After the Future

 村へ来て三日目、ユアンは森の外れに変人が住んでいるという話を聞いた。変人、と言っても、夜な夜な墓場を掘り返すとか、旅人を煮込んで食うとか、そういう景気のいい話ではない。村人からすればもっと身近で、だからこそ扱いに困る種類の変人らしかった。
 人間の身体に狼の頭を載せ、腹を除けばほとんど全身を灰色の毛に覆われた男が、村から少し離れた古い小屋で一人暮らしている。
 
 若い頃に人間と所帯を持ったものの、その伴侶は二十年前の土砂崩れで死に、それから誰とも一緒にならない。畑仕事を手伝えと頼めば来るし、壊れた柵を直すのも上手い。金を誤魔化したり酒に酔って暴れたりもしない。
 しかし祭りには顔を出さず、村の娘や寡婦から話を持ちかけられても断り、森へ入っては白い花ばかり集めている。そういう男を田舎では「変人」の一言で片づける。
 
 ユアンはその話を聞いた翌日の昼には小屋を訪ねていた。暇なのかと問われれば、実際だいぶ暇だった。
 村へ来た目的については宿の主人にも「仕事を探している」とだけ説明していたが、農繁期でもない田舎で余所者の若造へ回ってくる仕事など薪割りか荷運びくらいしかない。
 
 ひと月ほど前まで大きな街にいたというユアンは、村人の目には見るからに都会の悪い風へ染まっているらしく、髪を少し長くしているだけで宿の老婆から二度も眉をひそめられた。
 本人はそれを面白がり、ますます胸元を開けた服を着て、歩く時には意味もなく口笛まで吹いた。森へ向かう途中にも畑仕事をしていた女から「ローヴァンをからかうんじゃないよ」と釘を刺されたが、片手を上げて笑っただけで聞き流している。
 
 
 変人の住処という小屋は、ユアンが思うよりきちんとしていた。
 屋根には新しい板が何枚か混じり、軒下の薪も長さを揃えて積んである。扉を叩くと、少しして中から大きな影が現れた。
 二十年前には黒に近かったのだろう体毛はすっかり薄い灰色になり、耳の付け根や頬のあたりには白い毛が混じっている。
 狼の顔から年齢を読むことに慣れていないユアンにも、少なくとも若者ではないことだけは分かった。左の耳には古い切り傷があり、厚い胸板も肩もまだ大きいものの、立ち上がる時にほんの少し腰を庇う。後ろでは灰色の尾が、訪問者への警戒とも歓迎ともつかない速度でゆっくり揺れていた。
 
「へえ。もっと怖いのが出てくると思ってた。村じゃあんたのこと、森に住み着いた化け物みたいに言うやつまでいたぜ。ずいぶん話を盛られてるんだな」
 
 ローヴァンはしばらくユアンを見下ろし、それから低い声を落とした。
 
「そうか」
 
 それだけだった。怒らせようとして失敗した子供のような顔を一瞬だけ浮かべたユアンは、すぐに図々しさを取り戻し、「水くらいくれよ、ここまで歩いて喉が渇いた」と勝手に中へ入る。ローヴァンは追い出さなかった。
 木の卓と椅子、壁へ掛けられた古い鍋、よく磨かれた猟具、狭い寝台。二十年も一人で暮らしている男の家にしては物が多く、そのわりに人間の匂いがするものは妙に古かった。
 二脚ある椅子のうち片方だけ座面が擦り減り、もう片方には小さな傷がいくつも残っている。戸棚には大きさの違う二つの杯が並んでいた。
 
 それより目についたのは花だった。窓辺にも、棚の上にも、卓の隅にも、小さな瓶へ挿した白い花がある。どれも少し萎れていて、花弁の先がもう透け始めていた。
 ウィルの花は美しいかわりにひどく命が短い。摘んでしまえば三日も保たないうえ、このあたりでは数も少なく、探そうと思えば隣村よりさらに向こうまで行かなければならない。
 
「なんだよ、これ。あんた、まだウィルの花なんか飾ってんのか」
 
 水を飲んでいたユアンが、露骨に嫌そうな顔をした。ローヴァンの耳がわずかに動く。
 狼男の間で、ウィルの白い花は求愛に使われるものだ。伴侶にしたい相手へ贈り、受け取ってもらえれば自分の最愛は生涯その者だけになる。
 
「死んだ人間にいつまでも操を立ててどうすんだよ。二十年だろ? 十分じゃねえの。『愛の呪い』なんて、かけた本人が死んだらもう時効にしろよ。律儀すぎると馬鹿を見るぜ」
 
「そうか」
 
「またそれかよ。なあ、あんた、結婚してないんだろう? なら今度は俺が花をやるよ。薔薇なんてどうだ? 真っ赤なやつ。こんな田舎じゃ見られないくらい大輪で、花びらが何重にも重なっててさ。ウィルなんか隣に置いたら、貧相すぎて雑草にしか見えないぜ」
 
 ユアンは椅子から立ち上がると、頼まれてもいないのに両手を広げた。舞台へ立つ役者よろしく胸を張り、見たこともない薔薇園について滔々と語り始める。
 朝露を抱いた花弁は宝石より美しく、香りは春そのもの、一本あれば薄暗いこの小屋だって王宮の一室に早変わりだと言ったところで、ローヴァンが卓へ水差しを置いた。その音を拍手だとでも思ったらしく、ユアンは満足そうに頭を下げる。
 
「だからこんなの捨てろよ。自分で求愛の花を摘んで飾ってるなんて惨めすぎるだろ。死んだ旦那だか嫁だか知らねえけど、二十年もあんたを縛ってるなら相当な性悪だ。俺なら化けて出て説教するね。さっさと別のやつ好きになれって」
 
 ローヴァンは答えなかった。白くなり始めた尾の先だけが、床を一度撫でた。沈黙を気まずがる性質ではないのか、あるいは気まずさを感じ取る感覚そのものが欠けているのか、ユアンは構わず窓辺へ近づき、一番萎れていた花を指先でつついた。
 花弁が一枚落ちる。途端に触れた手を引っ込め、その一瞬だけ、悪戯を叱られる前の子供みたいな顔をした。
 
「悪い。これはわざとじゃない」
 
「いい。明日には、どれも駄目になる」
 
「じゃあ余計に捨てりゃいいのに。三日しか保たない花のために、毎回遠くまで行ってんの? 馬鹿だなあ。世の中にはもっと長持ちするものが山ほどあるだろ」
 
「そうだな」
 
 初めて「そうか」以外の返事を引き出したことが嬉しかったのか、ユアンは少し笑った。妙に幼い笑い方だった。口の片端から先に持ち上がり、それから堪えきれなくなったように目元が緩む。その顔を見たローヴァンは何も言わず、窓辺の花へ目を戻した。
 
 
 それからユアンは、ほとんど毎日やって来るようになった。朝から顔を出す日もあれば、村で仕事を手伝った帰りに寄ることもある。食べ物を持ってくるわけでもなく、何か役に立つでもない。ただ勝手に椅子へ座り、最近の街では獣混じりの者も珍しくないだの、港町には狼男だけでやっている食堂まであるだの、見てきたような口ぶりで喋った。
 本当に見てきたのだろう。ローヴァンが「そうか」と返すたび、ユアンは「もうちょっと感想ないのかよ」と呆れ、そのくせ次の日にも現れた。
 
「あんたさ、ここから出たことないの? 別に村のやつらが悪人だとは言わねえけど、どう見たって生きづらいだろ。都会へ行けよ。あんたみたいなの、この辺じゃ珍しいだけだ。よそなら似たようなやつなんて山ほどいるし、毛が多いくらいでいちいち振り返るやつも少ないぜ」
 
「この家がある」
 
「家なんて売ればいいだろ。何なら置いていけよ。こんな森の端のぼろ小屋、惜しむほどのもんでもないじゃん。知らない土地で暮らしたら、案外すぐ新しい相手ができるかもしれないしさ」
 
「そうか」
 
「そこはせめて考えるふりくらいしろよ。俺が一生懸命、あんたの第二の人生を考えてやってんのに」
 
 勝手なことばかり言った。村人からは「あまりローヴァンさんを困らせるな」と叱られ、宿の主人には「あの人は静かに暮らしたいんだ」と遠回しに追い払われ、それでも翌日には森へ向かう。
 ローヴァンが何も言わないのをいいことに、散らかった棚を眺めては古臭い、煮込みを食べては味が薄い、服を見ればもっと明るい色を着ればいいと口を出した。とりわけ白い花についてだけは容赦がなく、見つけるたびに「また増えてる」「懲りねえな」「枯れた恋愛に枯れる花を供えるとか洒落になってないぜ」と笑った。
 
 その晩も、話しているうちに外はすっかり暗くなった。森の夜道は月が出ていても歩きにくい。ユアンはようやく腰を上げ、椅子の背に掛けていた上着を引っ掴んだ。
 
「もう帰るわ。明日は村の爺さんに納屋の屋根直せって捕まってるから、来るなら夕方かな。ああ、そうだ。今度街へ出たら本当に薔薇を買ってきてやるよ。赤いやつな。飾る場所、空けとけよ」
 
 ローヴァンは扉を開け、冷たい夜気を家の中へ入れた。ユアンは二歩ほど外へ出てから振り返り、いつものように軽く手を上げる。
 
「じゃあな、おっさん。いい加減、死人の夢なんか見るなよ」
 
「また」
 
 背中へ投げられた一言に、ユアンの足が止まりかけた。それでも振り返らない。片手だけを高く上げ、「はいはい」と面倒そうに振って、そのまま月明かりの細い道を歩いていった。
 
 
 村まで戻れば、教会の尖塔が見えてくる。入口の脇に聖句を刻んだ石碑があり、そのさらに向こう、広場の端には今ではほとんど使われなくなった絞首台が黒い影を落としていた。
 
 転生者が見つかった時にだけ使われる場所だと、村へ来た初日に聞いている。
 
 悪魔は死者の魂を弄び、ときにそれを新しい肉へ押し込んで神の定めた生死を冒涜する。そのため過去の人生を語る者、まだ生まれていない時代の出来事を知る者、死者しか知り得ない秘密を口にした者は、悪魔に魅入られた証として裁かれる。ユアンも子供の頃から何度となく聞かされた教えだった。
 
 宿の裏手まで来たところで、彼はとうとう歩けなくなった。誰もいない薪置き場へ入り込み、積まれた丸太の陰へしゃがみ込む。口を押さえていた手が震え、呼吸を殺そうとするほど喉の奥から変な音が漏れた。
 
 二十年前、十八歳だった彼は、隣村のそのまた向こうまで走ってウィルの花を集めた。朝から探し回って、藪で腕を切り、川沿いの斜面で一度転び、帰る頃には花弁のいくつかがもう萎れ始めていた。それでも両腕いっぱいに抱えてローヴァンのところへ行き、息も整わないまま笑ったのだ。
 
「一生幸せにする! 結婚しよう!」
 
 あの日のローヴァンは十八歳で、耳の周りまで黒い毛をしていた。泣くのを堪えるのが下手なくせに、泣いていないふりだけは上手いつもりでいた。結局ぼろぼろ涙をこぼしながら花束へ鼻先を埋め、そのあと何度も頷いてくれた。ユアンではなかった頃の彼は、それからたった二日で死んだ。
 
 死んだ瞬間のことは何も覚えていない。雨が降っていた。早く帰ろうと思っていた。掌の中には、道端で見つけたウィルの花を一輪握っていた。結婚したばかりの伴侶へ持って帰れば、また呆れた顔をするかもしれない。それでも受け取ってくれるだろうと思っていた。
 そこから先は暗闇で、次に世界が始まった時、彼は見知らぬ女の腹から生まれ落ちた赤ん坊になっていた。
 
 神官から悪魔について教えられるより先に、自分がおかしいことには気づいていた。母親の乳を飲みながらローヴァンを思い出し、言葉を覚える前から会いたいと泣いた。
 歩けるようになれば帰ろうとし、方角すら分からない幼児の足で何度も家を抜け出した。やがて文字が読めるようになり、教典を知って、自分に起きたことの意味も理解した。
 
 これは奇跡ではない。神が許した再会でもない。誓いを守れなかった男へ悪魔が与えた罰であり、死ぬべき時に死んだ魂が、執着のため現世へ引き戻されたのだと信じた。
 
 それでも二十年かけて帰ってきた。
 
 もっと早く来たかった。けれど子供の身体では旅ができず、金もなく、昔住んでいた土地の名前を口にすれば正体を疑われる。
 少しずつ働いて金を貯め、何も知らない旅人の顔を作り、ようやく辿り着いた村で最初に聞いたのが、「森の外れに、二十年前に伴侶を亡くしてから独り身の狼男が住んでいる」という話だった。
 
 あの瞬間、自分がどんな顔をしていたのか思い出せない。
 
「馬鹿じゃん……」
 
 丸太へ額を押しつけた。涙が土へ落ちる。二十年も経っていた。ローヴァンの毛には白いものが混じり、腰を上げる動きは昔より遅い。
 若い頃より口数が減ったようにも見えるし、もともとあんなものだった気もする。変わっていた。嫌になるほど歳を取っていた。
 
 なのに好きだった。
 
 十八歳の黒い毛のローヴァンではない。白髪の増えた頬も、少し下がった耳も、椅子から立つ時に腰へ手を当てるところも、昔より痩せた尾も、全部を見てしまったあとで、どうしようもなく好きだった。
 二十年前の若さを懐かしんでいるだけなら、老いた姿を見れば何かが醒めると思っていた。
 慰め合っていただけかもしれない。二人とも家族に恵まれず、寂しかったから、その寂しさへ愛という名前をつけただけなのかもしれない。十八なんて、自分が何者なのかさえろくに分からない歳だ。
 
 違った。
 
「……ずるいだろ。歳取っても好きとか……そんなの、もう本物じゃん」
 
 声が掠れた。泣くつもりなどなかったのに、次から次へと涙が出てくる。死んだ時より二十も年上になった伴侶を見て、それでも抱きしめたいと思った。灰色になった毛へ顔を埋めたい。名前を呼びたい。帰ってきたと言ってしまいたい。ずっと一緒にいようと誓ったのに二日で死んでごめん、一生幸せにすると約束したくせに二日しか守れなくてごめん、今度こそ何があってもそばにいると、もう一度約束したかった。
 
 けれど、それをすればローヴァンまで悪魔の罪へ巻き込む。
 
 だからユアンは、この村へ来るまでに決めていた。
 ローヴァンが自分以外の誰かを好きになるまでいる。都会へ行かせてもいい。新しい伴侶を見つけさせてもいい。自分で花を贈ると言ったのも本気だった。赤い薔薇でも、黄色でも、青でも構わない。ウィルの花ではないものを持たせてやる。二十年前に果たせなかった「幸せにする」という約束を、今度こそ果たす。
 
 そのあとなら、吊られてもいい。
 
 教会へ行って、自分から言えば済む。二十年前の記憶があります。死者しか知らないことを知っています。悪魔に魂を弄ばれ、別の肉へ入って戻ってきました。神へ背いた魂です、と告げれば、きっと縄を用意してくれる。
 怖くないと言えば嘘になる。それでもローヴァンがどこか遠い街で新しい誰かと暮らし、自分のことをいつか「昔そんなやつがいた」と思えるようになるのなら、その後に残る人生はもういらなかった。
 
「今度こそ、幸せにするから」
 
 二十年前と同じ約束を、今度は本人のいないところで口にした。胸元で祈りの印を切り、それからぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭う。
 神に赦されようとは思わなかった。ただ、悪魔の呪いで二度目を与えられた魂に、ひとつくらい善いことをする時間が残されているなら、それだけは使わせてほしかった。
 
 真実の愛なんて言葉を、昔の自分なら鼻で笑ったかもしれない。けれど死んでも終わらず、別人の身体で二十年生き、白髪の増えた男を見た瞬間にまた好きだと思ってしまったのなら、もうそう呼んでもいい気がした。
 
 ユアンは泣きながら笑った。
 
 ああ。やっぱり、愛していた。​─────愛している。
 
 

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