獣語

 私が何かすごく気の利いたことを言えたとは思わない。思ったことをそのまま話しただけだし、途中から自分でも何の話をしているのかちょっと怪しかった。それでもフィロンは黙って最後まで聞いていた。地面すれすれまで下がっていた頭も、いつの間にか少し持ち上がっている。蛇なので顔色は分からないけど、さっきまで身体の周りに漂っていた重たい空気みたいなものは、だいぶ薄くなった気がした。

「君のおかげで元気が出たよ。ありがとう」

 フィロンの声はもう、いつもの調子に戻っている。よかった。昨日は私がいろいろ教えてもらって、今日は私が少しだけフィロンを元気にした。なんとなくお互い様っぽくて嬉しい。私は尻尾を一度だけ、ぱたんと地面へ落とした。

「では、今日はこれまでにしよう。君の母君に見つかる前に戻った方がいい。ただ、その前に少し試したいことがあるんだ」

「試したいこと?」

「ああ。すぐ終わるよ。君はそこにいてくれればいい」

 何だろう。フィロンは説明しないままするすると私から離れていき、少し先にある岩の手前で止まった。そこからこちらへ頭を向ける。別に遠くはない。今の私なら飛びかかれば一瞬で届きそうな距離だ。

「聞こえるかい?」

「聞こえるよ」

「そうか」

 そりゃ聞こえる。山の夜は静かだし、今の私は人間だったころよりずっと耳がいい。きょうだいが少し離れたところで草を踏んでも分かるし、お父さんの足音だってなんとなく聞き分けられる。これくらいなら余裕です。立派な虎なので。

 ところがフィロンは戻ってこず、そのまま岩肌を登り始めた。白い身体が、にょろにょろ、くねくねと上がっていく。……今の私は理性ある大人の女と、可愛い虎のハーフアンドハーフ。人の意識の方で自制が出来ますよ。しかしそれにしても、動き方がおもちゃすぎる。なんて魅力的なニョロニョロ……。
 そんなことを考えているうちに、白い尻尾の先まで岩の向こうへ消えた。

「これは聞こえる?」

「聞こえるよ」

 姿は見えない。でも声は普通に届いた。
 岩を挟んでいるわりにははっきりしている気もするけど、虎の耳がどこまで高性能なのか私は知らない。前世で虎の聴力を調べる機会なんてなかったし、将来異世界で白蛇と聴力検査をするから覚えておこう、なんて学生時代の私に言っても「疲れてるのかな……」と哀れまれて終わる。

 しばらく何も聞こえなくなった。私は言われた通りその場へ座り、耳だけをぴくぴく動かしてみる。
 風の音。葉っぱが擦れる音。ずっと遠くにいる何かの鳴き声。洞窟の中からは、お父さんのものらしい低い寝息。フィロンが這っている音は分からない。そのうち、また声がした。

「聞こえるかな」

「聞こえるよー」

 今度も普通に聞こえた。返事をしたのに、そのあとは何もない。私は首を傾げる。フィローン、と呼びかけようかと思ったけど、それでお母さんまで起きたらまずいのでやめておく。

 一分くらい経ったころ、さっきフィロンが消えた場所とは反対側の岩陰から、白い頭がぬるっと出てきた。

「えっ」

 フィロンだった。そのまま細長い身体がするすると現れる。私は最初に消えた方を見て、それから今いる方を見る。結構離れている。いつの間にそっちまで行ったの。

「やはり、そうらしい」

「なにが?」

 フィロンはすぐには答えず、一度だけ舌を出した。顔はほとんど変わらないのに、なんとなく納得した雰囲気だけは分かる。賢い人が何かを試して、思った通りの結論が出たときの空気だ。

「私たちは、少なくとも普通の意味で『声を聞いて』会話しているわけではないらしい」

「頭の良いひと特有の、結論だけ先に出すやつだ……」

「ちゃんと説明するよ」

 できれば分かりやすくお願いします。フィロンは私の前まで戻ると、身体をゆるく丸めた。

「まず、私と君は生前まったく違う土地にいた。私はイタリア、君はニホン。互いの国を知らなかったのだから、同じ言葉を使っていたとは考えにくいだろう?」

「うん。たぶん全然違うと思う」

 そこは分かる。私は日本語。フィロンはイタリア人だから……イタリアでも昔っぽい雰囲気だし、イタリア語ではない気がする。ラテン語とか、そういうやつかも。世界史の授業で聞いた覚えはあるけど、私の中ではどっちにしても外国語だ。旅行にも行ったことはない。

「私は君の言葉を知らない。それでも最初から意味が分かった。君もそうだろう?」

「そうだね」

「最初は、こちらへ生まれ直したときに、私たちが何か共通の言葉を身につけたのではないかとも考えたんだ」

 それなら話は簡単だ。この世界へ転生した人には自動で言葉が通じる便利機能がついています、みたいなものだろう。とても助かる。
 白虎生活をしながら同族とおしゃべりもできず、人間との交流のために異世界語まで勉強しろと言われたら絶望しかない。一生ひとりごとを呟く虎生だったと思う。正直、一生ひとりごとで生きていく覚悟はしていたけど。

「だが、それでは説明できないことがある。昨日から君の口元を見ていたんだが、私に聞こえている言葉と、実際の口の動きが合わないことがある」

「口?」

「人が声を出すときは、音によって唇や舌の動きが変わる。声を出しづらい患者を見ることもあったからね。口の動きを見る癖があるんだ」

 言われて、自分の口元を見ようとしてみる。当然見えない。寄り目にすると鼻先だけ見えた。そういえばフィロンは昨日、私の昔の名前を「ナノハナヒバナ」と普通に言っていた。
 でも、そもそも白蛇の口で「なのはなひばな」なんて発音できるんだろうか。改めてフィロンを見る。白い蛇の頭。赤い目。口。……唇、ないな。

「それに、もっと分かりやすい問題がある。私は蛇だ」

「それは見れば分かる」

「君は虎だ」

「それも見れば分かる」

「なら、どちらの口も人の言葉を正確に発音するためにはできていない。君には人間のような唇がないし、私に至ってはそれ以前の問題だ。この身体で、人間だったころと同じ音を作れているとは思えない」

「……あ」

 今さらだけど、ものすごくその通りだった。
 私は虎の口だし、フィロンは蛇の口だ。舌なんて細くて先が二つに分かれている。なのに昨日から、お互い何の苦労もなく普通に喋っている。

「私は、どちらかといえば口数が多い方だろう?」

「多いね」

「即答だね」

「これまでの付き合いだけでも分かるほどに」

 フィロンは少しだけ頭を下げた。人と話すのが久しぶりで嬉しくなった、と本人も言っていたので自覚はあるらしい。

「この身体で人間だったころと同じ音をすべて作れるとは思えない。それで、さっきもう一つ試したんだ」

 フィロンが自分の出てきた岩へ頭を向けた。

「二度目は岩を挟んだだけだった。だが最後に君へ声をかけたとき、私はもう反対側まで回り込んでいた」

「え」

 私は左右を見比べる。最初に消えた岩と、今フィロンが出てきた岩。やっぱり結構離れている。

「でも普通に聞こえたよ」

「聞こえたこと自体は、それほど不思議ではない。君は耳が良いし、音なら岩を回り込むこともある。私が確かめたかったのは、そちらではないんだ」

「じゃあ何?」

「最後の声が、どちらから聞こえた?」

「どっち……」

 言われて思い返す。私はてっきり、最初にフィロンが消えた岩の向こうから聞こえたと思っていた。でも、本当にそっちから聞こえたんだろうか。

 声を思い出そうとすると、妙な感じがした。右からでも左からでもない。遠くからでも近くからでもない。ただ私は、フィロンが「聞こえるかな」と言ったことを知っていた。

「……分かんない。というか、どっちから聞こえたって感じがしない」

「やはりそうか。私も君の言葉を受け取るとき、似た感覚がある」

 フィロンは一度だけ舌を出した。

「だから、少なくとも私たちの会話には、普通の声とは違う何かが混じっているらしい」

「……テレパシー?」

「テレパシー。知らない言葉だね。似た考えなら、ストア派のいうシュンパテイアのことかな。万物を貫くプネウマによって離れたもの同士にも相互の感応が生じるという考えがあって、それをこの場合に当てはめるなら────」

「やめよう! たぶんそうだけど私の方がうまく説明できないし、フィロンの説明を聞いても理解できる自信が無い!」

「……そうかい?」

「そうです!」

「君の名前や『ニホン』、今の『テレパシー』のように、私の中に対応する意味がないものは、そのまま知らない言葉として届くようだ。
おそらく、置き換えられる部分は意味として受け取り、置き換えられない名前や言葉だけは、元の音の形に近いものが残るんだろう。もっとも、本当に音を受け取っているのかどうかはまだ分からないが」

「やっぱり難しくなってる」

「これで終わりだよ」

 危なかった。今、知らない難しい単語が二個出た。シュンなんとかとプネなんとか。これ以上増えたら昨日の二の舞になる。隙を見せた私が悪い。隙あらば哲学。隙哲。頭の良い人、元気になった途端に元気すぎる。

 フィロンは少し残念そうに頭を引いた。たぶん説明したかったんだと思う。でも私の脳みそにも限界があるので我慢してほしい。

「では、名前については保留にしよう。ただ、起きていることだけならそれほど難しくない。私が君へ伝えたものを、君は自分の知っている言葉として受け取っている。君から私へも同じだ。それなら、互いの故郷の言葉を知らないのに会話できることも説明できる」

 うん。それなら分かる。

 そこまで聞いて、私はようやくものすごく基本的なことに気づいた。フィロンがイタリア人だと知ってから、ずっと外国人だと思っていた。なのにこの蛇、外国人っぽい喋り方を一度もしていない。発音とか訛りとか以前に、最初から全部、日本語として聞こえている。しかもめちゃくちゃ流暢。私より難しい言葉を使う。

「……フィロン、日本語喋ってないの?」

「ニホンゴというのが君の故郷の言葉なら、一言も知らないよ」

「ええ……」

 急に目の前の白蛇が、昨日よりさらに不思議な生き物に見えてきた。いや、人間だった記憶を持って喋る白蛇という時点で充分おかしい。でもそこへ、実は喋っている言葉まで違いました、が追加された。

「そしておそらく、君も私の言葉を一言も知らない。それでもこうして話ができている。面白いだろう?」

 フィロンは少し楽しそうに舌を出した。頭の良い人、さっき説明を止められたのに全然めげてないな。でも今回は、私もちょっとだけ面白いと思った。

「ある程度の距離には制限があるだろうが、君の住処の周辺くらいまでなら、こうして顔を付き合わせなくても会話はできると思うんだ。正確な範囲はこれから確かめるとして……しばらく、安全そうなところに住まわせてもらうよ。天井あたりの隙間なら、君のご家族にも見つかりにくいだろう」

「絶対に落ちちゃダメだよ」

「ふふ。天井から面白いおもちゃが降ってくるね」

 笑いごとじゃない。本当に笑えない状態になる。長くて白くてにょろにょろ動くフィロンは、私たちベビトラにとってかなり上等なおもちゃである。少なくとも私は昨日から何度も前足が勝手に出そうになっているし、きょうだいなんて事情を知らないので、天井からこんなのが落ちてきたら間違いなく四匹まとめて飛びかかる。さらにその騒ぎを見つけたお母さんが「うちの子に危ない生き物が!」となれば、たぶん一秒もかからない。前足。牙。終了。命の尽きかけた白いロープどころか、ロープだったものになる可能性まである。

 命懸けだ……。

 私が真剣に天井を見上げながら、フィロンが住めそうな場所と死にそうな場所を頭の中で仕分けていると、当の本人はなぜか少し面白そうだった。自分の命の話ですよ。長生きするとそのへん雑になるの? 私は友達になったばかりの蛇が翌朝お母さんの前足の下で平たくなっているところなんて見たくない。

「言葉がこうして意味として届くこと自体は、たぶん私だけの力ではない。私が以前会った者たちにも起きていたし、この世界の人間にも私の言葉は通じたからね。ただ、岩を挟んでも同じように届くのか、距離や方向というものがどこまで意味を持つのかは、これまできちんと確かめたことがなかった」

「へえ……」

「それとは別に、私にはこちらへ来てから持つようになったらしい力がある」

「フィロンの力?」

「ああ。昨日、君の母君の言葉が分かっただろう?」

 そこまで言われて、昨日寝る直前に引っかかったことがようやく戻ってきた。そうだ。それです。私はあれを聞こうと思っていた。お母さんが低く唸っただけなのに、フィロンは当たり前みたいな顔で「もう寝なさいと言っている」と訳した。私は虎の子なのに、今のところお母さんの声は雰囲気でしか分からない。怒ってる。呼んでる。危ない。おいで。だいたいそのくらい。それなのに蛇のフィロンが文章にして分かるのおかしい。

「私は、生き物が何を伝えようとしているのか理解できるんだ。人間の言葉とは少し違う。鳥なら鳥、鼠なら鼠、虎なら虎なりのやり方で声や匂い、仕草を使うだろう? それが私には、かなり細かいところまで意味として分かる」

「じゃあ昨日のお母さん、本当に『もう寝なさい』って言ってたの?」

「大体はね。正確には、もう少し『いつまで外にいる、戻ってきなさい』に近かったかな。ずいぶん我慢して待ってくれていたようだよ」

 お母さん優しい。そして危なかった。あと少し長話していたら、我慢の限界を迎えたお母さんが迎えに来ていたかもしれない。その場合、フィロンとの二日目はなかった。

「ただ、何でも分かるわけではない。私が理解できるのは、生き物が何かを他者へ伝えようとしているときだけらしい。黙って考えていることまで読めるわけではないよ。身体の大きさはあまり関係がない。鼠でも鳥でも分かるし、君のご家族のような大きな獣でも分かる。ただ、虫になるとほとんど駄目なんだ」

「虫はダメなんだ……」

「彼らが互いに何かを伝えていることくらいは分かるが、それが私の中で『こう言っている』という一つの意思にはならない。彼らの伝え方が私の力に合わないのか、そもそも私が考えているような形で意思を作っていないのか、それは分からない」

 へえ。私は感心しながらフィロンを見る。すごい。動物翻訳機だ。

「じゃあフィロンから、お母さんに『私たちは友達です』って言ってもらえる?」

「残念ながら、それはできない」

「できないの」

「分かるだけなんだよ。こちらから虎の言葉で返すことはできない。私は虎ではないからね。鼠の言葉も、鳥の言葉も同じだ。相手の言いたいことは分かるが、私が話しかければ今のような言葉になる。そして普通の獣には、それは伝わらない」

 便利そうで惜しい。ものすごく惜しい。フィロンがお母さんと話せたら、私が今までどれだけ「違うよそうじゃないよ!」と思ってきたことを全部伝えてもらえるのに。でも逆方向は無理らしい。それなら昨日、お母さんがフィロンの返事に反応しなかったのも当然だった。

 そこで私は、ふと別のことに気づいた。

 しばらく黙ってフィロンを見る。白い。細長い。蛇。

「フィロンは蛇だよね」

「見ての通り」

「ご飯は?」

「小動物を少々」

「他種族の言葉が分かる……」

「鼠の命乞いが聞こえるんだ」

 フィロンがものすごくあっさり言った。

「うわあ……」

「そうなるよね」

 なった。

 想像してしまった。フィロンが鼠を捕まえる。鼠が「助けて」「食べないで」「子供がいる」とか言う。それが全部分かる。分かったうえで食べる。嫌だ。私だったら無理かもしれない。いや、私は今まさに鹿だの兎だのをもりもり食べているけど、獲物から「お願いします食べないでください」なんて聞こえたことはない。聞こえていたら、今よりだいぶ食卓が重い。

 フィロンは私の顔を見て、少しだけ身体を緩めた。

「最初は苦しかったよ」

 さっきまでより声が静かになった。

「人だったころは、食べるために自分で動物を殺すことなどほとんどなかったからね。それが蛇になって、初めて自分で捕まえなければならなくなった。そのうえ何を言っているのかまで分かる。逃げたい、怖い、助けてくれ、と言われれば、当然ためらう」

 私は何も言わずに聞いた。フィロンも少し考えながら話しているようだった。昔のことを思い出しているのか、赤い目が私ではなく地面の先を見ている。

「何度か逃がした。目の前で震えながら命を乞われて、そのまま食べられるほど割り切れていなかったんだ。だが、当然ながら、逃がしてばかりいれば私が食べるものはなくなる」

 当たり前の話なのに、なんだか変な感じがした。

「私も食べなければ死ぬ。空腹は辛いよ。長く続けば身体が動かなくなる。頭も働かなくなる。それに……これは自分でも少し安心したことなんだが、食べられる小動物は、ちゃんと美味しそうに見えた」

「美味しそうに」

「ああ。蛇の身体というのは、そういうふうにできているらしい」

 フィロンはそこで小さく笑った。明るい笑いではないけれど、悲しんでいるだけでもない。ずいぶん昔に悩みきって、今はもう自分の中で置き場所を決めている話なのだと思う。

「だから私は、食べることそのものを悪いことだと考えるのをやめた。私が蛇である以上、小さな生き物を食べなければ生きていけない。その身体で生かされているのに、食べるたび自分を罪人のように扱っていては、いずれ生きることそのものを嫌いになってしまうだろう?」

「……うん」

「私は死にたくないし、生きていたい。そのために誰かの命をもらわなければならないなら、せめて必要以上に苦しませないことにした。逃げる時間も、怖がる時間も、できるだけ短くする。遊ばない。いたずらに傷つけない。捕らえたなら、一度で終わらせる」

 フィロンは頭を少し持ち上げ、自分の牙があるあたりを示すように口元を動かした。

「苦しむ間もなく命を奪う技術だけは極めたよ。小動物限定だけどね」

「限定なんだ」

「私が鹿を一撃で仕留められたら、もう蛇というより別の何かだろう」

 乾いた笑いが混ざった。

 なんとなく、フィロンらしいと思った。食べることをやめることはできなかった。だから自分ができる範囲で、いちばん苦しくないやり方を覚えた。昔お医者さんだったからなのか、それともフィロンが元々そういう人なのかは分からない。でもたぶん、両方なんだと思う。

 そして私は、自分のお腹へ視線を落とした。

 今日も普通にご飯を食べた。何だったっけ。叔父虎が持ってきたやつ。おいしかった。明日もお腹は空くし、出されたら普通に食べると思う。

 私も同じなんだよなあ。

 今はお父さん達が獲ってきてくれるから、自分で殺していないだけ。大きくなったら私だって狩りをする。相手が何を言っているのか聞こえないぶん、フィロンよりずっと楽なのかもしれない。

「……私は聞こえなくてよかったかも」

「それは私もそう思うよ。君は食べる量も多そうだからね」

「そこまで多くないよ」

「今はね」

 失礼な。私はまだ赤ちゃんです。成獣になったあとの食費については知りません。

 そこで洞窟の奥から、また低い声がした。

 ぐるるる。

「あ」

「今度こそ戻りなさい、と言っている」

「怒ってる?」

「少しね」

「帰ります」

 即答した。お母さんを怒らせると怖い。私は立ち上がり、前足についた砂を軽く振った。フィロンもそれを見て身体を伸ばす。

「では私は、今夜のうちに住めそうな隙間を探しておくよ。君たちが普段届かないところにする」

「本当に、本当に落ちちゃダメだからね」

「分かっているよ」

「フィロンが思ってるより、たぶん私たち素早いから」

「それも昨日からよく分かっている」

 フィロンはまたちょっと楽しそうだった。命懸けなのに。

 

 私は何度か振り返りながら洞窟へ戻った。中へ入ると、お母さんが目を開けてこちらを見ている。怒られる前に急いできょうだいの間へ潜り込み、お腹を地面へつけた。すぐにお母さんの鼻先が近づいてきて、頭から背中まで匂いを嗅がれる。変な匂いをつけてきてないでしょうね、みたいな確認だろうか。白蛇とずっと喋っていました。言えない。

 やがて問題なしと判断されたのか、お母さんは私の頭を一度だけ舐めてから、また身体を伏せた。きょうだいの一匹が寝ぼけながら私の背中へ前足を乗せてくる。重い。でもあったかい。

 目を閉じる前に、私は洞窟の天井を見上げた。

 暗くて何も見えない。

 あのどこかに、明日からフィロンが住むらしい。

 洞窟なので天井裏なんてものはないけど、気分としてはだいたい天井裏だ。喋る白蛇が家族には見えないところへ住みついて、夜になるとこっそり話をする。

 お願いだから、しっかり張りついていてください。

 そんなことを考えながら目を閉じる。すぐ近くでお母さんの寝息がして、背中にはきょうだいの前足が乗ったままだった。明日から、私の家族には見えないところに、もう一人だけ話のできる相手がいる。

 それが少し嬉しくて、私は尻尾の先だけを布団代わりのきょうだいへ巻きつけた。

 

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!