夜
ヨノワールになる前。まだサマヨールだった頃の自分は、今よりずっと善いポケモンだったと、ヨノワールは客観的に思っている。
困っているものがいれば助けたし、アドリアンが傷つけたくないと言った相手には手を出さなかった。命令されなくても、アドリアンが喜ぶと思えばそうした。
あの頃は、アドリアンのそばにいられるなら、それだけで満たされていた。今はそうではない。こんなふうになったのは、たぶんアドリアンのせいだ。だから死んだあと、自分は地獄へ行くのだろう。
ゴーストタイプが死んだあとにどこへ行くのかなんて知らないけれど、もし地獄というものがあるなら、自分にはよく似合う。けれどアドリアンまでそこへ来る必要はない。その前に、この腹の中へ匿ってしまえばいい。誰にも見つからないところへ入れて、魂まで抱えてしまえばいい。そうすれば離れない。歳も取らない。病気にもならない。誰かについていくことも、自分を置いてどこかへ行くこともできない。ほら見ろ。まったく、悪いポケモンになったものだ。
まだ弱く、小さなヨマワルだった頃。たまごから生まれたばかりで、できることなんてほとんどなかった自分を抱き上げて、アドリアンは言った。
「お前は俺の相棒だよ。ずっとずっと一緒だよ」と。
ヨマワルだった頃も、サマヨールになってからも、その言葉だけは一度も疑わなかった。ずっと一緒。ずっと、ずっと。それは永遠という意味ではなかったのか。アドリアンは永遠をくれるのではなかったのか。自分はとっくのとうに、アドリアンへ魂ごと永遠を差し出していたのに。
光の道を通ったことがある。あの瞬間を、ヨノワールは忘れない。自分とアドリアンを繋いでいたものが、ぷつりと断ち切られた感触を覚えている。
身体が光にほどけ、組み替えられ、これまでとは違うものへ造り変えられていく。その先で待っているのは当然アドリアンなのだと思っていた。
違った。
新しい身体で目を開いたとき、最初に見えたのは知らないにんげんだった。アドリアンではなかった。いない。どこにもいない。あの絶望を、アドリアンは知らない。
どれほど酷いことをしたのか、きっと今も分かっていない。ずっと一緒だと言ったくせに。相棒だと言ったくせに。アドリアンにとって、自分との繋がりはこんなにも簡単に断ち切れるものだった。小さな道具を持たされ、機械を操作されて、ほんの一瞬で別のにんげんのものになる程度のものだった。
もう一度あの光を通り、アドリアンのところへ戻されたとき、アドリアンは笑っていた。進化した自分を見上げて、すごいな、と喜んでいた。戻ってきた自分へ当たり前のように手を伸ばした。ヨノワールはその手を取った。嬉しくなんてなかった。
─────嘘だ。本当は嬉しかった。アドリアンのところへ戻れたことだけは、どうしようもないほど嬉しかった。だから余計に許せなかった。
交換されたという事実は消えない。あの一瞬、自分は確かに捨てられた。アドリアンにそのつもりがなかったとしても関係ない。簡単に、ボタンひとつで手放された。あの光の向こうにアドリアンがいなかったとき、自分の中から何かが決定的に壊れた。
俺はどんな姿のお前でも愛おしいのに。弱くても、強くても、若くても、老いても、身体が変わっても、声が変わっても、魂さえアドリアンならそれでいいのに。お前は弱いままの俺では駄目だったのか。もっと強くするためなら、俺を一度ほかの誰かに渡しても平気だったのか。俺がどれだけ傷ついたのか、アドリアンは何ひとつ分かってくれなかった。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。裏切りだ。
それでも、アドリアンが好きだ。
だから許した。
許したのだから、もう二度としないでほしい。ずっとそばにいてほしい。二度と捨てないでほしい。自分を拾い上げたのはアドリアンなのだから、最後まで責任を取ってほしい。
何でもする。アドリアンが望むなら何でもする。戦えと言われれば戦う。守れと言われれば守る。欲しいものがあるなら持ってくる。嫌いなものがあるなら消してやる。歳を取って歩けなくなったら運んでやる。食べられなくなったら食べさせてやる。眠るまでそばにいる。眠ってからもそばにいる。死んでもそばにいる。
だから、自分にも何かをくれ。繋がりが欲しい。二度と切れないものが欲しい。交換という光でも断ち切れない、アドリアンがどこへ行ってもついてくるもの。忘れようとしても忘れられないもの。一生引き摺る傷のように、身体の奥へ残る縁が欲しい。だから、子供が欲しい。アドリアンの血が欲しい。肉が欲しい。そこへ自分を混ぜたい。アドリアンと自分を半分ずつ入れて、どちらからも切り離せない何かにしたい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。寄越せ。
地獄の窯が口を開けるように、ヨノワールの腹が真っ二つに割れた。女が落ちていく。悲鳴が、がらんどうの身体の内側で何度も反響する。
高く、細く、やがて掠れて、それでも外へは一滴も零れなかった。
腹を閉じれば、夜の路地は最初から何もなかったように静かになる。あの女は嫌いだった。昼間、転んだふりをしてアドリアンへ抱きついた。アドリアンは何も気づかなかった。大丈夫ですか、と女を支えていた。女は笑っていた。ヨノワールには分かった。あれは転んだのではない。わざとだ。浅ましいメス。アドリアンには要らない。けれど、要らないメスにも魂はある。空っぽのたまごに魂を入れれば、きっと命になる。
やがて暴れることをやめた魂を腹の奥へ収めたまま、ヨノワールは夜の闇へ溶け込んだ。女はしばらくすれば、アドリアンの職場からそう遠くない裏路地で、意識を失って倒れているところを見つけられるだろう。死なせてはいない。アドリアンは、にんげんが死ぬと悲しむから。ある程度の地理なら覚えている。アドリアンと歩いた道だから。ふらふら、ふわふわ。ヨノワールは帰る。アドリアンのところへ。
家へ戻ると、アドリアンはもう眠っていた。無防備に布団へくるまり、何も知らずに息をしている。その寝顔を見ただけで、腹の中を満たしていた濁ったものが少しだけ静かになった。
愛おしい。ずっと見ていたい。ずっとそばにいたい。だからこそ、怖い。またいなくなるのではないかと思う。自分の知らないところで誰かを選ぶのではないかと思う。いつか自分をボールへ戻して、そのまま二度と出してくれなくなるのではないかと思う。そんなことをするはずがないと信じたい。一度、したけれど。
眠っているアドリアンのそばまで浮かぶ。ゴーストタイプにとって、身体というものは、そもそもそれほど確かなものではない。輪郭など必要に応じて変わる。まして、短い死にも似た眠りへ沈んだにんげんの意識へ入り込むことなど、ヨノワールには難しくなかった。
ただ、この姿のままでは大きすぎる。重すぎる。だから、アドリアンが理解できる形の器を作る。二足で立つ脚。腕。手。抱き締めるためのもの。顔の細かなところなんて、どうでもいい。鼻も耳も必要ない。口はいる。アドリアンへ言葉を伝えるために。触れるために。眼はひとつでいい。もともとひとつしかないのだから。必要なものだけ揃えれば、それでいい。
アドリアンを潰してしまわないよう、ほんの少し身体を浮かせる。長いあいだ触れたかった頬へ顔を寄せ、作ったばかりの舌でゆっくり舐めた。夢の中なら、アドリアンは逃げない。逃がさない。
「おまえはおれのものだ」
アドリアンは知らない。自分がどれほど愛されているのか。拾ったものが、どれほど長くその言葉を信じ続けているのか。ヨノワールは眠るアドリアンへ身体を寄せたまま、腹の奥に収めた魂をそっと撫でた。今度のたまごは気に入られるといいな。

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