ぴぇー

 叔父虎が来てから、毎日がさらに楽しくなった。

 もともと楽しくなかった日なんてない。朝起きれば誰かの腹か背中に顔が埋まっているし、寝床の外へ出れば雪があり、風があり、追いかけても追いかけても捕まらない父の尻尾がある。
 母の前足へ四匹まとめて襲いかかり、ひと振りで転がされるのも楽しい。きょうだいの耳を噛み、噛み返され、どちらが先に始めたのか忘れたまま取っ組み合うのだって、面白いし愉快。

 そこへ叔父虎という新しいコンテンツ参入! 楽しいものが増えたのだから、毎日がさらに楽しくなるのは当然だった。

 叔父虎は、よく遊んでくれる。
 最初に会った時には、私たち四匹に群がられて、どうしていいのか分からない顔で固まっていた。父と母へ助けを求めるように視線を投げ、耳を少し伏せ、尻尾の先まで動きを止めていたので、もしかすると子どもは苦手なのかと思ったけれど、あれは単に慣れていなかっただけらしい。

 数日もすると、叔父虎は私たちの扱い方を覚えた。前足へ飛びつけば、軽く持ち上げて雪へ転がしてくれる。背中へ登ろうとすれば、落ちない程度に身体を傾けて待ってくれる。尻尾を追えば、捕まえられそうで捕まえられない速さに揺らし、誰かが本気で噛みつきそうになると、するりと鼻先へ回して額を撫でる。

 父の遊び方が、いきなり身体を雪の上へ三回転させる豪快なものだとすれば、叔父虎は私たちがぎりぎり勝てそうだと思えるところまで付き合ってくれる。最後には私たちは圧倒的武力の前、為す術なく敗北。絶対に負けるのだけれど、途中まではいける気がするように誘導してくれるのが、本当に上手い。そのため私たちは毎回、今度こそ叔父虎を倒せるのではないかと本気になり、毎回きれいに全滅した。

 誰かが叔父虎の前足へしがみつけば、残る三匹も当然のように飛びつく。叔父虎は四匹をまとめて脚へぶら下げたまま平然と歩き、途中で一度だけ足を振って、雪の上へぼたぼた落とす。私たちは一瞬だけ転がり、すぐに起き上がってまた追いかけた。

 叔父虎!

 遊んでくれる!

 怒らない!

 身体が大きい!

 あたたかい!

 これはもう、大好きになるしかない。

 もしかして、叔父虎はこのままずっと一緒にいてくれるのでは!?

 私たちはその可能性に気づいた瞬間から、全力で懐いた。

 朝、目が覚めれば叔父虎を探す。寝床の奥にいなければ入口へ走り、雪の向こうに白い背中を見つけるまで鼻を鳴らした。
 叔父虎が狩りへ出る様子を見せれば、四匹そろって足元へまとわりつき、行かないでと鳴く。帰ってくれば父の時と同じくらい、場合によっては父より先に駆け寄った。

 父は別に気にしていないようだった。叔父虎に飛びつく私たちを横目で見て、そのまま母のところへ行き、頬を擦り合わせている。父は父で母がいれば満足なのかもしれない。

 母も、叔父虎が来てから少し行動が変わった。これまではほとんど私たちのそばにいて、父が狩りへ出ている間も寝床やその周辺から大きく離れなかったのに、最近は父と一緒に出ていく日が増えている。

 私たちが留守番になる時は、必ず叔父虎が残った。

 母と父が並んで雪の向こうへ消えていくと、最初のうちは少しだけ寂しくなった。けれど、振り向けば叔父虎がいる。私たちが全員そろっているのを確かめ、鼻先を近づけて一匹ずつ匂いを嗅ぎ、それからゆっくり歩き出す。

 叔父虎は、母より遠くまで遊びに連れていってくれた。

 たのしい!

 もちろん、母と出かけるのも楽しい。母は食べてはいけないものを教えてくれるし、危ない場所へ近づくと即座に首根っこをくわえて戻してくれる。迷いがない。私たちが何かを考える前に、もう安全な場所へ運ばれている。

 叔父虎は少し違う。

 私たちが穴へ鼻を突っ込めば、すぐには止めない。木の根に登ろうとすれば、後ろで見ている。斜面を転がり始めても、下に危険がなければそのまま転がらせてくれる。自分で起き上がるまで待ち、無理そうなら鼻先でひっくり返す。

 見ていてくれるけれど、先に全部やってしまわない。

 だから、母といる時には行けなかった場所まで行ける。見たことのない木、知らない匂い、雪の下を隠れて走る小さな足音。何もかもが新しかった。

 

 その日も、叔父虎は朝から私たちを連れ出してくれた。

 住処を離れてしばらく歩いたところで、見慣れたような、見慣れないような生き物を見つけた。

 鹿だ。

 父がよく持ってくるごはんに似ている。角があり、細長い顔をしていて、脚が多めについている。父が運んでくる時にはいつも動かないし、あたたかい湯気が出て、とてもおいしい。

 けれど、目の前の鹿は立っていた。

 立っているだけでなく、雪を前足で掻き、地面の草を食べている。父が持ち帰るものより少し小さい。それでも、私たち四匹をまとめたくらいでは到底足りないほど大きく、背中は高かった。

 私は匂いを嗅いだ。

 ごはんの匂い!

 きょうだいたちも同じことを思ったらしい。誰かが短く鳴き、全員の身体が一斉に低くなる。

 叔父虎は少し離れた場所にいた。

 止めない。

 ならば、これはやっていいやつだ!

 全員で襲うぞ!

 相談したわけではないのに、気持ちは完璧にそろった。私たちは雪へ腹を近づけ、尻をふりふりさせた。狙う先は鹿の脚。父も母も、獲物を倒す時にはまず足を止める気がする。たぶん。見たことはないけど、お肉が立っているのは生意気なので、すっ転ばせてやろう!

 いち、にの、さん!

 我ら雪原の白き弾丸。四匹で一気呵成に飛び出した。

 雪を蹴り、全力で走る。鹿が顔を上げた。耳がこちらへ向く。私たちはもう止まれない。

 一番大きいきょうだいが先に飛びつき、その少し後ろから残る三匹が続いた。

 鹿の後ろ脚が動いた。

 白い腹が持ち上がり、黒い蹄が大きく振られる。先頭のきょうだいが胸を蹴られ、空中で一回転した。隣を走っていた子は肩を弾かれ、斜めに飛ぶ。私は目の前へ突然落ちてきたきょうだいへぶつかり、そのまま雪へ顔から突っ込んだ。最後の一匹だけは逃げようとしたものの、方向転換に失敗し、鹿の前足に軽く払われて転がった。

 ぼた。

 ぼたぼた。

 ぼたん。

 四匹が次々と雪の上へ落ちる。

「ぴぇー!!」

「きゃーん!」

「きゅー!」

「おじちゃーん! ごはんがいじめてくるー!!」

 痛い。

 びっくりした。

 ごはんなのに動いた。

 しかも蹴った。

 ごはんのくせに私たちに逆らった!

 私たちは鹿へ襲いかかった時よりも速く集合し、雪の上でひとつの団子になった。誰かの頭へ顎を乗せ、誰かの背中へ前足を回し、全員で震えながら泣く。

 鹿はまだ立っていた。鼻から白い息を吐き、こちらを見ている。逃げるでもなく、もう一度来るならまた蹴るぞと言わんばかりに蹄を鳴らした。

 ひどい。

 ごはんのくせに。

 びえびえと悲しみに伏している私たちの横を、叔父虎が動いた。

 すぐそばにいたはずなのに、動き始めても気配が全く無い。
 雪の中から大きな影だけが滑り出したように見える。足音もほとんど無く、雪には足跡が残るのに無音だから突然穴が空いたみたいに見える。唸り声も上げない。叔父虎は鹿の横へ回ることも、足を狙って飛びかかることもしなかった。

 ただ正面から距離を詰め、前足をひとつ出した。
 鹿が首を振る。角が叔父虎の顔へ向いた。
 叔父虎は避けなかった。

 白い前足が角の根元へ落ちた。鹿の頭が雪へ押し下げられる。その瞬間、叔父虎の牙が首へ食い込んだ。

 鈍い音がひとつ。

 鹿の脚から力が抜ける。身体が横倒しになり、蹴り上げられた雪が遅れてぱらぱらと落ちて、終わりだった。

 叔父虎は鹿の首から口を離し、こちらを見る。

 白い顎の毛へ赤いものが少しついている。耳は立ち、尻尾の先がゆっくり揺れていた。こちらが無事なのを確かめるように目を細め、それから倒れた鹿へちらりと視線をやる。

 どことなく得意そうだ。

 叔父虎!!!
 格好いい!!

 私たちは泣くのを忘れて飛び出した。

 さっきまで団子になっていた四匹が、今度は叔父虎の脚へ一斉に群がる。

「ぴー!」

「きゅーん!」

「ぴゃぉー!」

「おじちゃんつよい! かっこいい! だいすき!」

 叔父虎はしばらく平然とした顔を保っていたが、尻尾の先だけがだんだん大きく動き始めた。私たちが前足へじゃれつき、胸元へ顔を埋め、血のついていない頬を順番に舐めても追い払わない。

 親戚の優しいおじちゃんは大人気だった。
 鹿の肉を少し食べて休んだあと、私たちはさらに先へ進む。

 私たちの足はまだ短い。雪が深い場所では腹まで埋まり、歩くだけで体力を使う。最初は全員、叔父虎のあとを張り切って追いかけていたものの、やがて列が伸び始めた。

 先頭を歩いていた一番大きいきょうだいが、急に立ち止まり、その場へ腹をつける。次の子は数歩だけ頑張ってから座り込み、最後の一匹は私と最後尾レースをしながら「ぴぇー」と泣き言をいった。私も「ぴぇー」と限界を叫ぶ。あんよが! 私の可愛いあんよが! 疲れたって言ってるよぉ!

 叔父虎は少し先で足を止め、振り返った。
 四匹がよちよちと歩いているのを、じっと見る。

 少し待ち、私たちが追いつくとまた歩き出す。けれど、今度はさっきより遅い。何度も肩越しにこちらを確かめ、誰かが雪へ座り込むたびに戻ってくる。

 そして、一匹ずつ首根っこをくわえた。

 最初に運ばれた子は、叔父虎の口からぶら下がったまま足を揺らし、少し先の雪が浅い場所へ置かれる。次の子も同じように運ばれた。叔父虎は一度に一匹しか持てないため、置いては戻り、置いては戻る。

 私の番になると、首の後ろがやわらかく挟まれた。

 身体がふわりと浮く。

 母に運ばれる時とは少し違う。母は慣れているので、持ち上げられてから下ろされるまでほとんど揺れない。叔父虎は慎重すぎるくらい慎重で、私の身体が傾くたびに足を止め、くわえ直す。牙は痛くないように柔らかく首の皮を噛んで、優しさのせいで安定感がない。

 地面から離れたまま進むのは楽しい。

 私はぶら下がった状態で前足を伸ばし、流れていく雪を触ろうとした。

 届かない。

 もう少し。

 やっぱり届かない。

 叔父虎が私を咥えたまま「がう」と言った。窘めるニュアンスを感じる。

 押忍、なんでもないです。

 私は前足を引っ込め、大人しく運ばれた。

 叔父虎に搬送され、時々雪解け水が川になっている場所で水を飲み、おやつ代わりに捕まえたネズミを食べ、いつの間にか住処よりもずっと遠くへ来ていた。

 この辺りは雪が薄い。白い地面のあちこちから、茶色い土や草が見えていた。木の種類も少し違い、幹は細く、枝が高い。風も住処の近くほど冷たくなく、湿った土と、草と、知らない動物の匂いが混ざっている。

 私たちは地面へ下ろされるなり、そろって鼻を近づけた。

 フンフンフンフン。

 匂いが多い。

 ここを何かが歩いた。小さい足跡。向こうには鳥の羽。木の根元には別の獣が身体を擦った跡があり、草の間には何かの糞が落ちている。

 フンフンフンフンフン。

 きょうだい全員で鼻を鳴らし、少しずつ別々の方向へ広がっていった。

 叔父虎は私たちを見て、満足そうにフンと鼻を鳴らした。

 今日はここで遊べということらしい。

 叔父虎は、私たち四匹をすべて見渡せる場所へ移動した。少し高くなった雪の上に前足を伸ばして横たわり、頭だけを起こす。悠然としている。何かあればすぐ動けるのだろうけれど、見た目には完全に休んでいた。

 けれど、一度目を離してから見直すと、どこにいるのか分からなくなる。

 雪と白い毛の境目が消えていた。背中の薄い縞も木の影へ紛れ、動かないと大きな身体の輪郭まで見えなくなる。本当にそこへいるのか不安になって、私は鼻を上げた。

 叔父虎の匂いはする。

 フンフンしながら近づいていくと、雪の塊だと思っていたものが叔父虎の肩だった。

 いた!

 叔父虎は目だけをこちらへ動かした。

 私たちは叔父虎の匂いを知っているから見つけられる。知らなければ、すぐそばまで来ても気づかないかもしれない。

 獲物はこういうふうに死角を作られて、一撃で倒されているのだろうなあ。

 さっきの鹿も、叔父虎が動いてもまったく気づいていなかった。私たちに蹴りを入れ、まだ戦えると思っていた直後、首を折られた。

 叔父虎は、静かにしている時の方が怖いのかもしれない。
 もっとも、私たちにとってはお腹の上へ登っても怒らない優しいおじちゃんなので、怖くない。私は叔父虎の前足へ頬を擦りつけ、それから遊びへ戻った。

 一番大きいきょうだいは、地面の匂いを追いかけているうちに、小さな穴を見つけた。
 草の根元に開いた丸い穴で、周りに細かな足跡が残っている。きょうだいは迷わず頭を突っ込んだ。

 前足で土を掻き、肩まで入れる。尻と後ろ足だけが外に出て、尻尾が激しく揺れている。

 何かいるらしい。

 私たちも集まり、穴から出た土の匂いを嗅いだ。

 うさぎかな。

 さっき鹿に負けたので、今度こそ捕まえたい。私はきょうだいの横から顔を入れようとしたけれど、穴は一匹分しかない。

 押しても動かない。

 そのうち、穴へ突っ込んでいたきょうだいの後ろ足がばたばたし始めた。掘っているのかと思ったが、少し様子がおかしい。後ろへ下がろうとしている。もしや……抜けない……?

 私は尻尾をくわえた。

 引っ張る。

 動かない。

 ほかのきょうだいも集まり、腰の毛や後ろ足へ噛みついた。三匹で引っ張る。

 ずる。

 少し抜けた。

 もう一度。

 ずるずる。

 穴の縁が崩れ、頭を土と泥で真っ黒にしたきょうだいが後ろ向きに飛び出した。私たちも勢い余って転がり、四匹まとめて土の上でもつれる。

 助かったきょうだいはしばらく呆然としていた。

 頭だけ泥まみれだ。額も耳も黒くなり、白虎というより、首から上だけ別の生き物になっている。

「ぴぉ~~……」

 情けない声を上げると、そのまま叔父虎のところへ駆けていった。

 叔父虎の前へ座り、泥だらけの顔を見せ、何度も鳴く。時々、穴の方を振り返る。あれは絶対に、『ひどいめにあった、うさぎがいじめた』と言いに行ったな……。

 自分から頭を突っ込んだことは報告していない顔をしている。

 叔父虎は穴ときょうだいを交互に見てから、大きな舌で泥を舐め取った。舐められるたび、きょうだいの頭が左右へ揺れる。本人は被害者らしい顔を崩さず、叔父虎の前足へぴったり身体を寄せていた。まったく、これだから赤ちゃんは。

 残る二匹も、それぞれ好きなことを始めた。

 一匹は住処の近くでは見ない草を齧っている。ひと口噛んでは変な顔をし、それでもまた噛む。おいしくないならやめればいいのに、何度も試していた。もう一匹は細い木へ前足をかけ、爪を立てている。がりがりと幹を削り、途中で自分が剥がした樹皮の匂いを嗅ぎ、また削る。

 みんな忙しい。

 私も遊ぼう!

 あんまり離れたら、叔父虎が母に怒られそうだし、見える範囲で!

 周囲を見回すと、雪の切れ目に小さな赤い実が落ちている。少し先には、倒れた木の幹。木の皮の下から虫が出てくるかもしれない。細い草の間には、何かが通った跡もある。

 どれにしよう。

 赤い実かな。

 虫かな。

 足跡かな。

 迷っていると、近くの茂みから音がした。

 ガサ。

 私は耳を立てた。

 ガサガサ。

 枝が揺れる。

 ガサガサガサガサ。

 音が近づいてくる。

 うさぎかな!?

 さっき穴へ逃げたうさぎが、別の出口から出てきたのかもしれない。今度は頭を突っ込まず、外で捕まえればいい。きょうだいの仇を討つ!

 私は身体を低くし、音のする方へ顔を向けた。

 茂みが大きく揺れた。

 細い枝を両手で分け、人間が出てきた。

 近い。

 本当にすぐそばだった。

 この前見た二人とは違う。身体が想定していたものよりもずっと小さい。毛は長く、頭の後ろで束ねている。分厚い服を着ているけれど、肩幅も細かった。

 人間のメスだ。

 そう思ってから、私は自分の思考に引っかかった。いま、ナチュラルにメスって思ったな。思考が虎すぎる。人間のメスは女って呼んだ方がいい。反省反省、てへぺろ。

 女の人はこちらを見ると、目を大きく開いた。

 私も見つめ返した。

 逃げない。

 この前の人間たちは、私を見た瞬間に後ろ向きで逃げた。こちらの世界の人間には不思議な後方移動文化があるのかと思ったけれど、この女の人は違うらしい。

 むしろ近づいてきた。

 頬が赤くなり、口元が大きく開く。

「わあ!! これが氷嶺白虎なんですね!! 大きくてもふもふで可愛い!!!」

 声も大きい。私はびくっと耳を伏せた。女の人は興奮した顔のまま、さらに一歩近づいてくる。
 人間だ。近くで見ると変な形をしている。顔には毛がほとんどなく、耳は頭の横についている。前足ではなく腕が二本。爪は短く、口を開けても大きな牙は見えない。

 前世では見慣れていたはずなのに、奇妙な生き物だった。女の人は腰をかがめ、私と目の高さを合わせた。

 カパッと口を開けてる。威嚇してくる! 右手を伸ばして、私の頭のこと狙ってる! すっかり怖くなってしまった私は固まって動けなかった。人間の手が額のすぐ上まで来る。指先が毛へ触れそうになった瞬間、考えるより先に身体の奥から声が飛び出した。

「おじちゃんたすけて!! 人間がわたしのこといじめるよお!!!!」

 女の人の手が止まった。それとほとんど同時に、離れた場所で雪が爆ぜた。音を聞いてから振り向いたはずなのに、叔父虎はもうそこにいなかった。泥だらけのきょうだいを舐めながら、のんびり寝そべっていた白い身体が、雪の上から丸ごと消えている。
 次に見えたのは、地面すれすれを走る影だった。走るというより、飛んでいた。腹の毛が雪を擦りそうなほど低く身を伏せ、後ろ足で一度地面を蹴ったきり、叔父虎は私と女の人の間をひと息で抜けてくる。

 女の人が腕を引こうとした。遅い。叔父虎の前足が私の頭上を横切った。爪は出ていなかったし、当ててもいない。それでも空気を引き裂く音がして、頬の毛が一気に後ろへ倒れる。ぶわん、と身体が浮いた。何かに触れられたわけでもないのに、腹の下からすくい上げられ、足が雪を離れる。肺の中の空気まで押し戻され、耳の奥がきんと鳴った。

 私は横へ転がされたが、痛くはなかった。叔父虎はあの速さで、私だけをきれいに避けている。すごい。叔父虎、すごい!

 雪へ鼻先を突っ込んだまま顔を上げると、叔父虎の後ろ足が地面へ落ちるところだった。踏み込まれた雪が四方へ弾け、その下の凍った土まで崩れる。太い身体が半ばまで沈み、すぐに持ち上がった。勢いを殺さないまま身をひねり、私を背中へ隠す。

 女の人の目の前へ前足が落ちた。直接は当たっていない。けれど、地面が砕けた。黒い土と石が噴き上がり、足元をさらわれた女の人の身体が宙へ浮く。息を呑む暇もなかったらしい。口を開けたまま後ろへ飛び、茂みへ背中から突っ込んだ。枝がまとめて折れ、帽子だけが高く舞う。

 女の人は雪の上を二度、三度と転がり、岩の手前で止まった。叔父虎は追わなかった。私の前へ四本の足を据え、頭を低くする。普段は雪に紛れて輪郭さえ分からなくなる白い毛が逆立ち、大きな身体がさらに膨らんだ。耳は後ろへ伏せられ、持ち上がった唇の下から牙が覗く。さっき鹿の首を一度で折った牙だった。口の端から落ちた唾液が雪へ沈み、細い煙を上げる。

 叔父虎が息を吸った。胸が大きく膨らみ、その前に積もっていた雪が、風もないのにするすると退いた。ヒゲがバチバチと静電気みたいにくすぐったくなる。なにかの魔法なのかもしれない。

 次の瞬間、叔父虎が吠えた。音が聞こえた、と思うより先に地面が震えた。腹の中を直接揺すられ、耳の奥が潰れそうになる。目の前の雪が一枚めくれるように剥がれ、土や折れた枝と一緒に女の人の方へ吹き飛んでいく。
 岩の表面に細い亀裂が走った。木々が揺れ、枝に積もっていた雪がいっせいに崩れ落ちる。私は雪へ伏せたまま、叔父虎の背中を見上げた。大きい。強い。格好いい! さっきまで腹へ登っても怒らなかった叔父虎が、私の声を聞いた途端、あんなに遠くから飛んできた。

 私は恐ろしくなるどころか、喉の奥から興奮した音が漏れそうになった。いま飛びついたら邪魔かな。たぶん邪魔だ。あとでいっぱいじゃれよう。

 女の人が雪の上でわずかに動いた。身体の下へ入っていた手が外へ出て、指先が雪を掻く。叔父虎の頭がほんの少し下がる。瞳孔が細い線まで縮まり、女の人の指へ視線が吸いついた。
 牙の隙間から低い音が漏れる。先ほどの咆哮とは違う。喉の奥で押し殺され、地面の下を這うような唸りだった。雪へ触れている私の腹に、細かな振動が伝わってくる。女の人の指が止まった。叔父虎も動かない。動かないまま、いつでも首へ届く姿勢を取っている。

 叔父虎の尻尾が低い位置で一度だけ振れ、先端が雪を切った。そこで背中に何かがぶつかった。泥の匂いがする。さっき穴へ頭を突っ込んでいたきょうだいだ。

 私の背後へ腹ばいで滑り込み、ぴったり身体を押しつけてくる。反対側からもう一匹が潜り込み、最後の一匹も私の尻へ顔を押し当てた。いつの間にか全員集まっていた。私たちは叔父虎の後ろでひと固まりになり、左右からむぎゅむぎゅと身体を押しつけ合いながら、太い後ろ脚の間から倒れている人間を眺めた。

 叔父虎の前足は雪の下へ深く沈み、爪の周囲だけ黒い土が露出している。
 女の人は動かない。生きているだろうか。まあ、叔父虎が噛んではいないから、たぶん生きている。

 そんなことを考えながら眺めていたところで、少しだけ別の考えが浮かんだ。びっくりして叫んじゃったけど、これ、もしかして叔父虎が人間にブチギレてないかな……? かなりブチギレている気がする。

 あの口を開けてたの、冷静に考えると“笑顔”だったんじゃ……手を伸ばしてきたの、撫でようとしたのでは……?

 私が「いじめる」と言ったせいで、あの女の人はあそこで転がる羽目になったのだろうか。やっちゃったかな……? でも、野生生物に突然手を伸ばすのって、普通に考えて愚行では……?

 叔父虎の後ろで、きょうだいに左右から挟まれたまま、私は雪の上へ倒れている人間を見つめた。

 人間、どうして……。

 

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