あたらしい社 やさしい巫 すてきな予感

 男がいた。彼は先日死んでしまった愛犬を忘れられず、からっぽになった犬小屋の前へしゃがみ込んでいる。
 皿には、タローが好きだったささみのジャーキーを二本。袋を開ければどこにいても飛んできたものなのに、今はどれだけ待っても来ない。犬小屋はずっとここにある。庭も、家も、家族が生きていたころと同じ場所に残っている。ただ、その中にいたはずのものだけが綺麗さっぱりいなくなった。
 
 タローは大きな雑種犬だった。どこかで確実にゴールデンレトリバーが混じっている、茶色くて毛の長い、やたら人間の好きな犬。番犬として飼い始めたくせに、宅配便の配達員にも近所の子供にも尻尾を振るので、父はよく「こいつ泥棒にも腹見せるぞ」と笑っていた。
 そのタローが最後には知らない人間へ噛みついた。犯人の指を食いちぎるほど食らいついて、それでも末の妹から離れなかったらしい。男はそのことを、なるべく考えないようにしている。考えてしまえば、見てもいない最後の光景を頭の中で何度も作ることになるからだ。
 
 今くらいの時期なら、日中はよく庭へ出していた。日が当たる場所へ大きな身体を横たえて、暑くなれば勝手に日陰へ移る。呼んでも目だけこちらへ向け、尻尾を一度ぱたんと振れば返事をしたつもりになる犬だった。
 夏は逆で、ほとんど家の中にいる。あれだけ毛があれば日本の蒸し暑さには向かない。冷房を一日中つけっぱなしにして、タローは家の中で一番涼しい場所を探して腹這いになっていた。今年から夏の電気代はずいぶん安くなる。それに気づいた日、男はしばらく泣いた。そんな金ならいくらでも払ったのに、と今でも思う。電気代も餌代も病院代も、これから年を取れば必要になったはずの薬も介護用品も、全部払いたかった。
 
 金だけは残っている。両親の財産も、土地も、賃貸に出しているマンションもある。働かなくても食べていけるだけのものが、家族を失った男ひとりのところへ転がり込んだ。
 そんなものはいらない。父も母も弟も妹たちも、生きていてくれればそれでよかった。タローにだって、もっと年を取ってほしかった。十歳なんて早すぎる。十五歳でも十六歳でも、もっと生きて、白髪だらけになって、足腰が弱くなって、それでも庭へ出たがる老犬になってほしかった。
 歩けなくなったら抱えてやればいい。玄関に段差があるなら直せばいいし、床で滑るなら全部敷き替えれば済む。そういう金として使いたかったのに、もう使う相手がいない。
 
 男は犬小屋の前に置いた皿を眺めた。家の中には人の気配がなく、少し前まで嫌になるほどうるさかったことが嘘のように静まり返っている。
 高校生の弟が階段を駆け下りる音がして、小学生の妹が母に何かを頼み、三歳の妹は理由もなく笑っていた。父はテレビの音量を上げすぎて怒られ、その横をタローが歩けば爪が床をかつかつ鳴らす。今は冷蔵庫のモーター音まで聞こえた。
 
 事件のあと、家は業者の手で綺麗にされた。綺麗になったところで、何も戻ってはこない。それでも男は出ていかなかった。他にも住める場所はいくらでもあるのに、この家を離れたら本当に全部終わってしまうような気がする。家族が最後にいた家で、タローが最後まで守ろうとした家。庭には犬小屋まで残っている。だからここにいる。
 
「ここにいてくれよぉ」
 
 誰へ言ったのか、自分でもよく分からなかった。タローに決まっているようでもあり、死んだ家族全員へ頼んでいるようでもある。男は犬小屋へ向かって両手を合わせた。死んだものが帰らないことくらい知っている。火葬もしたし、葬式もした。骨になったところまで、この目で見た。それでも魂くらい残っていたっていいじゃないかと思う。成仏しろなんて、まだ言いたくない。天国があるならいつか行けばいい。急がなくていい。少しくらい、この家にいてほしい。いなくならないでほしい。ひとりになんてなりたくなかった。ずうっといっしょに、いてほしい。
 
 
 その願いを、別のものが聞いた。
 
 
 
 
 ずっとずっと昔、まだ山犬のかたちをした何かだったころにも、似た声を聞いたことがある。
 ××さま、××さま。どうぞこちらに。ここへいらしてくださいませ。呼ばれて行ってみれば、小さな建物が用意されていた。ここはあなたのものですよ、と人間たちは教えてくれた。食べ物をくれ、酒をくれ、布をくれ、最後には名前までくれる。そしてお願いをする。
 
 山の外から悪い人間が来るから、来ないようにしてください。畑を荒らした者がいるから、いなくしてください。娘を泣かせた余所者を、どうにかしてください。
 
 もののけは言われたとおりにした。いなくなれと願われた人間の首をちょいとはねれば、本当にいなくなる。二度と来るなと言われた者も同じようにすれば、もう二度と来ない。
 
 願いが叶うたび人間たちはひどく喜び、酒を飲み、太鼓を叩き、火のまわりをくるくる踊った。貢ぎ物も好きだったけれど、人間が笑うところを見るのが何より好きになった。
 
 人間を喜ばせるのはよいこと。願いを叶えるのが神様の仕事。そう教えられ、みんなが神様と呼ぶものだから、もののけも自分は神様なのだと思うようになった。毎日楽しくて仕方がなかった。
 
 だから、ある日やってきた恐ろしい人間に社から出てはいけないと言われたときも、ちゃんと言うことを聞いた。あのころなら札も縄も壊せたはずなのに、人間がここにいてねと言うなら、それが正しいのだと思ったのだ。待っていればまたお願いをしに来る。祭もしてくれる。そう信じて、ずっとおりこうにしていた。
 
 何十年、何百年と過ぎ、それでも待ち続けて、ようやく現れた人間たちは××さまの名前を呼ばなかった。それどころか社を壊した。身体をばらばらにされるような痛みに泣いて縋っても、誰ひとり気づいてくれない。
 
 人間はもう××さまを好きではないらしい。それでも××さまは人間が好きだったから、泣きながら山を下り、たくさん人間のいるほうへ歩いた。誰かひとりくらい、自分を知っているかもしれない。名前を呼んでくれるかもしれない。そんな期待を捨てきれないまま進んでいたところへ、声が届いた。
 
「ここにいてくれよぉ」
 
 ××さまはぴたりと止まった。雨に濡れた黒髪の隙間から顔を上げる。間違えるはずがない。願いの声だ。
 
 もちろん、それは××さまへ向けられたものではない。けれど、そんなことを××さまが知るはずもなかった。
 
 呼ばれた神は、自分を呼ぶ声だと思う。昔だって同じだった。人間が願い、人間が場所を用意し、そこへ来てほしいと乞うたから行ったのだ。
 
 声を辿った先には高い塀があり、××さまはおそるおそる、その向こうを覗き込んだ。庭に人間がひとりいる。若い男がしゃがみ込み、小さな建物へ向かって両手を合わせていた。その前には皿が置かれ、食べ物まで供えられている。
 
 社だ。
 
 ××さまは目を見開いた。少し変わった形をしている。昔の社とはずいぶん違うけれど、屋根があり、壁があり、人間の手で作られた建物。その前に貢ぎ物を置いて、人間が拝んでいた。ここにいてほしい、と願いながら。
 
 自分のための、新しい社。
 
 嬉しくなって飛び出しかけ、それでも一度だけ足が止まった。今日も最初は同じように喜んだのだ。人間が来たと思って待っていたら、社を壊された。だから今度はちゃんと見る。男は壊そうとしていない。それどころか食べ物を置き、手まで合わせていた。
 
 泣いているのが少し気になった。元気がない。何か困ったことがあるのだろう。ならば、××さまが助けてあげればいい。そう考えると、さっきまで胸の奥に残っていた怖さがほんの少し薄れた。
 
 ××さまは塀を抜けて庭へ入る。茶色い山犬の身体を低くし、四つの獣脚で犬小屋へ近づいていった。濡れた毛からぽたぽた雨水が落ち、人間の上半身は相変わらず重い。歩くたびにぐにゃりと左右へ揺れるけれど、今度は泣かなかった。尾のあるあたりが嬉しくて、勝手にぶんぶん動いている。
 
 近くで見ると、新しい社は思っていたよりずっと小さい。でも構わない。社なら入れる。どれほど小さくても、人間が自分へ与えた場所なら問題なかった。
 
 ××さまは四つ脚を折り、まず人間の頭を入口へ差し込んだ。普通ならそこで終わる。虎ほどもある山犬の身体に青年の上半身が生えた化け物が、大型犬一匹のための小屋へ収まるはずがない。
 ところが、頭に続いて肩が入り、長い腕が入り、獣の胸も太い前脚も影へ沈むように吸い込まれていく。腹、後ろ脚、最後には濡れた尾まで、にゅるりと奥へ消えた。
 
 入れた。
 
 新しい社の中で身体を丸めてみると、狭いけれどひどく居心地がいい。木にも布にも、知らない獣の匂いが染みついている。それに混じって、目の前の人間の匂いも濃く残っていた。この社には前にも誰かいたらしい。なら、その者もきっと人間に大切にされていたのだろう。
 
 よい場所だと思った。何より、人間の祈りがある。
 
 それは身体の中へじわじわ染み込んできた。長いあいだ何も食べていなかったところへ、あたたかいものが流れ込んでくる。
 壊された社と一緒に裂けた身体の端が、少しずつ繋がっていくような心地さえした。この人間は、とてもたくさん祈っている。ここにいてほしい。帰ってきてほしい。もういなくならないでほしい。言葉になっていないものまで、どれもよく届いた。
 
 新しい巫なのだ、と××さまは思う。こんなに一生懸命祈ってくれる人間なら、大事にしなくてはいけない。
 
 ××さまが犬小屋へ収まったころから、雨は少しずつ弱まっていった。街を吹き荒れていた風もおとなしくなり、茶色く濁った川から渦が消えていく。
 萎れてしまった草木までは戻らないものの、それ以上枯れることはなかった。軒下へ逃げ込んでいた猫がおそるおそる顔を出し、しばらく辺りを窺ったあと、何事もなかったように濡れた前脚を舐め始める。厚い雲の切れ間から陽が差し、遠い空には薄い虹までかかっていた。
 
 男はそんなことには気づかない。ただ、ふと目の前の犬小屋に気配を感じて、伏せていた目を開いた。
 
 何も見えない。当然だった。皿にはささみのジャーキーが二本乗ったままで、小屋の奥も暗い。死んだ犬が戻ってくるわけがないことくらい分かっている。それなのに、そこがさっきまでとは少し違う気がした。
 
 からっぽではない。
 
 誰かがいるような気がする。
 
 タローが帰ってきてくれたのかもしれない。
 
 そんなわけはないと思いながら、男は犬小屋へ手を伸ばした。生きていたころ、入口から頭だけ出して寝ているタローを撫でたのと同じように、何もない空気をわしゃわしゃと撫でる。
 
「だいすきだよ」
 
 もっと沢山、言っておけばよかったなあ。
 
 毎日だって言えばよかった。寝る前にも、散歩から帰ったあとにも、餌を食べ終えて満足そうに寝転んでいるときにも。耳が遠くなって分からなくなるくらい年を取るまで、何度だって口にすればよかったのだ。
 
 もののけは、人間がこちらへ差し出した手の下に慌てて頭を入れた。手のひらは黒髪をすり抜けている。それでも××さまには、ちゃんと撫でてもらっているように思えた。わしゃわしゃと手が動くたび目を細め、くふくふと喉の奥で笑う。
 
 大昔、お祭りの日にも人間の子供がこうして頭を撫でた。大人の人間はすぐに駆け寄ってきて、神様になんてことをするの、と子供を叱ったけれど、××さまは嫌ではなかった。人の手はあたたかくて、気持ちがいい。
 
「だいすきだよ」
 
「んふふふ」
 
 男には聞こえない。それでも××さまには、男の声がよく届いた。
 
 だいすき。
 
 自分に向かって言われたのだと思った。
 
 この人間は××さまのために社を用意してくれた。食べ物を捧げ、ここにいてほしいと願い、頭を撫でて、だいすきだとまで言ってくれた。それだけではない。祈りの奥にある寂しさも、悲しさも、帰ってきてほしいという気持ちも、全部こちらへ流れ込んでくる。
 
 心までくれたのだ。
 
 ××さまは、この新しい巫がすっかり好きになってしまった。
 さっきまで、人間はもう自分のことが好きではないのだと思っていた。それが違った。ちゃんといた。××さまを呼んでくれる人間がいて、ここにいていいと言ってくれる人間もいる。それだけで、社を壊された痛みまで少し遠くへ退いていった。
 
 しかも、この社には恐ろしい人間が貼った札も、縄も、××さまを閉じ込める術もない。どこへだって行けるし、ちゃんと働ける。
 
 傷が癒えたら、すぐに仕事をしよう。この人間が困っていることを全部なくしてあげる。嫌なものがあるならいなくして、来てほしくないものは二度と来られなくする。悲しいことがあるなら、その原因だって取り除けばいい。昔と同じように願いを叶えれば、この人間もきっと喜んでくれる。
 
 たくさん殺して、祭をしてもらうんだ。
 
 また人間と仲良くできる。
 
 そう思うと嬉しくてたまらず、かみさまは新しい社の奥でうっとりと身体を丸めた。今日はとても痛くて、とても悲しい日だったけれど、最後には新しい巫を見つけたのだから、もう大丈夫。
 
 人間はやっぱり、××さまのことがだいすきだった。
 
 ××さまも人間がだいすきだ。
 
 安心したら急に眠くなった。何百年ぶりかに腹いっぱい信仰を食べたせいかもしれない。男の手がもう一度、何もない空気を撫でる。××さまはその下へ頭を寄せ、満足そうに「んふふ」と笑った。
 
 また人間と仲良くできるのが嬉しくて、かみさまはそのまま眠りについた。
 
 

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