一方その頃 洞窟にて

「フィロン、恋バナして」

「コイバナ?」

「恋人とのおはなし」

 昼寝には少し遅く、夕方の眠気にはまだ早い、なんとも中途半端な時間だった。お父さんとお母さんと叔父虎は朝から出かけていて、洞窟には私たちきょうだいしかいない。
 午前中に散々走り回ったせいで、三匹とも今は完全に電池が切れていた。
 私はそのうち二匹の身体へ横向きに乗り、もう一匹の背中へ顎を置いている。下はふかふか、横もふかふか、ついでにちょっと暑い。天然の敷布団としては文句なしだったけれど、眠気を誘う性能が高すぎるのが難点だった。

 フィロンは少し前から、洞窟の天井近くにある細い岩の隙間へ入り込んでいる。下から見ても姿はほとんど見えず、たまに身体が岩へ擦れる小さな音がするくらいだ。
 本人いわく、ここなら私たちが急に遊びたくなっても安全らしい。ひどい言い草だと思ったけれど、目の前を白くて細長いものが移動していたら追いかけたくなる自信があったので、反論はしなかった。

「なるほど。恋人の話をすることを、君の国ではそう呼ぶのか」

「恋のおはなしを略しただけだよ。フィロンは恋人がいたって言ってたでしょ。どういう人だったの?」

「クラウディアという人だよ」

 返事が早かった。しかも名前を言っただけなのに、声が少し楽しそうになった。フィロンは先生の話をするときも嬉しそうになるけれど、クラウディアさんの名前を出したときは、それよりもう一段やわらかくなるらしい。蛇なので顔を見ても表情はよく分からないけれど、声なら分かる。

「クラウディアさん。どんな人だった?」

「よく笑う人だった。ただし、誰にでも愛想よく笑っているという意味ではないよ。
嫌なものは嫌だと言ったし、腹を立てればきちんと怒った。初めて会ったときも、本人は腹を痛めて寝込んでいたのに、母君の方が取り乱して私の腕を掴むものだから、『お母さん、その人の腕を引っぱったら診てもらえないでしょう』と叱っていた」

「病人なのに元気だね」

「口は元気だったよ。数日で身体も元気になった」

 上から小さく笑う声がした。そのときのクラウディアさんを思い出しているんだろう。だいぶ昔の話のはずなのに、ついこの前にあったことみたいに鮮明だ。たぶん、記憶が薄れる暇がないくらい思い返し続けたんだと思う。
 私は下敷きにしているきょうだいが寝返りを打ったのに合わせて身体を少しずらし、ちょうどよくへこんだお腹の上へ座り直した。

「それで仲良くなったの?」

「治ったあと、礼だと言って林檎を持ってきた。その数日後には頭が痛いと言って来た。次は喉がおかしい。その次は母君の腰が痛い。その次は近所の子供が転んだ。最後には『林檎が余った』と言って、どこも悪くないのに来たよ」

「それ、普通に会いに来てるじゃん」

「私も途中で気づいた」

 途中まで気づかなかったんだ。フィロンは難しいことにはいっぱい気づくのに、こういうのには鈍かったらしい。

「クラウディアさんの方からフィロンのこと好きになったの?」

「最初はそうだったのかもしれないね。少なくとも、診療所へ来る理由を作っていたのは彼女の方だ。私はそのころ、患者が増えたと思っていた」

「鈍いなあ」

「先生にも同じことを言われたよ」

 先生まで気づいていたのに本人だけ分かっていなかったらしい。なんだか急にクラウディアさんとフィロンの先生へ親近感が湧いた。たぶん二人とも、こいついつ気づくんだろうと思いながら見ていたんだろう。

「クラウディアは布を扱う家の娘だった。色を見るのが上手でね。私は青なら青、赤なら赤くらいにしか思っていなかったが、彼女は同じ青でも全部違うと言うんだ。空が白み始めるころの青だとか、深い水の青だとか、雨の前の青だとか。何度聞いても私には半分くらいしか分からなかった」

「それはもうクラウディアさん個人の才能なんじゃない?」

「そうかもしれない。診療に使う布なら清潔で丈夫なら何色でも構わないと言ったら、『あなたは人生の半分くらい損をしている』と言われた」

「それはちょっと言われても仕方ない」

「君まで彼女の側につくのか」

 不満そうなのに、やっぱり声は楽しそうだった。フィロンにとっては、クラウディアさんに呆れられた思い出まで全部嬉しいんだろう。

「二人で出かけたりもした?」

「したよ。休みが合えば町の外まで歩いたり、祭の日には人混みに紛れて見物をしたりした。あるときは朝から少し遠くまで歩こうと約束してね。途中で薬に使える草を見つけた」

「嫌な予感がする……」

「少し見るだけのつもりだったんだ」

 絶対に少しじゃないやつだ。

「一本確認したら、その近くに別の草もあった。それも見たら、今度は少し離れたところに珍しい葉が見えた。気づいたときには、クラウディアが道端の石へ座っていた」

「怒ってた?」

「私が『疲れたのか』と聞いたら、『あなたが今日は私ではなく薬草と出かけるつもりだったと知っていたら、家にいたわ』と言われた」

「めちゃくちゃ怒ってる」

「怒っていたな」

 フィロンはまったく懲りていない人みたいに笑った。怒られたことすら大切な思い出になっているらしい。

「ちゃんと謝った?」

「もちろん。その場で採ったものを全部包んでしまって、それ以降は彼女の話を聞くことにした。もっとも帰り道で一度、良い薬草を見つけて振り返ったら腕を掴まれたが」

「反省してないじゃん」

「見えてしまったからね、悪気はなかったんだ」

「クラウディアさん大変だったねえ」

「本人にも何度か言われたよ」

 それでも一緒に出かけていたなら、クラウディアさんもその面倒臭さ込みでフィロンを好きだったんだと思う。
 フィロンの方も、クラウディアさんが大好きだから、その日何を食べたとか、どこで休んだとか、クラウディアさんがどこで笑ったとか、細かいところまで覚えているんだろう。

「クラウディアさんの、どこが一番好きだったの?」

「一番か。それは困るな」

「いっぱいあるんだ」

「もちろん」

 そこは迷わなかった。

「笑った顔は好きだった。怒った顔も好きだったよ。考えごとをするとき、少しだけ口元を尖らせる癖があった。仕事に集中すると、すぐ近くで呼んでも最初の一度では返事をしない。
そのくせ店の前で子供が転べば誰より早く気づくし、年寄りが重い荷物を持っていれば自分から手を貸す。自分のことには少し大雑把なのに、他人の困っていることにはよく気づく人だった」

「優しい人だったんだね」

「優しかったよ。ただ、甘くはなかった。私には特にね」

「フィロン、なにしたの?」

「食事を忘れた」

「それは怒られる」

 医者の不養生だ。

「昼を抜いて、そのまま夕方まで患者を診ていたことが何度かあった。クラウディアが来ると、まず先生に『今日は食べましたか』と尋ねるんだ。先生が私を見る。私が黙る。すると二人で怒る」

「味方いないじゃん」

「その時は患者が仲裁してくれたね」

「患者を味方に数えちゃだめでしょ」

「一度は患者までクラウディアの側についた」

 もっと駄目じゃん。

 私が笑うと、お腹の下できょうだいの耳がぴくっと動いた。起こさないよう少し声を抑える。フィロンは天井のどこかで身体を動かしたらしく、岩をかすかに擦る音がした。

「寝不足もよく怒られた。『自分の身体も診られない人が、どうして他人を診るの』と言われたことがある」

「正論だ」

「先生の言葉より効いたよ。先生に言われれば言い返せることもあったが、クラウディアに言われると、なぜか言い返しづらかった」

「好きだからじゃない?」

「そうだろうね」

 あっさり認めた。なんかいいなあ。私はきょうだいの背中へ頬を押しつけた。毛が鼻先に当たって少しくすぐったい。

「結婚する予定もあったの?」

「ああ。急ぐ必要もないと思っていたから、翌年でも、その次でもいいと話していた。小さな家を借りようとしてね。私は診療に使う部屋に窓が二つ欲しかった。暗い場所では子供が怖がるから。クラウディアは葡萄を育てたいと言っていた」

「庭つきの家?」

「庭がなければ鉢でいいと言っていた。私は『そこまでして葡萄を育てる必要があるのか』と聞いた」

「また呆れられたでしょ」

「非常に」

 クラウディアさんに何回呆れられているんだろう。でも、フィロンがその思い出を一個一個宝物みたいに拾っているので、聞いているこっちまで楽しくなる。

「フィロン、クラウディアさんのこと本当に大好きなんだねえ」

「ああ。愛しているよ」

 過去形じゃなかった。でもそこをわざわざ聞き返さなかった。私だって日本の桜は今も好きだし、もう食べられないコンビニのチョコだって好きだ。会えなくなったからって、好きだったものが全部過去形になるわけじゃない。

「じゃあさ、クラウディアさんはフィロンのどこが好きだったの?」

「それは本人に聞いたことがあるよ。『私のどこがいいんだ』と」

「なんて言われた?」

「最初に、『病人を診ているときのあなたは好き』と言われた」

「限定された」

「私もそう言ったよ」

 ちょっと笑ってしまう。

「続きもあった。『分からないことを分かったふりしないところも好き。貧しい人でも態度を変えないところも好き。でも自分のことになると急に馬鹿になるところは嫌い』と」

「すごくよく見られてるね」

「ひどいと思わないか」

「思わない。たぶん正確」

「先生にも似たようなことを言われたな」

 それならもう確定だ。

「それから、私の手が好きだと言ったこともあったよ。薬を量るときと、傷を扱うときには丁寧に動くから、と。私は毎日見ている自分の手だったから、何がいいのかよく分からなかったが」

「今はないもんね」

「ああ。だから今になって、もう少しよく見ておけばよかったと思う」

 少しだけ寂しい言葉だった。でもフィロンはそのまま暗くならず、すぐに続きを思い出したようだった。

「私も彼女の手は好きだったよ。温かかった。私より小さくて、働き者の手だった。布を整えたり、紐を結んだり、母君の肩を揉んだり、私の服に糸屑がついていればささっと取ってくれた。私が食事を抜いて診療所へ戻ろうとすれば、腕を掴んで止めることもあった」

「それ、最後だけ用途が違うね」

「私には必要だったらしい」

「クラウディアさん判断ではね」

 声を聞いていると、本当にクラウディアさんがそこにいたみたいに思えてくる。布を触って、笑って、怒って、フィロンの腕を掴んでいる。大きな出来事より、そういうなんでもないことをいっぱい覚えているのが、なんだかすごくいい。

「美人だった?」

「もちろん」

 即答だった。

「どのくらい?」

「どのくらい、と言われてもな。そうだね……もし今の私に人の手が戻って、誰かからウェヌスを描けと言われたら、たぶん困ると思う」

「知らない人の名前出てきた……」

「ウェヌスというのは美と愛に関わる女神でね。古くは豊穣とも結びつきがあって、我々の間では──」

「今はクラウディアさんの話に戻そう!」

「……分かった」

 あっぶない。絶対に長いやつだった。今の私は神話のお勉強をしたいんじゃない。恋バナを聞きたいのだ。フィロンはちょっと残念そうだったけれど、すぐに話を戻してくれた。

「つまり、その女神を描こうとしても、私はクラウディアの姿を描いてしまうだろうという話だよ」

「それってクラウディアさんの方が女神様より美人ってこと?」

「そこまで言えばさすがに不敬だろう。そうではないんだ。私が美しい女性を思い浮かべようとすると、どうしても彼女の顔になってしまう。
女神のお姿を想像しようとしても、目を描けばクラウディアの目になり、口元を描けばクラウディアが笑う。だから、似せようとしているわけでもないのに、最後には彼女になってしまうと思う」

「それ、かなり好きだねえ」

「ああ。かなり好きだよ」

 フィロンは少し考えるように黙ったあと、またぽつぽつと話し始めた。

「髪をまとめるのも上手だった。忙しい朝は適当にまとめているだけと言っていたのに、全く崩れないんだ。外へ出る日だけは少し時間をかける。私が違いに気づかず『いつもと同じではないか』と言って、また怒られたこともある」

「フィロンって、恋人相手には結構だめだね」

「否定しづらいな」

「でも好きだったんでしょ」

「とても」

「クラウディアさんも?」

「そう信じているよ。少なくとも、私が診療を終えるまで待っていると言って椅子に座って、そのまま居眠りをしてしまう程度には付き合ってくれた。目を覚ますと『遅い』と怒るんだが、帰るとは言わなかった」

「いいねえ」

「いいだろう」

「幸せだねえ」

「ああ。幸せだったよ。……いや、彼女を知ることができたことについては、今も幸せだと思っている」

 それから少しの間、誰も喋らなかった。外から風が入ってきて、洞窟の入口近くに落ちていた細い草を揺らした。きょうだいの一匹が寝ながら前足を伸ばし、私のお腹へ乗せる。重い。でもあったかいのでそのままにする。フィロンの声を聞きながら寝るのも悪くないなと思っていたら、今度は上からこちらへ話が返ってきた。

「私ばかり話してしまったね」

「私が聞いたんだからいいよ」

「それなら次は君の話を聞いてもいいかな。君の恋人は、どういう人だったんだい」

「私の?」

 聞かれて、しばらく考えた。前世の恋人。最後に付き合っていた人。どんな人だったかな、と思うより先に、別れたときのことが出てきた。

「最後の恋人と別れて、三年くらいだったかな……。浮気されて」

 天井から返事が来るまで、ほんの少し間があった。さっきまでクラウディアさんの話をあんなに楽しそうにしていたフィロンが、急にしんと静かになる。私も言ってから、別に今さら傷ついてるわけじゃないんだけどな、と思った。

「……悪かったね。この話はやめよう。そうだ、好きな神話の話でもしようか。神々の話ならいくらでもあるよ。英雄譚でもいいし、星座の由来でも──」

 ものすごく話題を変えようとしている。

 しかもさっき私がウェヌスの説明を止めたばかりなのに、今度は自分から神話を差し出してきた。フィロンなりに、私が傷つかない話題を必死に探した結果らしい。

 こんなにもあからさまに気を遣われることってあるんだ……。

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