先に触れた影

 上鳴と付き合い始めてから、特に何かが劇的に変わった訳ではなかった。

 もともと俺達は互いの部屋を行き来していたし、上鳴は用事がなくても連絡してきた。俺がゲームをしている横で菓子を食い、上鳴が課題をしている横で俺が部品の設計図を引く。付き合う前からやっていたことへ、手を繋ぐ、抱きつく、たまにキスをする、という項目が追加されただけ。
 上鳴はそれでも毎回嬉しそうにするので、長年欲しがっていた恋人というものは、本人にしか見えない特殊な機能が大量についているのかもしれない。ギミック筆箱みたいなかんじ。

 放課後に二十分一緒に歩いただけでデートと呼び、俺が飲みかけの炭酸を渡せば間接キスと騒ぎ、実際にキスをすればその日だけで十回以上「ちゅーした」と確認してきた。キスというのは本人曰く恥ずかしいらしく、わざと子供みたいな言い方をする。絶対そっちの方が恥ずかしいと思うんだが、そういうズレ方は可愛いと思う。最小のエネルギーで最大の稼働をするので、燃費だけならかなり優秀な恋人だ。

 ただ、授業が進むにつれ、ヒーロー科の訓練は目に見えて厳しくなった。あからさまにヴィランに狙われているし、世間も俺の頭を飛び越えた部分で不穏な気配を漂わせている。
ヒーロー科には俺たちの知らない情報も共有されているんだろう。上鳴も個性の出力を上げ、限界を見極め、限界だと分かってからさらにもう一歩踏み込むような訓練を始めたらしい。結果として、放課後までアホを引きずる日が増えた。

 以前なら水を飲ませて少し休ませれば戻っていたものが、最近は夕方になってもへらへら笑っている。文章を送らせれば文字が崩れ、会話をさせれば同じ言葉を何度も繰り返し、廊下の角へ肩をぶつけてから壁へ謝ったこともあった。ヒーローとして成長しているのか、人間として一時的に退化しているのか、外から見ていると判断に困る。

 

 その日、昼休みに上鳴から、今日お互い放課後空いてるから部屋デートしよう! と誘われた。

 文面は正常だった。最後にハートが三つついていたが、頭の状態に関係なく普段からやるので診断材料にはならない。
 俺も開発工房へ残る予定はなく、夕食まで特に用事もなかったため了承した。上鳴から即座に、やったー! お菓子ある? ジュース買った! ベッドもある! と返ってきた。ベッドは以前からあるだろと思ったが、恋人との部屋デートには新たな設備として数えられるらしい。

 放課後、ヒーロー科の寮へ向かう途中で、訓練を終えたらしい生徒と何人かすれ違った。全員疲れていた。切島はいつもビシッと固めている髪が少し崩れ、瀬呂は肩を回しながら歩き、爆豪は機嫌が悪そうだったが、あれは通常時との差が分からない。
 上鳴の状態を聞こうと思ったものの、疲れ切っている同級生をわざわざ止めるのも悪いかなと、そのまま部屋まで上がった。
 三度ノックすると、中から何かを蹴飛ばす音がした。

「電気、来たぞ」

理人らぁ!」

 扉が勢いよく開いた。
 俺を出迎えた上鳴は、へらっへらのぐにゃっぐにゃだった。

 笑顔というより、顔の筋肉が楽しい方向へ全部緩んでいる。目は細く、口元はだらしなく開き、普段なら頑張って立たせている髪も汗で少し萎れていた。俺の名前を呼んでいるが、舌が回っていない。

理人ら、いひ、ひひひ! うれしー……理人らぁ」

「まだアホじゃねえか」

「いっひひひ」

 否定はなかった。自覚する知能がないだけかもしれない。

 上鳴は俺の両手を取った。左右それぞれの指を絡め、恋人らしい繋ぎ方を一度に二組作る。そのまま俺を後ろ歩きのまま、足元の全てを蹴飛ばしつつ部屋へ引き入れながら、ぐらりぐらりと進んでいく。

「おい、前見ろ。お前いま自分の足が何本あるか分かってる?」

理人の手ぇ、ふたつ」

「聞いたものと数える対象が違う」

 上鳴は楽しそうに笑いながら下がり、膝の裏をベッドへぶつけた。その時点で止まればよかったものを、俺の手を握ったままさらに一歩下がろうとして、背中から倒れ込んだ。

「ぐえー!」

「いてえ!」

 両手を拘束されていた俺も当然巻き込まれた。
 上鳴の腹の上へ胸から落ち、顎が肩へぶつかる。下敷きになった本人は潰れた声を出したが、俺の体重を引き込んだのは本人なので同情はしなかった。

「はなせアホの電気、なにすんだよコラ」

 言葉だけで怒ると、上鳴はようやく指をほどいた。解放されたので起き上がろうとしたところ、今度は両腕が背中へ回った。

「ん、ふふ、んふーっ! 理人、おれ、理人好き、だいしゅき、ちゅーしよ、ねっ ね。 ひひひ」

「順番に喋れ」

 背中にあった手が頭まで上がり、逃がさないように固定される。近いと言う暇もなく唇を押しつけられた。

 一度離れ、またすぐ重なる。キスと呼ぶには工夫がなく、本当に唇を合わせているだけだった。角度も毎回ほとんど同じで、鼻先がぶつかっても気にせず、離れるたび「いっひひひ」と笑っている。
 顔が近すぎて表情もまともに見えない。目と鼻と口があることだけは分かる。見慣れた恋人が、距離を詰めすぎたせいで人間の顔として認識しにくくなっていた。

「お前、俺のこと分かってんのか」

理人。おれの、理人

「所有権まで主張出来るなら多少は残ってんな」

「ちゅー」

「ああもう! 早く賢くなれ!」

 言いながら、今度は俺から唇を合わせた。

 上鳴は嬉しそうに喉を鳴らし、また俺の頭を抱え込む。アホになっている時のこいつは遠慮がない。賢い時には、していい? と聞いたり、俺が嫌がっていないか途中で顔を見たりするいじらしさがあるのに、いまは自分が嬉しいという理由だけで何度も繰り返している。

 本気で嫌なら振りほどけばいい。上鳴は疲れ切っていて、腕にも大して力が入っていなかった。逃げられないのではなく、俺が逃げていないだけなので、合意の上ということだけは確かだ。

 何度目か分からないキスをして、少し離れた。上鳴は目を閉じていた。

 次が来ると思って待ったが、動かない。

「電気?」

 返事もない。耳を澄ますと、すう、すう、と規則正しい呼吸が聞こえた。

「寝たのかよ」

 頬を軽く叩いても起きない。俺の後頭部へ回した腕だけを残し、本人は完全に眠っていた。普段の鍛錬で疲れ切ったところへ、俺が来たことで無駄に興奮し、残っていた体力をキスに全投入して力尽きたらしい。

「こいつ……!!」

 寝落ちするなら、せめて人の頭を解放してからにしろ。

 腕を外し、上鳴の上から退いた。本人は仰向けのまま、少し開いた口で穏やかに眠っている。アホを引きずっている時より、寝顔の方が賢そうに見えた。
 汗で張りついた前髪を横へ避けても起きない。夕食まではまだ時間があったし、無理に起こす必要もないだろう。掛け布団を腹へ載せ、端末にメッセージを残して部屋を出た。

 食堂で夕食を済ませ、ついでに外泊……というか、同じ校内の別寮へ泊まるための許可証を貰った。異性は当たり前の如く禁止だが、同性同士なら多少は緩めの許可を出してくれる。学校側の信頼なのだろうから、羽目を外すやつが出ないことを祈るばかりだ。
 上鳴は訓練後に食事も取らず寝たらしいので、購買で弁当と飲み物も買う。恋人の世話というより、ドッグランではしゃぎすぎた大型犬を預かっている気分だった。犬なら起きた時に自分が何をしたか思い出して泣くこともないだろうから、その点では上鳴の方が面倒くさい。

 部屋へ戻ると、照明はついていた。

「起きたか。飯買ってきたぞ」

 返事がない。

 ベッドは空だった。掛け布団が床へ落ち、上鳴は部屋の隅で体育座りをしていた。両腕で膝を抱え、顔を埋めている。落ち込んでいることは分かったが、ここまで分かりやすく角へ収まる必要はないと思う。

「何してんの」

 声をかけると、上鳴が顔を上げた。

 俺を見た瞬間、ベッソオ、と顔が崩れた。

 泣き出す直前の子供みたいに眉が下がり、口が横へ広がる。すでに目の縁は赤かった。俺がいない間に目を覚まし、自分の行動を順番に思い出したらしい。

「俺のやりたいことみんな俺がやっちゃう……! アホの俺があ!」

 そのまま膝へ顔を戻し、泣き崩れた。

「アホのお前もお前だぞ。なにこれ禅問答?」

「手ぇ繋ぐのもちゅーも俺がやりたかったァ! 俺が! やりたかったああ! 寝盗られたぁ!」

「誰に」

「アホの俺にぃ!」

 同一人物の中で恋人を奪い合うな。そんなややこしい個性じゃないだろお前は。

 俺としては、どちらも上鳴だ。多少賢いか、相当アホかという違いはあっても、顔も声も体も同じであり、俺を見て嬉しそうにするところまで変わらない。
 上鳴にとってはそうではないらしい。正気を失っている自分が、正気の自分より先に手を繋ぎ、抱きつき、キスをした。しかも正気の自分にはその時の記憶が曖昧で、やりたいことだけを別人にやられたような気分らしい。

 理屈として理解は出来たが、共感するには難易度が高い。

「おー、がんばれ強くなれ電気。放課後までアホ引き摺らなくなれたら自分に寝盗られずに済むぞ」

「ひぃーーん」

「飯食え。泣いてるとまた頭悪くなるぞ」

「もう悪いよぉ……」

「知ってる」

 弁当を机へ置き、上鳴の横へしゃがんだ。頭を撫でると、手首を掴まれた。泣いていても逃がすつもりはないらしい。そのまま掌へ頬を押しつけてくる。

「いまの俺とも手ぇ繋いで」

「さっき散々繋いだろ」

「俺じゃないもん」

「お前だよ」

「いまの俺とぉ……」

 仕方なく指を絡めると、上鳴は鼻を啜りながら少しだけ機嫌を直した。

 

 その日から、上鳴は以前より鬼気迫る勢いで鍛錬するようになった。
 個性の出力を上げても思考力を保つ訓練、放電後の回復を早める呼吸法、食事と水分補給の見直しまで始めたらしい。教師から目的を聞かれた時には、どんな状況でも自我を保ち、守りたいものを他人に奪われないためです、と答えたという。ヒーロー志望としては非常に立派な志に聞こえるが、実際に奪っていた他人は本人であり、守りたいものとは俺とのキスだった。

 理由はどうあれ、その後しばらく放課後までアホを引きずることはなくなったので、良い事ではある。

 

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