がおーん

 少し離れたところに、人間が二人いた。

 人間だ、と声に出した途端、二人は揃って妙な動きを始めた。こちらへ背中を向けるでもなく、身体だけは私たちの方へ向けたまま、後ろ向きにするすると離れていく。
 足元は雪と岩で凸凹しているのに、とても速い。人間ってあんな移動方法もできるんだ。前世では見たことがない。もしかすると、こちらの世界の人間には後方移動へ特化した文化があるのかもしれない。

「人間、待ってー」

 もう少し近くで見たかった。今世で初めての人間! 人間も冷凍ビームを出せるの!? お顔を見せて! かわりに可愛い私を見ていいから! すぐに追いかけようとして、前足を一歩だけ踏み出した。そしてすかさず思い直した。

 私が走れば、きょうだいは絶対についてくる。一匹が走ったら全員で追いかけるのが、私たちの現在の遊び方だ。誰かがすっ転んで泣きじゃくるまで私たちのレースは止まらない。
 四匹が外で掛け出せば、母は危険がないか確かめるために追ってくるし、父も母と子どもたちが動けば当然ついてくるだろう。

 結果、人間二人を白虎六頭で追跡することになる。

 その光景を人間側から考えてみた。

 後ろを振り返る。白い虎の赤ちゃんが四匹、嬉しそうに走ってくる。その背後から、大人の虎二匹が雪煙を上げて迫ってくる。子供の安全を守るため、大人虎達は余裕が無い。真顔ダッシュ。こちらに敵意はなくても、人間にそんなことが分かるはずがない。

 どう想像しても“死”のヴィジョンしか出てこなかった。

 私一匹なら、もふもふの赤ちゃんが近づいてきたと思ってもらえるかもしれない。せいぜい福々しい猫くらいのサイズ感だろう。可愛い盛りの私です。きょうだいまでなら、可愛いが四倍で済む。人間ってアレルギーでも無い限りモフモフが好きでしょう? でも父と母が追加された瞬間に、突然可愛いだけでは済まなくなる。関係が獲物と肉食獣になっちゃう。

 もったいないけれど、追いかけるのは諦めた。人間たちは、そのまま真っ直ぐ後ずさりながら岩陰へ消えてしまった。あれで転ばないなんて、器用な生き物だなあ。

「人間、ばいばーい」

 届かないと思うけれど、一応声をかけておく。ここら辺は雪が音を反射して遠くまでよく響くから、もしかしたらちょっとだけでも聞こえるかもしれないし。

 

 それにしても……あの人間、小さすぎない……?

 人間たちが見えなくなったあと、私たちは遊びながら、さっき二人がいた場所まで下りていった。追跡したわけではない。本当。たまたま氷の玉がそちらへ転がり、きょうだいがそれを追い、私もついていっただけ。人間の痕跡を確かめたい気持ちはあったけど、氷の玉がこっち来ちゃったからな~~ついでに確認するしかないな~~!

 着いてみると、思っていた以上に近かった。

 私たちが遊んでいた岩場から、ほんの少し進んだだけ。この距離なら、よーいドンで走れば、いちばん大きいきょうだいは三秒もかからない。跳躍三回くらいで届く。あの子は私たちの中で一番脚が長く、一度跳ぶとビョンビョンとカエルのごとく進む。父や母なら一回の跳躍でほとんど距離を潰せるだろう。

 人間、危機管理能力が足りないかも……。

 父と母が近くにいるのに、どうしてこんな場所まで来たのだろう。たしかに父も母も人間を食べるつもりはなさそうだけれど、向こうがそれを知っているとは限らない。人間二人で白虎一家を見に来るなんて、前世でいうところの、柵のないサファリパークへ徒歩で入るようなものじゃないかな。あれだけ管理されていても飼育員にも客にも死亡事故が起こっているのに、野生の私たちにここまで近づくなんて……。人間、どうして……。

 もしかしたら、子どもが迷い込んだだけかもしれない。

 雪の上には、人間の足跡が残っていた。細長く、底に複雑な凸凹がある。靴を履いていたのだろう。前世では見慣れた形のはずなのに、自分の前足と並べてみると、妙に小さく見えた。

 私は鼻先を近づけ、ふんふんと匂いを嗅いだ。

 雪の匂いしかしない。

 冷たい空気と、濡れた岩と、ほんの少し土の匂い。人間の匂いが分からない。父なら、何日も前に通った獲物の匂いを嗅ぎ当てられるのに、私の鼻はまだ赤ちゃん性能なのだろうか。

「無臭の人間……?」

 まさか、この世界の人間は匂いがないのだろうか。いや、そんなはずはない。前世の人間は汗もかくし、洗剤も香水も使うし、食べたものによっては自分でも分かるくらい匂いが変わる。あの二人は雪の中を歩いてきたせいで、全身の匂いが冷気に包まれていたのかもしれない。

 私が足跡を嗅いでいると、きょうだいたちも何か面白いものがあると思ったらしく、続々と集まってきた。四つの丸い頭が、足跡の周囲へ並ぶ。全員で鼻先を雪へ押しつけ、ふんふん、ふんふんと嗅ぐ。

「あうあ?」

「がうー」

「ぷおん」

 三匹が顔を見合わせ、何か話し合っている。

 たぶん、「なんの匂い?」「知らない」「食べられる?」あたりだと思う。最後の子は食い意地が張っているので、食べられるかを聞いている可能性が高い。でも、もしかすると全然違って、「足跡小さいね」「さっきの何だったの」「鳥じゃない?」と言っているのかもしれない。

 分からないので、私も会話へ加わった。

「がおーん」

 三匹がこちらを見る。

「がおーん」

 念のため、もう一度言っておいた。

 ちなみに、この“がおーん”には“がおーん”という意味しかない。私はいまだに白虎語を理解していないし、話せてもいない。だが、堂々と言えば会話へ参加している感じは出せる。
 集団生活において重要なのは、内容より相槌である。前世でも、よく分からない会議では頷いておけば何とかなった。赤ちゃん白虎社会でも、たぶん同じ。

 こうして四匹で並ぶと、最近はきょうだい同士の見た目の違いも、かなり分かるようになってきた。

 いちばん大きい子は、ほかの三匹より脚が太く、背中も高い。並んで歩くと、頭半分くらい抜けて見える。私を首の後ろからくわえて運ぼうとするのも、この子である。まだ持ち上げられず、皮だけ引っ張って二匹揃って転ぶけれど、たぶん本人は世話をしているつもりなのだと思う。

 額の縞が丸く曲がっている子は、顔を見ればすぐ分かる。眉毛のようにも、丸い山のようにも見える黒い模様が、額の真ん中に乗っている。毛繕いが好きで、私が寝ていても身体を押しつけて起こし、当然のように前へ座る。最近は毛が抜ける時期なので、舐めてやると白い毛がごっそり取れる。本人は気持ちよさそうだが、こちらは口の中が毛だらけになる。

 左前脚の縞が途中で切れている子は、歩いているところを横から見れば分かりやすい。黒い線が足首まで続かず、途中でぷつりと途切れている。本人は自分だけ模様が短いことを知っているのだろうか。私は人間の時、自分の背中にあるほくろの位置などほとんど知らなかったので、たぶん気にしていないと思う。

 そして、私。

 私にも何か、ほかの子と見分けられる特徴があるのだろうか。

 母も父も、私たちを鳴き声だけでなく見た目でも区別しているように思う。少し離れた場所からでも迷わず私へ近づいてくるし、母はきょうだいを順番に舐める時、一頭ずつ違う場所を重点的に整えている。父は全員まとめて毛をぐしゃぐしゃにするので、あまり参考にはならない。

 額の模様が変わっているのか、尻尾の縞の数が違うのか、それとも耳の形に特徴があるのか。自分では分からない。

 人間だった時と違って、鏡がないから……。

 住処の奥にある青い水晶は、表面が滑らかなところなら少しだけ姿が映る。けれど、平らではないので顔が横へ伸びたり、額だけ巨大になったり、鼻が三つに分かれたりする。初めて覗き込んだ時は、化け物みたいな白虎がこちらを見返してきたので、驚いて後ろへ転がった。あれで自分の顔を確認するのは無理がある。

 水面ならもう少し正確に映るかもしれない。

 でも、水を飲む時は、だいたいきょうだい全員が一緒である。四匹並んで水辺へ顔を突っ込み、ぺっちゃぺっちゃ、ぺっちゃぺっちゃと舐める。舌が触れるたび水面は揺れ、隣の子が鼻を押しつければ波紋が広がり、誰かが前足を入れれば泥まで混ざる。そんな状態で、水面に映る自分の顔を静かに見つめることなどできない。

 そもそも、喉が渇いている時の私は、それどころではない。「水……! 美味しすぎる!!」と夢中になって、誰よりも積極的にぺっちゃぺっちゃしている。

 前世では蛇口をひねれば出てきた水を、当たり前のものとして飲んでいた。しかし授乳期を終えた今は、冷たい雪解け水が喉へ入るたび、身体中へ染み込む感じがする。いまだに母の乳は飲むけど、これはもう別腹。甘えたいにゃんねェ……の時にヂュッヂュッするだけで、今の私には清らかな水が最適な水分補給。
 走ったあとなど、何の味もついていない水がびっくりするほど美味しい。顔が映っているかどうかより、あと一口、もう一口と舐めることしか考えられなくなる。人間みたいに口をつけて吸い込むことができないから、一生懸命に舌をつかってべろんべろんするしかない。
 舌も小さいから飲みたいだけ飲むというのは重労働になる。父母は顔をつけて動かしてガボガボ飲んでいるけど、それを真似したら溺れかけたのでまだ早かったらしい。私はまだ……赤ちゃん……っ!

 そして喉の渇きが潤えば、今度はもう遊びに行くことしか考えられない。

 水面を見る予定は忘れ、きょうだいの尻尾へ噛みつき、岩へ登り勝利の雄叫びをあげ、氷の玉を追いかけ、転がり、疲れて寝床へ戻る。帰ってきたらみんなでご飯をもりもり食べ、腹も満ち、身体も温かくなり、きょうだいを枕にしてうとうとし始めた頃になって、急に思い出す。

「あ、顔見るの忘れた!」

 これを何度も繰り返している。

 仕方がない。赤ちゃんだからね。そんなに長いこと、一つの問題を覚えていられない。

 私はもう一度、人間の足跡へ前足を並べてみた。

 小さい。

 前世の人間の足って、こんなに小さかっただろうか。どう見てもちっちゃい。小虎の私たちよりちょっと大きいだけだ。父と母と比べたら、半分以下の小ささになるだろう。足が2本しかないのにこんなに小さくてどうやって立ててるんだろう……。かつての私はどうやって歩いていたのか、正直忘れている。四足歩行が、便利すぎて……。

 人間は確か、この木の横に立っていた。

 私は近くの針葉樹を見上げた。枝は低い位置から横へ伸びている。あの二人の頭は、一番下の枝よりずっと下にあった。どのくらいだっただろう。二人のうち大きい方でも、枝との間にまだかなり余裕があった。

 前世で見た人間の平均身長は、女性で百五十から百六十センチくらい、男性なら百七十センチ前後だったはずだ。日本人の平均なので、他の国ではもっと高いところも低いところもあったと思う。知ってる知識だけで判断するから曖昧。でも、あの人間たちはどう考えても前世の日本人より低そうだ。父が頭を下げて立った時より小さそう。

 うーん。

 木の高さと、人間の頭の位置と、父の肩の高さを頭の中で比べる。真剣に計算しようとしたところで、背後から大きな気配が近づいてきた。

 振り向く前に、頭の上からぶ厚い舌が降ってきた。

「ぶぇ」

 父の舌が、私の背中から頭へ向けて、べろりと一息に通過する。

 舌圧に負けた。

 前足が雪の上を滑り、私は姿勢を保てないまま、ずべーーーーっと前方押し流される。腹が雪を削り、尻尾が後ろへ伸びる。顔の毛は全部逆方向へ倒れ、片方の耳がべしょりと濡れた。

「やめてよお!」

 振り返る。

 父は満足そうに鼻を鳴らし、次のきょうだいへ顔を向けていた。

 逃げそびれた三匹が、一頭ずつ父に捕まる。べろん。ずべー。べろん。ずべーー。額の縞が丸い子は横向きに滑り、左前脚の縞が切れている子は途中で回転し、いちばん大きい子だけは踏ん張ろうとしたものの、結局後ろ足から崩れて雪へ埋まった。

 父は全員を舐め終えると、やりきった顔でこちらを見た。毛繕いしたつもりなのだろう。全員ケパケパにされましたが……。

 四匹揃って、頭の毛が逆立ち、耳が濡れ、背中の縞が毛に埋もれて見えなくなっている。母が見つけたら、また最初から全員舐め直すことになる。父はどうして、毎回これで成功したと思えるのだろう。こんなに毛並みをめちゃくちゃにされても、愛されてることしか伝わらないんだからね。いや、それで十分かも?

 私は雪の上へ伏せたまま、父と木を見比べた。

 父は今、私たちを舐めるために頭をかなり低くしている。それでも、一番下の枝より高い。背中も枝の近くまである。あの人間たちの頭は、枝よりずっと低かった。

 私の計算だと、たぶん身長百センチくらい。

 小さい。

 やっぱり小さすぎる。

「やっぱり子どもだったのかも」

 そう考えれば、一応納得できる。モコモコの服を着ていたから身体つきは分からなかったし、顔もちゃんと見ていない。
 色々な道具を持っていたのが珍しくて、そちらへ気を取られてしまった。長い棒や、丸い筒や、板のようなものを背負っていた。子どもの遠足にしては装備が重そうだったけれど、この世界の人間は小さいうちから山歩きをするのかもしれない。父と母よりも大きな生き物もいるし、そいつらが毎日我が家の食卓に上がるほど数も多いらしいし。

 でも、二人とも動きは妙に落ち着いていた。いや、後ろ向きに逃げていったので、落ち着いていたと言っていいのかは微妙だ。顔は見えなかったが、なんとなく子どもらしい雰囲気ではなかった気もする。私が子供だったら「虎だ!!」くらいは咄嗟に喋っちゃいそうだけど、私たちを見ても静かにじっとしてたのはお行儀が良すぎる。子どもよりも理性が強そう。

 つまり……小人族?

 もしかすると人間に似た別の種族なのかもしれない。ファンタジー的なイメージしかないけど、ドワーフというほど横幅はなかったし、耳が尖っているかは見えなかった。異世界なのだから、ああいう人類が普通にいてもおかしくない。

 近くに人間の集落があるのかもしれない。あの二人は、そこから山へ来たのだろう。こんなに雪深い場所に住んでいるなら、家も服も前世とは違うはずだ。何を食べているのか、どんな言葉を使っているのか、白虎のことをどう思っているのかも気になる。

 もう少し大きくなったら、冒険して覗きに行こうかな。

 今はまだ、家族から離れたら確実に連れ戻される。母に見つかれば首の後ろをくわえられて運ばれ、父に見つかれば全身を舐められ、きょうだいには面白そうだからという理由だけで同行される。
 人間の集落へ白虎の幼獣四匹で訪問するだけでも騒ぎになるし、その後ろから父母まで来たら、やはり“死”のヴィジョンしか出ない。人間たちがかわいそう。

 だから、もう少しだけ待とう。

 足をもつれさせず、自分で速く走れて、迷わず帰れて、一人で遠くまで行っても叱られないようになってから。それから一匹でこっそり山を下りて、人間の村を遠くから見る。完璧な計画!

「がおーん」

 新しい冒険計画を宣言すると、きょうだいが一斉にこちらを見た。

「ぷるる」

「あうー」

「がう」

 たぶん何も伝わっていない。
 それでも、いちばん大きい子が私の背中へ前足を載せ、額の縞が丸い子が頬を擦りつけ、左前脚の縞が切れている子が尻尾へ噛みついた。

 次の瞬間には、冒険計画も人間の身長もどうでもよくなり、私はきょうだいを振りほどいて雪の上を走り出した。

 赤ちゃんだからね。

 今は、追いかけっこの方が大事。ぷるにゃあうあうがおーと四匹で団子になって転がりまわり、父と母は少し離れたところで私たちを見守ってくれている。う~ん、平和!

 

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