『異(略)』③

 夕食が終わる頃には、外はもうすっかり暗くなっていた。冬の山は日が落ちるのが早い。王都ならこの時間でも大通りには魔石灯が並び、店もまだ開いているけど、セデ村では家々の窓から灯りが漏れているくらいで、その向こうは何も見えなかった。

 

 俺たち使節団は、村のいくつかの家へ分かれて泊めてもらうことになった。十五人近くいるので当然と言えば当然だ。俺はゲルハルトさん、オスカーさん、ルドルフさん、それから護衛二人と同じ家に割り振られた。広い家ではないので一部屋へ何人も詰め込まれることになったけど、そこに文句はない。突然十五人も押しかけたんだから、屋根の下で寝かせてもらえるだけでも十分だろう。

 

 それに夕食は驚くくらい美味かった。白いパンは柔らかかったし、鹿肉の煮込みも臭みがなく、木の実を蜂蜜へ漬けたやつなんか普通に王都へ持って帰りたいくらいだった。村だからもっと硬い黒パンとか、塩漬け肉を煮ただけのものが出てくると思っていた。偏見だったな。反省。

 

 食後に部屋へ戻ると、ゲルハルトさんたちはすぐ明日の話し合いについて相談を始めた。昼間は思った以上にアリアさんに押されたので、同じやり方を続けるわけにはいかないらしい。机へ紙を広げ、ルドルフさんが今日のやり取りを書き出し、ゲルハルトさんとオスカーさんが聖典をめくっている。

 

「第三校訂版だけでは弱いでしょうな。あちらは旧版まで把握している。こちらから聖典を持ち出せば、また同じところを突かれますぞ」

「分かっている。だから明日は神学上の優位性ではなく、受け入れ環境について話す。神獣様のご意思を無視するつもりはないことも、最初にはっきり伝えておくべきだろう」

「それは今日も伝えたでしょう」

「伝え方が悪かったから、ああなったんだ」

 

 ゲルハルトさんが額を押さえた。昼間のアリアさんは本当に強かった。こっちが何か言うたび、そこは違います、この記述ではそうなっています、その解釈は何年の版ですか、と返してくる。

 

 オスカーさんの失言についてはどう考えてもこっちが悪いので仕方ないとしても、それを抜きにしてかなり手強い。やっぱりメインヒロイン枠なんだろうな。頭が良くて、元高位貴族で、国王と繋がりがあって、神官で、辺境まで単身派遣される行動力まである。そのうえ胸が大きくて顔も可愛い。設定を盛れるだけ盛った感じがする。こういうキャラが序盤に出てくるなら、今後も関わる可能性は高いだろう。

 

 もちろん、それより先に神獣だ。俺は少し離れた椅子へ座って、大人たちの話を聞いていた。正直、今日の話し合いは思っていたものとだいぶ違った。

 

 俺としては、まず神獣がどこにいるのか聞いて、遠くからでも姿を見せてもらって、可能なら本人の意思を確かめるくらいまでは進むつもりでいた。ところが実際には、神獣がいる山へ勝手に入るな、近づくな、神獣には家族がいる、人間から接触すること自体が危険だ、そんな話ばかりだった。

 

 言っていることは分かる。でも、それでは俺は何をしにここまで来たんだ。何日も馬車へ揺られ、父上と母上を説得して、《万語理解》まで明かした。それなのに、明日もう一度話して、それでも駄目でした、村で何日か待ったけど姿を現しませんでした、では、そのまま帰ることになるかもしれない。さすがに、それはないだろう。俺の人生にようやく出てきた最初の大型イベントだぞ。それで何もしないまま帰る主人公がいるか? いない。反語。

 

 少なくとも俺が読んできた漫画や小説なら、ここはむしろ大人から「危険だから待っていなさい」と言われた主人公が、何かのきっかけで神獣と出会うところだ。……いや。別に、勝手に山へ入ろうとしているわけじゃない。まだ。

 俺は欠伸をした。もちろん、わざとだ。

 

「眠いのか?」

 

 すぐにゲルハルトさんが気づいた。

 

「少しだけ」

「今日は移動もあったからな。無理はするな」

「でも、明日の話ですよね。俺も聞いてた方がいいんじゃないですか?」

「聞いておいた方がいいが、眠いなら暖炉の横にいなさい。風邪を引いて父上に返したら、私が怒られる」

 

 ゲルハルトさんは積んであった毛布を一枚取って俺へ渡した。

 

「ありがとうございます」

 

 頭を撫でられてから、俺は素直に暖炉の脇へ移った。ここの暖炉は魔石暖炉じゃないんだな。普通に薪を燃やしている。ぱちぱち音がするのは嫌いじゃないし、これはこれで雰囲気がある。ただ煙のにおいが髪につくんだよなあ。服なら着替えればいいけど、髪はそうはいかない。明日の朝、湯を使わせてもらえるんだろうか。まあ、村なんだから仕方ない。

 椅子へ深く座って毛布を肩までかぶる。暖炉の火が顔へ当たって気持ちいい。もう一度欠伸をすると、ゲルハルトさんが「寝てもいいぞ」と言ったので、「まだ大丈夫です」と返した。それから五分くらいして、俺は目を閉じた。今度は開かない。呼吸も少しだけゆっくりにする。前世で寝たふりなんてしたことあったかな。子供の頃、親が寝たと思ってから布団の中でゲームをしたくらいなら覚えがある。今世ではたぶん初めてだ。

 大人たちの話し声を聞きながらじっとしていると、紙をめくる音がして、椅子が動き、誰かが暖炉へ薪を足した。

 

「……北部神殿については、こちらから出す話ではないでしょう」

「だから仮に、だ。神獣様が興味を示された場合の選択肢として……」

「それ以前に明日は謝罪からでしょう。オスカー殿」

「分かってますよ」

「本当に分かっている顔ではありませんな」

「今からもう一回謝ってこいって言うんですか?」

「そうは言っておらん。だがお前らは本当に口が悪い、それに迂闊だ。紳士らしく振る舞いなさい」

「…………はい……」

 

 俺は薄く目を開けた。誰もこちらを見ていない。もう少し待つ。ゲルハルトさんが何かを書き始め、ルドルフさんはその隣から紙を覗き込み、オスカーさんは聖典を開いている。護衛二人も明日の動きについて話していた。よし。今だ。

 

 俺は毛布へ顔を半分埋めたまま、そっと身体をずらした。暖炉の横には薪を入れる大きな木箱がある。その陰へ、夕食へ行く前に必要なものをまとめて置いておいた。外套、手袋、短剣、小さな水筒、干し肉を二枚。それから火口。俺には光魔法があるので灯りはいらないけど、何があるか分からないので一応持っていく。準備は大切だ。別に無計画に飛び出すわけじゃない。神獣を探して、見つけたら少しだけ様子を見る。危険そうなら近づかない。話ができそうなら話しかけてみる。それだけだ。

 

 父上からは「神獣を見つけても一人で近づくな」と言われたけど、見つけること自体は禁止されていない。……いや、勝手に一行から離れるなとも言われたな。まあ、そこは神獣を見つけたらすぐ戻ればいい。その間だけだ。

 

 俺はゆっくり椅子から降り、毛布を丸めて座面へ置いた。近くから見れば一瞬で分かるけど、今はみんな机を向いている。外套と荷物を抱え、廊下へ出る小さな戸を開ける。止まる。誰も振り向かない。戸を閉め、そのまま廊下を抜けた。

 

 玄関には村の人がいるかと思ったけど、今はいなかった。外へ出た瞬間、冷たい空気が顔へぶつかってくる。

 

「さむっ」

 

 昼間よりずっと寒い。すぐに外套を着て前を留め、手袋もつける。それから少し待ったけど、誰も追ってこなかった。成功。思ったより簡単だったな。

 村の中は静かだった。ところどころ家の窓が明るく、道には雪が積もっている。人が何度も歩いたところだけが固く踏まれていた。さて、神獣はどっちだろう。昼間に山を見た時から、なんとなく気になる方向があった。

 

 北。理由はない。本当にない。でも、あっちにいるような気がする。

 

 こういうの、物語だとあるんだよな。説明できないけど惹かれる方向へ進んだら運命の相手がいるとか、剣が呼んでいるとか、前世の記憶が反応するとか。俺の場合は《万語理解》もある。もしかすると、まだ自覚していない能力があるのかもしれない。神獣と繋がる何か。あり得る。むしろその方がしっくりくる。

 俺は北側へ続く細い道を見た。昼間、村の人が山から下りてきたのもあっちだ。なんだろう。すごく分かる。この先だ。絶対というほどじゃないけど、胸の奥が妙に落ち着かない。イベントのはじまりの予感がする!

 右手を上げ、掌の少し上へ小さな光球を作る。白っぽい光が浮かび、足元の雪を照らした。よし。行こう。

 

 

 最初のうちは、本当に何の問題もなかった。村の近くには人が歩いた跡が残っている。雪も踏み固められていて歩きやすいし、月が雲に隠れていても光魔法があれば困らない。こういうところ、魔法がある世界って便利だよな。前世でも登山なら何度かした。会社の人に誘われて、高尾山とか筑波山とか。富士山にも一回登った。頂上までは行けなかったけど。

 まあ、全部ちゃんと登山道がある山だった。階段もあれば案内板もあり、途中に売店まであった。今考えれば、あれとこれは全然違う。村から少し離れると、人の足跡が急に減った。その代わり、動物らしい跡が増えていく。四本指、蹄、小さな丸い跡。何の足跡か分からないものも多い。でも村の猟師だってこの辺りを歩いている。そこまで危ない場所なら、何か対策くらいしているだろう。……柵とか。いや、山に柵はないか。

 

 しばらく登ると、雪が深くなってきた。最初は足首くらいだったのが、進むにつれて脛まで沈む。雪の下に石でもあるのか、何度か足裏がぐらっと傾いた。

 

「うわ」

 

 一度、転びかけて近くの木へ手をついた。思ったより滑る。雪山なんだから当然か。少しだけ歩く速度を落とす。急ぐ必要はない。慎重に行けばいい。

 前世で山の事故についてニュースを見たこともある。道に迷ったり、滑落したり。でも、あれはもっと高い山だった。ここは村から見える程度の山だし、俺は光魔法も使える。それに、まだ村からそんなに離れていない。

 そう思って後ろを振り返った。木々の間から村の灯りが見えるはずだったけど、何も見えなかった。

 

「あれ」

 

 木が多いからか。少し横へ動いてみる。やっぱり見えない。まあ、斜面も曲がっているし、森の中なんだからそんなものだろう。来た道だって分かっている。たしか、あの二本並んだ木の間から来て、その前に大きな岩があって。そこで周囲を見回すと、似たような木はいくらでもあった。大きな岩も、少し先にもう一つある。いや。でも大丈夫だ。雪の上には自分の足跡が残っている。帰りはそれを辿ればいい。

 

 俺はまた前を向いた。遠くで何かが鳴いた。甲高い声だった。鳥かな。少しすると、今度は反対側から短い鳴き声が二度した。猿? この世界にも猿くらいいるだろう。別に変なことじゃない。

 少し先の茂みが揺れ、俺は足を止めて光球を向けた。何もいない。枝から雪が落ちただけらしい。

 

「びっくりした……」

 

 自分で笑った。ちょっと緊張してるな。夜の山なんだから普通だろう。前世だって、夜中に一人で山を歩けと言われたら嫌だったと思う。でも今の俺には魔法がある。剣もある。短剣だけど、何もないよりずっといい。十歳の身体とはいえ、普通の十歳より鍛えている。大丈夫。俺は主人公なんだから。

 さらに進むと、雪は膝近くまで来るようになった。足を持ち上げるたび重く、いつの間にか息も上がっている。光球をずっと出している分、魔力も少しずつ減っていた。でも、まだ平気だ。光球一つくらいなら長時間維持できる。俺は魔法が得意なんだから。

 その時、すぐ近くでガサッと何かが動いた。振り向く。木々の間に何かがいる。二つの目が光を反射していた。

 

「……鹿?」

 

 角がある。身体つきも鹿に近い。かなり大きいけど、雄鹿ならこれくらいあるかもしれない。よかった。魔獣かと思った。いや、この世界だと鹿も魔獣だったりするのかな。でも鹿なら草食動物だろう。こっちから近づかなければ大丈夫だ。

 そう考えた直後、鹿が地面を蹴った。

 

「え」

 

 まっすぐこっちへ来た。

 

「ちょ、待っ」

 

 反射的に横へ飛ぶ。すぐ隣を大きな身体が抜け、角が外套の端を掠めた。俺は雪へ手をつき、そのまま立ち上がる。

 

「なんで鹿が人間を襲うんだよ!」

 

 鹿は数歩先で止まり、振り返った。口が開いている。そこにあるものを見て、言葉が止まった。

 

「……は?」

 

 牙がある。長い。上下から何本も伸びていて、どう見ても草を食う口じゃない。脚もおかしい。一、二、三、四。いや、六本。前脚と後脚の間に、もう一対ある。六本の脚で雪を踏みしめ、鹿みたいな顔をした何かが俺を見ていた。

 

 その瞬間、唐突に思った。あ、ここ日本じゃないんだ。当たり前だ。何を今さら。俺は十年前から異世界にいる。魔法も使っているし、魔獣だって知識としては知っている。それなのに、目の前にいる知らない生き物が自分を殺そうとしているのを見た途端、今まで分かっていたはずのことが急に怖くなった。俺はこいつを知らない。何をするのか。どれくらい強いのか。どこを攻撃すれば死ぬのか。何も知らない。

 鹿が地面を蹴った。

 

「来るな!」

 

 腕を振ると、風が弾けた。普段の稽古なら木剣の軌道をずらす程度に抑えて使う魔法を、力任せに叩きつける。風の塊が鹿へ当たり、雪が一気に舞い上がった。身体が横へ流れる。

 

「よし!」

 

 効いた。やっぱり大丈夫だ。俺には魔法がある。そう思った瞬間、鹿が雪煙の中から飛び出してきた。

 

「うわっ!」

 

 もう一度風を放つ。今度は狙いがずれ、横腹の毛を揺らしただけだった。鹿が聞いたことのない声で吠える。鹿なのに。

 

「来るなって!」

 

 風を放つ。さらにもう一度。とにかく近づけたくない。光球が頭上で大きく揺れ、鹿の角が目の前を通る。後ろへ下がった足が雪へ沈んだ。

 

「くそっ!」

 

 今度の風は正面から当たった。鹿の身体が一瞬止まる。でも倒れない。なんでだよ。普通、これだけやられたら逃げるだろ。動物ってそういうものじゃないのか。痛かったら逃げろよ。俺を食べたってそんなに肉ないぞ。

 雲が流れた。隠れていた二つの月が現れ、青白い光が雪へ落ちる。それまで光球の届く範囲しか見えていなかった山が、急に遠くまで見えた。白い斜面。黒い木。枝へ積もった雪。その中に立つ、六本脚の鹿。明るくなったはずなのに、ちっとも安心できなかった。

 

 月が二つあることなんて、生まれた時から知っている。窓から何百回も見たし、二つ並んでいる方が綺麗だと思っていた。でも今は、それがひどく気持ち悪かった。ここは日本じゃない。見慣れたはずの二つの月を見て、そんなことを改めて思う。

 鹿が口を開いた。牙の間から唾液が垂れ、喉の奥で低い音を鳴らしている。怖い。そう思った途端、腹が立った。いや、大丈夫だ。俺は十歳だけど普通の十歳じゃない。剣もできる。魔法もできる。こいつ一匹くらい──そう思って、もう一度風を出そうとした。

 出なかった。

 

「え」

 

 いや、少しは出た。枝の雪を吹き飛ばしただけだった。使いすぎた? そんな。こんな短時間で? 稽古ではもっと長く使ったことがある。でも、あれは一回ずつ止めて、呼吸を整えて、先生が横にいて。今みたいに何度も全力で撃ったことはない。

 鹿が地面を蹴った瞬間、避けなければと思った時にはもう目の前まで来ていた。横へ逃げようとした足が深い雪へ取られ、次の瞬間には外套へ角が引っかかった。

 

「うわあっ!」

 

 身体ごと横へ飛ばされ、雪へ肩から落ちる。息が詰まった。

 

「っ、げほ……!」

 

 起きろ。起きないと来る。分かっているのに身体がすぐ動かない。頭上の光球まで消えかけていた。暗くなる。嫌だ。俺は慌てて光へ魔力を回した。揺れる明かりの中に鹿の姿が浮かぶ。すぐ目の前だった。六本の脚。牙。角。その前脚が持ち上がる。踏まれる。これ、死ぬ。

 

「っ───!」

 

 手が勝手に腰へ伸びた。短剣を抜く。鹿の脚が落ちてくる前に身体を横へ転がすと、雪が顔へ入った。冷たい。起き上がりざまに腕を振る。刃先が柔らかいものへ当たり、そのあと硬い感触が来た。俺はそのまま力を入れた。刃が滑った。

 鹿がものすごい声を上げた。目の前で身体を振り、短剣が手から抜けそうになる。その直後、熱いものが顔へ飛んできた。

 

「あっ」

 目に入った。頬にも、口にも、髪にも、頭から一気に何かを浴びる。

「あ、あああああっ!?」

 

 俺が悲鳴を上げるのとほとんど同時に、鹿が雪へ横倒しになった。六本の脚が激しく動き、そのたび周囲の雪を蹴り散らす。首が裂けていた。そこから血がものすごい勢いで出ている。俺が斬った。白い雪がどんどん赤くなる。俺の外套も、手袋も、顔も赤かった。

 

「う、うわ、うわああああっ!」

 

 血が熱い。さっきまで冷たくて感覚が鈍っていた顔へ、それだけが妙に熱かった。口元を手袋で拭うと、革の表面まで真っ赤になった。

 

「や、やだ、なんだよこれ……!」

 

 鹿の脚が一度大きく跳ねた。それきり、動かなくなった。急に静かになる。はっ、はっ、と、自分の息だけが聞こえた。

 その直後、光球が消えた。

 

「あ」

 

 何も見えなくなった。俺は反射的に掌を上げる。

「……つけ」

 何も起きない。

「光れよ」

 小さな火花みたいなものが散って、それで終わった。魔力がない。風を使いすぎた。消えかけた光球を無理に維持した分もある。そんな。嘘だろ。

 

 頭上では、二つの月も雲に隠れていた。木も雪も見えない。自分の手さえ見えなかった。さっきまで目の前にあった鹿の死体がどこにあるのかも分からない。ただ、においだけが残っていた。血のにおいだ。息をするたび鼻の奥へ入り込み、口の中まで鉄臭い。

 頭から浴びた血は、もう熱くなかった。濡れた髪が額や頬へ張りつき、耳の後ろを流れた血が首へ入り込んで、外套の襟まで湿らせている。気持ち悪い。洗いたい。顔を拭くと手袋がぬるっと滑った。見えないから、拭えているのかも分からない。触るたびに別のところへ血を広げている気がする。鹿の死体は、たぶん足元のどこかにある。見えていた時より、見えない方が怖かった。

 その時、遠くから声がした。

 

『ぁぁぁぁぁっ!』

 俺の声だった。

「え」

 違う。俺じゃない。少し離れた木の上で、何かが俺のさっきの悲鳴を真似した。

『う、うわああああっ!』

 今度は別の方向から聞こえた。また俺の声だ。最初はただ真似しているだけだと思った。でも、二度目は少し違った。最後だけ妙に伸びている。

『うわああああっ、あっ、あっ!』

 笑っているみたいだった。

 

「やめろ……」

 

 鳥? 猿? 人の声を真似る生き物なら前世にもいた。九官鳥とか、オウムとか。意味なんて分かっていない。聞こえた音を返しているだけだ。そう思おうとした。

 

「やめろよ!」

 思わず怒鳴ると、すぐ右から返ってきた。

『やめろよ!』

 息が止まった。今のまで覚えた?

『やあめえええろっよっ』

 今度は左。俺の声をわざと間延びさせている。

『やめーろよ!』

 右から。

『やめろよぉ』

 前から。

『やーめえろ、やぁああめーろ』

 

 もっと遠くから別の声が混じった。何匹いるんだ。一匹が鳴くと、別の何かが続く。そこへまた別の声が重なる。

 

『ぁぁぁぁぁっ!』

 後ろから、最初の悲鳴が聞こえた。

『ぁぁぁぁぁっ、ぁぁぁぁぁっ』

『うわああああっ!』

『うわああぁあっあっあっ』

『やーめーーーろよっ』

 

 こいつら、遊んでいる。俺の声を真似しているだけじゃない。俺が嫌がった声を選んで繰り返している。それが分かった途端、全身が冷たくなった。腹が減っているわけでも、縄張りを守っているわけでもない。俺が怖がるからやる。嫌がるから面白い。

 子供のいじめみたいだった。誰かが嫌がる言葉を見つけたら、何度でも繰り返す。泣けばもっとやる。先生に怒られるまでやる。でも、ここには止める大人はいない。

 

「やめろ……」

 

 今度は小さく言った。返ってこない。急に静かになって、口を閉じた。声を出したら、また使われる。暗闇のどこかで、何匹もの何かが待っている。次に俺が何を言うのか。

 数秒後、すぐ近くの木の上から小さな声がした。

『……やめろ』

 俺が今言ったのと同じ声だった。

『……やーめーろ』

 少し離れたところから続く。

『やめろぉ』

 それから、また一斉に鳴いた。

『やめろ! やめろ! やーめーろよっ! うわああああっあっあっあっ』

 

 直後、木の上がいっせいに騒がしくなった。キィッ、ギャッ、と俺の声ではない甲高い鳴き声が重なり、あちこちで枝が揺れる。何かが木から木へ飛び移っているらしく、頭上で雪がばさばさ落ちてきた。太い枝まで大きくしなって、暗闇の中を何かが走り回っている。

 

 雲の切れ間から月が出た。

 

 ほんの少しだけ明るくなった木の上に、毛だらけの長い腕が見えた。枝を掴んだ手。その向こうに丸い頭と、こちらを向いた顔がある。猿だった。たぶん。でも前世で見た猿よりずっと大きい。木の上にしゃがんでいるだけで、俺と同じくらいの大きさがある。もっと大きそうなのもいた。

 一匹じゃない。

 見上げると、枝の上に何匹もいる。幹へ張りつくようにしてこっちを見下ろしているやつもいれば、いつの間に下りてきたのか、すぐ近くの木の根元に四つん這いになっているやつもいた。月が雲へ隠れかけるたび輪郭が薄くなって、それでも目だけはこっちを向いているのが分かった。

 たくさんいる。

 さっきまで声だけだったものが、全部俺を見ていた。

 短剣を握った手が震えた。どこにいる。何匹いる。もう分からない。その場で身体を回すと、木の上でも枝が揺れ、俺の動きに合わせるみたいに何匹かが場所を変えた。血のにおいがする。俺の身体からも、地面からも。

 こんなに血のにおいがして、別の魔獣が来たら。考えるな。戻ればいい。村へ戻ればいい。足跡を辿れば──そこで気づいた。見えない。自分の足跡が見えない。

 火口。そうだ。持ってきた。俺は肩へ手を伸ばした。何もなかった。

 

「あれ……」

 

 鹿に飛ばされた時に落とした? どこへ? 探そうにも足元すら見えない。

「……大丈夫。大丈夫。来た方へ戻ればいい」

『だぁいじょうぶ、もど、もどいぃいいいっ』

 暗闇から返ってきた。身体が固まる。

『だーじょうぶ、やっめええええろ』

 俺の声だった。

「やめろ」

『やぁんめろぉう』

「黙れ!」

『だまっれっれっれっ! だあーーーーまっれっ』

 

 

 走った。駄目だ。走ったら危ない。分かっている。でも、ここにいたくなかった。鹿の死体がある。血がある。俺の声を真似する何かがいる。神獣なんてもういい。イベントも、運命も、全部いい。

 後ろで枝が激しく揺れた。追ってきたと思って首をすくめたけど、足音は近づいてこない。代わりに、木の上から甲高い声が一斉に上がった。

 

『キィィィッ! ギャッ、ギャッ、ギャアアアッ!』

 

 何匹もの猿が枝を揺らし、跳ね回っている。俺が逃げ出したのがそんなに面白いのか、さっきまでよりずっと騒がしい。追いかけてはこなかった。ただ、逃げていく俺の背中へ、歓声みたいな鳴き声をいつまでも浴びせてきた。

 

「か、帰る……!」

 

 ゲルハルトさんに怒られてもいい。父上に怒られても、母上に泣かれてもいい。護衛にずっと見張られてもいいし、アリアさんに笑われてもいい。帰りたい。村へ帰りたい。あったかい部屋へ戻りたい。普通の暖炉でいい。髪に煙のにおいがついてもいい。風呂に入れなくてもいい。

 俺は暗闇の中へ足を出した。雪を踏む。一歩進み、もう一歩進んだところで木の根らしいものにつまずき、慌てて手を伸ばす。指先が木の幹へ触れた。

 

「大丈夫……」

 

 ゆっくり行けばいい。来た方向は、たぶんこっちだ。斜面を登ってきたんだから、下へ行けば村へ戻れる。

 そう考えながら進んでいると、急に足元の雪が浅くなった。踏み固められた道かと思った。右足を置いた。

 何もなかった。

 

「え」

 

 身体が前へ傾く。地面がない。踏み出した足が空を切り、戻ろうとした左足が滑った。足元の雪がまとめて崩れる。

「うわ……っ」

 そのまま、身体が暗闇の底へ落ちた。

 

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