ある日 月がふたつ

 無口な朴念仁が、たまに口を開いたと思えば「月が綺麗だな」なんて言うから、うっかり「私、死んでもいいわ」なんて返しちゃったわけ。
 
 だって仕方ないじゃない。
 月夜。婚約者。繋いだ手。普段は石像かしらってくらい喋らない男が、珍しくこちらを見て、そんなことを言う。前世の記憶なんていう厄介な荷物を抱えて生まれ変わった女としては、条件反射で返してしまうでしょ。ほとんど膝の皿を叩かれたら足が跳ねるのと同じなのよ。コツンとやられたらポンよ。情緒の反射神経。
 
 
 ただ、この月がふたつある世界には、前世の巨匠なんていない。
 
 
 もちろん「月が綺麗ですね」を「あなたを愛しています」だなんて訳した文化もないし、「私、死んでもいいわ」なんて言葉は、ただの情緒ある返歌ではなく、そのまま真正面から自殺宣言として受け取られる。
 
「今なんて言った」
 
 さっきまで月を見上げていたアンディが、すぐさまこちらを向いた。
 
「聞き間違いじゃないかしら」
 
「いいや、聞いた。どういう意味だ」
 
「月が綺麗ねえ~~」
 
「エルミーゼ」
 
「あーしつこい。風情というものを学びなさいよ。こういう時は、月が綺麗だな、そうねえ綺麗ねえ、で終わらせるのが正しいの」
 
「死んでもいいと言った」
 
「言ってないわ」
 
「言った」
 
「言ってないったら」
 
「聞こえた」
 
 繋いだ手が離れないように、ぎゅっと強く握られる。痛いほどではない。けれど、逃がすつもりのない握り方だった。昔はもっと小さくて、私の指を握るのにも遠慮していたくせに、いつの間にこんな手になったのかしら。ずるいわね。人がちょっと見ない間に、勝手に大きくなって。
 
「なにか悩みでもあるのか。誰かに何か言われたのか。家のことか。俺のことか。それとも」
 
「ないわよ。あるとしたら、今この瞬間にあなたが面倒くさいことくらいね」
 
「俺は面倒くさくない。適当に流して済ませるな」
 
「めんどくさいし済ませるわよ。私がこうなったらもうお話はおしまいって、知ってるでしょ」
 
 当然、誤魔化されてはくれなかった。
 でも、私がぷいっと顔を背けて、これ以上は口を開きません、貝です、わたしは立派な二枚貝です、という態度を取れば、アンディはそれ以上無理にこじ開けようとはしない。結局優しい男なので、私がイヤ! といえば最終的に折れてくれる。こちらの踏み込まれたくない線を、ちゃんと覚えてくれている、良い男なのです。いいでしょ。私の好い人。
 
 だから彼は、ため息ひとつで諦めた。
 
「……なら、死んでもいいなどと、二度と言うな」
 
「はいはい」
 
「はいは一回」
 
「はーい」
 
「伸ばすな」
 
「月が綺麗ねえ」
 
「……ああ」
 
 アンディは困ったように眉を下げたまま、また月を見上げた。左の月は薄い金色で、右の月は青白い。ふたつ並ぶと、夜空に置き忘れられた宝石みたいで、少し嘘っぽいくらい綺麗だった。
 
 私がこの世界に転生してから、十七年。
 
 そこそこ良い商家に生まれて、かわいいかわいい末っ子のエルミーゼとして、愛情でふくふくに肥えて育てられた。
 前世の姿かたちなんて、もうよく覚えていない。覚えているのは、夜更かししていたこととか、締切という概念がいつも首に縄をかけてきたこととか、好きな物語の続きを待つ時間がやけに長かったこととか、その程度。鏡に映る前世の私の顔なんて、もう霧の向こうだ。
 
 でも、今の私はよく知っている。
 父親似のふわふわの金髪は、朝起きると寝癖で小鳥の巣みたいになるけれど、陽の光を含むとたいへん素敵だし、母親譲りのブラウンの瞳は理知的でお気に入り。
 ちょっと吊り目がちなところも、意思の強さが現れていて良いと思うの。実際、意思は強い。家族にもよく「エルミーゼは一度こうと決めたら石畳より硬い」と言われる。褒め言葉ね。石畳は馬車にも踏まれてなお道として役に立つもの。経済も石畳があるところから発展していくものだし、私もそうありたいわ。まあ、踏まれるのは嫌だけど。
 
 異世界転生ってものの定番として、婚約者もいる。
 
 初めて会った時からずっと私より背が高い。
 一歳年下。
 困ったような下がり眉。
 左眼の下に泣きぼくろ。
 この世界ではあまり好まれていない、遠い先祖の誰かを継いだ赤い眼。
 
「……! ……ル、……」
 
 私が八歳、彼が七歳の時に顔合わせをして、お互い相性も悪くなさそうだからって、問題なく婚約者になった。
 はじめて会った時の彼──アンディは、おどおどと視線を揺らしている子供で、私は前世の記憶なんてものがあったから、勝手に「私が守らなきゃ!」なんて思い上がっていた。
 
 だって、そう見えたのよ。
 痩せた肩。伏せがちな視線。声は小さく、返事も短い。こちらが話しかけると、少し遅れてから「……うん」とか「……そう」とか返す。これはもう、心に傷を負った繊細な少年を、明るく前向きな転生者ヒロインが手を引いて救ってあげる流れじゃない。
 私は当時、たいへん張り切った。前世の知識で石鹸を作るより先に、婚約者の心の壁を壊す気でいた。若いわね。八歳だけど、中身は前世持ちなのに若い。中身があるからといって、賢いとは限らないという好例だった。
 
「……ェ、……ゼ……!」
 
 そもそも、この婚約は、うちの財力とアンディの家の高貴な血を合わせて最強にしよう、という大人たちのとっても分かりやすい魂胆によるものだった。
 
 うちは成り上がりの商家。金はある。信用もある。顧客リストは美しく、倉庫は太り、父は人当たりのよい狸で、母は笑顔で相手の足元を見積もる狐。私はそんな家で愛されて育った、立派な末っ子の小鼬である。
 
 一方、アンディの家は古い貴族だ。領地も名もある。ただし、最近ちょっと懐が寂しい。歴代当主の肖像画に薄く埃が積もり、銀食器は磨かれているけれど数が減り、使用人たちが廊下を歩く足音まで節約しているような家だった。
 
 つまり、こちらには金があり、向こうには家格がある。
 大人たちが握手をした瞬間、双方の目の奥でそろばんが弾ける音が聞こえた気がした。ぱちぱちぱち。風情もへったくれもないわね。でも、嫌いじゃない。人間、愛だけではパンを焼けないもの。小麦粉を買うには金がいる。愛は大切。金も大切。両方あるとたいへん良い。
 
 なのでどちらかと言うと、成り上がりのうちよりアンディの方が立場は強い。
 それなのに彼がおどおどして見えたのは、確かに眼の色に対する他人からの偏見で、酷いことを言われたりしたこともあったのだろうけれど、それ以上に、本人の元々の気質だった。
 
 アンディの困ったような下がり眉は元々。
 おどおどしているように見える視線は、単に好奇心が旺盛で、あちこちに興味が移るから。鳥が鳴けばそちらを見て、窓辺の花瓶の傷に気付けばそちらを見て、私の髪飾りの結び目が珍しければそこを見る。でも、それをいちいち言葉に出す性格ではない。頭の中でじっくり考えるのが好きで、考えているうちに返事が遅れて、周りからは怯えているように見えるだけ。
 
 他人が受けるイメージと違って、けっこう図太いのよ。
 
 初対面の日だって、私は「怖がらなくていいのよ」と優しく言ったのに、アンディはしばらく私の顔を見たあと、小さな声で「怖がってはいない」と答えた。
 
 その時の私は、あら強がりね、かわいいわね、くらいに思っていたけれど、今なら分かる。あれは強がりではない。本当に怖がっていなかったのだ。
 ただ、目の前の婚約者候補が、なぜか一人で勝手に英雄気取りの顔をしているので、どう反応するべきか考えていただけ。失礼ね。いや、失礼なのは私かしら。まあ、八歳なので許されたい。可愛い思い出というものよ。
 
「   ……! ……っ、……」
 
 彼の赤い眼がこの世界であまり好かれていないのは、魔物の眼と同じ色をしているから。
 
 魔物。
 この世界で、夜と森と境界の向こうからやってくるもの。獣の形をしたものもいれば、人と似た形をしたものもいる。牙があり、爪があり、皮膚の下に人とは違う硬いものを隠し、そして赤い眼をしている。血の色よりも鮮やかで、火よりも温度のない、あの赤。
 
 人と似たような形の魔物もいるせいで、赤い眼を持つ子供は、母親が魔物の子を孕んだと言われて、母子共々殺された歴史もあるらしい。
 
 今はそんな野蛮なこと、ほとんどない。ほとんどってことは、少しはあるんだろうな……とは思うけど、いつかそういう差別とかが無くなればいいなって思います。だって全然違うもの、魔物の眼とアンディの眼って。
 
 魔物の赤は、こちらを餌として見ている赤。血の赤。
 アンディの赤は、薔薇の赤。私が怒ると少し困って、私が笑うとほんの少しだけ柔らかくなる赤。私がくだらない話をしている時、興味がなさそうな顔をしながら、実はちゃんと聞いている赤。縁がほんのり緑がかっているのは、それを知れる距離を許された私だけが知っていること。
 
 同じ色に見えるなんて、目が節穴なんじゃないかしら。
 目が節穴ってなんか痛そうね、穴が空いてるの。ちょっとみたくないかんじ。
 
 
「エルミーゼ!!」
 
「つき、みえないわよ」
 
 
 遠くからあんまりうるさく騒ぐから、仕方なく目を開けた。
 
 いつの間にか横になっていたみたいで、手のひらに草の感触がする。冷たい。夜露を含んだ草が、指の間に絡んでいる。空にはふたつの月があるはずなのに、アンディが覗き込むせいで見えない。邪魔ねえ、どきなさいよ。さっきまで綺麗だって言っていた月を、どうしてあなたが隠すの。あなたの顔は嫌いじゃないけど、今は月の方が見たい気分なのよ。
 
 それに、人の顔に涙をぼろぼろこぼすんじゃないわよ。泣き虫ねえ。
 
 ハンカチ、あげたでしょ。
 ほら、鳥の刺繍。上手くできたのよ。尾羽のところ、何回も糸をほどいてやり直したの。あなた、あれを胸の内ポケットに入れていたじゃない。使いなさいよ。婚約者の手刺繍ハンカチを実用するとか、貴族の青年としてたいへん情緒があるでしょ。今こそ出番よ。
 
「エルミーゼ、エルミーゼ、エルミーゼ……!」
 
「ひとの名前、連呼して……あなた、それしか言えないの」
 
 仕方ないから指で涙を拭ってあげた。
 指先が重い。腕がうまく上がらない。アンディの頬に触れるだけで、ひどく遠いところへ手を伸ばしているみたいだった。
 
 私の指が触れた先から、赤い線がすっと引かれた。
 
 ああ。
 私、血まみれなんだ。
 
 指先も、手首も、袖も、胸元も、ぜんぶ赤い。アンディの眼とは全然違う赤。温かくて、ぬるくて、でも夜風に触れた端から冷えていく赤。魔物の赤。
 
 今日はいつだったかわからないの。
 
 月の話をしたのは、今日だったっけ。昨日だったかしら。もっと前? いいえ、さっきよね。だって手を繋いで歩いていたもの。夜の庭を抜けて、森の手前の丘へ行こうとしていた。あそこから見るふたつの月が、一番綺麗だから。
 
 アンディは騎士だから、強いから、安心していたのよ。
 剣の稽古では同年代の中で負け知らずで、無口で、朴念仁で、こちらが何か言ってもだいたい三拍遅れて返事をするくせに、危ないものを見つけるのだけは早い。
 私の足元の石も、枝に引っかかりそうな裾も、道のぬかるみも、何も言わずに先回りして避けさせる。そういう人だから、私は安心していた。
 
 けれど、私が先に気付いた。
 赤い眼をした獣の魔物が、木々の影から飛び出してくるのを。
 
 私がアンディより凄いから。
 そうよ。私の方が凄いから仕方ないの。転生者だもの。前世の知識があるもの。まあ、魔物相手に前世の知識なんてほとんど役に立たないけれど、それでも私が先に気付いたの。だから、仕方ないじゃない。
 
 身体が勝手に動いた。
 アンディの前に出ていた。
 
 彼は騎士で、私は商家の娘。どう考えても逆。笑ってしまうくらい逆。物語なら、ここは騎士が婚約者を庇うところでしょ。守られるべき令嬢が、守る側の顔をして飛び出すなんて、構図として間違っている。絵師に怒られるわよ。配置が悪いって。
 
 でも、間違っていても、そうしてしまったのだから仕方ない。
 
 爪が来る、と思った。
 牙が来る、と思った。
 痛い、と思うより先に、アンディの手が離れたことの方が嫌だった。
 
 次の瞬間、アンディの剣が魔物を真っ二つにした。
 本当に、見事な一撃だった。泣き虫のくせに。口下手のくせに。剣だけは、本当に綺麗だった。おつきさまとおんなじくらい、私、アンディが剣を振るうところ、見るのが好きよ。格好いいから。
 
 真っ二つにされた魔物の横で、私は地面に倒れていた。
 草の匂いがする。鉄の匂いがする。アンディの声がする。何度も何度も私の名前を呼ぶ、必死で、情けなくて、聞いているこちらが恥ずかしくなるくらい剥き出しの声。
 
「ねえ、あんまり泣かないでよ」
 
 ちゃんと言えたかどうかはわからない。
 口が動いた気もするし、動かなかった気もする。
 
「月、見えないわ」
 
 それだけは、言えた気がする。
 
 私がこの世界に転生して、死ぬまでの十七年。
 赤い眼をした獣の魔物から、赤い眼をした婚約者を護るために、身体を張ってしまった最期。
 
 アンディの剣で真っ二つにされた魔物の横で、私の魂は肉体から離れた。
 泣きじゃくるアンディがその後どうなったかなんて、私は知らない。死んでるんだもの。仕方ないでしょ。
 
 死んでもいいわ、なんて言ったからって、本当に死ぬことないじゃない。
 まったく、冗談の通じない世界ね。
 
 
 
 
 
 
 
 なんか気がついたら、私はゴーストになっていた。
 
 ほんと何?
 
 いや、死んだのは分かる。分かるわよ。あれで生きていたら、私の身体はたいへん丈夫というより、もはや素材が人類ではない。だから死んだこと自体には納得している。納得はしているけれど、納得したからといって、その後にふわふわ半透明のゴーストとして現世に残ることまで受け入れたわけじゃない。
 
 しかも、目が覚めたら何年も経っていた。
 
 アンディは勇者様パーティのタンクとして、魔王退治に向かわされていた。
 
 ほんと何?
 
 なんでアンディ、『皆殺し卿』なんて厳つくてダサい名前を付けられてるの?
 誰よ、それを考えたの。名付けの場に詩人はいなかったの? いなかったのね。いたとしても止めなさいよ。皆殺し卿って。本人の下がり眉を見てから言ってる? あの人、昔は庭の虫を踏まないように遠回りする子だったのよ。まあ、今は魔物を盾で叩き潰しているけど。それはそれ、これはこれ。
 
 それに、勇者様。
 ねえ、勇者様って、私の前世の世界の人じゃない?
 
 それ、高校の制服でしょ。
 見覚えがあるわよ。ブレザー。ネクタイ。異世界に呼び出されてそのまま戦場に立たされました、みたいな格好。ちゃんとした防具も用意してくれないの? この国、大丈夫? 国庫は? 予算は? 勇者召喚に使う神殿の床を張り替える金があるなら、まず勇者様に鎖帷子の一枚でも着せなさいよ。見たところ、袖口がちょっと焦げているじゃない。かわいそうに。異世界転移初手ブラック労働じゃないの。
 
 
 あと、アンディ。
 あなた、いつからそんな顔で戦うようになったの。
 
 
 彼の盾が魔物を受け止め、剣が骨を断ち、仲間たちの前に立つ。タンク。そう呼ばれている役割。攻撃を受け、味方を守り、倒れないことを求められる人。
 
 ああ、そう。守る側になったのね。私が死んだあとで。私が先にやってしまったことを、今度はあなたが、何度も何度も繰り返しているのね。
 
 笑えないわ。
 けれど、泣いてあげるのも癪だった。
 
 だって、私の涙なんて、もう地面に落ちもしない。
 ゴーストだもの。
 
 だから私は、アンディの肩のあたりにふわふわ浮かびながら、誰にも聞こえない声で言ってやった。
 
「ちょっと、皆殺し卿。名前がダサいわよ。あと姿勢が悪い。なんでそんなに前のめりなの、殺意が前に出すぎって感じじゃない」
 
 アンディは振り向かなかった。
 聞こえていないのだろう。そりゃそうね。死んだ婚約者の小言が聞こえるなんて、怖すぎるもの。勇者様パーティの士気が終わる。
 
 それでも、私は彼の横にいることにした。
 だって仕方ないじゃない。
 
 死んでもいいわ、なんて言ったのは私だもの。
 でも、死んだあとに放っておいていいなんて、一言も言ってないわ。
 
 

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