【地獄への道は善意で舗装されている】

「……一人、犠牲になったが」

 その言葉は、誰の口からこぼれたのかもわからなかった。沈黙に支配された薄暗い会議室に、ぽたりと水滴のように落ちる。

 灰色のスーツを纏った数名の男女が、資料に視線を落としたまま、誰ひとりとして顔を上げない。唇は固く結ばれ、空気は凍っていた。

 ───────極秘会議。

 潜在的な内通者の存在を考慮し、この件は、公安上層部の中でもごく一部の人間にしか知らされていない。
 すでに公安内部では、複数の職員が《あかり》を保持していることが確認されていた。

 ──子を喪ったばかりの父親。
 ──信念に生きる、正義感の強い者。
 ──家族の贈り物として無邪気に受け取った者。

 《あかり》は、傷ついた心に、あるいは“善”を信じる者の胸に、まるで寄生するように染み渡る。
 風邪のように誰かから誰かへ、当たり前の顔で日常に入り込み、感染する。
 静かに、だが確実に。ごく自然に。日常の顔をして。

 照明はほぼ落とされ、ブラインドは半端に閉じられていた。斜めに差し込む夕陽が、長い会議机の一端をかすかに照らしている。

 影に沈んだ顔のまま、一人の男が口を開いた。

「……これで、《あかり》が“洗脳”でないことだけは、確定したな」

 誰も返事をしなかった。

 その言葉が、この先の対応方針にどれほどの影響を及ぼすか、全員が理解していた。うかつに肯定すれば、それだけで“容認”と取られかねない。だが──否定する根拠も、もう残っていなかった。

 ややあって、中年の男が静かに口を開く。くたびれたスーツの襟元から覗く喉仏が、ごく小さく上下した。

「……高くついた検証だったな。それでも、価値はあった。個性分析班の最終報告でも、精神支配も、感情操作も検出されなかった。あの《あかり》にあるのは……ごく微弱な“思考誘導”だけだ」

 若い分析官が、顔をしかめて問い返す。

「……つまり、“考えを植えつける”んじゃなく、“考えるきっかけ”を与えているだけ……ということですか?」

「ああ。あの光は、何も強制しない。ただ、静かに“こういう選択肢もあるよ”と囁くだけだ。そして、最終的に選ぶのは……あくまで“本人自身”だ」

 会議机の端に座る監察官が、鼻を鳴らした。細身の眼鏡越しに冷笑を浮かべながら言い放つ。

「……火継は“性善説”を掲げているらしいな。人間は本来、善良で、優しくて、支え合える存在だとでも? 寝言だ。理想主義者か、ただの狂信者か……現実が見えていないだけだ」

 その言葉に、向かいの席から重い声が返る。

「現実は、こっちだ。死傷事件が、もう起きてる」

 誰もが痛いほど知っている。理想だけでは、人は救えない。それは、過去に何度も証明されてきた事実だ。

「“思考誘導しかない”っていうなら、どうして人が死ぬ? どうして命を投げ出す? 《あかり》を信じていた人間たちの言葉を聞いたか。“あれがなければもう終わっていた”……“あの光が、私を変えてくれた”」

 男は指先で書類の一枚をとん、と叩いた。乾いた音が、静まり返った空間に響く。

「……だが実際には、“自分で変わった”んだ。にもかかわらず、それに気づいていない。だから《あかり》を失えば、また“元の地獄”に戻ると、思い込んでいる」

「……つまり、“あかり”に依存しているのか」

「そうだ。自分の力で変化を得たのに、それを《あかり》という外部の“器”に帰属させてしまっている。そして、その光が失われれば、いまの自分もまた失われる……そう信じている」

 会議室は静まり返った。
報告書の中には、光を喪失した者たちの末路が並んでいる。穏やかだったはずの者が、突如として錯乱し、光に縋り、自他を傷つけていく。
 震える手で、「どうして消えたの」と繰り返す姿──その虚ろな目が、紙の向こうから睨み返してくるかのようだった。

「……外から正論で叩き壊すのは、溺れている人間から浮き輪を奪うようなものだな」

 誰かが小さく呟いたが、それに否定の声はなかった。

「もがく人間の前に差し出された浮き輪。それが《あかり》だった。それを『錯覚だ』と引き剥がせば……そりゃ、掴みかかってくるさ。一緒に沈んででも、取り戻そうとする」

 誰かが、遠くを見るように呟いた。

「……“信じる”って行為そのものが、善意だよな。それを否定される痛みに、耐えられる人間がどれだけいる?」

 息を呑む音が、あちこちから漏れる。皆が──図らずも納得してしまっていた。

 窓の外では、陽が沈みかけていた。茜色から群青へ、空の色が静かに変わる。遠くのビル街で、ネオンが灯り始める。

 長い沈黙のあと、誰かがぽつりと呟いた。

「……九鬼結人が、あそこに溶け込んだのも……無理はないな」

 返事はなかった。けれど、全員が同じ像を思い浮かべていた。

 “正義を語るには、傷が深すぎた男”が、“語らずとも寄り添う光”に、心を許した。そのことを、自然に理解できてしまう自分たちを、どこかで怖れていた。

 と、そのとき。

 コン、コン──会議室の扉が、二度、静かにノックされた。重苦しい空気の中、報告書が一式運ばれてくる。誰かが受け取り、音もなく手渡していく。

 ──小学校での《あかり》拡散。
“仲良しのおまじない”と称される儀式めいた手順。可愛らしい語呂合わせと、微笑ましい絵柄に包まれながら……あの光は、誰にも止められぬ速度で、子どもたちの間へと広がっていく。

 一枚の紙をめくる音が、妙に大きく響く。

 やがて、椅子のひとつがぎぃ、と軋む。背にもたれたままの男が、拳で報告書を握り潰した。

「……我々がこうして、仲間をひとり失い、会議室で言葉をこねくり回している間にも──」

 低く、しかしはっきりとした声だった。

「《あかり》は、“善意”という名の手渡しで、静かに拡散を続けている。小さな、ほとんど誰にも気づかれない、けれど確かな火が──今この瞬間も、あちこちで灯されているんだ」

 彼は顔を上げ、壁に掲げられた拡散経路図を指差した。そこには、赤い点が無数に灯っている。どれも、誰かの心にともった火。

「今、確認されているだけでも、《あかり》は180万を超えた。火継の個性によって生み出された、マッチの先ほどの光が──180万。……これが、“たった一人の力”か?」

 深い沈黙が落ちた。
それは、もはや「異能」ではない。“現象”そのものだった。

「……彼がもし、“ヴィラン”でなく“ヒーロー”だったなら。  オールマイト​───────いや、《あかり》は“炎”か。
ならばエンデヴァーにすら届く火になっただろう。“あかりのヒーロー”として、民衆の希望になっていたかもしれない」

 だが現実は違う。  
その力は今、“信仰”として広がっている。

「昼も夜もなく、何年も絶えず発動し続けている……これは“個性”の枠を超えている」

 男は声を落としながら、言った。

「──これは、“神の御業”だ」

 息を呑む音。  
それが皮肉か、畏怖か──誰も、すぐには判断できなかった。

「善意を通じて伝播する思想。拒めば沈む者たち。強制されていないという前提。……これが、火継が築いた構造だ」

 誰も、言い返せなかった。
冷たい蛍光灯と、熱を持たない恐怖が満ちる空間に、時計の針だけが無音で動く。

 男は、静かに背もたれに沈んだ。

「……始まっている。止められるうちに終わらせられるのか……それすら、もう怪しい」

 窓の外、夜の帳が完全に降りた街で、今日もまた、どこかで《あかり》が灯されている。

 街灯の下で。公園のベンチで。子どもたちの鞄の奥で。  人知れず、名もなき手がそっと継いでいく。

 それが“善意”である限り​───────誰にも、止められない。