酒禍遺恨

 

「ねえゲロ坂、これ第一特務課へ持っていってくださる?」

 午前十一時を少し過ぎた第三業務室で、首藤環は伊坂恭平の机へ書類を置いた。

「自分で持ってきたんだから、帰りに持っていけばいいだろ」

「昨夜、あんたが確認印を押さずに寄越した書類ですけれど」

 伊坂は一番上の紙をめくった。確かに押していなかった。押したような気はしていたが、印鑑を持ったところで違う作業をはじめ、そのまま忘れたらしい。記憶には自信がないので、そこは争わず印を押した。

「それより、その呼び方をやめてくれ。職場で人を吐瀉物に結びつけるのはよくないぞ」

「では、人の鞄を便器にした男とお呼びしましょうか」

「言い方に悪意がある」

「事実に悪意があるのよ、ゲロ坂」

 首藤はいつも通り、伊坂以外には感じがいい。淡い色のブラウスに細身のスカート、耳には小さな真珠。来客へ茶を出す時など、物腰の柔らかな社員にしか見えない。伊坂にだけ、全力の侮蔑を込めてゲロ坂を使う。あとついでに二人称が“あんた”になっている。差別だ。

 そう主張したところで、過去に何度か殴られた。かつて、伊坂は首藤の私物をダメにしてしまったことにより嫌われている。
 すでに贖罪は果たしたと言っても殴られたし、酒に酔って正常な判断ができなかったと説明すると回数が増えた。伊坂は失敗から学べる人間なので、最近は首藤の眉が少し動いた段階で距離を取るようにしている。

「俺はもう酒を飲んでないし、危ないなと思ったら人の鞄に近づかないようにしようと意識している。二年も前の失敗をいつまでも責めると、更生する意欲が」

「被害者の前で加害者が更生の権利を主張すると腹が立ちますの」

 首藤が顔を上げた。

 伊坂は書類を持ち、机二つ分ほど下がった。彼女の首には細いスカーフが巻かれている。飾りにしか見えないが、首藤が身につけている時点で立派な武器になる。

「あれは事故だろ」

「あんたは自分の席から立って、こちらまで歩いてきたでしょう。留め具も自分で外したわね」

「覚えてない」

「誇らしげに言うことではありません」

 実際、伊坂にはほとんど記憶がない。

 二年前の新年会だったのか忘年会だったのかも曖昧だった。首藤に聞けば分かるだろうが、自分の鞄を台無しにされた日を被害者に確認するのは危険である。その程度も覚えていないのかと怒られ、覚えていないものは仕方がないと言えばさらに怒られる。聞かない方がいい。

 楯岡が途中から来たことだけは覚えている。その日は別の社員と現場へ出ており、終わってから会場へ寄る予定になっていた。

 伊坂は本来、飲み会へ行かない。酒が美味いと思えないし、飲むと顔が熱くなり、頭が重くなり、そのうち吐く。本人は長いこと「飲めないわけではない」と言い張っていたが、飲んだものを身体が受けつけず外へ出すなら、それは飲めないということだと楯岡に教えられた。楯岡の部屋で二回ほど吐いた翌日のことだった。

 しかし、その年だけは参加しようと思ってしまった。

 楯岡が飲み会から帰ってくるまで、マンションのドアの前で体育座りをして待つより、会場で合流して一緒に帰った方がいいと考えたからである。
 以前、伊坂が廊下で一時間ほど待っていた時、同じ階の老婦人に見つかったことがある。「楯岡を待っています」と答えたところ、後日、楯岡の方が「あの人を廊下へ放っておくのはかわいそうよ。病気の方なんでしょう」と注意されていた。

 伊坂は勝手に来ただけなので、楯岡に落ち度はない。あと一応病気ではない。
 だが事情を知らない住人から見れば、楯岡が病んだ友人を締め出しているように見える。楯岡の評判を守るためにも、その日は店へ行くべきだった。泊まる約束はしていなかったけど。

 ただ、翌日は二人とも休みである。伊坂は押しかけたもん勝ちだと思っている。楯岡は玄関を開けた時に嫌そうな顔をすることはあっても、まだ一度も扉を閉めていない。なら問題ない。もし本気で拒否されたら泣くと思うが、その時はその時だった。

 会場は駅前のホテルにある宴会場。伊坂は入口に近い席を選んだ。あとから来る楯岡が見つけやすいし、帰る時にも便利だ。
 最初の一時間ほどは黒烏龍茶を飲みながら、料理を食べていた。楯岡が来てから何か食べに行く可能性もあるので腹八分目に抑えるつもりだったが、話す相手がいないと手が空く。唐揚げを一つ取り、皿に一個だけ残すのは次の人が取りづらいと思って最後も食べた。そのような気遣いを何度かした結果、普通に満腹になった。

「伊坂さん、飲んでませんよね」

 隣にいた社員が、伊坂のグラスを見た。顔には覚えがあるが、名前は出てこない。当時も知らなかったのか、その後退職したのか、現場で死んだのかも分からない。社内でしばらく見かけない人間については、あまり確認しない方がいい。

「俺は酒が苦手なんだ。飲むと気持ち悪くなる」

「これ、甘いですよ。一杯くらいどうです?」

「無理に飲ませるのはよくないぞ」

「無理には勧めませんよ。置いておくので、気が向いたら」

 薄い桃色の酒が、伊坂の前へ置かれた。
 無理には勧めないと言われると、断り続ける自分の方が空気を悪くしているような気がした。周囲は楽しそうに飲んでいる。さっきの人も伊坂が一人で寂しそうに見えたから、わざわざ話しかけに来てくれたのかもしれない。それなのにあまりにも冷たい対応をしてしまった気がする、俺は酷い奴だ……。明日は休みで、あとから楯岡も来る。もし少しくらい酔っても、一緒に帰れば財布も自分もなくさずに済むだろう。せっかく勧めてくれたし。そう考えて、伊坂は一口飲んだ。

 甘かった。少し苦みはあるが、飲めないほどではない。時間をかけて一杯飲み終えても、すぐには何も起きなかった。

 自分は酒に弱いのではなく、これまで飲んだ酒が合わなかったのかもしれない。

 空いたグラスへ誰かが別の酒を注いだ。二杯目は色が違ったので、伊坂の中では別の飲み物として扱われた。透明なものも少し飲んだ。泡のあるものも口にした気がする。

 全部を一人で飲んだつもりはない。味を見て隣へ渡したものもあるし、戻ってきたものをまた飲んだかもしれない。スモールアップルの面々は基本的に毒に耐性があるので、回し飲みに抵抗が無いものの方が多い。手癖が悪いものも多いので、適当に放置しておけば誰かが勝手に持っていく。普段飲まない伊坂が飲んでいるのが面白かったのか、見たことの無い色の酒が小さなグラスにつがれて並べられ、それを適当に飲んでいた。

 気づけば身体が熱くなり、独り言も大きくなっていたが、もともと大きいので誰も気にしなかった。立ち上がった時に隣の社員の肩を掴んだものの、絨毯が柔らかいせいだと思った。

 スマートフォンには楯岡から連絡が来ていた。

《終わった。あと二十分くらい》

 伊坂は《俺もいる》と返したつもりだった。

 翌朝見ると、《おももらいるれる ぷ》と送っていた。文字数から違う。楯岡はそれに何一つツッコミを入れず、《飲みすぎるなよ》と返している。既読はついていたが、読んだ記憶はない。

 首藤は少し離れた席で、車折と話していた。

 黒い鞄は、椅子の後ろへ置いてある。

 クロコダイルのバーキン。

 当時の伊坂は名前も値段も知らなかった。首藤が普段から使っていたことにも気づいていない。黒くて、四角くて、口の広そうな大きめの鞄だった。

 首藤自身、傷を恐れて飾っておくような使い方はしていなかった。仕事にも持ってくるし、電車にも乗る。床へ置くこともある。普通に使ってついた傷や汚れなら、いちいち人へ当たり散らしたりはしない。

 ただし、成人男性が自分から歩いてきて、蓋を開け、中へ吐くことは普通の使用に含まれなかった。

 

 伊坂は急に気持ちが悪くなった。
 食べすぎたのだと思い、椅子へ深く座って背を丸めた。少し休めば治る気がしたが、口の中へ唾液が溜まる。飲み込んでもまた増えた。喉の奥から何かが上がってくる。

 吐く。

 そこらで吐いてはいけない。

 酔っていても、その程度の常識は残っていた。床へ吐けば従業員が掃除をする。周囲の人にも迷惑がかかる。絨毯だから臭いも残る。皿も駄目だし、グラスでは小さい。トイレへ行くべきなのだろうが、どこにあるのか分からない。入口まで歩いて案内を探す時間はなさそうだった。

 袋に吐かなければならない。

 周囲を見た。

 自分は鞄を持っていない。武器が要らないので、普段の持ち物はハンカチ、ティッシュ、財布、スマートフォン、鍵だけである。すべてポケットへ入る。少し荷物が増えた時は楯岡の鞄へ入れてもらえばいいため、自分で持ち歩く習慣がなかった。

 右側に小さなハンドバッグがあった。口が狭い。左には紙袋が見えたが、椅子を回り込まなければ届かない。

 振り返った。

 首藤の鞄があった。

 近くて、大きい。

 ふらふらと立ち上がる。テーブルへ腿をぶつけ、皿を揺らした。誰かが声をかけたらしいが、返事はしなかった。口を開けば、その場で出そうだった。

 鞄の前へしゃがむ。

 留め具が閉じている。

 ここで他を探せばよかったのだが、酔った伊坂は、袋の口が閉じているなら開ければいいと思った。

 金具へ手をかけた。指が滑る。違う部分を引っ張り、二度ほど失敗した。それでも諦めなかった。

「伊坂さん、それ首藤さんの鞄じゃないですか」

 後ろから誰かが言った。

 持ち主が誰であろうと、吐きそうな伊坂には関係がなかった。目の前に必要な大きさの入れ物がある。それだけである。

 ようやく留め具が外れた。

 蓋を開くと、財布や手帳、化粧品、鍵、革の小物がきれいに入っていた。邪魔だとは思ったが、取り出している余裕はない。

「ちょっと、あなた、何をしているの?」

 首藤の声が聞こえた。

 伊坂は答えず、両手で鞄の口を広げた。そのまま顔を近づけ、吐いた。

 一度では終わらなかった。

 酒と料理が、中に入っていたものへまとめてかかった。伊坂は鞄を押さえたまま、胃の中が空になるまで顔を上げなかった。少し外へこぼれたものの、大半は中へ収まった。

 周囲が静かになった。

 伊坂は最後に咳き込み、手の甲で口を拭った。床をほとんど汚さずに済んだことで、少し安心していたのかもしれない。

「てめえぇぇぇ!!!!!何してやがるお前ええ!!!!!」

 首藤が立ち上がり、伊坂の頭を鷲掴みにした。
 そのまま前後左右へ激しく揺さぶる。吐いたばかりの胃まで動き、伊坂はまた気持ちが悪くなった。

「あんた、私の鞄に何をしているのよ!?」

「吐きそうだったから、袋に」

「これは鞄よ! どうしてわざわざ開けたの!?」

「閉じてたから……」

 首藤の手が一度止まった。
 それから、先ほどより強く揺さぶられた。

「あんたは人の持ち物を何だと思ってるのよ!? せめて中身を出すとかは!!?」

「でも、そこらで吐くよりはよかっただろ」

 伊坂はそう説明したらしい。
 本人は覚えていない。

 後日、目撃者から「首藤さんが怒るたび、伊坂さんが自分で怒らせる理由を足していた」と聞かされた。

 首藤の手が頭から離れた。
 許されたのかと思って顔を上げると、彼女は腰のベルトを抜いている。ちなみに、彼女の得意殺害方法は絞殺だった。

「環、落ち着いて。ここで殺すとホテルに迷惑がかかるから」

 車折が言う。
 首藤はベルトを半分に折り、長さを確かめる。

「分かっていますわ。あなた、外へ運ぶのを手伝ってくださる?」

「外ならいいって話じゃないんだけど」

「では私一人で結構です」

 ここら辺のことは覚えていない。周囲の証言を元に想像すると、伊坂は立ち上がろうとしたが、足がもつれて椅子へ倒れた。首藤は背中へ膝を載せ、宴会場の飾りに使われていた紐で両手首を縛った。伊坂のベルトも抜き、足首へ回す。
 止めようとした社員も、汚れた鞄の中を見せられると手を引いた。

 臭いもひどかった。財布も手帳も、表面を拭けば済む状態ではない。

 伊坂は宴会場から運び出された。途中から車折と男性社員が手を貸したが、助けるためではなく、廊下へ吐瀉物を落とさないためだった。

 首藤は背中側で両手首と足首をまとめ直し、宴会場から持ち出した飾り紐を非常階段の手すりへ通した。伊坂は丸焼きにされる豚のような格好で吊られた。

 伊坂は力だけなら簡単に逃げられたはずだが、首藤を殴れば怪我では済まない。酔っていても、その程度の加減は残っていた。結果、人間の胸郭を素手で潰せる男が、細い紐で縛られたままひんひんと泣いた。

「あんた、どうして泣いているの?」

「痛いし、怖いから……」

「私も大切な鞄へ吐かれて、とても悲しいのよ」

「弁償する。俺は責任を取れる人間だから」

「そう。では、死ぬ前に一筆書いてくださる?」

 首藤は伊坂の首へベルトを巻いた。
 楯岡が到着した時、伊坂は五分の三ほど殺されていた。

 会場へ入っても伊坂の姿がなく、何人かの社員が濡れた布やビニール袋を持って出入りしていた。楯岡が居場所を尋ねると、全員が非常階段を指した。

 扉を開ける。

 夜風に吹かれて冷やされている、丸焼きの豚スタイルの伊坂と、ギリギリ死なないようにいたぶっている首藤がいた。

「何してるの?」

「罰を」

「今回はどんなやらかしを?」

「私の鞄を勝手に開けて、中へ吐きました」

 楯岡は吊られている伊坂を見た。伊坂は口を動かしたが、声はほとんど出ていない。

 車折がスマートフォンを差し出した。

 画像の中では、首藤の台無しになってしまった鞄がある。楯岡もこの鞄がどういう価値があるかは知らなかったが、人の私物の中に嘔吐するのは普通にダメだ。身の回りのものにこだわりのある首藤なら、きっと普通に高級品か愛着のあるものだったのだろう。

「それは伊坂が悪いな」

「楯岡……」

 助けに来たと思っていた相手から責任の所在を示され、伊坂の涙が増えた。

「首藤さん、お怒りはごもっともだけど全殺しはまずいよ。会社の飲み会で死者が出ると、幹事も始末書になるし」

「五分の四で止めますわ」

「それならまあ」

「まあじゃない! 助けてくれ!」

 声を出したせいでベルトが締まり、伊坂は咳き込んだ。「うるさい!」と叱られ尻を蹴り付けられ、これで五分の四殺しが完成した。

 医務室の記録には、頸部損傷、呼吸困難、打撲、両手足の擦過傷、急性アルコール中毒と書かれた。もう少し首を絞められていれば危なかったが、生きていたので問題ない。

 その晩、伊坂は予定通り楯岡のマンションへ泊まった。搬送された、というのが正しいのかもしれない。楯岡に肩を貸され、途中から引きずられるように運び込まれた。まだ吐く可能性があったため、ベッドにも布団にも入れてもらえず、浴室の床へ古いタオルを敷かれて寝かされた。

 翌朝、伊坂は首の痛みで目を覚ました。

 口の中が乾き、頭が重い。頬も腫れ、手首と足首には赤い跡が残っている。服は楯岡の古いスウェットへ着替えさせられていた。この時点でほとんどが忘却の彼方に飛んでいて、我が身の哀れさに震える。理由がわからないのに大きめの怪我をしているのは、非常に怖い。
 浴室に寝ているのも意味がわからず、楯岡が水を持ってくるのが数秒遅れたらどこかに監禁されたと誤認して壁を破壊していたかもしれない。

「俺、誰かに襲われた?」

「お前が先に首藤さんの鞄を襲ったんだよ」

「鞄?」

「どこまで覚えてるの」

 目を閉じる。黒くて大きなものへ吐いた。直後に頭を掴まれた。残っているのはそれだけで、なぜここにいるのかは記憶がつながらない。

「袋に吐いた気がする」

「あれは袋じゃなくて、首藤さんのバーキン」

「バーキンって何だ」

「鞄の名前」

「物に名前をつけてたのか。先に教えてくれれば」

 楯岡は黙ってスマートフォンを見せた。
 昨夜のものと同じ形をした鞄と、価格が表示されている。伊坂は数字の桁を二度数えた。

「鞄だぞ」

「鞄だよ」

「これを普段から持ち歩いてたのか? 危ないだろ」

「お前以上に危ないものは存在しなかったんだよ」

 鞄だけでなく、中に入っていた財布や手帳、革小物、化粧品も駄目になっていた。

 伊坂にも弁償が必要なことは分かる。ただ、酒が弱いと言っていたのに勧められたことや、近くに適切な袋がなかったことを考えれば、周囲にも多少の責任があるのではないかと思った。そもそも最初に酒を勧めたあいつ、あいつがいちばん悪い。あれさえ無ければ酒なんて飲まずに黒烏龍茶で腹を満たして満足していたのに。

「会社の飲み会で起きた事故なら、保険とか使えないのか? 俺は酒で判断能力を失っていたわけだし」

「それを首藤さんへ言える?」

「一括で全て払います」

 即答した。

 午後には、社内の雑談チャンネルへ事件発生時の映像が投稿された。誰かが全体を撮っていた時、偶然映り込んでいたらしい。わざわざ自宅へ持ち帰ったあと、加工編集して見やすくしてくれている。嫌がらせには途端に丁寧な仕事になるのも、殺し屋の特徴だった。基本的にみんな性格はどこか歪んでいる。

 動画の伊坂は、想像していたより落ち着いていた。自分から立ち上がり、鞄まで歩き、留め具を外している。蓋を開けたところで少し考えるように首を傾け、そのまま吐いた。

 事故と言うには、無理があった。

 伊坂は動画を閉じた。

 鞄も中身も弁償し、始末書を書いた。《今後は飲酒を避け、吐き気を感じた場合はトイレまたは備えつけの袋を使用する》と記載した。総務からは、「他人の鞄へ吐かないことは再発防止策ではなく常識です」と注意された。ぐうの音も出ない。

 

 それから二年、首藤は伊坂をゲロ坂と呼び続けている。

「俺はもう十分償ったと思う」

 言わなければいいのに、黙っていると自分だけが一方的に非を認めたことになる気がしたのである。鞄も中身も弁償した。始末書も書いた。酒はあの日から一滴も飲んでいない。法的な刑罰なら、ここまで長く名前へ罪状をつけて呼ばれることはないはずだった。

「何かおっしゃった、ゲロ坂?」

「人間にはやり直す機会が必要だと言ったんだ。過去の失敗をいつまでも名前へ組み込むのは、健全な職場環境とは言えない」

「では、あんたがあの鞄と全く同じものを買い直した日にやめて差し上げます」

「金は払っただろ。使ってた鞄なんだから、新品を要求するのはおかしい。減価償却というものがある」

 確かに、伊坂は弁償した。鞄を購入した当時の金額を調べ、中身と合わせて一括で支払っている。本人としては、責任を余すところなく果たしたつもりだった。

 ただし、バーキンの値段が買った時と売る時で同じとは限らないことも、同じ型、同じ革、同じ色のものが店へ行けばいつでも買える商品ではないことも知らなかった。希少な品は年月とともに値が上がる場合があり、金を用意したからといって、失ったものと全く同じ鞄が手に入るとは限らない。

 首藤は購入時の金額だけを受け取り、それ以上を請求しなかった。

 伊坂は、それがかなり優しい対応だったことを知らない。

 首藤は踵を返しかけたところで、ぴたりと止まった。

 第三業務室にいた何人かも、さりげなく作業の手を止めた。伊坂だけは気づいていない。自分は冷静に筋の通った話をしていると思っていた。むしろ二年間も耐えたのだから、かなり寛容な被害者である。被害者という言葉の使い方が逆だと指摘する者はいなかった。

 

「吐瀉物の臭いが取れずに処分した鞄へ、減価償却を持ち出すのね」

「俺が言いたいのは、金銭的な責任は果たしたということだ。いつまでも感情で罰を追加するのはよくないぞ」

「そう。あんたには私が感情的に見えるのね」

 首藤は穏やかに笑った。
 伊坂はようやく周囲の空気がおかしいことに気づき、椅子ごと少し後ろへ下がった。向かいの楯岡は画面を見たまま、関わらないふりをしている。こういう時だけ他人になるのは卑怯だと思う。

「楯岡、お前も何か言ってくれ。俺はもう酒も飲んでいないし、再発防止もしている」

「再発防止って何してるの?」

「吐きそうになった時のために、袋を用意している」

 伊坂は証拠を見せようと上着のポケットへ手を入れた。何もない。反対側も探り、ズボンのポケットまで確認してから、楯岡の机の脇に置かれた鞄へ目を向けた。

「あ、昨日お前の鞄に入れたままだ」

「再発防止用の袋を、どうして他人の鞄へ入れているのかしら?」

「俺は鞄を持たないから……」

 口にしてから、まずいと思った。

 自分で袋を持たない。必要な時には他人の鞄に入れておく。そして肝心な時に見つからなければ、近くにある大きな鞄を使う。二年前から何も変わっていないことを、本人が順序立てて証明してしまった。

 楯岡は自分の鞄を引き寄せ、伊坂の手が届かない机の下へ移した。

「俺の鞄には絶対吐くなよ」

「吐かない! お前のは口が狭いだろ!」
 
 首藤は首元のスカーフを外しながら、伊坂の方へ一歩近づく。

「ゲロ坂。あんた、何も反省してないじゃない」

 伊坂は逃げようとして、椅子の脚を机へ引っかけた。

 今度こそ黙るべきだったと気づいた時には、もう遅い。その後、楯岡は急な現場へ呼び出された。伊坂には午後から振り分けられた仕事もなかったことが災いし、首藤に屋上へ運ばれ、楯岡が退勤時間に迎えに戻るまで吊られて泣く羽目になった。

 途中、煙草休憩に来た社員が何人か、手すりからぶら下がる伊坂を見上げた。驚きもしなければ、事情を尋ねもしない。「死ぬなよ~」と気の抜けた声援を残し、煙草を吸い終えると、そのまま屋内へ戻っていった。誰一人、紐へ手をかけてはくれなかった。

「俺はなんて不幸なんだ……」

 声を張る元気もなく、伊坂は鼻をすすりながら、力なくそう呟くことしかできなかった。

 

 

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