがらんようにする。失った時には発狂するほど馴染ませる。見事なものじゃ。薬も刃物も使わず、ただ灯ひとつで、それをやってのける!」
褒め言葉の形をしてはいたが、要するに俺を鏡代わりにした自画自賛だろう。
それでも、ただ不愉快なだけで終わらないのが最悪だった。
あの老人の言葉には、人を一瞬だけ立ち止まらせる妙な説得力がある。だからこそ、味方を作るのが上手いのだろう。相手を認めているように見せかけて、自分の理屈の中へ回収する。その手つきが、少しだけ分かってしまう。
そう思った瞬間、ぞっとした。たしかに俺とドクターは似ているところがあるのかもしれない。 嫌すぎる。
「自覚的な支配者は嫌われる。無自覚な救済者は崇められる。おまえは後者の顔をしとる。そこがよい」
ドクターはうっとりしたように言った。褒めているというより、出来のいい標本を前にした研究者の顔だった。
「おまえの死柄木が王となる時、必要なのはなんだと思う?
王の傍らには、宰相が要る。玉座の隣で王冠を支え、王が見落としたものを拾い、王が捨てたものを数え、必要とあらば汚れ仕事まで引き受ける者がな。なりたくないか? 支えてやりたくないか?」
そこで一度、声が揺れた。
「ワシは、オール・フォー・ワンを支えたかった! ワシの唯一の理解者である彼を!
帰りを待つのは、いつだって辛く、苦しかった……! あの忌々しいオールマイトが彼を傷つけるたび、泣き叫びたくなる気持ちを抑えきれんかった……!」
一人で舞台に立っているみたいな喋り方だ。
なにに似ているのか少し考えて、すぐに思い当たった。“先生”の話し方に似ている。
ああ、この主従、こういうところが似ているのか。あるいは、長く一緒にいすぎて、どちらかの喋りの癖がそのままうつったのかもしれない。迷惑な感染経路だな。
とはいえ、下手に合いの手でも入れようものなら、横のジョンちゃんにがぶりとやられそうな気がしたので、俺は適度な間隔で拍手を打つだけの観客に徹する。パチパチ、と乾いた音が響く度に、老人の独演会はヒートアップするようだ。
「……じゃが、ワシも老いた。舞台袖に退く日はいずれ来る。そうなった時、誰が残り物を数え、泣く阿呆を宥め、狂った傑作を寝かしつけ、役立たずを役立つ位置へ置き直す? 誰が、壊れた者どもを壊れたまま使えるようにしてやる?」
老いた、と言いながら、その声には衰えがひとかけらもない。むしろ逆だ。年を食った人間にありがちな諦めではなく、死期が視界に入りはじめたからこそ輪郭を増す執念みたいなものがある。
言葉をひとつ重ねるごとに調子づいていく。身振りも大きくなる。俺に向かって話している形を取っていたくせに、最初から俺のことなんて見ていない。見ているのは、自分の頭の中にしか存在しない未来図。
その中では、きっと全部が綺麗に繋がっていて、全部が意味のある位置に収まっていて、その完成図の中心にだけ、偶然ぴたりと俺が嵌まったのだろう。迷惑極まりない。
「おまえは回せる。しかも、笑って回せる。そこが決定的にワシと違う。ワシがやれば実験になる。おまえがやれば保護になる。ワシが繋げば拘束になる。おまえが繋げば絆になる。
……実に腹立たしい才じゃよ。怪物のくせに、見た目ばかりは善良な隣人じゃ。手を取られた者は、自分がどこへ連れていかれるのかも知らんまま安心してしまう。疑いもせず、怯えもせず、むしろ救われた気になって感謝までしよる。こんな便利なものがあるか」
すごい長文で悪口を言ってくる……。
いや、本人の中ではたぶんこれも褒めているつもりなんだろうが、褒め言葉の形をした悪口を真正面から浴びせられると、こんなにも怖いものなんだな……。
年寄りの話が長いのは困るとして、結局この老人は何がしたいんだろうか。
みんながいる時はあれだけ警戒心を隠そうともせず、一定以上の距離をきっちり取っていたくせに、俺一人になった瞬間に手が届くほどの近距離まで寄ってきた。
周囲ではガラスケースに収まったハイエンドが、たまに思い出したようにぴくりと動く。
たぶん俺が少しでも妙な動きをしたら、ジョンちゃんと同じように一斉に起き上がって、そのまま俺をひねり潰すのだろう。
いや、なんならドクター本人でもいけそうだ。あの体格なら、ステゴロでも腹に一発入れられた時点で俺は静かになる。ウエイトが違いすぎる。
なので、ひとまず一番大事なところだけ確認することにした。
「俺に何を求めているんですか?」
「わからんか? ワシの後継者になれと言っておるんじゃが」
頭の回転が思ったより悪いのう、という純粋な悪口まで重ねられたが、そんな話、一ミリもしてなかったぞこのジジイ!!
いや、おまえの中ではしていたのかもしれないが、喋ったつもりで脱線し続けていたのはそっちだろうが! それをこちらの理解力の問題にしないでいただきます!? そちらの老化現象が問題ではないでしょうか!
「陽火よ、ワシの残したものを継げ。研究室を継げ。技術を継げ。記録を継げ。人員を継げ。失敗作も傑作も、廃棄予定の在庫も、使い道の分からんガラクタも、ぜんぶひっくるめて継げ。陣営を生かし続ける役を継げ。おまえにはその才がある」
それは勧誘というより、ほとんど予言に近かった。いや、予言の顔をした呪いだ。
いちばん最悪なのは、その内容があまりにも俺にとって都合がよく、魅力的に響いてしまうことだった。
ギガントマキアという、“暴”に特化した生き物が目の前に現れた時、俺が真っ先に考えたのは、どうすれば勝てるかでも、どうすれば逃げ切れるかでもなかった。どうすれば、みんなの邪魔にならない場所で死ねるか。それだった。
俺という存在が足枷になるのが、とにかく怖かった。
弔くんだって、犬扱いしている俺が瓦礫に挟まって死ねば、少しくらいは悲しむだろう。悲しみは隙になる。一瞬の隙は、それだけで致命的だ。
荼毘くんなら、たぶんもっと分かりやすい。きっと俺を庇おうとする。俺が死ねば悲しむし、その悲しみはそのまま怒りになって、冷静な判断を鈍らせるだろう。それもまた、致命的な隙になる。
俺は、俺がいるせいで、俺の好きな人たちの邪魔になることだけはどうしても嫌だった。
けれど、どう足掻いたって、俺がみんなみたいな戦闘力を持てる気はしない。
前世より伸びたこの身長は、ただ歩いているだけでも意識と肉体の差でときどきバランスを狂わせる。体力もない。戦闘に使える個性という分かりやすいアドバンテージもない。
だから俺は、裏方として働くことでどうにか自分の立ち位置を作ってきた。報連相でも、雑務でも、調整でも、食事でも、掃除でも、なんでもいいから、ここにいていい理由を積み上げてきた。
でも、それがいつまで通用するのかは分からない。
俺の返事など最初から期待していないらしく、ドクターはそのまま勝手に続けた。
「ワシにも孫がいた。ちょうどおまえと同じくらいの年での、あの子も戦闘は不得手じゃった……。だからじゃろうな、おまえを見ておると、つい、あの子を思い出してしまう───────……」
ゴーグルを外し、目頭を押さえ、いかにも“いま昔を思い出して胸が詰まりました”みたいな顔で見上げてくる。
すごい……なんて説得力が無いんだ。邪悪が言葉の誠実性を上回っている……。
「ドクター……そのお孫さん、ハイエンドにはならなかったんスか」
「なれるポテンシャルはあった!! 足りなかったのは時間だけじゃ!!」
机を殴る音が、妙に重く響いた。
あ、やっぱりそうなんですね。
このカスジジイ、自分の孫まで“素材”にしてる……。
後継者になれと言われたところで、この先も俺が俺のままでいられる保証なんてどこにもない。むしろ、なくなる可能性の方が高い気すらした。
素材にはしないとは言っていたが、改造をしないとは一言も言っていない。言葉遊びみたいな軽さのまま、気づけば俺の生体部分が一割くらいしか残っていない機械人間にされていても、まったく驚けない相手だ。
けれど、今この場で俺に選べる最善なんて、どう考えてもこれしかなかった。
これは、チャンスだ。
俺は苦虫を千匹くらい噛みちぎったような顔で、「よろしくお願いします」と頭を深く下げた。
言った瞬間、取り返しのつかない契約書に口頭で署名したような気分になった。逃げるつもりなんて最初からない。ないのに、それとは別のところで、『もう逃げられない』という感覚だけが、鉛みたいに重く胸にのしかかってくる。
ドクターの「よく言ってくれた!」という弾んだ声を聞きながら、俺はこれから先のことを考えて、不安と恐怖ばかりを抱えていた。
それに、あの、そもそも俺、医療技術は持ってないんですけどそこら辺どうなるんですか? 今から学ぶの、あまりにも無茶なのでは……。
