扉を閉めたあとも、ローヴァンはしばらくそこに立っていた。
森の道を離れていく足音は、狼の耳ならずいぶん遠くまで拾える。枯れ枝を踏む音、砂利を蹴る音、ときどき意味もなく小石を転がしながら歩く癖。やがて何も聞こえなくなってからも、彼はまだ扉へ手を置いていた。もう一度開ければ、さっき出ていった若者が「忘れ物した」と戻ってくるような気がしたからではない。そんな期待を抱くには、二十年は長すぎる。
それでも口から出た言葉は、「また」だった。
ウィルの花へ目を向ける。窓辺の一輪は、ユアンが触れたせいで花弁をひとつ失っている。明日の朝にはもう二枚ほど落ちるだろう。明後日には茎が曲がり、その翌日まで残すと白かった花弁が茶色く濁る。何度見ても同じだった。ウィルは摘んでから三日しか保たない。
狼男にとって、この花に特別な意味などない。
求愛の花でもなければ、生涯ただ一人の伴侶へ捧げる習わしもない。狼男の婚姻に決まった花を使う風習そのものがなく、せいぜい相手が好きな食べ物を持っていったり、家族へ酒を贈ったりする程度だ。ウィルの花を渡せば最愛を生涯ひとりに定めるなどという話は、ローヴァンが十八歳の時に咄嗟についた嘘だった。
あの頃、人間のエドはローヴァンと結婚したがっていた。
ローヴァンも同じだったから困った。
人間と狼男が一緒になるのは簡単ではない。少なくともこのあたりではそうだった。食べるものも少し違い、暮らしやすい気温も違う。人間の家へ入ればローヴァンは身体が大きすぎたし、狼男の集落へ行けばエドの方が奇異の目で見られる。それ以上に、周囲が放っておかなかった。
獣と寝るのかと笑われたエドが一度だけ人を殴ったこともある。相手の前歯が折れて、二人で治療費を払った。帰り道、エドは「もう一発殴っとけばよかった」と笑ったが、ローヴァンは笑えなかった。
自分から手を離せばよかった。
それができなかったので、できない理由を作ろうとした。
ある日、エドからまた結婚の話をされ、ローヴァンは森の向こうに咲いていた白い花を思い出した。名前だけは知っている。けれど村の近くでは滅多に咲かず、探そうと思えばかなり遠くまで行かなければならない。
「狼男には決まりがある。ウィルの花を、自分で集めて持ってきた相手としか結婚できない」
自分でも酷く出来の悪い嘘だと思った。エドなら「そんなわけあるか」と笑うか、面倒になって諦めるか、そのどちらかだろうと期待していた。
翌日の朝から、エドはいなくなった。
夕方になっても戻らなかった。日が沈み始め、さすがに心配して探しに出ようとしたところへ、道の向こうから走ってくる人影が見えた。
服は泥だらけで、袖には藪へ引っかけた裂け目があり、頬にも細い傷がついている。抱えきれないほどの白い花を両腕に抱え、その半分は走ったせいで潰れていた。
息を切らしたエドは、ローヴァンの前まで来ると花束を突き出した。
「一生幸せにする! 結婚しよう!」
ローヴァンは泣いた。
馬鹿だと思った。自分も、目の前の人間も、二人揃ってどうしようもない馬鹿だった。無理だと言うためについた嘘を、エドは丸一日かけて両腕いっぱいの花に変えて帰ってきた。これを断るくらいなら、もう何があっても一緒にいようと思った。
二人は十八歳だった。
永遠がどれくらい長いのか、たぶん分かっていなかった。
結婚して二日後に、大雨が降った。
その日、エドは隣村へ出かけていた。夕方になって雨脚が強まり、山の方角から地鳴りがした。しばらくして土砂崩れだと誰かが叫び、ローヴァンは何も持たずに家を飛び出した。
崩れた道には、泥と岩と折れた木が重なっていた。家畜も荷車も人間も一緒に呑まれ、どこから手をつければいいのか分からない。雨の中で大勢が名前を叫んでいた。ローヴァンもエドを呼んだ。何度呼んでも返事はなく、それでも臭いを探しながら泥を掻き分け、爪が割れて血が出ても手を止めなかった。
泥の間から、右腕が出ていた。
見慣れた服の袖だった。
ローヴァンはそれへ飛びついた。
名前を叫びながら腕を掴み、埋まっている身体を引き出そうとした。泥の下で何かが引っかかっている。大きな岩か、倒木か、それとももっと重いものか。
近くにいた人間が止める声も聞こえなかった。まだ助かると思っていた。腕があるのだから、その先にエドがいる。引っ張れば出てくる。早くしないと息ができない。早く。早く。
ぶちぶち、と、嫌な音がした。
引いた腕が急に軽くなった。
尻餅をついたローヴァンの両手には、右肘から先だけが残った。
雨の音が消えた。
誰かに何かを言われたはずだった。腕を離せとも、そこから退けとも言われた気がする。覚えていない。掌の中にあるエドの腕はまだ温かいように感じられた。そんなはずはなかったのかもしれない。
指は強く握り込まれ、拳を作ったまま固まっている。爪の間には泥が入り、結婚した時に二人で買った安い腕輪には細かい傷がついていた。
身体は見つからなかった。
正確には、見つかったものをローヴァンは見なかった。あれがエドだと認められる形ではなかったと、あとから人づてに聞いただけだ。腕しかまともに残らなかったとも言われた。だから葬儀をした。墓も作った。名前を刻んだ石の下へ、持ち帰ることのできた右腕を埋めることになった。
その前に、せめて泥を落としてやりたかった。
家で湯を沸かした。
タライへぬるい湯を張り、布で一本ずつ指を拭いた。死んだ人間へすることではないと分かっていた。それでも「汚いままじゃ嫌だろ」と話しかけながら、手首の泥を落とし、爪の間を洗った。
身体のどこかにまだエドがいるような気がした。右腕だけが先に帰ってきて、残りはあとから扉を開けるのかもしれない。馬鹿な考えだと理解しながら、そう考えないと息ができなかった。
湯へ浸しているうち、固く握られていた指が少しずつ緩んだ。
掌の中から、潰れた白いものが落ちた。
ウィルの花だった。
花弁は泥と血で汚れ、ほとんど原形を失っていた。それでも分かった。エドが握っていた。家へ帰る途中で見つけ、自分へ持ち帰ろうとしたのだろう。
その瞬間、ローヴァンの時間は止まった。
自分が嘘をつかなければ。
ウィルの花など求愛に使わないと最初から言っていれば。
あの日、エドが隣村のそのまた向こうまで花を探しに行くこともなかった。花の咲く場所を覚えることもなく、結婚したあと道端で見つけて足を止めることもなかったかもしれない。ほんの数歩でも違う。ほんの一息でも違う。花を摘むために立ち止まらなければ、土砂が落ちてくる場所を通る時刻が少しずれたかもしれない。
そんなことに意味などない。
土砂崩れはローヴァンの嘘で起きたわけではない。エドがどこで花を摘んだのかさえ知らない。立ち止まらなければ逆にもっと危険な場所へ進んでいた可能性だってある。
分かっていた。
分かってしまったから、もう駄目だった。
それから二十年、ローヴァンはウィルの花を摘み続けた。
エドが死んでいない可能性を捨てられなかった。泥の中にあったのは腕だけで、身体は流されて別の場所で助かったのかもしれない。頭を打って記憶をなくし、遠い町で暮らしているかもしれない。誰かに拾われ、帰り道が分からなくなっているだけかもしれない。
だから家を出られなかった。
ここへ帰れば分かるはずだった。扉を開ければ、エドがいつでも戻れる。家を売ってしまったあとで帰ってきたら困る。街へ引っ越した翌日に戻ってきたらどうする。
二十年経っても杯を二つ捨てられず、椅子も二脚置いたまま、エドが頭をぶつけて罵った棚の位置さえ変えられなかった。
村人は哀れんだ。
何人かは新しい相手を紹介してくれた。
ローヴァンは全部断った。
夜になると夢を見た。
夢の中ではエドが生きている。十八歳の顔で笑っている日もあれば、なぜか知らない年齢になっていることもある。ローヴァンは夢の中の彼を見るたび、決まって泣いた。
「きみが死ぬ夢を見た」
そう言って抱きつく。
エドは笑う。「なんだそれ」と呆れたり、「縁起でもない」と怒ったり、何も言わず頭を撫でたりする。夢の中のローヴァンは、そのたび本当に安心した。あれは夢だったのだと思う。土砂も、千切れた腕も、掌から落ちた花も全部悪夢で、目を覚ませばエドがいる。
そして本当に目が覚める。
一人だった。
二十年、それを繰り返した。
若い頃には、そのうち忘れると思っていた。人間と暮らせた時間は長くない。家族に恵まれなかった二人が互いの寂しさへ寄りかかり、それを恋と勘違いしただけかもしれない。
十八歳だったのだ。愛などというものを分かったつもりになるには幼すぎる。何年かすれば夢を見なくなり、十年も経てば顔を思い出す回数も減る。そのうち別の誰かを好ましく思う日が来るのだろう。
二十年経った。
夢の中で、まだ泣いていた。
君が死んでしまって寂しかった。
会いたかった。
そればかりだった。
ローヴァンは三十八になった。耳は昔ほど遠くの音を拾えなくなり、冬には関節が痛む。
黒かった毛は灰色になり、その灰色にも白が混じり始めた。最近は朝、寝台から身体を起こすまで少し時間がかかる。長くはないことを自分では知っている。次の冬か、その次か。もう何度も春を見る身体ではなかった。
だから、村へ若い余所者が来たと聞いても興味を持たなかった。扉を叩かれ、見知らぬ人間が立っていた時にも、最初は何も思わない。顔は違う。声も違う。髪の色も、目の色も、背丈も、何ひとつ同じではなかった。
若者は失礼なことを言い、水を寄越せと勝手に家へ入り、遠慮なく部屋を眺め回した。そして窓辺に置かれた白い花を見つける。
「なんだよ、これ。あんた、まだウィルの花なんか飾ってんのか」
ローヴァンの心臓が止まりかけた。それでも顔には出さず、耳も尾も動かさないようにした。
「そうか」
そう答えるので精いっぱいだった。ウィルの花を求愛に使う狼男など、この世にはいない。それを知っている人間も、一人しかいなかった。その一人は二十年前に死んでいる。死んだ人間しか知らない嘘を、見知らぬ若者が当然のように知っていた。
あとは、見れば見るほど駄目だった。笑う時には片方の口角が先に上がる。椅子へ座ると必ず右脚を少し前へ出し、話が大袈裟になるにつれて両手の動きが大きくなるくせに、嘘をつく時だけは妙に真っ直ぐ相手の目を見る。
窓辺の花を壊した時には、叱られる前の子供みたいな顔をした。それも知っていた。昔、エドがローヴァンの大切にしていた皿を割った時と同じ顔だった。
帰り際、若者は軽く手を上げた。
「じゃあな」
昔と同じだった。だからローヴァンも、「また」と返した。
名前を呼びたかった。エド、と。帰ってきたのかと聞きたかった。二十年間どこにいた。どうしてそんな顔になった。なぜ若い。どうやって戻ってきた。死んだと思っていた。会いたかった。ずっと待っていた。毎晩夢を見た。右腕しか帰ってこなかった。あの手の中に花があった。それを見つけた日から、ずっと自分を許せなかった。口を開けば、二十年分が一度に溢れてしまいそうだった。
だから何も言わなかった。死者の記憶を持つ者がどう扱われるのか、ローヴァンも知っている。悪魔に魅入られた魂。神が定めた生と死を越えて戻った穢れた者。発覚すれば吊るされる。
だから、あの若者がどれほど露骨に自分を都会へ追い出そうとしても、別の相手を探せと言っても、ウィルの花を貧相だと嘲っても、ローヴァンは知らないふりを続けた。
「そうか」
それだけでよかった。エドがユアンという名前で生きたいなら、そうすればいい。自分のことを知らないふりをしたいのなら、こちらも何も知らないことにする。死人へ操を立てる惨めな狼男を演じてほしいなら、いくらでも演じられた。馬鹿だと笑われても、古い恋に縋る哀れな男だと思われても構わない。明日も来てくれるなら、それだけでよかった。
ローヴァンは窓辺へ歩き、落ちた花弁を拾った。指先でつまむと、薄い白が灰色の毛へ張りつく。たった三日しか保たない花を、二十年も飾ってきた。愛とは何なのだろう、と昔から何度も考えた。
慰めだったのかもしれない。孤独を埋めるための錯覚だった可能性もある。十八歳の二人が永遠などと大袈裟なものを口にして、たった二日で片方が死んだ。それだけの話だったのかもしれない。
けれど二十年が過ぎ、自分にももう死ぬ歳が近づいているというのに、扉を叩く音ひとつで心臓は若い頃のように痛んだ。顔も声も名前も違う人間を見て、それでもあの人だと分かった瞬間、二十年間少しも減らなかったものが胸の奥から一度に押し寄せてきた。
なら、もう名前などどうでもいいのかもしれない。これを愛と呼ぶのなら、ずいぶん痛いものだった。こんなに長く、身体の中へ残り続けるものだとは知らなかった。
ローヴァンは寝台へ入り、毛布を肩まで引き上げて身体を丸めた。今日ユアンが座った椅子は、そのままにしてある。使った杯もまだ洗っていなかった。縁へ若者の口が触れたことを思うと、そんなものまで捨てがたく感じてしまう自分がおかしくて、少しだけ目を細めた。
目を閉じる。どうか明日も来てくれますように。どうか彼が、また帰ってきてくれますように。眠りへ落ちる直前、ローヴァンはまた昔と同じことを考えた。夢の中でエドに会えたら、「きみが死ぬ夢を見た」と泣きつこう。そうすればきっと、あの人は笑う。今日会った若者と同じように、片方の口角を先に上げて。
もしかすると、まだ夢の中なのかもしれない。二十年前からずっと覚めない、ひどく長い夢なのだとしたら、それでもよかった。もう一度会えるのなら。また明日、扉を叩いてくれるのなら。悪魔に魂を売ったっていい。
ローヴァンは毛布の中で目を閉じたまま、誰にも聞こえない声で死んだ伴侶の名前を呼んだ。
「……また、明日」

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