地下二階の適材適所

 午後三時を少し過ぎた第三業務室で、伊坂恭平は一枚の作業変更票を両手に持ち、楯岡博文の机の脇に立っていた。何か頼みたいことがあるのだろうとは察していたが、こちらから先に声を掛ければ、伊坂の「察してもらえるまで待つ」という悪癖を育てかねない。楯岡はあえて自分の仕事に集中し続け、八分後、ようやく絞り出された「たておか……」というか細いSOSを聞いてから顔を上げた。

 伊坂の持つ紙の右上には第二処理課提出用と印刷され、その下へ伊坂の字で、左前腕部保存、上腕中央部より切断、焼却不可、と書き加えられている。
 今朝まで左腕も胴体と一緒に処理する予定だったが、依頼人から連絡があり、生前につけられた古い傷跡を確認したいと言い出したらしい。何を確認し、確認したあとどう使うのかは依頼書に書かれていない。
 依頼人が必要だと言うなら必要なのだろう。殺し屋派遣会社の業務では、細かい理由を尋ねないことが正しい場合が多かった。

「これ、第二処理課まで一緒に持っていってくれないか」

 伊坂は変更票を楯岡の机へ置かず、胸の前で握り締めていた。
 地下二階の処理場へ提出し、担当者から受領印をもらうだけである。同じ会社の中を三階から地下二階まで移動する仕事に、成人男性が二人必要になる理由はない。

「俺が持っていこうか?」

「違う。俺も行くから、お前も来てくれ」

「だったら一人で行けるだろ」

「今日の地下担当、裂谷なんだよ」

 楯岡は壁へ貼られた勤務表を見た。第二処理課の地下担当欄には、たしかに裂谷昂とある。隣の洗浄担当は鷹無だが、機材の受け取りで外へ出ており、しばらく戻らないらしい。地下には裂谷一人だった。

「普通に渡せばいいだろ、別に悪い人じゃないよ」

 楯岡が手を差し出すと、伊坂は変更票を背中へ隠した。「悪い人ではないが怖い人だろう!」と唸るように言う。確かに怖くはあるが、害意はないので問題ないと思う。が、それを言葉にすると長々と反論されそうなので楯岡は口を閉じた。
 伊坂は自分で行くことは嫌だが、すべて楯岡へ押しつけるのも嫌らしい。普段は所在の怪しい良心が、面倒な場面に限って顔を出している。

「お前だけ行かせたら、俺が苦手な人間を押しつけたことになるだろ。こういうことを繰り返して人は嫌われるんだ。俺はただ苦手な人と二人きりになりたくないだけなのに、その気持ちを守ろうとすると他人へ負担を押しつける最低な人間になる。なんて俺は不幸なんだ!」

 伊坂は変更票を持ったまま頭を抱える。紙の端が額へ当たり、少し折れた。折れたことに気づくと慌てて机の縁で伸ばし始め、かえって角を潰していた。
 放っておけば、自責から他責へ移り、裂谷の職務態度が物理的に悪いという結論へ到達するだろう。それを丁寧に聞くより、一緒に行った方が被害が少ない。

 裂谷昂は、処理場の外では話しかけやすい男だった。
 少し引っ込み思案で、自分から会話の輪へ加わることは少ないが、声をかければ必ず手を止めて相手の顔を見る。廊下ですれ違えば丁寧に会釈をし、給湯室に菓子が置かれていれば人数を数えてから手をつける。誰かが落とした社員証を拾った際には、写真と本人の顔を見比べることさえ失礼だと思ったらしく、裏返したまま総務へ届けていた。

 顔立ちも整っていた。色の薄い肌に細い鼻梁、伏せがちな目と長い睫毛があり、黙って窓辺に座らせれば昭和の少女雑誌に載っていた悲恋漫画へ出てきそうな雰囲気がある。
 華族の令嬢へ思いを寄せながら、家の事情で身を引き、最終回の三ページ前に血を吐く青年である。もう少し簡単に言えば、結核で死にそうな当て馬ヒーローだった。

 ただし、現実の裂谷が息を切らしているのは肺病ではなく、単純に体力がないためである。背が高いわりに肋骨が薄く浮くほど痩せ、遺体を一体動かしただけで、しばらく壁へ手をつく。薄命の美青年めいた外見と、がっつり肉体労働の勤務内容は、ひどく相性が悪かった。

 第二処理課に所属する者の多くは、第三業務室を含む実行部門の社員と違って、仕事と趣味の境目が薄い。実行部門には、報酬を受け取るために殺し、契約を終えるために必要なことだけをする者が多かったが、第二処理課へ集められるのは、給与が出なくても死体を切り分けたがる人間である。

 鑿目は人体を切り分ける工程を好み、鷹無は遺体写真を集め、損傷や腐敗の状態ごとに分類している。裂谷は死体が人間の形を失っていく過程そのものへ性的興奮を覚えた。

 どれも一般社会へ放出すれば、遠からず警察か遺族か地域住民へ迷惑をかける。
 社長は彼らを適材適所で保護していると言った。本人たちも設備の整った場所で趣味と実益を両立させ、社会の役に立ち、毎月決まった給料まで受け取れるので会社へ感謝している。会社側も、規則を守らせて依頼された死体だけを与えておけば、社外で勝手なことをされずに済む。
 おおむね全員が得をしていた。対象はすでに死んでいるため、意見を求める必要はないとされている。

「先に言っておくけど、裂谷さんへ失礼なことを言うなよ」

「俺は人に失礼なことなんて言わない。正直な感想を口にしているだけだ」

「正直な感想を全部口にすることを、失礼って言うんだよ」

「でも悲鳴は反射だろ。俺の人格とは切り離して考えて欲しい」

 エレベーターで地下二階まで降りる間、伊坂は階数表示を睨み続けていた。一階を過ぎたあたりで変更票を楯岡へ渡そうとしたが、受け取らずにいると諦めて自分の胸へ抱え直す。
 地下二階には第二処理課の処理場と冷凍保管庫、焼却設備がある。扉が開くと、消毒薬と湿った金属のにおいが鼻へ入った。床は、感染性廃液の処理槽へつながる中央の排水溝へ向けてわずかに傾斜し、壁際には黄色いホースが巻かれている。掃除は行き届いていたが、ここで何を洗い流しているのかを知っていると、清潔さが安心にはつながらない。

 地下処理場の扉には、作業中を示す赤いランプが点灯していた。楯岡が横の呼び出しボタンを押すと、室内のどこかで短い電子音が鳴った。数秒後、赤いランプが二度点滅し、電子錠が内側から外れる。
 作業者が手を使えない場合に備え、処理台の足元には解錠用のペダルが設置されていた。返事はなかったが、入ってよいという合図だった。伊坂がすぐ後ろへ下がった。

 扉を開けると、冷えた空気が流れてきた。

 天井の蛍光灯が一本だけ不規則に明滅していた。
 奥にある作業台の周囲だけが白く照らされ、その外側は薄暗い。台の上には腹部を開かれた男が横たわり、胸から下へ透明なシートが敷かれている。
 右腕はすでに外され、銀色の盆へ載せられていた。床へ落ちた水滴が光るたび、黒いものが這っているように見えた。

 作業台の向こうに、人の形をした何かが立っていた。

 頭部全体を覆う黒い防護マスクには丸いレンズが二つ、その下に左右一対の吸気口があり、そこから、ふしゅう、ふしゅう、と濡れた呼吸音が漏れている。
 全頭マスクと肘まであるゴム手袋、膝下までの白い防水長靴以外には何も身につけていない。白い胸には肋骨が一本ずつ浮き、腹は内臓が入っていることを疑うほど薄かった。長い腕の先だけが赤黒く濡れた手袋へ包まれ、片手には刃の細い電動鋸が握られている。足元まで血と洗浄水が流れていたが、本人は気にした様子もない。

 全頭マスクの丸いレンズが扉の方を向いた。

 呼吸音が一度だけ止まる。

 機械の止まった室内で、裂谷の痩せた身体だけがゆっくり上下していた。下腹部には、業務上は一切必要のない生理現象が、隠すものもないまま荒々しく現れていた。

 黒い全頭マスクと最低限の防護具だけを身につけ、性的興奮を露わにしたまま死体の向こうへ立つ姿は、人間というより、何か間違った条件を満たしたときだけ地下へ現れる異形の怪物に近かった。
 ただ、仕事中でない裂谷の顔や振る舞いを知っていると、完全に怪異として片づけることも難しい。あの大人しく人のよい青年が、作業の都合でこうなっているのだと思えば、まあ、そういう種類の前衛芸術なのだろうと、ある程度までは自分を誤魔化すことができた。

 裂谷は男にしては体毛が薄い。痩せた腕にも胸にもほとんど影がなく、白い皮膚と浮き出た骨の上へ、他人の赤だけが鮮烈に飛び散っている。その色の対比があまりに出来すぎているせいで、かえって生々しさが遠のいていた。現実の処理場にいる人間ではなく、悪趣味な彫刻家が人の嫌がるものだけを選んで造った、題名の分からない大理石の像のように見える。

 裂谷が裸で作業する理由は、衣服を汚さず、作業後に身体ごと洗えるからだと聞いている。興奮を恥じていないから隠そうとしないのか、隠す物がないため結果的に見えているだけなのか、どこまで意図した状態なのかは分からなかった。質問すれば丁寧に答えるだろうが、答えを得る必要性を楯岡は感じなかった。

「ひい! 怪奇全裸勃起死体損壊男!!」

 背後で伊坂が叫び、廊下の壁へ肩を打ちつけた。変更票だけは落とさず、両手で胸へ抱えている。
 裂谷は鋸を作業台へ置くと、血のついていない手首でマスクの下端へ触れた。丸いレンズの奥は見えないが、肩の動きと首の傾け方から、苦笑しているらしい。

 大人の対応を取られているな、と楯岡は思った。

 客観的に考えれば、伊坂の反応の方が人間としてはまともな部類である。
 地下の薄暗い処理場で、全頭マスクを被った全裸の男が、性的興奮を露わにしながら死体を切り分けている。遭遇した者が悲鳴を上げるのは自然だった。むしろ楯岡のように業務連絡を優先できる方が、何か大切な感覚を会社へ置き忘れている可能性がある。

 しかし裂谷は、こちらが依頼した仕事を一生懸命こなしてくれている他部署の同僚である。

 異常な状態ではあるが、少なくとも処理対象と作業手順について明文化された規定には従い、第三業務室の都合による仕様変更にも対応しようとしている。その相手を指差して怪異と呼んだ以上、この場では伊坂の方が悪いことになる。

「すいません」

 楯岡が頭を下げると、裂谷は慌てたように片手を振った。手袋から赤黒い水滴が飛び、作業台の端へ落ちる。

「いえいえ、私側の事情が原因ですのでお気になさらず」

 声は全頭マスクへこもり、ふしゅう、という呼吸音が語尾へ重なった。説明の内容も態度も完全に大人だった。裂谷は自分の趣味と作業時の状態が、他人へ強い衝撃を与えることを理解している。理解したうえで改善していない部分はあるが、驚いた相手を責めるほど無自覚ではなかった。

「驚かせてしまって、すみません。呼び出しに返事ができなくて」

「怖さの種類が俺の耐え切れるものじゃないんだ!!」

「伊坂、大人の対応をして」

「いま俺だけに大人を要求するのはおかしいだろ!」

 伊坂はぎゃうぎゃう騒ぎながら廊下の端まで下がり、消火器と壁の隙間へ身体を押し込んだ。成人男性が収まる場所ではないため、右肩と片膝が外へ出ている。裂谷は全頭マスクの下でもう一度苦笑したらしく、痩せた肩がわずかに揺れた。

 楯岡も伊坂へ同情しないわけではない。ただ、同情と擁護は別だった。会社員としてどちらを注意すべきかと問われれば、答えは一つしかない。伊坂が悪い。

「第三業務室から処理仕様の変更を持ってきました」

「すみません、マスクで視野が狭くて。もう少し近くで見せていただいてもいいですか」

「伊坂、持ってきて」

「俺をあれへ近づけるのか!?」

 伊坂は動かなかった。楯岡が手を伸ばすと、消火器の陰から腕だけを精一杯伸ばし、指先で変更票を差し出してくる。紙を受け取った楯岡は、入口脇に置かれた透明な防水ケースへ差し込み、来訪者用の黄色い線まで室内へ入って裂谷へ向けた。

 裂谷は手袋を外せないため、少し腰を曲げて内容を読んだ。マスクのレンズが紙へ近づき、ふしゅう、ふしゅう、と呼吸が表面へ当たる。処理場は低温に保たれているのに、肩から胸には汗が流れていた。
 全頭マスクで呼吸が妨げられているのか、体力のない状態で腕一本を切り離したからなのか、死体の胸腔を開いたことで興奮しているのかは分からない。三つともかもしれなかった。

「左前腕を保存ですね。切断位置は上腕中央、保存する側に余裕を持たせる形でよろしいでしょうか」

「傷の周囲を確認したいそうなので、上腕の半分までは確実に残してください。洗浄だけして、薬品処理と焼却はなしで」

「分かりました。個別保管用の札をつけます。ちょうど右腕を切り離したところで、左はまだ触っていません。受領印は洗浄後になります。少しお待たせしますが、大丈夫でしょうか」

「今日中に変更票を戻す必要があるので、ここで待ちます」

 裂谷は小さく頷いた。話している内容だけなら、どこにでもある業務連絡だった。依頼内容を確認し、保存範囲を決め、処理の順番を調整する。
 声も普段通り穏やかで、言葉遣いにも問題はない。ただし、ふしゅう、ふしゅう、とマスクから漏れる呼吸は次第に荒くなり、下半身では一切の鎮静が起きていなかった。
 仕事の打ち合わせをしながら、他人の生理現象をこれほど近くで見る機会が人生にあるとは思わなかった。

 これさえなければなあ、と楯岡は思う。

 裂谷は良い人である。少なくとも、生きている相手へは優しかった。
 殺害業務を勧められても、相手が痛がるのを見るのは可哀想という理由で断っている。死体には痛覚も人格も残っていないため壊してよいと考えていたが、生前の人間について勝手な想像をすることは失礼だと言い、依頼書に記載された以上の事情を知ろうとしない。遺品を持ち帰ったこともなければ、個人的に写真を撮ったこともなかった。
 会社から与えられた遺体を会社の設備で損壊し、興奮し、作業が終わればきれいに洗い流して帰る。規則を守っている限り、彼の内側にあるものを罰する理由はない。

 社長は入社時、裂谷へ三つの条件を出した。
 生きている人間へ手を出さない。会社から許可された遺体以外へ触れない。作業中に発生したものは、血液であれ体液であれすべて感染性廃棄物として処理する。裂谷は一つ目と二つ目を厳格に守り、三つ目についても清掃記録上は問題を起こしていない。唯一、安全衛生担当から支給されたゴムエプロンだけは、別の汚染リスクがあるという本人の申告によって、着用方法がまだ決まっていなかった。

「伊坂さん、できるだけ見えない位置で作業しますので」

「存在が怖いんだ! 配慮でどうにかなる段階を越えている!」

「廊下にいれば見えないだろ。もう少し離れて待ってなよ。裂谷さんの邪魔をするんじゃない」

「一人にしないでくれ! ここで置いていかれたら、あれが扉を開けて追ってきた時に俺しかいないだろ!」

「人を“あれ”って言うのはやめろ。失礼だろ」

「ごめんなさい!」

「良いんですよ、気にしないでください」

 裂谷は追わないと思うし、仮に追われても伊坂の方が速い。体力のない裂谷は三十メートルも走れば呼吸困難になるし、伊坂は依頼人の乗った車を追いかけ、走行中の後部座席側の窓を割って乗り込んだことがあるので、身体能力の差は比較するまでもない。この時の伊坂は窓を割るという解決策に気付くまで、暫く車と並走していた。時速的にはダチョウと同じくらいはあった気がする。

 裂谷はゆっくりと片手を振ると、全頭マスクの下で困ったように笑った。顔は見えないが、その表情だけは想像できる。普段の裂谷なら眉尻を下げ、相手を刺激しないよう口元だけをわずかに緩めるだろう。あの状態で死体を損壊している男へ、楯岡がそこまで穏やかな表情を想像できてしまうこと自体、会社へ馴染みすぎた結果かもしれなかった。

 裂谷は左腕の保存作業へ移った。鋸の電源を入れると、細い刃が甲高い音を立てる。痩せた背中が丸まり、浮き出た肩甲骨の間を汗が落ちた。
 刃が肉へ入る。全頭マスクから漏れる呼吸が機械音へ混じり、切断が骨へ達したところで急に深くなった。下腹部が作業台の縁へ当たりそうになるたび、裂谷は腰を引いて距離を取る。
 それでも作業の正確さは変わらない。指定された範囲より十分に余裕を持って切り離し、断面を防水材で覆い、透明な保管袋へ収める。袋へ管理番号を貼り、冷蔵保管箱へ入れたあと、変更票へ肘で示しながら、印鑑は洗浄後に押すと伝えた。

 左腕の保存を終えると、裂谷は切り離してあった右腕と、作業台に残る胴体の処理へ戻った。予定されていた作業をすべて終えたあと、床と作業台を洗い始める。自分の身体へついたものもまとめてホースの水で流し、排水溝へ落としていった。
 伊坂はその場面を一度だけ見て、声も出さずに廊下の角まで逃げた。楯岡は壁際の椅子へ座り、スマートフォンで未読の業務連絡を確認しながら待った。他部署の仕事を見るのは刺激があっていいな、と思いつつ、刺激の方向性が間違っているような気もしなくもない。
 処理場から水音が消え、清掃確認の電子音が鳴る。裂谷はそのまま隣のシャワー室へ入り、十五分ほどして服を着た姿で戻ってきた。

 薄い灰色のシャツに黒いスラックスを穿き、濡れた髪を額へ貼りつかせている。顔色はあまりよくなかったが、もともと血の気が薄いので普段通りとも言えた。
 細い顎と整った目鼻立ちが露わになると、先ほどまで処理場にいた邪悪な怪人らしさは消える。昭和の悲恋漫画なら、療養先の海辺で主人公と出会い、夕日の中で咳き込みながら秘密を打ち明ける役が似合う。白い貝殻をヒロインのために見つけてあげてそうな顔だ。桜貝でもいい。実際には地下で死体を切り分け、その最中に性的興奮を起こしていた。少女漫画へ出すには説明の難しいヒーローだった。

 裂谷は廊下の給水機から紙コップへ水を注ぎ、両手で持って少しずつ飲んだ。その姿だけなら、運動の苦手な青年が体育の授業を終えたあとにしか見えない。

「お待たせして、すみません。受領印はこちらです」

「ありがとうございます。裂谷さん、社長から作業中はゴムエプロンをつけるように言われてませんでした?」

「はい。面談のたびに、どうにか使えないかと言われています」

「どうしてつけないんですか?」

 裂谷は紙コップへ目を落とし、少しだけ言いにくそうに口を開いた。

「物理的にどうしても擦れるじゃないですか。ついうっかり、私のDNAが零れたら危ないので……」

 ひどく真面目な顔だった。現場へ自分の体液を残せば会社へ迷惑をかける。感染性廃棄物が増えれば清掃担当の負担にもなる。ゴムエプロンが下腹部へ触れ、摩擦による直接的な刺激で何が起こるのかを考えたうえで、何も身につけない方が安全だと判断しているらしい。

 楯岡は、服を着ればいいのではないかと思った。実はこの世には下着という便利なものがある。汚れたら洗うか捨てればいい。
 そもそも全頭マスクを選ぶ程度には防護を気にしているのに、それより下をすべて剥き出しにしているのがおかしい。性器を無防備にしたまま血液や骨片や洗浄薬品の飛ぶ場所へ立つ方が、感染防止の観点では問題が大きい。
 ゴムエプロンの丈や固定位置を変える方法もあるし、作業へ性的興奮を覚えること自体を前提に安全器具を特注してもらう手もあった。
 社長へ相談すれば、社員一人の異常性へ合わせた備品くらい喜んで発注するだろう。あの人はそういう会社づくりを適材適所と呼んでいる。

「そうか……そうだね……」

 楯岡はうっすらと微笑み、胸に浮かんだ数々の意見をすべて飲み込んだ。おそらくだが、開放的な下半身で業務に臨むこと自体にも、何らかの快感を見出しているのだろう。死体損壊と露出​──二つの業を背負っている可能性に、この短時間で気づいてしまったが、あえて口にする必要はなかった。

 裂谷は安心したように頭を下げた。自分の説明が理解されたと思ったらしい。廊下の角では、伊坂がまだ裂谷の方を警戒し、何かあればすぐ逃げられるよう腰を落としている。

 裂谷は異常者だったが、頼まれた仕事を正確にこなし、失礼な態度を取られても大人の対応ができる。
 伊坂は感覚こそ正常だったが、他部署の同僚を指差して怪異と呼び、最後までぎゃうぎゃう騒いでいた。

 どちらが社会人としてまともかは、考えない方がよい。視点によって意見が変わりそうだ。

 ゴムエプロンを着用させるのは社長と安全衛生担当の仕事であり、伊坂へ礼儀を教えるのは、たぶん楯岡の仕事ではない。

 他人の問題は、頼まれてもいないのに拾い上げると自分の問題になる。楯岡は二十八年かけて、そのことをよく知っている。お口にチャックで、今日もまた平和に生き抜いていた。

 

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!