前世あるおとこのこ

 前世の俺は、婚活でかなり苦労した。顔は悪くなかったと思う。少なくとも自分ではそう思っていたし、清潔感にも気を使っていた。着るものだって趣味を押し通すよりTPOを優先し、初対面の人間と話すことにも特別な苦手意識はない。学生時代からまるきり非モテだったわけでもなく、一応は恋人もいた。
 
 ただ、その頃の俺にとって恋愛は、友達付き合いの先にくっついている何かくらいの認識だったらしい。
 一緒に飯を食って、映画を見て、休日に出かける。それで楽しかったものだから、相手も同じだろうと勝手に思っていた。
 結果として「あなたと付き合っているというより、仲のいい男友達と遊んでいるみたい」と言われ、なるほど確かに、と妙に納得しているうちに振られた。同じ年頃の女の子から見れば、いつまでもガキっぽい男だったのだと思う。
 
 社会人になれば多少は変わるかと思ったが、今度は仕事が楽しすぎた。
 朝から晩まで働いてもさほど苦にならず、休みの日に仕事関係の資料を眺めていることすら珍しくない。気づけば三十代半ばまで来ていて、まだセーフだろうと思って周囲を見回した頃には、俺の中の職業倫理的に仕事相手を異性と見るわけにもいかず、仕事は相変わらず忙しく、その仕事量に比例するほど給料が高いわけでもなかった。
 仕事を趣味としていたせいで、趣味の集まりへ顔を出して自然な出会いを、なんて道も選べない。かといってこの歳で初めてマッチングアプリを入れるのは妙に腰が引けて、最終的には金を払って結婚相談所へ行った。
 
 そこから先は、実に粛々としていた。紹介された女性と会って食事をし、休日の過ごし方や仕事の話をして、結婚後も働きたいか、子供についてどう考えるか、親との同居はあり得るか、住む場所を変えられるかといった話を、少しずつ確認していく。
 当然ではある。結婚相手を探しているのだから、互いに大事な条件を確認しないほうがおかしい。
 それでも帰りの電車に乗る頃になると、これは何かの義務なのだろうか、俺は本当に誰かと結婚したいのか、それとも三十代半ばで独身だから結婚しなければならないような気がしているだけなのか、と禅問答じみた思考へ入り込み、答えが出ないまま次の紹介日が来る。そんな日々を過ごしていた。
 
 結局、その俺が結婚できたのかどうかは分からない。
 どうやって死んだのかも覚えていないし、そもそも死んだのかさえ怪しい。今ここで生きている七歳児の人生こそが夢で、前世の俺が高熱か何かに浮かされながら見ている異様に長い夢という可能性だって否定できなかった。
 
 ともあれ、現在の彼はオズリック・エヴァーデン。この国の第四王子で、年齢は七歳。婚約者候補との顔合わせが決まった翌朝、三十年以上を生きたらしい別人の記憶が、ごっそり頭へ乗っかった。
 
 き、きもすぎる。
 
 前日までのオズリックは、七歳なりに大人しく、王子として求められる礼儀もそこそこ身につけた、わりと扱いやすい子供だったと思う。
 それが一晩明ければ、頭の中だけ三十代半ばの男である。昨日まで母の膝へ寄りかかって絵本を読んでもらっていた子供が、朝食の席で父親を見ながら、前世の俺とほとんど変わらない歳じゃないか、と考えてしまう。怪異以外の何物でもない。
 
 これは絶対に両親へバレてはいけない。
 
 なにせ、二人ともいい親なのである。父は国王だから当然忙しく、子供相手でも必要なところではきちんと厳しい。
 食事中の姿勢が悪ければ注意され、教師から勉強を怠けたと報告されれば叱られる。それでも時間が取れる夜には息子たちの部屋へ顔を出し、「今日は何を覚えた」と聞いてくる人だった。
 母も優しいだけではなく、兄弟喧嘩なら誰が年上だろうと一人ずつ事情を聞き、悪いほうをきちんと叱る。オズリックが熱を出した夜には何度も様子を見に来たくせに、治った翌朝には「元気なら授業へ戻れますね」と家庭教師を呼んだ。
 
 子供の立場でこんな評価をするのは烏滸がましいものの、前世の自分と大差ない年齢で四人の子供を育て、しかも国の頂点に立っている二人を見ると、尊敬しか出てこなかった。
 前世の俺だって仕事は忙しかったつもりだが、メールを一通見落としても国境で兵が死んだりはしない。その父が四人いる息子の好物や最近読んだ本まで覚えているのだから、ちょっと理解が追いつかない。
 母も母で王妃として公務をこなしながら、息子の衣服の好みや交友関係を把握している。
 
 俺、今世の両親、大好きかも。三十代男の記憶が入ったせいで親離れが早まるどころか、むしろ評価が爆上がりしていた。
 
 しかも、前世の記憶が戻ってからオズリックが妙なものを作り始めても、二人はかなり寛容だった。
 顔合わせまでは数か月あったので、その間に職人へいくつか道具を頼み、既存品の形を少し変えたり、材料の配合を試したりしている。
 完全な新発明ではない。この世界にも似たものはちゃんとある。ただ、もっとこうしたほうが使いやすい、こういう質感も欲しいと注文をつけていくと、職人たちは面白がって付き合ってくれた。
 母からは「人の時間を使う以上、途中で飽きて放り出すことだけは許しませんよ」と釘を刺されたものの、作ることそのものを止められはしなかった。
 父に至っては予算まで出してくれた。七歳児の自由研究に国家予算の一滴が流れ込んでいいのかと思わなくもないが、許された以上はありがたく使う。そうして数か月が過ぎ、とうとう婚約者候補との顔合わせの日を迎えた。
 
 
 相手はエルシノア・ヴェルグレイヴ。北西の国境を預かるヴェルグレイヴ辺境伯の長女で、オズリックと同じ七歳になる。
 
 順当に婚約がまとまれば、将来は第四王子であるオズリックが辺境伯家へ婿入りする予定らしい。聞いた瞬間、そりゃそうだ、と納得した。
 上には兄が三人いる。王家の男児として重要でないわけではないが、四人目まで全員王都へ抱えておく意味も薄い。国境防衛を担う有力貴族へ王子を婿として出せば、王家が辺境伯家を重んじているという分かりやすい意思表示にもなる。
 前世で年収だの居住地だの結婚後の働き方だのを確認していた男からすると、むしろ条件が最初から明文化されていて楽だった。
 
 そのエルシノアは、初対面から妙に俯いていた。濃い茶色の髪はきちんと整えられ、灰色がかった青い瞳は目尻へ向かってすっと長い。鼻先は小さく、七歳らしい柔らかな頬や形のよい唇との収まりも悪くない。どこから見ても可愛らしい少女なのに、挨拶を終えてからほとんどこちらを見ず、父親である辺境伯の半歩後ろへ隠れるように立っている。
 礼儀そのものに問題はなく、声も小さすぎない。ただ、自信がない人間特有の、相手の目を見た瞬間に先に逸らしてしまう癖があった。
 
 理由は、大人同士の会話から思いのほか早く判明した。王都へ来るたび、同年代の令嬢たちから容姿を笑われていたらしい。目が細い、鼻が低い、辺境らしい地味な顔だと、そんなことを言われたのだという。
 
 ちょっと誰に笑われたか教えてくれませんか?
 
 もちろん口には出さなかった。まだ顔合わせの最中であるし、七歳児がいきなり事情聴取を始めたら怖い。
 
 ただ内心では、怒りより先に加害者名簿を欲しがっていた。辺境伯家の長女へ平然と喧嘩を売れる程度には政治感覚がなく、しかも本人が気にするほど繰り返している。
 そんな令嬢が将来、兄たちの妃候補や、その側近となる友人の中に紛れていたら面倒どころではない。国の中枢へ近づける前に知っておきたい。親から何を教わっているのかも含めて、情報はあったほうがいい。
 
 そして、それを初めて聞いたらしいヴェルグレイヴ辺境伯の顔を、オズリックは思わず二度見した。まるでドラゴンである。娘の話を聞くにつれて眉間の皺が深くなり、最終的には今すぐ誰かの屋敷を焼きに行っても不思議ではない顔になっていた。
 
 父を見ると、止めるどころか少しだけ面白そうにしている。そういえば父とヴェルグレイヴ辺境伯は、王立学院へ通っていた頃からの付き合いらしい。
 身分を抜きにして友人と呼べる数少ない相手だと、以前母から聞いたことがある。若い頃には二人揃って教師に叱られたことも一度や二度ではないそうなので、たぶん父にはこの顔の次に辺境伯が何をするかまでだいたい分かっているのだろう。
 
 エルシノアは父親の袖をそっと引き、「お父様、本当に大したことではありませんの。わたくしが気にしなければ済むことですし、どうか怒らないでくださいませ」と懸命になだめている。
 それに対し辺境伯は娘へ優しく微笑もうとして、顔面が強すぎるせいでまったく穏やかに見えないまま、「お前が気にしないことと、父親である私が気にするかは別の話だ。誰に何を言われたのか、あとでゆっくり教えてくれるだろうか」と返した。
 
「……はい。でも、本当に怖いことはなさらないでください」
 
「もちろんだとも。父はいつでも穏便に話をする男だろう」
 
「お父様がそう仰るとき、だいたい皆さま怖いお顔をなさいます」
 
「それは向こうが勝手に緊張しているだけだよ」
 
 辺境伯は顔こそ厳しいものの、声は驚くほどよかった。低く響く、実に立派なバリトンである。……歌ってほしいな。こんなことを考えている場合ではない気もするが、俺がうっとり聞き惚れているその声が語っている内容を思えば、たぶん辺境における「穏便」は、王都で使われているそれとは少し意味が違う。
 
 父を見ると、国王はほんの少し目元を緩めていた。止める気はなさそうだったので、大人のことは大人に任せることにする。
 
 その後、子供二人は少し離れて護衛と侍女を連れたまま、王家の私的な庭園を歩くことになった。オズリックが花壇や噴水を案内し、兄と剣の稽古をして母に怒られた芝生の話をすると、エルシノアは時々くすりと笑う。けれどこちらと目が合うと、やはりすぐ俯いてしまう。単に恥ずかしいというより、顔を見られることそのものに慣れていないようだった。
 
 庭園を半分ほど回ったところで、ガゼボへ入って休憩を取る。茶と菓子が並べられても、エルシノアはまだ少し硬い。オズリックはしばらく考えてから控えていた侍女を呼び、「持ってきてもらったものをお願いします。今日は使わないかもしれないと思っていましたが、ちょうどよさそうです」と頼んだ。
 運ばれてきた小箱を卓上へ置くと、エルシノアが初めて興味を隠さずこちらを見る。
 
「エルシノア嬢、一つお願いがあります。あなたの顔に触れてもいいですか? 嫌でしたら断ってください。顔合わせに必要なことではありませんし、僕が勝手にやってみたいだけなので、断られても気を悪くしたりはしません」
 
「え、……はい。オズリック殿下がお望みでしたら、わたくしは構いません」
 
 言葉そのものは承諾なのに、声には妙な覚悟が混じっていた。王子に言われた以上は従わなければならない、という種類のものだと察して、オズリックは手を止める。
 
「それでは駄目です。僕が王子だから許すという意味なら、触りません。顔へ触れられるのが苦手な人もいますし、嫌なことを我慢してまで付き合う必要はないんですよ」
 
「……でしたら、わたくし自身が少し気になります。先ほどから殿下がその箱を何度か見ていらしたので、中に何が入っているのだろうと思っていました」
 
「それならよかった。では、少しだけじっとしていてください。目元に触れますから、嫌な感じがしたらすぐ教えてくださいね」
 
 小箱の蓋を開ける。中に収めてあるのは、ここ数か月で職人たちと試作していた化粧道具だった。
 本当なら下地から少し整えたいところだが、七歳児の肌にわざわざ何層も重ねる必要はない。そもそも初対面の女の子を捕まえて本格的な化粧を始める七歳王子という絵面はだいぶ終わっているので、今日は目元だけにする。
 
 ここでようやく、前世の仕事が生きた。
 
 前世のオズリック​────正確には、今の彼の中にある三十代男の記憶の持ち主は、メイクアップアーティストだった。
 
 仕事が楽しすぎて婚期を逃した理由も、だいたいそこへ繋がっている。雑誌、広告、舞台、婚礼、撮影。一般客へ化粧を教える仕事もあれば、化粧品メーカーと組むこともあり、とにかく人の顔を見る時間が長かった。そして、その時間が好きだった。
 
 美人だけが好きという意味ではない。目尻の角度、眉骨の高さ、鼻先の形、唇の厚み、肌の色、その人が笑ったときにどこへ影が落ちるか。
 本人が欠点だと思い込んでいたものが、ほんの少し見せ方を変えるだけで、その人にしかない魅力へ変わる瞬間が好きだった。エルシノアの顔も、見た瞬間から直すべきところなどほとんどないと分かっている。
 
「少し目を閉じてもらえますか? 痛いことはしませんから、くすぐったかったりしたら教えてください」
 
「はい。でも、わたくしの目は細いので、あまり綺麗にはならないと思います。王都へ来るたびにそう言われますし、鏡を見ても、たしかに他のご令嬢より細く見えますもの」
 
「そこから訂正しましょう。あなたの目は細いんじゃなくて、切れ長と言うんです。語彙のない輩に絡まれて大変でしたね。目尻まで綺麗に伸びているので、隠してしまうほうがもったいないですよ」
 
 ぱちっと瞼が開いたので、オズリックは思わず笑った。
 
「驚いたのは分かりましたから、もう一度閉じてください。まだ何もしていませんよ」
 
「……すみません。でも、そんなふうに言われたことがありませんでした。それに、鼻も低いとよく言われるので、そこもきっと変なのだと思っていました」
 
「低いだけではありません。鼻先が小さくて、目や口を邪魔しない形をしています。顔の中の配置もきれいですよ。あなたを笑った人たちは、ずいぶん雑に人の顔を見るんですね」
 
 七歳の顔なので、将来どう育つかまでは断言できない。今は頬にも子供らしい丸みがあり、骨格だってこれから変わる。それでも現在の顔に似合う見せ方なら分かる。
 エルシノアはすでに薄く化粧を施されていたものの、どうやら辺境で昔から使われている王都風らしく、眉を短く丸く見せ、目元の横幅を抑える仕上げになっていた。
 流行遅れというほどひどくはないが、この子の顔には合っていない。切れ長の目をわざわざ丸く寄せようとするせいで、かえって不自然さが出てしまっている。
 
 そこを一度落とし、ほとんど色を足さずに整えていく。大人なら目尻をさらに生かして凛と見せる方法もあるが、今はまだ七歳なので、もともと持っている優しげな印象を残したほうがいい。睫毛の際へほんの少し影を置き、目の横幅を縮めない。眉も形を作り込みすぎず、流れだけ整える。手を加えるというより、邪魔していたものを退ける感覚に近かった。
 
「できました。ほとんど何も足していませんけど、鏡を見てみますか?」
 
 用意していた手鏡を差し出すと、エルシノアは両手で受け取り、恐る恐る自分の顔を覗き込んだ。
 
「まあ……。これ、本当にわたくしですの? 目が少し大きくなったように見えます」
 
「大きくしてはいません。もともとある横幅を隠さなくしただけです。ほんの少ししか手を入れていませんよ。あなたはこれからもっと美しくなります」
 
「でも、わたくしの目はこのままでいいのでしょうか? もっと丸く見えるようにしたほうが、王都では綺麗なのだと思っていました」
 
「流行に合わせて雰囲気を変えるのは楽しいですけど、欠点でもないところを直す必要はありません。一人ひとりに似合う化粧がありますし、同じ人でも年齢や服で変わります。誰かと同じ顔に見せることだけが化粧ではないんですよ」
 
 エルシノアは返事をしなくなった。鏡へ夢中になっている。右へ少し傾け、左へ戻し、瞬きをしてはまた覗き込む。その様子を眺めながら、オズリックの中に懐かしい満足感が湧いてきた。
 
 俺の腕、なまってなかったな。
 
 人のために施した化粧が、その本人に喜ばれる瞬間はやっぱりいい。とりわけ、自分の顔を見るための化粧をしてもらった女の子ほど可愛いものはないと思う。
 誰かに褒められるためでも、誰かより綺麗になるためでもなく、鏡の中の自分を見て、あれ、私ってこんな顔だったんだ、と嬉しそうにする。その顔を見るのが、前世でも好きだった。
 
「その鏡、差し上げますよ。ずいぶん気に入ってくれたようですし、僕の部屋に置いておくより使ってもらったほうがいいでしょう」
 
「よろしいのですか? とても綺麗な鏡ですし、裏に王家のお花まで彫ってありますのに」
 
「構いません。それから、あとであなたの侍女へ今日のやり方を書いたものも渡します。僕が今作ってもらっている道具も、使いやすくなったら案内しますね」
 
「……ありがとうございます。鏡も、大切にいたします。王都へ来るのはあまり好きではありませんでしたけれど、今日は来てよかったです」
 
 ぱっと笑ったエルシノアを見て、オズリックもつられて笑う。そこでようやく、別の問題に気づいた。
 
 待てよ。これ、縁談の顔合わせだったよな?
 
 子供同士とはいえ、初対面の婚約者候補の顔を触り、勝手に化粧を施したのである。相手が嫌がらなかったからといって、普通に考えればかなり距離感がおかしい。
 しかも途中から完全に仕事の感覚へ戻ってしまい、縁談相手だということを半分忘れていた。前世では結婚相談所で当たり障りのない話しかできず苦労していた男が、異世界へ来た途端、初対面の女の子へ化粧を始めている。
 
 おしまいでは?
 
 この見合い、終わったんじゃないか?
 
 ただ、もうやってしまったことは仕方がない。せめてエルシノア本人が喜んでいるなら、それでよしとする。
 オズリックにできるのは、彼女付きの侍女へ現在試作中の化粧品を案内し、今日のやり方を簡単にまとめた紙を渡すくらいだった。
 成長すれば顔つきも当然変わる。十歳のときと十八歳のときで好きな色も似合うものも違っておかしくないし、大人になればまた別の方法が出てくる。
 
「今の顔に合うやり方を書いておきますけど、ずっと同じでいいわけではありません。成長したら顔立ちも変わりますから、もし嫌でなければ、王都へ来たときにたまに顔を見せてください。そのときまた似合うものを考えます」
 
「はい。ぜひお願いいたします。次に来るときまで、今日のやり方をちゃんと覚えておきますね」
 
 嬉しそうに頷かれたので、少なくとも嫌われたわけではないらしい。破談になったとしても、友人くらいにはなれるかもしれない。そう考えながら大人たちのいる場所へ戻ると、エルシノアはまだ手鏡を握りしめていた。歩きながら何度も覗こうとするので、危ないから前を見てくださいね、手を繋ぎましょうね、と言ったほどである。
 
 娘の変化へ真っ先に気づいたヴェルグレイヴ辺境伯は、しばらく無言で顔を見つめたあと、妙に真剣な声で呟いた。
 
「……少し目を離した隙に、可愛さが増した……?」
 
「もとから可愛らしいですよ。少し離れていたぶん、会えない時間で愛しさが増したのではありませんか?」
 
「なるほど。そういうものかもしれないな。いや、しかし本当に何か違う気もする。エルシノア、少しこちらを向いてくれるか」
 
「お父様、オズリック殿下が目元を綺麗にしてくださったのです。わたくしの目は細いのではなく、切れ長なのだと教えてくださいました」
 
 辺境伯が右から娘を見て、次に左から見て、さらに少し距離を取った。化粧に疎い人間特有の、何が変わったのかさっぱり分からないが、なんとなく可愛くなったことだけは分かる、という顔をしている。
 
「殿下。娘へずいぶん良くしていただいたようで、礼を申し上げます。私はこういうことにはまったく疎く、正直どこがどう変わったのか説明できませんが、エルシノアが嬉しそうなのはよく分かります」
 
「ほんの少し整えただけですよ。エルシノア嬢はもともとの顔立ちが綺麗なので、僕はほとんど何もしていません」
 
「お父様、こちらの鏡までいただきましたの。裏側をご覧になってください。王家のお花が彫ってありますでしょう?」
 
 エルシノアはまた鏡へ目を落とす。頬がうっすら赤くなっていて、それを見たオズリックは、頬紅を入れなくてよかった、と満足した。ちょうどいい。辺境伯との関係が悪化する様子もなく、エルシノアを笑っていた令嬢については大人側で調べてもらえそうだ。頭の悪い人間を早めに炙り出せたと考えれば、縁談そのものが駄目でもトータルではセーフだろう。
 
 
 そう思っていた数日後、夕餉の席で父が何でもない調子で告げた。
 
「オズリック、ヴェルグレイヴ辺境伯家との婚約が成ったぞ。正式な書類はこれから整えるが、双方とも異存はないそうだ。良い縁が結べたな」
 
 オズリックは芋を刺したフォークを止めた。向かいでは母が嬉しそうに微笑んでいる。
 
「よかったですね、オズリック。エルシノア嬢も帰ってからずっとあなたの話をしていたそうですよ。あなたがあげた鏡も寝る前まで手放さなかったと伺いました」
 
「お前の妙な趣味を分かってくれる人でよかったじゃないか。あの道具を作り始めたときは何をするつもりなのかと思っていたが、ちゃんと役に立ったんだな」
 
 長兄が楽しそうに笑えば、次兄は少し遠い目をした。
 
「しかし辺境伯家へ婿入りとなると、ずいぶん遠くへ行くんだな。前から決まっていた方針とはいえ、こうして相手まで決まると少し寂しい気がする」
 
「兄上は何年先の話をしているんですか。オズリックはまだ七歳ですよ。結婚する頃には、僕たちだって今とはまるで違う暮らしをしているでしょう」
 
「そういう問題ではない。弟が遠くへ行くと思えば、今から多少くらい惜しんでもいいだろう」
 
「本人を置いて話を進めるな。今日はオズリックの祝いなのだから、お前たちももう少し素直に祝ってやりなさい」
 
 父が笑い、母も兄たちも楽しそうにしている。その中心で、オズリックだけがフォークを持ったまま固まっていた。
 
 決まったの?
 
 あれで?
 
 初対面の女の子の顔を触って、化粧をして、似合うやり方まで書いて、成長したらまた顔を見せてくださいなんて言った七歳児との縁談が?
 
 むしろ決め手だったの?
 
 そう……なの……?
 
「オズリック、どうしました? 驚いたのは分かりますけれど、嫌なら今からでもきちんと話を聞きますよ。あなたたちがまだ子供だからこそ、無理に押しつけるつもりはありません」
 
 母にそう言われ、ようやく我に返る。全員がこちらを見ていた。嫌ではない。エルシノアは可愛かったし、話してみれば素直で、少なくともこれから仲良くしていきたいと思える相手でもある。何より、前世では言う相手すら見つからなかった言葉が、今なら妙に自然に出てきた。
 
「嫌ではありません。僕、エルシノア嬢と幸せな夫婦になりたいです。まだずっと先のことですけど、結婚するなら仲がいいほうが嬉しいですから」
 
 一瞬だけ食卓が静まり、それから父が声を上げて笑った。
 
「気が早い! まだ七歳だぞ、オズリック。まずは友人として仲良くなるところから始めなさい」
 
「本人なりに真面目に考えたんでしょうから、笑いすぎてはいけませんよ。けれど、そうですね。結婚する頃までその気持ちを大切にできたら素敵ですね」
 
「いやあ、しかし七歳で幸せな夫婦になりたいと言えるとは、末っ子は案外しっかりしているな」
 
「兄上が十三の頃よりよほど結婚について考えていそうですね」
 
「それは比較対象がおかしいだろう!」
 
 兄たちまで笑い出し、夕餉の席が急に騒がしくなる。オズリックは少しむっとしながらも、結局つられて笑った。
 
 前世では、自分で相手を探し、会って、条件を確認して、また会うかを決め、そのたびに本当に結婚したいのかというところまで戻って悩んでいた。
 それが今世では、家同士が条件を整え、相性の悪くなさそうな相手を連れてきてくれたうえで、本人同士にも会わせてくれる。
 もちろん、これからエルシノアと仲良くなっていく努力は必要になるし、七歳の今と結婚する年齢では互いに性格も顔つきも変わるだろう。それでも、最初の一歩をどこから踏み出せばいいのか分からず立ち尽くす必要がないだけで、前世の自分からすれば恐ろしくありがたい。
 
 笑っている家族を眺めながら、オズリックは芋を口へ運び、しみじみ思った。
 
 とりあえず、見合いで結婚が決まるシステム、ありがたいな………。
 
 

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