一般待機医師

少し前​───────
 
 
 
 神獣と別れてから、救助隊の空気は目に見えて軽くなっていた。
 昨夜から誰もが口に出さず抱えていた最悪の想像が、ひとまず遠ざかったのだから無理もない。レオンハルトは生きている。それも神獣本人が居場所を知っており、進むべき方向まで教えてくれた。
 西国の者たちにとっては長く信仰の対象とされてきた存在と言葉を交わした直後でもあり、疲労で重かった足取りには勢いが戻っている。若い神官など何度も後ろを振り返っていた。もう木々の間に白い姿は見えないが、その気持ちはブラムウェルにも分からなくはない。
 
 
 そもそもブラムウェルは、氷嶺白虎の生態を観察しに来ただけの研究者である。
 たまたま観察対象の一頭が神獣で、その第一発見者になり、今では神獣の身体について最も詳しい人間として逃げるに逃げられなくなっているが、彼が本当に知りたいのは神獣とは何か、などという壮大な話ではなかった。
 先ほど神獣は三頭を、それぞれ違う呼び名で呼んでいた。もしあれが白虎同士でも個体を識別するために使われているのなら、とんでもない発見である。これまで遠くから眺めて推測するしかなかった研究対象へ、本人に直接聞けば答えが返ってくるかもしれない。研究者として、これほど恵まれた状況があるだろうか。
 
 その最大の幸福を、ブラムウェルは涙を呑んで見なかったことにし、今こうして雪山を歩いている。もちろん人命の方が大事だ。それに異論はないし、レオンハルトを放って白虎の命名について質問を始めるほど人間をやめてもいない。それでも、この一団の中で誰が一番不幸かと聞かれたら迷わず自分を挙げたかった。まあいいけど。人命の方が大事なので。
 
 
 
 問題は、勢いが戻りすぎた者が一人いることだった。先頭ではバルトが雪の状態を確かめながら道を選んでいる。その数歩後ろにいたはずのオスカーが、気づけば肩を並べ、次に目を離した時には鼻先ひとつ分ほど前へ出ていた。
 
「オスカーさん。先頭へ行かないでください。土地を知っている人間より前へ出ないように」
 
 なんて手のかかる男だ、と思いながら声をかけると、オスカーはばつが悪そうに声を小さくした。
 殊勝な顔までしているので、それなりに反省しているようには見える。もっとも、ブラムウェル自身も学生の頃は教授に叱られるたび同じ顔をしながら、心の中では「チッ、うっせーなこのハゲ」と思っていたため、あまり信用していない。
 オスカーは当時の自分よりずっと素直そうではあるが、性格の悪い人間との付き合いの方が長かったせいで、こういうところは若干疑い深かった。もとからかもしれない。
 
「……すみません。そんなつもりはなかったんですが、気づいたらここにいました」
 
「足まで浮かれるな。俺を追い越したってレオンが早く見つかるわけじゃないぞ」
 
「分かってるんです。本当に分かってるんですけど、足だけが勝手に」
 
「足の持ち主はあんただ」
 
 もっともである。バルトに外套の肩を掴まれたオスカーは素直に二歩下がったものの、少し進めばまたじわじわ前へ寄っていく。
 三度目にはバルトも何も言わず腕を掴んで戻した。本人には本当に自覚がないらしく、そのたび申し訳なさそうな顔になる。待ち続けたものが急に手の届きそうなところまで来て、身体だけが先へ行ってしまうのだろう。
 
「見つけたら、私は絶対に叱ります。今回ばかりは許しません。私があいつを甘やかしすぎました。勝手に一行を離れて山へ入るなど、子供でもしていいことと悪いことがあります。無事だったとしても、頬の一つくらい張ってやります」
 
 歩きながら低い声で言い切ったゲルハルトに、隣のオスカーがちらりと横目を向けた。
 
「叔父上に叩かれたら、レオンの頬がへこみますね。手加減してくださいよ」
 
「オスカー。ここは家ではありません。叔父上ではなく、きちんと敬称をつけなさい」
 
「叱るところ、そこですか?」
 
「そこも、だ」
 
 ブラムウェルは思わず二人を見比べた。眉を寄せた時の顔が妙に似ているとは以前から思っていたが、本当に血縁だったのか。
 使節団の人間関係へ必要以上に踏み込む趣味はないので、今まで知らなかった。そう思って見直すと鼻筋まで似ている気がしてくる。答えを知った途端に共通点ばかり見つかるあたり、人間の観察眼というものは案外信用できない。
 
「まだ見つけてもいないうちから、帰った後の話をするなよ。浮かれるのはいいけど足元は見ろ。山じゃこういう時が一番危ない。
見つからないうちは雪の下に穴がないか、枝が折れないかって気をつけるのに、もうすぐだと思った途端に前しか見なくなる。遭難者を見つけて駆け寄った奴が斜面で転んで、助ける人間が一人増えたこともある。村まで連れて帰って、ようやく終わりだ」
 
 山で暮らす者らしい忠告だった。今度はオスカーも大人しく返事をし、ブラムウェルも足元へ視線を戻す。人へ注意しておきながら自分が雪の下の穴へ落ちれば、それこそ笑い話にもならない。欲しいものが見えた瞬間に判断が雑になるのなら、研究者も遭難者捜索も案外変わらないらしい。
 
 しばらく進むと、水音が近くなった。木々の向こうでは雪解け水で膨れた川が濁り、岩へぶつかるたび白く泡立っている。その手前でバルトが不意に足を止め、しゃがみ込んだ。指さした先の雪には足跡とは違う幅広い窪みが続き、何かが腹を擦るように進んだ痕にも見える。昨日から新しい雪は降っていない。
 
「これ、這った跡じゃないか」
 
 ブラムウェルも腰を落として逆へ辿る。少し先にはさらに大きな窪みがあり、周囲より厚く積もった雪だけが深く押し潰されていた。上を見れば斜面のかなり高い位置まで岩と木の根が続き、その先は枝に遮られている。
 何かが上から落ちてきたとしても不思議ではない。ほんの少し場所がずれていれば剥き出しの岩、その横には増水した川。あまり想像したくない位置だった。
 
「上から落ちた……? レオンでしょうか」
 
「まだ決めないでください。人間が落ちてもおかしくない大きさではありますが、それだけです」
 
 そう言いながら続きを目で追う。窪みはそこで途切れず、川とは反対側へ伸びていた。しかも神獣が示した方角から大きく外れていない。
 偶然で片づけるには出来すぎている気もするが、欲しい答えがある時ほど人間は何でも証拠に見立てたがる。火口を見つけた時と同じ失敗はしたくなかった。
 
「何が落ちたにせよ、生きてここから動いたらしいな」
 
 バルトの一言で、オスカーの肩からわずかに力が抜けた。レオンハルトの痕だとは誰も断言していない。それでも今は、その程度の言葉で十分なのだろう。
 
 その時、川沿いの低木が大きく揺れ、灰白色の鳥が三羽ほど飛び立った。丸々とした胴がばさばさ枝を叩き、護衛の一人が反射的にそちらを見る。
 
「フクラユキミドリです。太って見えますけど、寒さで羽を膨らませているだけですよ。嘴に毒があるので、うっかり捕まえたりはしないでください」
 
「誰がこんな時に鳥を捕まえるんですか」
 
「珍しい生き物を見ると、とりあえず触りに行く人間を何人か知っているので」
 
「それ、ブラムウェルさんも入ってません?」
 
「もうやりませんよ」
 
 学生時代にはやった。学生の失敗は義務のようなものなので失敗には数えていない。三羽は川を横切って対岸の枝へまとめて止まり、重みで枝先を大きく沈ませた。慌てて一斉に羽ばたく姿だけなら毒など持っていそうにないが、つつかれれば腕が二倍に腫れる程度には厄介である。まあ、今は鳥などどうでもいい。
 
「この流れなら、川を越えたとは考えにくいでしょう。橋もありませんし、痕もこちら側へ続いています。ここから左右へ分かれて探しますか?」
 
「そうですね。人数を割りすぎないようにして、川沿いを……」
 
「静かに」
 
 バルトが片手を上げた。全員の口が止まり、川の音と木々の擦れる音だけが急に大きくなる。その中へ何か別のものが混ざっていた。ブラムウェルにはすぐ判別出来なかったが、バルトは顔を少し上げたまま耳を澄ませている。
 
「人の声がする」
 
 オスカーがまた前へ出かけた。
 
「待ってください。声だけならヤマコダマザルの可能性があります。オスカーさん、前へ出ない!」
 
「出てません! まだ半歩です!」
 
「アリアみたいな言い訳しない!」
「なんで私まで叱られているんですか?」
 
「私もさっきから言っているでしょう。下がりなさい」
 
 ゲルハルトにまで叱られ、オスカーは渋々一歩戻った。巻き込みで叱られたアリアが納得いかない顔をしているが、引き合いに出されるような生き方をしている方が悪い。
 
 バルトは腰から手斧を抜き、人の胸ほどまで伸びた枯れ草へ刃を入れ始めた。雪の重みで倒れかけた茎が何重にも絡んでおり、手で掻き分けるより切った方が早いらしい。
 乾いた音とともに細い道が出来、その後ろを一列になって進む。二度目の声はブラムウェルにも聞こえた。言葉までは拾えない。それでも、人の真似をするヤマコダマザル特有の妙な抑揚とは違っている。
 
 オスカーは何度も何か言いかけては口を閉じ、その隣ではゲルハルトも前だけを見ていた。少し前まで「頬を張る」と息巻いていた人間とは思えない顔をしている。
 
 最後の枯れ草をバルトが手斧で払うと、開けた先に人影があった。岩へ背を預けるように座る小さな身体、雪と泥に汚れた外套、その上に覗く黒い髪。顔を確かめるより早くオスカーが息を呑み、次の瞬間にはバルトの横を抜けていた。
 
 
「レオン!!」
 
 
 見つかった。その事実に昨夜から胸の奥へ詰まっていたものがほどけかけ、直後、ブラムウェルの目は少年の身体を半ば覆う白いものを捉えた。
 雪を被った倒木ではない。太い胴が外套の上から身体へ回り、その先で大きな頭がゆっくり持ち上がる。オスカーはもう数歩のところまで迫っていた。
 
 
「止まれ!!」
 
 
 自分でも驚くほど大きな声が出た。オスカーが雪を滑らせながら踏みとどまり、後ろから続いていたゲルハルトも足を止める。護衛の一人は剣へ手を伸ばしかけた。
 
「全員、その場から動くな。武器にも触るな。絶対に近づくな」
 
 改めて見た瞬間、背筋へ冷たいものが走った。
 
 
 
 白影大蛇。
 
 
 
 雪とは違う白。真珠を磨いたような鱗が冬の日を拾い、角度が変わるたび淡い虹を返している。そこへ嵌め込まれた二つの眼は、血を閉じ込めた紅玉のように赤い。
 魔獣だと知らず眺めるだけなら、息を呑むほど美しい生き物である。だから昔から剥製を欲しがる者が絶えず、成体を生け捕りにしようと私兵を送り込んでほぼ壊滅させた貴族までいた。本人も後に王から裁かれ、それ以来、この魔獣の美しさについて記した文献には、たいてい最後に「見るだけにせよ」という意味の警句が添えられている。
 
 その、見るだけにしておくべきものがレオンハルトへ巻きついていた。
 
「ブラムウェル殿、通してくれ! レオンがそこにいるんだ!」
 
「見れば分かる! だから止まれと言っているんだ。あの蛇を見ろ。白い鱗、紅い眼、それに頭部から首へ続く鱗の形……白影大蛇だ」
 
 記録にある成体よりは小さい。だからといって安心出来る要素にはならず、体格から見ればまだ成長途中の個体なのだろう。
 
「白影大蛇って……あの? でも、もっと大きい魔獣じゃなかったか?」
 
「成体ならな。あれはまだ若い個体だ」
 
 白影大蛇は成長の途中で大きな脱皮を迎え、その前後には摂食量や気性が変わるとされている。実物をこれほど近くで見た経験などブラムウェルにもなく、目の前の個体が今どの段階にいるのかまでは分からない。ならば不用意に近づかない。それで十分だった。
 
「ゲルハルトさん! オスカーさん!」
 
 レオンハルトがこちらへ向かって叫んだ。意識ははっきりしているらしい。その顔が見る間にぐしゃりと歪み、両腕がこちらへ伸びる。
 
「ゲルハルトさん、オスカーさん! 俺、ここ! 足、足折れて……痛い、めちゃくちゃ痛い……!」
 
 そこで初めて少年の左脚へ目が行った。二本の枝が添えられ、外套を裂いたらしい布で固定されている。誰かが手当てした跡だ。
 レオンハルトが身体を起こしかけると、巻きついていた白い胴がずれて、その動きを止めた。拘束したというより無理に動かないよう留めたようにも見えるが、それを好意と決めつけて近寄るほど楽観的にはなれない。
 
「レオン! 動くな! そのままでいろ!」
 
「いたっ……痛い!やだ、もう痛いって!」
 
 驚いて脚まで動かしたらしい。レオンハルトが顔を歪めると、白影大蛇も少年のそばでゆっくり頭を上げた。外套の上から回った胴に締めつける様子はない。それでも、少し力を込めれば子供の身体など容易く潰せる太さである。
 
 それより、フィロン医師はどこにいる。
 
 神獣の話では、レオンハルトはフィロンという、人間の身体に詳しい者と一緒にいるはずだった。
 目の前には明らかに手当てされた左脚があるのに、周囲を見渡しても人影はない。ここへ来るまで誰かとすれ違った覚えもなく、岩陰にも木のそばにもそれらしい姿は見当たらなかった。
 
 少年のそばにいるはずの医師が消え、その場所に大型の捕食魔獣がいる。証拠もなく答えを決めるなと散々自分へ言い聞かせてきたブラムウェルでさえ、嫌な想像が頭をもたげた。
 
「待て。フィロンという医師がいるはずだ。神獣は、そいつと一緒なら大丈夫だと言っていた」
 
 もう一度辺りへ目を走らせる。やはりいない。
 
「まさか……フィロン殿は、既に……!」
 
 そこまで口にした瞬間、白影大蛇の赤い眼がまっすぐブラムウェルを捉えた。頭部がゆっくり持ち上がり、白い喉元が伸びる。次いで、大きな口が開いた。
 
 まずい。
 
 白影大蛇には、生き物の身体そのものへ作用して動きを鈍らせる固有魔術があるとされている。
 ただし発動の仕組みはほとんど分かっておらず、予備動作についても資料ごとに記述が違う。口を開くことが無関係だという保証など、どこにもない。アリアが小さく息を吸い、ゲルハルトもわずかに前へ出る。護衛たちは命令通り武器へ触れないまま、それでもいつでも動けるよう身体を強張らせていた。
 
 来る。
 
 そう思った瞬間だった。
 
 
 
「ああ、ここにいるよ」
 
 
 
 人の声がした。
 
 ブラムウェルは固まった。蛇の向こうに誰かいるのかと目を走らせても、そこには雪と岩しかない。レオンハルトではない。少年の方も、自分へ巻きついている大蛇を見ていた。
 
 恐る恐る視線を戻す。
 
 白影大蛇がこちらを見ている。開いていた口がゆっくり閉じた。
 
 まさか。
 
 いや、つい先ほどまで人間の言葉を話す神獣と一緒にいたばかりである。
 獣が人語を操るという現象そのものなら、既に一度この目で確認した。それなら白虎だけでなく、別種の魔獣にも同じような存在がいてもおかしくはない。
 
 しかも今の返事は、フィロンという医師を探しているこちらに向けたものとしか思えなかった。
 
 フィロン。いるはずなのに見当たらない医師。レオンハルトへ巻きついている白影大蛇。
 
 まさか、この蛇が。
 
 研究者としてなら、その時点でいくらでも考えるべきことがあった。神獣という存在の定義そのものが変わるかもしれない。先ほど会った白虎との共通点も調べたいし、なぜ人名を持っているのかも確認しなければならない。もし本当にフィロン本人だというのなら、人間の医術を知る魔獣というだけでも前代未聞である。
 
 しかし、それらを全部まとめて押し流すほど単純で強烈な感情が先に来た。
 
 
 
 喋る蛇、こええええええええええええええええええっ!!
 
 
 
 神獣なのかもしれない。フィロン医師本人なのかもしれない。とんでもなく重要な発見をしている可能性だってある。そんなことは全部分かるし、あとになれば聞きたいことも山ほど出てくるだろう。
 
 それはそれとして、喋るでかい蛇はものすごく怖かった。なんで生き物として怖いものばかり神獣になるんだ。ネズミとかカエルとかでいいだろ。勘弁してくれ。
 
 

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