献身的聖者は愛の為に神を殺せるか?

私は神を殺そうと誓ったのです! どうかお聞きください。笑ってくださっても構いません。私はもう、何を笑われてもよいのです。けれど最後までお聞きください。途中でお帰りになっては困ります。私は生まれてから今日まで、正しく生きてまいりました。幼い頃から教会で育ち、正しいことだけを教えられ、正しいことを行い、正しくないことは考えぬよう努めてきたのです。両親はおりません。生まれは孤児でございますから、捨てられたのか、死んだのか、そのあたりの事情は存じません。昔、一度だけ尋ねたことがございます。すると神官様は、人は神の御許に生まれ、神の御許へ帰るものなのだから、地上の父母を恋しがる必要などないのだとおっしゃいました。私はそれを信じました。何しろ、私には生まれながらの聖痕がございました。胸元に神の御印を持つ子供です。父も母も知らぬ赤子であろうと、神に選ばれた子供には違いないのだそうです。ですから私は幸運だったのでございます。食べるものにも困りませんでした。寒い夜には毛布がございましたし、熱を出せば薬湯を飲ませていただけました。朝になれば祈り、昼になれば学び、夜にはまた祈り、聖典を読み、文字を覚え、人のために生きることを教わりました。私はよく褒められる子供でしたよ。おまえは欲のない子だ、聞き分けのよい子だ、将来は立派な聖者になるだろうと。実際、私は欲がなかったのです。何か欲しいものはあるかと尋ねられても、何も思い浮かびませんでした。ほかの子供が菓子を欲しがるのを見ても、食事をいただいたばかりなのにどうして菓子まで欲しがるのだろうと、不思議に思っておりました。何でも足りていたのでございます。神の御許に生きる者には、神が必要なものをお与えくださる。私はそう教わりましたし、現にそのとおりでございましたから、疑問など抱きませんでした。やがて成人を迎え、正式に聖者の一人に選ばれました。ええ、聖者は私一人ではございません。神託を賜る方も、病を癒やす方も、豊穣を祈る方もおられます。私などは生まれながらの聖痕こそございましたが、さしたる奇跡も起こせず、血筋も知れぬ若造でしたから、位は低いものでした。それでも聖者は聖者でございます。護衛がつきました。彼です。あの男です。高位の聖者様には名門の騎士家に連なる方々がお仕えになりますが、私のところへ来たのは平民の出で、剣一本で成り上がった男でした。腕は立ちましたよ。私は剣のことなど分かりませんけれど、彼が訓練場へ出ると、いつも最後まで立っているのは彼でございました。もっとも、教会の方々にはあまり好かれておりませんでした。言葉遣いが悪く、所作は乱暴で、口を開けてよく笑う男だったからです。初めて私の前へ連れてこられたときなど、私の顔をしばらく見つめ、それから、もっと爺さんかと思っていた、と笑いました。失礼でしょう。私は聖者としてのご挨拶を申し上げたばかりでしたのに、あの男は口を大きく開けて笑いました。私は困ってしまいました。神官様がお怒りになるのではないかと、そちらばかり気になったものです。ところが彼は、私が困っているのを見て、また笑うのです。今にして思えば、あれはどういうつもりだったのでしょうね。そんなにおかしな顔をしていたのでしょうか。後になって、あの男は好ましいものの前では特別よく笑うと知ったので、一度も嫌な気持ちにはなりませんでした。最初も、今も、ずっとです。彼は私にいろいろなことを教えました。庭に落ちていた葉を一枚拾い、唇へ当てて笛を吹くこと。市場で売っている果実は、籠の上に並んでいるものより下に隠れているものの方がよく熟れていること。雨が降る前には石畳が妙な匂いをさせること。馬は人間よりもずっと正直に嫌な顔をすること。そういう、聖典には載っていないことを、あの男は何でも知っておりました。葉の笛を教わった日のことは覚えております。私が何度やっても音を鳴らせず、とうとう葉を破いてしまったので謝りますと、葉っぱ一枚で何を謝っているんだと笑われました。葉は神の造られたものでございます。それを遊びに使い、しかも破いてしまったのですから、謝るのは当然だと思ったのですが、彼はもう一枚拾ってくださいました。三日目にようやく音が出たときには、やるじゃねえか、と褒めてくださいました。私は嬉しかったのです。聖典を一冊覚えたときより嬉しかったかもしれません。いえ、それでは神官様に申し訳が立ちませんね。それからは、あの男に見せようと思って葉を拾うようになりました。笛に向かない葉まで拾ってしまい、懐に入れておいて萎れさせたこともございます。彼は何でもないような顔をして、また拾えばいいだろうと申しました。私にはそれが何とも惜しかったのですが、どうして惜しかったのか、今でもうまく申し上げられません。子供みたいでしょう。本来、そういう行いをする年頃には大人ぶっていたのに。おかしな話ですね。ああ、安い酒も教えてくださいましたよ。街の外れにある酒場で売っている、薄くて酸っぱくて、喉が焼けるような酒でした。酒瓶の栓が合わず、店主が布を丸めて押し込んでおりましたので、あんなものを売ってよいのですかと尋ねたところ、彼は笑って、それで安いんだよと申しました。そういうものでございましょうか。私は一口飲んで咳き込みました。彼は自分の酒までこぼして笑いました。教会へ戻る途中、あの男は私の衣についた酒の染みを見つけ、洗えば落ちるだろうと申しましたが、落ちませんでした。私は神官様に叱られました。あの男は私の横で真面目な顔をして、己の不手際だと伝え、神官様からそれは前提として分かっている。次はお前だと言われていました。その時ばかりは、私の方が笑いそうになって表情を引き締めるのに苦労したものです。彼が話してくださる物語も、私の知るものとは違いました。教会で教わる物語には必ず教訓がございます。善き者は救われ、悪しき者は罰せられ、神を信じる者にはいつか報いが訪れる。ところが彼の物語には、そのようなものが一つもないのです。怠け者がひょんなことから金持ちになったり、働き者が大損をしたり、恋人に会いに行った男が道を間違えて隣町の祭りで朝まで踊っていたり、そんな、どうしようもないお話ばかりでございました。私は尋ねました。それで、その男は何を学んだのですかと。彼は、何も学んでねえよ、楽しかったんだからそれでいいだろう、と申しました。私は驚きました。何も学ばず、何も得ず、ただ楽しかったというだけで終わる物語が、この世にはあるのです。ご存じでしたか。私は知りませんでした。あの男は私が何も知らないと知った日から、たくさんのことを教えてくださいました。きっと教師のようなつもりだったのでしょう。教会から出ることも少ない若い聖者を哀れに思い、世間というものを教えてやろうと、そう考えたのでございましょう。そういえば、私は彼が洗濯をするところも見たことがございます。ほんとうに下手でした。長くひとりで生活しているというのに、洗濯物を干すのに袖を結んでしまうものですから、乾いてから解こうとしてもなかなか解けません。私が手伝いますと、聖者様に洗濯なんぞさせたと知れたら首が飛ぶ、と申しました。そんなことで首など飛びませんよ、と答えますと、じゃあ毎週頼むかな、と。私は少し考えて、毎週は困ります、祈りの時間がございますから、と申し上げました。彼はまた笑いました。私はそのとき、あの男の洗濯物がどこに干されているのか、初めて知ったのでございます。兵舎の裏手の、陽当たりの悪い場所でした。私の衣はいつも洗濯係が洗ってくださり、乾いたものを畳んで部屋へ届けてくださいますから、濡れた衣をどこへ干すのかなど、考えたこともございませんでした。あの男は何もかも自分でしておりました。破れた袖を縫うのも、防具を磨くのも、買い物も、寝床を整えるのも。ある日、剣の手入れをしていた彼に、どうしてそんなに何度も磨くのですかと尋ねたことがございます。まだ綺麗に見えましたから。すると彼は、俺が死にたくねえからだよ、と申しました。私はそれを聞いて、少し驚きました。剣というものは、誰かを守るために磨くのだと思っていたのです。あの男は私の顔を見るなり、何だその顔、と笑いました。私は何も申し上げませんでしたが、それからは彼が剣を磨くたび、少しばかり気になっておりました。ああ、そうでした。そうなのです。あの男は、私に教えてはならないことまで教えてしまったのでございます。愛です! 愛を教えてしまったのです! 人は愛を知ればどこまでも愚かになれる! 私はそのようなことを知りませんでした。誰かの足音を聞き分けるようになることも、その者が来ないと一日が長く感じられることも、あの男が食事を残せば具合が悪いのだろうかと心配になることも、何も知らなかったのでございます。彼は食事を残すことなど滅多にありませんでしたが、一度だけ、皿の豆をほとんど残したことがございました。私は気になって尋ねました。腹を壊したのですか、と。彼は、豆に虫が入っていたんだよ、と申しました。何とも情けないことでございます。私はその日、夕食の豆をよく調べてからいただきました。虫はおりませんでした。あの男の皿にだけ入っていたのです。いえ、もう豆の話などどうでもよいのです。お聞きください。私はあの男を愛しておりました。気づいたときには、もう、どうしようもなく。私には神の教えがございました。肉の欲に溺れてはならない、己一人の幸福を求めてはならない、聖者たるもの、すべての民を等しく愛し、特定の誰かを愛してはならない。私はそれをよく知っておりました。知っていたからこそ耐えきれた。耐えてしまった! しかし、時折、考えたのでございます。もしもあの男が、ある夜、私の部屋へ忍び込んできて、行くぞ、と言ったなら。私はきっと、何も尋ねなかったでしょう。どこへ行くのか、何のために行くのか、その先に何が待っているのか、そんなことは一つも尋ねず、あの男の差し出した手を取ったでしょう。白い衣など脱ぎ捨てて、聖痕を隠し、神官様に教えられた礼儀作法も、聖典も、祈りの言葉も、すべて置いて行ったでしょう。私はあの男にさらってほしかったのです。笑ってくださっても構いません。笑いなさい。聖者のくせに、何を馬鹿なことをと。私はあの男を妻に迎えたかったのではございません。教会から伴侶として認めていただき、神の御前で誓いを交わし、誰からも祝福されたいなどと、そのようなことを望んだのではございません。あの男が話してくださった、何の教訓にもならない物語の、愚かな逃避行の相手に選んでほしかったのでございます。あの男が私を連れて逃げる。町の門を抜け、街道を歩き、宿を取る金もなくなれば野宿をするのでしょう。私は野宿などしたことがございません。石の上で眠れば背中が痛くなるのでしょうか。虫も出るのでしょうか。あの男なら知っているはずです。どこへ行けば水が飲めるのか、どうすれば火を起こせるのか、きっと教えてくださるでしょう。けれど、すぐに捕まるのです。そうですとも。私は国法も神法も学びました。聖者を教会から連れ出した者がどのように裁かれるのかも存じております。町の門には兵が置かれ、宿屋には人相書きが回り、あの男は聖者を誘拐した罪で追われるでしょう。聖者をたぶらかした不届き者として、処刑されるかもしれません。私はまた教会へ連れ戻され、邪な男に惑わされた哀れな聖者として、清めの儀式でも受けるのでございましょう。そう考えて、私は逃げる場所を変えてみました。国境を越えたならどうでしょう。いえ、神の威光の及ばぬ土地など、そう多くはございません。船に乗ればよいのでしょうか。船に乗るためには港へ行かねばなりませんし、港には検問がございます。私には船賃も分かりません。あの男なら知っているのでしょうか。あの男は海を見たことがあると申しておりました。綺麗だったかと尋ねますと、魚臭かった、と答えました。海とは魚臭いものなのだそうです。私は聖典に書かれた美しい海しか知りませんでしたから、少しがっかりいたしました。けれど、あの男となら魚臭い海でもよかったのです。波を見て、船を眺め、何か安いものを買って食べたかった。そうして捕まるのです。捕まってしまうのです。何と愚かなことでしょう。私はそんなことを考えながら、毎朝、神の御前で祈っておりました。どうかあの男に災いが降りかかりませんように、と。ですから私は申しませんでした。さらってくださいなどと、ただの一度も。あの男は馬鹿ではございませんでしたから。彼には彼の人生がございます。いつか聖者の護衛をしたという箔をつけて出ていき、もっとよい職を得て、妻を迎え、子を成し、家を持つこともできるでしょう。あの男のことですから、よい父親になると思います。子供はきっと、よく笑うでしょう。目元が似るのでしょうか。あの大きな口も似るのでしょうか。きっと鼻の形まで似るのでしょう。あの男は子供を肩車してやり、庭で拾った葉を唇へ当てて、こうするんだと教えてやるのでしょう。子供が上手に鳴らせなければ笑い、また教えてやるのでしょう。私はそれを想像して、腹が立ちました。許せなかったのです。あの男によく似た子供が、私の知らない女から生まれることが。私には彼の子を産めないのに。そう考えて、私は、ぞっといたしました。何を考えたのでしょう。彼の子を産めないのに、とは。私は男でございます。子を産むことなどできません。そのようなことは、誰に教わらずとも存じております。それなのに私は、あの男の子供が欲しかったのでしょうか。あの男に抱かれたかったのでしょうか。ああ、申し訳ございません。お聞き苦しいことでございましょう。私は聖者なのです。女に生まれたなら、聖女としてあったのならあの男の子を産めたのでしょうか。いいえ、女であったところで、教会の所有物である私が平民の男を選ぶことなど許されなかったでしょう。それでも、私にはないものを持つ女が、この世にはいるのです。あの男に抱かれ、あの男の子を産み、その子が父親によく似ていると、笑っていられる女が。私はそんな女を知りません。まだどこにもいない女を、私は憎んだのでございます。あの男が妻を迎えるなら祝福しよう、子が生まれたなら祈ろう、そう決めておりました。決めていたのです。本当です。ですから、そんなことを考えた自分が恐ろしくて、神に許しを請いました。どうか私の心からこの愚かな思いを取り除いてください、あの男に善き伴侶をお与えください、私は聖者でございます、私はあなたのものでございます、私は何も求めません、何も求めてはならないのですと。神はお答えになりませんでした。けれど、お答えにならないこともまた神の思し召しであると、私は教わっておりましたから、その夜も朝まで祈り続けました。ええ、我慢しておりましたよ。私は聞き分けのよい聖者でございましたから。ところが、ある日のことでございます。彼がいなくなったのです。私の護衛が変わったと、そう告げられました。今度は立派な騎士の家系に連なる女性でございました。美しい方でしたよ。背筋を伸ばし、礼儀正しく、言葉遣いも上品で、聖者である私に対して決して無礼な口を利かず、私の頭を撫でることもなく、庭の葉を拾って笛を吹かせるようなこともない、まことに立派な護衛でございました。私は以前の護衛はどうしたのですかと尋ねました。配置が変わったのだそうです。どちらへと尋ねても、詳しいことは知らされませんでした。私は、そうですか、と答えました。そうですか、と。それきりでございます。あの男にはあの男の人生があるのです。もっとよいお役目をいただいたのかもしれません。私とて、いつまでもあの男に甘えているわけにはまいりません。そう思いました。あの男が使っていた部屋も、ほどなくして別の騎士が使うことになりました。私は兵舎の裏手を通った折、あの男の洗濯物が干されていないのを見て、ああ、そうかと思いました。以前、袖を結んで干していた場所です。今はほかの方の衣が干されておりました。よく洗われた、綺麗な衣でした。あの男は洗濯が下手でしたから、きっと新しい場所でも袖を結んで干しているのでしょう。私はそれを思い、少し笑いました。笑ってから、もう二度と見られないのかもしれないと思いました。いいえ、そのときには、まだ会えると思っていたのです。会えるはずでした。だって、どこへ行ったのか存じませんが、同じ国にいるのですから。いつかまた会えるでしょう。彼が教えてくださった葉の笛も、今ではずいぶん上手になりました。見せてやりたいと思っていたのです。おまえ、もう俺より上手いな、と、あの男なら笑ったでしょう。けれど私は葉を拾わなくなりました。吹いても、誰も笑ってはくださらないのです。そんな折、私のもとには多くの女性がいらっしゃるようになりました。皆、美しい方ばかりでございました。良家のご令嬢で、教養があり、信仰が篤く、血筋も申し分のない方々でした。私は不思議に思いました。どうしてこのような方々が、私のような位の低い聖者のもとへいらっしゃるのでしょうか。やがて、伴侶を決める時期が来たのだと教えられました。聖者の血を絶やしてはならない、神から賜った尊い聖痕を次代へ受け継ぐため、よい血統の女性を迎え、子を成すのが私の務めなのだそうです。私は驚きました。驚いたなどというものではございません。何をおっしゃっているのでしょう。私は聖者でございます。神のものでございます。私はそのために、あの男を愛していると申しませんでした。さらってくださいと、たった一言、そう言うことさえ我慢してまいりました。それなのに、今度は見知らぬ女性を妻に迎えろとおっしゃるのですか。誰か一人を望んではならないと教えたその口で、私の子を望まれるのですか。愛してもいない女性と寝所を共にし、子を成せと。それが神の御心だと。ああ、なるほど。そうでございましたか。私はそのとき、何だか可笑しくなってしまいました。私があれほど恥じ入り、眠れぬ夜を過ごし、神に許しを請うたあの欲望は、子供に聖者の血が流れてさえいれば、何ら咎められるものではなかったのです。私の腹が子さえ孕めれば、あの男でよかった。
私は神官様に、では、以前の護衛はどこへ行ったのですかと尋ねました。あの者はふさわしくなかったのだそうです。聖者のそばに置くべき者ではなかった、分不相応な地位を与えられて思い上がった、あれはあれでよい場所へ送られたのだから、もう気にするなと。私はそのとき初めて、神官様のお顔が憎らしいと思いました。ひどいことでございます。神官様は私を育ててくださった方です。幼い頃、熱を出せば額に手を当て、眠れぬ夜には聖典を読んでくださった方なのです。その方を憎いと思いました。配置を決めるのはもっと上の方々でございますし、神官様は何も悪くないのかもしれません。それでも、もう気にするな、という言葉が、どうしても嫌だったのです。私は部屋へ戻って祈りました。どうかあの男が幸せでありますように。どこへ行ったのかは存じませんが、どうか健やかでありますように。よい伴侶を迎えられますように。いいえ、伴侶はまだ迎えないでください。もう少しだけ、私のことを覚えていてください。ああ、こんな祈りを捧げてはなりませんね。私はすぐに悔い改めました。そうして幾日かが過ぎました。女性たちは相変わらず私のもとへいらっしゃいました。誰も彼も私に微笑み、私の手を取り、何を好むのかと尋ねました。私は何でもよいのですと答えました。ある方に、どのような物語がお好きですかと尋ねられ、私は教訓のない物語が好きなのですと答えかけました。けれど、そのようなことを申し上げたところで、あの男を知らぬ方には、きっとお分かりにならないでしょう。私も、あの男に教えていただくまでは分からなかったのですから。

そうして、とうとう、あの日が来たのでございます。私は伴侶となる女性たちを迎えるため、身なりを整えられておりました。聖者にふさわしい白い衣を着せられ、髪を梳かれ、胸元の聖痕がよく見えるよう襟を開かれ、祈りのための飾りをつけられました。儀礼に用いる小刀も、ほかの祭具とともに用意されておりました。そこへ、一人の女性が、私の腕をご覧になっておっしゃいました。その腕輪は、聖者様には少々ふさわしくないのではありませんか、と。ああ、腕輪。そうです。腕輪でございます。私は彼から腕輪をいただいておりました。何の変哲もない硝子の腕輪でございました。市場に行けばいくらでも売っているような、安っぽい量産品の、薄い青色をした腕輪です。彼がある日、気まぐれに投げてよこしたものでございます。町で見かけたから買ってきた、おまえなら似合うんじゃねえか、などと、まるで道端で拾った石でも渡すような調子でくださいました。私はすぐに腕へ通しました。彼は少し笑いました。やっぱり似合うな、と。それだけです。本当に、それだけのことでした。私はその腕輪をずっと身につけておりました。彼がいなくなってからは、いっそう大切にしておりました。何しろ、彼が私にくださったものは、それ一つしかなかったのですから。女性は困ったように微笑みました。もっとふさわしいものをお召しになればよいのに、と。私は、これがよいのです、と申し上げました。すると、その方はおっしゃったのです。古いものはお取り替えになりましょう、これからはもっとよいものをいただけるのですから、と。私は彼女が嫌いになりました。ああ、申し訳ございません。悪い方ではなかったのです。私を思っておっしゃったのでしょう。あんな安物の腕輪をしていては聖者として恥ずかしい、そう考えてくださったのかもしれません。それなのに私は、あの方が嫌いになりました。彼女が腕輪を外そうと手を伸ばしたとき、私は思わず身を引きました。ただ、触ってほしくなかったのです。けれど、その拍子に腕輪が衣の袖へ引っかかりました。あの男がいた頃よりも痩せてしまいましたから、手首に引き留めておくこともできず、するりと抜けてしまったのです。パリン、と。軽い音がいたしました。砕けた硝子が床へ散りました。私はすぐに拾おうといたしました。拾って、集めて、何とか元に戻そうといたしました。硝子が指に刺さりました。腕にも刺さりました。周囲の方々は慌てふためいておりましたが、構いませんでした。あの男がくださったものなのです。あれだけは、あれだけは、私のものでした。私は膝をついて破片を拾いました。大きなものから拾えばよかったのか、小さなものから拾えばよかったのか、今となっては分かりません。とにかく、すべて拾えば元に戻せると思ったのです。誰かが私の手を取ろうといたしました。私は振り払いました。すると、腕に残っていた破片が床へ落ち、また小さく割れました。ああ。私はその音を聞いて、もう駄目だと思いました。すると、不意に見えたのです。何故でしょうか。神の慈悲だったのか、諦めを促すための罰だったのか、私には分かりません。けれど、見えたのです。彼が死ぬ瞬間が見えました。あの男でした。暗いところに倒れておりました。石の床でした。彼は何かを言おうとしておりましたが、声は聞こえませんでした。衣が破れておりました。剣も持っておりませんでした。片方の靴が脱げておりました。ああ、どうしてでしょう。あの男は靴を大切にしておりました。剣も靴も、自分で手入れをしておりました。靴紐の結び方が独特で、私は一度、解き方を教えていただいたことがございます。あんなところで靴を脱ぎ捨てるような男ではございません。どなたか、靴を拾ってください。彼が起きたら困ります。あの男は起き上がろうとしておりました。できませんでした。手をついて、また倒れました。私はあの男の名前を呼びました。呼んだつもりでした。届くはずもないのです。けれど、呼ばずにはおられませんでした。何をしているのですか。どうしてそんなところにいるのですか。怪我をしたのですか。私には治癒の奇跡などございませんが、祈ることならできます。祈りますから、どうか、どうか。私はそのとき、あの男が死ぬのだとは思わなかったのです。私は傷ついた人間を見ることに慣れておりませんでした。教会へ運ばれてくる方々は神官様がお世話をなさいますし、私が祈りを捧げるときには、すでに綺麗な寝台へ寝かされ、傷も覆われております。人があんなふうに死ぬなど、知らなかったのです。あの男は少し動きました。それから、動かなくなりました。私は待ちました。きっとまた動くのだと思ったのです。あの男は丈夫でしたから。多少の怪我なら笑って済ませる男でしたから。けれど、もう動きませんでした。ああ、そうか。死んだのですか。死んでしまったのですか。あの男が。私は硝子の破片を握っておりました。手から血が流れておりました。誰かが名前を呼んでおりました。聖者様、聖者様と、何度も呼んでおりました。私は振り返りませんでした。あの男が動かないのです。そちらを見ていてください。どうか見ていてください。誰かあの男のそばにいてください。迎えに行ってください。あの男は時折、寝たふりをすることがございました。私が書物を読んでいるあいだ、壁にもたれて居眠りをするのです。声をかけても返事がなく、近づけば突然目を開けて笑うのでございます。私は何度も騙されました。いえ、騙されるというほどのことでもございませんが、びっくりするのです。あの男はそれを面白がっておりました。ですから、今度も。いいえ、今度は違うのですね。私は何か言おうといたしました。何を言えばよかったのでしょう。愛しておりますと申し上げればよかったのでしょうか。死んだ男に。今さら。今さら、何になるのでしょう。私はあの男が好きでした。あの男にさらってほしかった。海へ行きたかった。魚臭い海で構いませんでした。私は一度も海を見たことがないのです。あの男は見たことがあると申しておりました。私が行ってみたいと申し上げたとき、じゃあいつか行くか、と申しました。あれは嘘だったのでしょうか。いいえ、嘘ではございませんね。あの男はそういう男でした。いつか行くか、と、気軽に申すのです。実際にはそんな暇などございませんし、私が教会を離れるわけにもまいりません。それでも彼は、いつか行くか、と申しました。私はそれが嬉しかったのです。いつか。いつかとは、いつでございますか。私にはまだ、あの男に尋ねたいことがたくさんございました。海では本当に、どこを見ても水ばかりなのでしょうか。魚はどこで眠るのでしょうか。船乗りは毎日魚を食べているのでしょうか。そんなことを尋ねれば、あの男はきっと笑ったでしょう。世間知らずだなあ、おまえは、と。私はその声を聞きたかったのです。私は、何も申し上げておりません。あなたに何も伝えていないのです。私は、あなたを。ああ。私は膝をついたまま、しばらく動けませんでした。硝子の破片が血で滑り、指から落ちました。どなたかが私を抱き起こそうとなさいました。私は嫌だと申しました。嫌だ、と。生まれてから一度も申し上げたことのない言葉でした。私はあの男がよかったのです。あの男でなければ嫌だったのです。あの女性ではございません。その女性でもございません。私にはもっとふさわしい方がいるなどと、もうおっしゃらないでください。何も要りません。何も欲しくありません。ああ、違います。返してください。あの男を返してください。私はあの男の幸福を祈っておりました。妻を迎えるなら祝福しよう、子が生まれたなら祈ろう、そう決めておりました。けれど、違ったのです。私はあの男によく似た子供が欲しかったのです。あの男に抱かれたかったのです。私はそんなことを考える自分が恐ろしくて、神の御前で何度も悔い改めました。そうして、とうとう何も申し上げないまま、あの男を失ったのでございます。ああ、神よ! 私は何も求めなかったではございませんか! あの男に私をさらってほしいと、一度でも申し上げましたか! あの男の子供が欲しいと、一度でも祈りましたか! 私はあなたの教えに従い、己の欲を捨て、あの男を手放しました。それなのに、あなたは、あの男が生きることさえ許してくださらなかったのですか。私は何も知らなかったのです。あとになって聞きました。あの男は、聖者の護衛という名誉を妬まれ、疎まれ、遠くへ送られたのだと。平民の男が聖者のそばにいることを、許せぬ方々がおられたのだと。私はそれを知って、ああ、そうですか、と申しました。以前、護衛が変わったときと同じでございます。そうですか、と。何と立派な聖者でしょう。何と聞き分けのよい男でしょう。私は教会の方々の決めたことに、一度も逆らいませんでした。あの男がいなくなったとき、どこへ行ったのですかと尋ねました。詳しいことは知らされませんでした。私は、それ以上尋ねませんでした。何故でしょう。神の御心だからですか。人にはそれぞれ、あるべき場所があるからですか。私はそんなことを信じていたのでしょうか。信じておりましたとも。私は神を信じておりました。何も知らずに祈っておりました。あの男は、あの暗い場所で、何を考えていたのでしょう。私のことなど、思い出しもしなかったかもしれません。私は聖者です。神に愛された、位の低い、何もできない聖者です。あの男は私の護衛でございました。私は彼を守ることなど、考えたこともございませんでした。いえ、考えたことはございました。彼が訓練で手を傷つけたときには祈りました。雨の日に出かけると聞けば、風邪を引かぬようにと祈りました。神様、どうかあの男をお守りくださいと。あの男は剣を磨くとき、死にたくねえからだよ、と申しました。私はあのとき、何と申し上げたのでしょう。覚えておりません。私は彼が誰かを守るために剣を磨いているのだと思っておりました。けれど、あの男も死にたくなかったのです。当然ですね。そんなことも分からなかったのでしょうか、私は。神官様が私の手を取ろうとなさいました。聖者様、お怪我をなさっております、お手を、と。私は自分の手を見ました。血が流れておりました。何とも不思議なことでした。私の手から少し血が流れただけで、皆様はこんなにも慌てるのです。あの男は死んだのに。あの男はもう息をしていないのに。私の血だけが、それほど尊いのですか。神の御印を持つ私が傷ついてはならないからですか。ならば、あの男の血はどうだったのでしょう。あの男の命はどうだったのでしょう。私は聖者でございます。祈ればよいのですか。まだ祈りが足りなかったのでしょうか。ああ、そうでございましたか。そうでございましたね。私は笑ってしまいました。誰かがお泣きになりました。女性だったと思います。私を気遣ってくださったのかもしれません。悪い方ではなかったのです。あの腕輪を外そうとなさった方も、悪い方ではなかったのでございます。私を思って、もっとよいものを、とおっしゃったのでしょう。私はそれを分かっておりました。分かっていたのに、どうしても許せなかった。あの方は何も知らなかったのです。あの男のことを知らず、私が何を思って腕輪を身につけていたのかも知らず、ただ、ふさわしくないとおっしゃっただけなのです。私はそのとき初めて、あの方も私と同じなのだと思いました。何も知らず、正しいことをしているつもりで、人の大切なものを壊してしまうのです。私はあの男を壊しましたか。私が殺したのでしょうか。いいえ、私が殺したのではございません。私はあの男を愛しておりました。神様、私はあの男を愛しておりました。私が神の御心に従い、あの男を手放したことが、あの男を殺すことになったのでございますか。ああ、もう分かりません。正しいことだけを教わり、正しいことだけを行い、正しくないことを考えぬよう努めてまいりました。その私が、どうしてこんなにも間違えてしまったのでしょう。私は立ち上がりました。すると、教会の窓に、一羽の鳩がぶつかりました。ごつん、と、妙に間の抜けた音がいたしました。鳩はそのまま落ちて、動かなくなりました。ああ、あの鳩も死んでしまったのでしょう。私は昔、鳩に餌をやろうとして神官様に叱られたことがございます。鳥は自ら餌を探すものだから、安易に与えてはならないのだと。私はそれも正しいことだと思いました。ですから、あの鳩にも餌をやりませんでした。あの鳩だったのでしょうか。いえ、そんなはずはございませんね。何年も前のことでございます。あの鳩はもう死んでいるでしょう。それとも、鳥は長生きするものでしょうか。私は鳥の寿命も知らないのです。あの男なら知っていたでしょうか。私は鳩を見ておりました。すると、鐘が鳴りました。鳴るはずのない時刻に、教会の鐘が鳴ったのでございます。誰かが鳴らしたのでしょうか。神官様は誰も鐘楼へ上がっていないとおっしゃいました。ならば、神が鳴らしたのでしょうか。あの男が死んだことを私に知らせるため、わざわざ鐘まで鳴らしてくださったのでしょうか。ご親切なことでございます。ああ、そうですか。そうでございましたか。私はそのとき、ようやく分かったのでございます。世界が終わったのです。私の世界は、あの男が死んだときに終わっていたのでございます。私はそれを、ほんの少し遅れて知っただけだったのです。ああ、そういえば、おかしなことがございました。私はそれまで、一度として奇跡を起こしたことがなかったのです。生まれながらの聖痕を持ちながら、病人に祈っても傷は塞がらず、枯れた土地に祈っても雨は降らず、神託を賜ることもございませんでした。神官様は、まだ時が来ていないのだとおっしゃいました。私はその時を待っておりました。何年も。けれど、あの男が死ぬ瞬間を見たのでございます。遠く離れた場所で、誰にも知らされずに死んでいった男の最期を、私は見たのです。あれが、私の身に初めて起きた奇跡でございました。私が起こしたのではございません。神が、あの男の最期を見せてくださったのです。何ということでしょう。私はあの男が生きているあいだ、何一つ奇跡を起こせなかったというのに。そうして、もう一つ。あの日、私の手を治すために呼ばれた癒しの聖者様が、傷口へ手を伸ばしてくださいました。掌に金色の光がともりました。神の祝福でございます。私はそれを見て、嫌だと思いました。傷など治していただきたくなかったのです。放っておいてください、私にはもう何も要りませんと、そう思ったのでございます。すると、光が消えました。聖者様は驚いておられました。もう一度、祝詞を唱えられましたが、やはり光はともりません。私の手を離し、別の方の傷へ触れると、いつもどおりの奇跡が起こりました。私はそれを見て、何だか妙な気持ちになりました。もしやと思い、今度はその方の手を取りました。神の祝福など要りません、と心の中で申し上げますと、あの方の聖痕から光が失せたのでございます。もう一度、祈っていただきました。奇跡は起こりませんでした。私に向けられた奇跡は、拒めば消える。けれど、聖痕を宿す方に触れれば、その方に与えられた祝福そのものをお返しできる。どうやら、そういうことのようでした。私はそこで、ようやく分かったのです。私の聖痕は、祝福を与えるためのものではなかったのでございます。神から授けられたものを、取り上げることができる。私が神の御許へお返しすると決めたものは、どれほど尊い祝福であろうと、その力を失ってしまうのです。何と役に立たない奇跡でしょう。病人を治すことも、飢えた人を救うこともできず、ただ、神から与えられたものを奪うだけ。私はそれまで、神様に何かをいただくことばかり考えておりました。どうかお力をお貸しください、どうかあの男をお守りくださいと。神の賜物はありがたく受け取るものだと教わってきた私に、それを突き返す方法など、誰も教えてくださらなかったのです。けれど、不思議なものでございますね。世界が終わっても、私はまだ生きているのです。胸には聖痕があり、手には血が流れ、私の周りには立派な神官様や騎士様がいて、これから私の伴侶となる女性たちが待っているのです。皆様、私の血を次代へ残そうとしてくださる。ありがたいことでございます。ならば、私も皆様のために何かをしなければなりませんね。私は聖者でございますから。神から賜ったこの身を、世のため、人のために捧げねばなりません。ええ、そうですとも。私はようやく、自分が何をするべきなのか分かったのです。神様を殺そう。そう思ったのでございます。この国の神様を殺そう。私が生まれたときから信じてきた神様を殺そう。王座に座る男を殺そう。神の血を引くと称し、神の名によって民を治め、神の名によって人を裁く、あの傲慢な男を殺さねばなりません。ああ、どうかご心配なさらないでください。私は剣の扱いなど存じません。人を殺したこともございませんし、殺そうと思ったことさえなかったのでございます。けれど、今なら分かります。どうして私に聖痕が与えられたのか。どうして何年も祈り続けて、一度として祝福を授けることができなかったのか。私は神の祝福を終わらせるための聖者だったのでございます。国王陛下は神の血を引くお方です。神の御威光をその身に宿し、神から賜った力によって王座に就いておられる。この国では、そう教えられております。陛下の御身を、刃も毒も損なうことはできないのだそうです。私は一度も試したことがございませんが、代々の聖王が神の血を証し立てるため、幾度となくその奇跡を民衆の前でお示しになったと聞いております。この聖都にいる聖者たちの祝福は、聖王の御印のもとに結ばれているのだと教わりました。神の力を戴く聖王がいてこそ、聖者はその奇跡を授かるのだと。私はそれも信じておりました。何しろ、今までそのように教わってきたのでございますから。ならば、その祝福をお返しいただきましょう。神から授かったものは、神の御許へ帰るのでございましょう? 地上の父母を恋しがる必要などないと、私に教えてくださったではありませんか。神から賜った血であるなら、神の御許へお返しすればよいのです。王宮へ参りましょう。聖者の伴侶を決めるにあたり、国王陛下へご挨拶を申し上げたいと願い出れば、きっとお許しくださるでしょう。聖者が婚姻の許しを賜る折には、聖王陛下の御手に口づけるのが習わしでございます。今まで幾度となく見てまいりました。まさか、そのために差し出された手が、神の祝福を奪うなどとは思われますまい。何しろ、私は生まれながらの聖痕を持つ聖者でございます。次代へ残すべき尊い血を持つ、聞き分けのよい聖者なのですから。御前へ進み、陛下の御手に触れ、神の祝福をお返しいただくのです。私はあの方から、神であることを取り上げます。そうすれば、あの方はただの男でございましょう。血を流し、傷つき、剣で刺されれば死ぬ男です。あの男と同じように。私は剣を振るったことがございません。あの男に教わっておけばよかったのでしょうか。いえ、あの男はきっと、聖者様にそんなものは要らねえよ、と申したでしょうね。まったく、そのとおりでございます。私に必要なのは、あの方に触れることだけなのですから。そのあとは、祈祷に使う小刀でも十分でございましょう。あのようなものを人に向けたことはございませんが、私にも刃物の使い方くらいは分かります。神の祝福を失った王を、今度こそ私自身の手で殺すのでございます。神の血を引くというだけで、人の上に立つことを許される。そのような祝福は、もう終わりにいたしましょう。私の血を次代へ残すというお話も、必要ありません。はじめから求めてなどいませんでした。私の胸にある聖痕も、もう要りません。次代へ受け継ぐために、私の知らぬ女へ渡されることもございません。神官様はお怒りになるでしょう。国王陛下は私をお許しにならないでしょう。聖者が神を殺すなど、何と恐ろしい、何と不敬な、何と愚かなことを考えるのかと、皆様はおっしゃるでしょう。けれど、私はもう我慢をいたしません。私はあの男を愛しておりました。愛しておりましたとも! どうして申し上げなかったのでしょう。あの男が私の護衛であったとき、ただ一度でも、あなたが好きですと、そう伝えていたなら。あの男は笑ったでしょうか。困った顔をしたでしょうか。それとも、ひどく嫌がったでしょうか。分かりません。分かりませんが、せめて、聞いてほしかった。ああ、聞こえませんか。鐘が鳴っております。鳴るはずのない鐘が、まだ鳴っております。私は砕けた腕輪を拾いました。もう元には戻りません。どれほど祈っても、どれほど泣いても、元には戻らないのでございます。けれど、私はまだ、あの男から教わった笛を吹くことができます。あの男が好きだった物語を覚えております。あの男が笑った顔を覚えております。私は、そのすべてを持ったまま、神を殺しに参ります。もう祈りません。神に許しなど請いません。私が生まれて初めて、自分のために選んだことでございますから。ああ、けれど、その前に、ほんの少しだけ、私は夢を見たのでございます。見知らぬ故郷、顔すら知らぬ両親、どこにでもいる男が、粗野に笑う男に恋をする。朝になれば二人で起きて、洗濯をして、買い物へ出かけるのでしょう。あの男は洗濯が下手ですから、きっと私が干すことになりますね。私は毎週は困りますと申し上げましたが、今なら毎日でも構いません。祈りの時間など、もう気にしなくてよいのですから。そうしていつか、二人で海を見に行くのです。魚臭い海へ。何の教訓もなければ奇跡もない、神様の出てこない物語でございます。あの男が聞いたなら、きっと笑ってくださったでしょう。おまえ、そんなくだらねえ話をどこで覚えたんだ、と。私は答えたかったのです。あなたが教えてくださったのですよ、と。不毛な夢を見たんです。

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