■■市の怖い噂①
ある日の深夜、住宅街へ放火しようとした男が路上にガソリンを撒いた。あとは火をつけるだけ、というところで、向かいに建つマンションの全ての部屋から一斉に犬の鳴き声が響き渡ったという。小型犬の甲高い声、大型犬の低い唸り、遠吠え、吠え立てる声。種類も大きさも違う犬たちが、示し合わせたようにけたたましく鳴き始め、その騒ぎに起こされた住民が次々とベランダへ出てきた。気付けばマンションの全ての部屋から人が顔を出し、誰ひとり声を上げることなく、道路に立つ男を見下ろしていた。その瞬間、まだ火をつけていなかったはずのライターから突然炎が噴き出し、撒いたガソリンへ引火した。男は全身に火傷を負い、病院へ運ばれてから三日間苦しみ続けた末に死亡したという。鎮痛剤も麻酔もほとんど効かず、眠ることさえできないまま、「犬が来る」と何度も叫び続けていたらしい。
男が運び込まれた■■市の病院を取材した記者が、担当医へ事件について尋ねたところ、医師は困ったように笑って「仕方ないよねえ。余所者が悪さするならねえ」と答えた。そのあまりにもな言葉に、記者は一言苦言を呈そうとしたという。しかし周囲にいた看護師も患者も、その付き添いに来ていた家族まで、誰も医師の発言を咎めなかった。むしろ柔らかく微笑みながら、「仕方ないわよぉ」「余所者はね、悪さしたらいけんよ」「死んじゃうからねー」と、ごく当たり前のことを教えるように口々に言った。そこには悪意も嘲笑もなく、男の死を喜んでいる様子さえなかった。ただ、火に触れれば火傷をする、深い川へ入れば溺れる、それと同じ程度の当然の理屈として受け入れているように見えたという。記者は急にひどく恐ろしくなり、用意していた質問を残したまま町を離れた。以後、その土地についての記事を書くこともなかった。障りがあるため、町の名は伏す。
■■市の怖い噂②
例の町では、夜道や住宅街の端で、鹿の身体に子供の上半身が生えたようなものを見たという話がある。首にあたる場所から十歳ほどの少年少女が伸びており、両腕はない。長い黒髪を垂らしたまま、鹿が歩くたび上半身だけがぐらぐらと揺れ、町の外から来た人間の後ろをついて回るらしい。ところが地元の人間へ尋ねても怖がる様子はなく、「ああ、しのちゃんね」「それ、さくらくんじゃない?」「あの辺ならみっちゃんもいるわよ」と、ごく普通の子供について話すように名前だけを教えてくれる。では見たことがあるのかと聞くと「どうだったかしら」、本当にいるのかと尋ねれば「さあねえ」、いつからいるのかについても誰ひとりまともに答えない。ただ名前だけは当たり前のように知っている。何人かへ聞いて回るうち、私はようやく気づいた。聞く相手が増えるたびに、名前も増えている。「しのちゃん」「さくらくん」「みっちゃん」「トキくん」「ななちゃん」。つまり、それだけ“いる”ということではないか。
その考えに至った途端、急に町にいることが恐ろしくなり、予定を切り上げて帰った。今でもあそこへ近づく気はない。ただ、困ったことが一つある。あの町は、とても居心地がよかった。道を聞けば誰もが親切に教えてくれ、入った店の飯はうまく、初対面の人間と話しているだけなのに昔から知っていたような安心感があった。帰ってから何日も経つのに、ふとした拍子にまた行きたくなる。今度は祭りの時期に行こうか、あの店にももう一度寄りたい、今ならあの鹿のようなものを見ても案外平気なのではないか。そんなことまで考える。そこが一番恐ろしい。いつか本当に戻ってしまい、今度は私まで「ああ、それならしのちゃんですよ」と笑って答えるようになる気がしてならない。

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