ルキウス・アエミリウス・フィロンの一度目

 ルキウス・アエミリウス・フィロンが医術を学び始めたのは、本人がその道を選べるほど大きくなるより前だった。生まれたときのフィロンには家名がない。母はアエミリウス家に属する奴隷で、主人のルキウス・アエミリウス・メナンドロスは、長く診療を続けている医師だった。

 母が厨房の仕事へ戻るあいだ、幼いフィロンは診療室の隅へ置かれ、薬草の匂いと酢の刺激臭、煮沸した布が放つ湿った熱気の中で育った。
 患者が来れば泣くのをやめ、老人が咳き込めばじっと見つめる。床へ落ちた道具を拾い、言われてもいないのに布で拭いて主人の手元へ戻した。それが、師に初めて褒められた記憶だった。

 メナンドロスはギリシアの生まれで、若いころに海を渡り、いくつかの町を経てこの地へ住みついた男だった。
 腕は確かで、気難しく、患者へ優しい言葉をかけるのがひどく下手で、その代わりと言っていいのか分からないが、病人の身体を見る目には誠実さがあった。

 分からないものを分かったふりはせず、手に負えない傷を前にすれば、その処置に長けた者の名を挙げて送り出す。十二歳になったフィロンへ文字を教えたのも彼である。最初に覚えさせられたのは詩でも法律でもなく、薬草と症状の名だった。

「これが読めるか」

「少しなら」

「少しでは薬を間違える。全部読めるようになれ」

 それから二十年以上が過ぎても、フィロンは師のその言葉を覚えていた。
 薬草を量り、石板の上ですり潰し、軟膏を練り、傷を洗い、汚れた包帯を取り替える。やがて患者の脈へ指を置くことを許され、熱を測り、尿の色を見て、痛む場所と食べたものを聞き取るようになった。

 師の横で診立てを述べ、間違えれば叱られ、正しければ次から同じ患者を任される。

 十八の年、大きな地震が町を襲ったときには、倒れた家から運び込まれる人々を朝から翌朝まで診続けた。
 裂けた額を縫い、折れた腕を固定し、腹を強く打った者の顔色が変わっていくのを見守り、助けられなかった者には布をかける。

 あの数日で、医術は知識だけでは足りないものだと思い知った。

 眠くても手を動かすこと。臭いに顔をしかめないこと。泣いている家族の前で自分まで取り乱さないこと。そして、自分の手に負えない命があると認めること。そのどれもが、薬の名と同じくらい大切だった。

 

 三十を過ぎたころ、メナンドロスはフィロンを解放した。
 書面を渡され、今日から自由人だと言われたとき、フィロンはしばらく何も答えられなかった。

 自由になれば師の家を出て、自分で診療所を構えることもできる。それでも残った。すでに老境へ入った師は、細かな器具を持つと指先が震えることが増え、階段を上るだけで息を切らすようになっていた。
 診察の半分以上はフィロンが行い、師は椅子に座ったまま口を挟む。それでも町の者から「先生」と呼ばれるたび、フィロンは決まってメナンドロスの方を見た。

「いつまで私の助手を名乗るつもりだ」

「あなたが私より先に間違いを見つけるうちは」

「では一生だな」

 そんなやり取りをした翌日、師は薬の配合をひとつ間違えた。フィロンが指摘すると三日ほど機嫌を損ねたので、まだまだ元気だと安心して笑った。

 

 フィロンには愛した女もいた。名をクラウディアという。

 市場の近くで布を商う家の娘で、最初に診たときにはひどい腹痛で寝込んでおり、本人より母親の方が騒いでいた。痛みのあまり額に汗を浮かべながら、それでも母親がフィロンの袖を掴むたびに「お母さん、先生が診られないでしょう」とたしなめていたのを覚えている。数日で回復したあと、礼だと言って林檎を持ってきた。それから季節が変わるたび、何かしら理由をつけて診療所へ顔を出すようになった。頭が痛い、喉が少し変だ、母の腰が痛む、近所の子どもが転んだ。最後には「今日は何もないけど、林檎が余ったから」と言って現れ、メナンドロスに「ここは果物屋ではない」と追い払われていた。

 クラウディアの左手には、生まれつき指が二本なかった。薬指と小指のあるはずの場所は短く丸く終わっていて、掌そのものも右より少し小さい。布を畳むにも籠を持つにも困らない程度には器用に使えたが、本人は人前でその手を見せたがらなかった。歩くときには衣の襞へ隠し、食事の席でも左手は膝の上へ置く。

 フィロンが初めて気づいたのも、診察のため寝台へ上がろうとしたクラウディアが咄嗟に左手をついたときだった。彼女はすぐに引っ込め、見られたことを恥じるように顔を伏せた。

 フィロンには、何を恥じているのか最初はよく分からなかった。たしかに人の手とは形が違う。医師として見れば、それだけのことだった。

 痛みがなく、生活に大きな不自由もなく、生まれたときからその形であるなら、治すべき病でも傷でもない。けれど付き合いが長くなり、その手を隠すたびクラウディアの肩がわずかに縮むことに気づいてからは、別の意味で気に掛かるようになった。

 

 ある日、二人で市場から帰る途中、クラウディアが布を包んだ籠を持ち直した拍子に左手を出した。フィロンは何となくそこへ目をやり、クラウディアはすぐに衣の中へ隠した。

 

「そんなに見ないで」

「見てはいけないのか」

「嫌でしょう。こういう手」

 

 フィロンは足を止めた。何を言っているのだろうと本気で思った。自分はその手が好きだった。少し小さな掌も、残った三本の指で上手に紐を結ぶところも、林檎を渡すときに右手を添える癖も知っている。その手で母親の肩を揉み、店先の布を整え、フィロンの袖についた糸屑を取ってくれる。クラウディアを形作っているものの一つであり、今さらそこだけ取り除いて考える方が難しかった。

 

「誰かに何か言われたのか」

「今は誰にも」

「今は?」

 

 その一言で、フィロンはまだ見てもいない相手へ腹を立てた。子どものころか、娘になってからか、誰かがこの手を見て笑ったのだろう。結婚に差し障ると言った者がいたのかもしれない。哀れんだ者もいたのだろう。その場に自分がいなかったことまで腹立たしくなった。

 

「今度、誰かがお前の手について何か言ったら私に教えてくれ」

「どうするの」

「話をする」

「その顔で?」

「聞かなければ、戦ってもいい」

 

 クラウディアは一瞬ぽかんとして、それから道の真ん中で声を上げて笑った。

「いない敵に怒らないでよ」

 笑いすぎて目尻に涙まで浮かべ、籠を抱えたまま身体を屈めている。フィロンは少し不服だった。笑わせるつもりで言ったわけではない。それでもクラウディアが楽しそうなので、まあいいかと思っていると、彼女はようやく顔を上げた。

 まだ笑っていた。頬は赤く、目元には涙が残っている。そのまま左手を衣から出し、フィロンの右手へ重ねた。

 

「優しいのね、フィロン」

 

 そのとき彼は、自分が優しいのだとは思わなかった。

 もし自分に優しさと呼べるものがあるのなら、それはクラウディアにそれだけの価値があるからだ。大切にしたいと思わせる人だから大切にする。傷つけられれば腹が立つし、笑っていれば安心する。左手の指が何本あろうと、そのことには何の関係もない。むしろ彼女が長いあいだ隠してきたその手を、自分にはこうして預けてくれたことが嬉しかった。

 

 フィロンはその小さな左手を包んだ。クラウディアは少し照れたように笑ったが、もう引っ込めなかった。

 

 奴隷の身分から解放されたあとには、二人の将来を公然と話せるようになった。結婚の話もしていたが、急いではいなかった。フィロンは三十五で、クラウディアも未来がいつまでも同じ形で待っている年頃ではなかったものの、来年でも再来年でもいいと二人とも思っていたからだ。故郷は逃げないし、師もまだ元気に憎まれ口を叩く。

 

 家を借りるならどの通りがいい。診療室には窓が二つ欲しい。クラウディアは葡萄を育てたいと言った。庭が狭ければ鉢でもいいし、それも無理なら窓辺に這わせればいい。患者が増えたら待つ場所に椅子を置こう。子どもが来ても怖がらないよう、壁は明るい色がいい。

 

 フィロンは、そんな話を何度でも聞いた。クラウディアが話す将来にはいつも自分がいて、自分が思い描く家にはいつも彼女がいた。それが特別な幸福だと、当時の彼はあまり深く考えていなかった。ただ、隣を歩く女の左手がときどき自分の手へ触れるたび、もう少しこの道が長ければいいと思った。

 

 そんなふうに二人で歩いた町を、フィロンは愛していた。
 故郷は美しい町だった。それを、ほかの土地を知らない者の贔屓目だと思ったことはない。

 朝には石畳を荷車が鳴らし、店が開けばパンの匂いが通りへ流れ、昼を過ぎるころには噴水の周りへ人が集まる。
 壁には選挙の文字が増え、消された落書きの上へまた新しい落書きが書かれた。
 浴場では誰かが政治を語り、酒場ではその倍ほどの声で他人の悪口を言う。

 遠くへ目を向ければウェスウィウスの斜面が見え、その向こうに空が広がっていた。地震の傷はまだ町のあちこちに残っていたものの、崩れた壁は積み直され、神々の家も人の家も少しずつ直されている。

 人は壊れたものを直す。町も身体も、その点では似ているとフィロンは思っていた。

 

 フィロンにとって、神々を敬うことは日々の務めの中にあった。
 朝にはラレスへ祈り、治療へ入る前にはアポロンとアスクレピオス、ヒュギエイア、パナケイアの名を唱える。

 

 神々から授かったものを粗末にしないこともまた敬虔のうちだと教えられてきた。知識があるなら用い、手が動くなら働かせ、助けを求める者がいるなら応える。
 供物を捧げ、祈るべきときには祈り、そのうえで自分にできることを怠らない。人の手が届くところまで手を伸ばしたなら、その先は神々の領分だった。

 師から教わった医術も、自分が積み重ねた経験も、助かった患者たちも、自分一人で得たものではない。恩を受け取った者は、次の誰かへ返していく。そうして技は人から人へ渡っていくのだ。いずれ自分にも弟子ができたなら、師から受け取ったものを少しだけ増やして渡せればいい。それができれば、立派な医師と呼ばれずとも充分だった。

 

 

 その日の朝も、特別なことが起きるとは思っていなかった。最初の揺れは棚の器が触れ合う程度で、フィロンは薬瓶を押さえ、落ちそうになった石板を棚の奥へ戻した。

 ここでは地面が揺れること自体、誰も知らない災いではない。

 少しして外が騒がしくなり、誰かが山を見ろと叫んだ。診療所を出て空を見上げたとき、ウェスウィウスの上に、それまで見たことのないものが立っていた。

 黒いものが天へ伸び、上へ行くほど大きく広がっている。雷に似た音が遅れて響き、地面がまた揺れた。

 人々はしばらくそれを見上げていた。フィロンも同じだった。何が起きているのか理解できない。山から煙が出ることはある。地震も知っている。しかし、目の前のものを説明するには、持っている知識があまりにも足りなかった。

 

 やがて、白い小石のようなものが降り始めた。ひとつ拾い、フィロンは指でつまんだ。

 軽い。熱くはない。空から石が降るという事実を頭が受け入れるより先に、通りの向こうで悲鳴が上がった。走ってきた男が転び、額を切っている。別の女は子どもの手を引いたまま、どこへ行けばいいのかと叫んでいた。
 フィロンは考えるより先に男のそばへ膝をつく。傷は深くない。意識もある。布を押し当て、家へ戻るなら頭を覆えと伝えた。その最中にも石は増えていく。屋根を細かく叩く音が絶えず続き、通りを駆ける人間の数も増えていった。

 何が起きているのかを考えている暇はなかった。転倒して腕を折った者。飛んできた破片で頬を切った者。呼吸が苦しいと訴える老人。泣きすぎて息を吸えなくなった子ども。

 診療所へ来る者もいれば、道端に倒れている者もいる。フィロンは師と二人で動き続けた。水を飲ませ、傷を洗い、添え木を当て、布を裂く。

 いつもなら薬の味が悪いと文句を言う男が、この日は黙って飲んだ。顔見知りの女が自分も額から血を流しているのに、夫の方を先に診てくれと言った。
 メナンドロスは椅子へ座らせた患者を診ながら、「死人を増やしたくなければ、元気な者は勝手に転ぶな」と怒鳴った。そんなことを言われても、と誰かが笑った。妙な笑いだった。怖くて、他にどうしていいか分からない人間の笑いだった。

 

 クラウディアのことを考えたのは、外が夕暮れよりも暗くなってからだった。

 忘れていたわけではない。患者の傷を洗っているあいだも、布を裂いているあいだも、彼女を想わない時はなかった。ここに来ていないということは、まだ逃げずにいるのだろう。彼女なら、必ず一言声を掛けてくれるはずだ。運良く被害が少なかったのかもしれない。まさか、動けなくなっている訳ではないはずだ。

 

 考えてしまうと自分の手が止まる気がした。市場の近く。布を商う家。診療所からなら普段はたいした距離ではない。走ればすぐ着く。

 

 母親と一緒にいるだろうか。店を閉めて家へ戻っているかもしれない。
 石が降り始めたとき、あの家の屋根は持っただろうか。クラウディアは左手で重いものを持つのが少し苦手だった。こんなときに限って、どうでもいいことばかり浮かんだ。

 以前、籠いっぱいに布を詰め込んで持ち上げられず、「一度で済ませられると思ったの」と言っていたこと。窓辺で葡萄を育てるなら日当たりが大事だと、まだ家も決まっていないのに真剣に話していたこと。林檎は余ったのだと言い張るくせに、いつも傷の少ないものを選んで持ってきたこと。

 

 行けばいい。今すぐ診療所を出て、彼女を探せばいい。
 その考えが浮かんだ瞬間、身体はもう戸口へ向きかけていた。それでも、そのとき寝台には肩を脱臼した男がいて、床には呼吸の浅くなった老人が横たわり、その隣では額を切った子どもが泣いていた。

 師は一人で三人を見ることができない。まして今のメナンドロスには、倒れた者を抱き起こすことさえ難しい。

 

「行け」

 

 患者の腕へ布を巻いていたフィロンの背中へ、メナンドロスが言った。聞こえないふりをした。

 

「フィロン、私がもう一度言うまで待つな。クラウディアを探せ。見つけたらその母親も連れて町を出ろ。お前一人なら二人くらい引っ張って歩けるだろう」

「先生を置いていけません」

「私の話はしていない」

 

 メナンドロスは苛立ったように顎を上げ、寝台と床を示した。

 

「私を抱えればお前の両手が塞がる。ここにいれば、この連中の面倒くらいは見られる。お前が外へ出れば途中にいる人間も何人か拾えるだろう。私を連れて逃げるのが一番役に立たん。計算くらいできるだろう、私が教えたんだ」

「そんな計算を教わった覚えはありません」

「なら今教えた。授業料はいらん」

 

 ひどいことを言う、とフィロンは思った。腹が立った。師にではない。師の言っていることが、嫌になるほどよく分かったからだった。

 この場に残れば、これから運び込まれる者を診られる。外へ出れば、途中で倒れている人間へ手を貸せるだろう。

 それでも行き先は一つになる。クラウディアのところへ向かう。その間、自分の手があれば助かったかもしれない誰かがここへ来るかもしれない。

 だからといって、クラウディアがその誰かより軽いはずがなかった。今ここにいる誰よりも、彼女を助けたかった。フィロンは彼女と暮らしたかった。来年でも再来年でもいいと思っていた家を、本当はちゃんと借りたかった。

 窓が二つある診療室を作って、待つ場所には椅子を置いて、クラウディアが欲しがった葡萄を育てる。

 朝になれば隣で目を覚まし、仕事へ出る前に同じ食卓でパンを食べる。帰ればその日にあったことを聞いてもらう。彼女が林檎を余らせたと言って持ってくるたび、本当は余ってなどいないことくらいずっと前から気づいていた。いつかそのことをからかおうと思っていた。まだ言っていない。そんな小さなものが、いくつも町の向こう側に残されている。

 

 走れば間に合うかもしれない。間に合ううちに行かなければならない。その思いが喉まで込み上げた。

 

「先生、私は​───」
「行きたいなら行け。誰が止めた」

 

 メナンドロスの声は静かだった。

 

「お前があの娘を選んでも、私は責めん。ここにいる者だって、お前が自分の女を助けに行ったから死んだなどと責める権利はない。お前は愛するものを助けに行くのだ。だから、自分で決めろ」

 

 その一言が、かえってフィロンを動けなくした。

 選ぶ。そう言われた途端、それまで曖昧にしていたものがはっきり形を持った。患者とクラウディアを同じ秤に載せることなどできない。知らない誰かを大勢助けることと、愛している一人を助けることの、どちらが重いともフィロンには言えなかった。

 どちらを選んでも、後悔する。クラウディアなら何と言うだろう。考えたくもないのに、顔まで浮かんだ。

 きっと自分を探しに来いとは言わない。患者を放って来たと知れば、「どうして来たの」と怒るかもしれない。そういう女だから好きになった。その優しさを知っていることを理由に、自分が彼女を後へ回そうとしているのが嫌だった。本人がここにいないことをいいことに、勝手に許されようとしている気がした。

 フィロンは戸口を見た。外はもう昼の色をしていなかった。石が降り、灰が舞い、人が走っている。
 その先のどこかにクラウディアがいる。左手を思い出した。薬指と小指のない、小さな手。初めて自分から重ねてくれたとき、もう引っ込めなかった手。

 結婚したら、その手を毎日見ることになるのだと思っていた。いつか皺が増え、今よりもっと細くなって、それでも最後まで自分が握るのだろうと、何の根拠もなく思っていた。フィロンは目を閉じた。ほんの一瞬だった。それから患者の腕へ巻いていた布を結び直した。

 

「……この人を見ます。終わったら、次の人も」

 

 声が少し掠れた。

 

「そうか」

 

 メナンドロスはそれだけ言った。褒めもしなかったし、正しいとも言わなかった。ただ、震える指で次の薬を取った。

 

 フィロンも、自分が正しい選択をしたとは思わなかった。ただ、その場で選んだ。それだけだった。クラウディアを愛していた。今すぐ何もかも捨てて走っていきたいほど愛していた。その気持ちが薄かったから残ったのではない。愛したまま残った。そのことが、息をするたび胸の奥に残った。

 そして、その選択を後になって悔やむ時間くらいは自分たちにあるのだと、どこかではまだ思っていた。あとで謝ればいい。生きて会えたら、怒られてもいい。

 

 なぜ来なかったの、と泣かれたなら何度でも謝ろう。抱きしめて、二度とこんなことはしないと言おう。あなたなんてもう嫌い、と言われたなら地に膝をついて許しを乞えばいい。君を愛しているんだ、どうか捨てないでくれと情けなく追いすがれば、クラウディアは最初こそ本気で怒って、それから呆れ、最後には笑うかもしれない。「医者が道の真ん中で何をしているの」と言いながら笑うだろう。そうしたら、落ち着いたら結婚の日を決めよう。来年でも再来年でもいいなどと格好をつけず、今度こそ日を決める。師にも知らせる。葡萄を植える家を探す。

 

 そういう「あと」が、まだいくらでもあるつもりだった。

 

 診療所の一部が崩れた。大きな音のあと、奥の部屋へ灰と土埃が吹き込み、患者たちが一斉に叫んだ。棚が倒れ、油灯が落ち、フィロンは咄嗟に足で火を消した。

 メナンドロスが咳き込み、そのまま膝をついた。フィロンは師の腕を肩へ回し、どうにか外まで連れ出した。

 途中、「重いだろう」と言われ、「昔より軽くなりました」と答えると、「それは老いたと言っているのと同じだぞ」と咳の合間に怒られた。こんなときまで腹を立てられるなら大丈夫だ、とフィロンは一瞬だけ思った。

 クラウディアの家へ向かおうとした。だが人の流れに押され、思うように進めなかった。暗い。息をするたび喉が焼けるように痛む。
 頭へ布を巻き、口元も覆った。それでも咳は止まらない。道には白い石が積もり、足を取られた人が次々と転んでいる。誰かが家族の名を叫び、別の誰かが荷物を捨てろと怒鳴っている。家財を抱えた男が立ち往生し、その横を何も持たない女が子ども二人の手を引いて走っていった。
 いつも豆を売っていた老人の台が横倒しになっていた。本人の姿は見えなかった。フィロンは一瞬そちらを見たが、探す時間はなかった。

 

 怖いと考える暇もなかった。あちらで人が倒れた。起こせる。こちらの子どもは歩ける。母親の腕には傷があるが、血は多くない。あの老人は一人では進めない。まだ息をしている。まだ動ける。ならば助けられる。

 

 自分なら何かできる。医術を学んだ。傷を見れば、何をすればいいか分かる。出血を止められる。折れた骨を固定できる。意識を失った者がまだ生きているか確かめられる。

 混乱している者へ、何をすべきか指示できる。何十年も手を使ってきた。こんなときに何もできない人間ではない。そのはずなのに、道具が足りなかった。

 腰につけた小さな箱だけでは足りない。包帯も、薬も、器具も診療所に残っている。戻れば取れる。建物は一部が崩れたが、入口側の棚はまだ立っていた。

 

「先生、ここにいてください。すぐ戻ります」

 

 壁際へ座らせたメナンドロスは、灰で白くなった顔を上げた。

 

「何を取りに行く」

「布と薬です。器具も」

「馬鹿か、お前は」

「知っています」

 

 フィロンが言うと、メナンドロスは何か返そうとして咳き込んだ。背中をさすってやり、そのまま立ち上がる。「フィロン」。呼ばれた。「すぐ戻ります」。返事はそれだけにした。止められれば、聞かなければならなくなる。

 積もった石を踏み、何度も滑った。頭上では屋根が軋んでいる。暗闇の中、油灯の火は頼りなく揺れ、灰が入り込むたび消えかけた。

 倒れた棚を跨ぎ、布を掴み、薬の包みを箱へ押し込む。金属の器具。針。糸。小瓶。どれがいる。全部いる気がした。こんなときに整理している時間はない。薬を磨り混ぜる石板まで入れたところで、重すぎると気づいた。いったん出し、やはり要ると思って戻した。
 師なら怒るだろう。重いものばかり持つなと言うに決まっている。それでも持てた。持てるうちは持っていけばいい。これがあれば、あと何人かは助けられる。少なくとも、何も持たないよりはいい。

 外へ出たとき、熱い風が頬を打った。先ほどまでと空気が違った。

 足を止めた。遠くで、町そのものが呻いているような音がした。何かが崩れる音とは違う。もっと大きく、どこから聞こえているのか分からない音だった。地面が大きく動き、フィロンは膝をついた。

 手から箱が落ちかけ、慌てて胸へ抱え直す。暗闇の向こうから大勢の悲鳴が聞こえた。名を呼ぶ声。神へ祈る声。母親を探す声。誰かが逃げろと叫んでいる。どちらへ逃げろとは言っていなかった。フィロンも祈った。

 

 

 アポロンよ。アスクレピオスよ。どうか、もう少しだけ。

 

 何を願ったのか、自分でもよく分からなかった。命だったのかもしれない。時間だったのかもしれない。手が動くあいだだけでいい。声が出るあいだだけでいい。歩けるあいだだけでもいい。
 あそこに人がいる。まだ助けを呼んでいる。師がいる。クラウディアがいる。名前を知らない者もいる。名前を知っている者もいる。ひとりでも多く、などと綺麗に考えたわけではなかった。ただ、まだ生きている声がするなら、そのところへ行かなければならないと思った。

 

 フィロンは医療箱を抱え、立ち上がった。

 

 次に何が起きたのか、彼は知らない。光を見た記憶もなかった。熱かった記憶も、苦しんだ記憶もない。

 

 誰かのところまで辿り着けたのか、それとも三歩も進めなかったのか。それすら分からない。師のところへ戻れたのか。クラウディアの名を最後に呼んだのか。何ひとつ残っていなかった。ただ、そこで途切れた。

 

 

 

 次に意識が戻ったとき、地面があまりにも近かった。

 フィロンはしばらく、自分が倒れているのだと思った。身体を起こそうとして、できなかった。手をつこうとして、手がないことに気づいた。ひどく混乱した。腕を失ったのかと思った。ならば足で起きればいい。そうしようとして、足にも力が入らない。いや、足そのものがどこにもなかった。

 

 息を吸った。シャー、と細い音がした。

 

 周囲は静かだった。あれほど耳を埋めていた悲鳴も、屋根へ石が落ちる音も、師の咳も聞こえない。灰の臭いもしなかった。代わりに冷たい土の匂いと、濡れた草の匂いがした。知らない鳥が鳴いている。空が明るい。フィロンは身体を動かそうとした。すると長い胴が土の上を滑った。

 

 動きを止める。

 もう一度、慎重に力を込める。

 するり、と進んだ。

 自分の身体がどうなっているのか分からない。熱のせいでおかしくなったのか。夢なのか。死ぬ前に人はこういうものを見るのか。何ひとつ判断がつかないまま、口元から何かが飛び出した。反射的に引っ込める。もう一度出た。舌だった。

 

 細く、先が二つに分かれている。長いあいだ、フィロンは何も考えられなかった。やがて視界の端に水たまりを見つけ、そこまで這って表面を覗き込む。水に映っていたものは細長い頭をしていた。丸い目。鱗。人間の顔を探しても、どこにもない。蛇だった。

 自分の身体を見下ろした。見下ろすというほど首を上げることすらできない。鱗が、知らない日の光を受けて鈍く光っている。

 アスクレピオスの杖に巻きつく蛇を思い出したのは、その次だった。

 何の意味があるのかは分からない。神の慈悲なのか、罰なのか、あるいはただ起きたことなのか。それを決めるだけの知識を、フィロンは持っていなかった。

 ただ一つだけ確かなことがある。自分は死んだのだろう。そして、なぜかまだ生きている。

 

 フィロンは土の上で長い身体を丸めた。手はもうない。医療箱もない。尊敬する師も、最愛のクラウディアも、懐かしき故郷の風景も見当たらなかった。

 それでも意識はある。ならば考えなければならない。医師というものは、分からないものを分かったふりしてはいけない。

 それは、師から最初に教えられたことの一つだった。

 

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!