やらかしちゃったおんなのこ

 リュシエナ・ハルヴェインは、十歳になるのをとても楽しみにしていた。正確には、十歳の春から通える王立学院を楽しみにしている。 まだ三年も先なのに、学院の制服が載っている古い冊子は何度も開いたせいで自分の好きな頁だけ少し癖がつき、初等部一年生を示す淡青色の飾り紐については、すでに母と何度も相談していた。 学院には大きな図書館があり、魔法実習用の塔があり、春の学院祭では上級生が菓子を焼いたり演劇をしたりするらしい。入学前の交流会へ顔を出すようになってからは知っている子も増えたので、誰と同じ組になるだろう、舞踏の授業では誰と組むのだろうと考えるだけでも楽しかった。​「ママ、やっぱり入学式は白いリボンがいいと思うの。水色もかわいいけど、学院の飾り紐まで水色なら、ぜんぶ水色になっちゃうでしょう?」​「三年後には流行も変わっていますよ。そもそも、その頃になったらリュシエナ自身が赤がいいと言い出すかもしれないでしょう?」​「言わないもん。わたし赤は嫌いじゃないけど、いちばん好きなのは白だもん。……あ、でも銀色もかわいい。ママ、銀って白に入る?」​「入らないわねえ」​「ええーっ」​ 家族だけの居間でそんな話をしているときのリュシエナは、ソファへ横向きに寝転び、冊子を腹の上へ載せたまま足をぱたぱたさせている。 先ほどまで家庭教師の前で背筋を伸ばし、「本日のご指導もありがとうございました」と綺麗に礼をしていた子供と同一人物には少し見えない。​ 父をパパ、母をママと呼ぶのも家の中だけで、眠くなれば母の膝へ頭を乗せるし、朝食の牛乳で口の上に白い髭ができれば、父に指摘される前に袖で拭こうとして怒られる。子供なのだから珍しくもないのだが、本人は自分をとてもしっかりした令嬢だと思っていた。​​ 実際、外での評判は悪くない。家庭教師のマダム・エルデからは、年上の相手にも物怖じせず、それでいて出しゃばらない話し方ができると褒められている。 笑うときは大口を開けず、食卓では道具を間違えず、相手の爵位が上なら先に挨拶をする。知らない大人から話しかけられても、家では「うん」と返すところを「はい」と直せるし、母から「今日はどうだった?」と聞かれれば、「失礼のないようにできたと思います」と澄まして答えるくらいには、自分の振る舞いへ自信もあった。​ だから、先日の交流会についても、何か失敗したという認識はなかった。​ ヴェルグレイヴ辺境伯家のエルシノアという令嬢の目を細いと言った。鼻も少し低いと話したし、別の子が「辺境らしい地味なお顔」と笑ったときには、自分も一緒に笑った覚えがある。 それでも飲み物をかけたり、物を隠したりはしていない。乱暴な言葉も使わず、ちゃんと「エルシノア様」と呼んでいたので、少なくともマナーを破ったつもりはなかったのである。​ 相手が途中からあまり笑わなくなったことにも気づいていた。ただ、嫌なら何か言うだろうと思ったし、ほかの子たちも同じような話をしていた。 何より、目が細いというのは嘘ではないのだから、少しくらい気にするほうが悪いのではないかとも考えていた。その日の夕食にはもう大半を忘れ、父の皿からデザートの桃を一つ貰えるかどうかのほうを真剣に気にしていたくらいである。​​ ハルヴェイン家は子爵家で、ヴェルグレイヴ辺境伯家より家格はずっと下になる。それでも最近は、以前より周囲から一目置かれる機会が増えていた。理由は父のアーデル・ハルヴェインにある。 彼は王立土木院で河川整備を担当しており、若い頃から測量や堤防設計を学び、貴族でありながら現場へ出ることを好む少し変わった人だった。母によれば、新婚当初は雨のたびに泥だらけの長靴で帰宅し、玄関を汚して使用人からまで嫌な顔をされていたらしい。​ その父が五年前から中心になって進めていたのが、エルナ河中流域の治水計画だった。​ 春の雪解けでたびたび氾濫する大河で、一度水が出れば周辺の農地だけでなく、王都へ穀物を運ぶ街道や巨大な集積倉庫まで被害を受ける。昔から堤防を高くする工事は何度も行われてきたものの、父はそれだけではいずれ限界が来るとして、上流側へ新しい放水路を掘り、増水時だけ水を逃がす広い遊水地を設ける案を押し通した。 土地を手放したくない領主との交渉に何年も費やし、予算を巡って財務院と揉め、現場の技官とも正々堂々ステゴロで殴り合いの喧嘩したというが、それでも完成まで持っていった。​ そして今年の春、例年より多かった雪が一気に解けた。近隣の小河川では堤防を越えた場所もあったのに、エルナ河の水は父たちが作った放水路へ流れ、遊水地いっぱいに広がって止まった。​ 三つの町と穀物倉庫、それに王都へ続く主要街道が無事だったことで、王都の小麦価格まで大きく上がらずに済んだらしい。新聞には父の名が載り、王立土木院から正式に表彰され、これまで挨拶だけだった伯爵や侯爵まで父へ声をかけるようになっている。​ 母のもとへ届く茶会の招待状も目に見えて増えていた。父自身は「仕事がしにくくなるだけだ」と嫌そうにしていたものの、母は少し嬉しそうで、リュシエナも当然誇らしい。 パパは国を助けるくらいすごい仕事をしたのだと思っていたし、実際それは間違っていなかった。​「ねえパパ、伯爵になるの?」​ 夕食の最中に尋ねたとき、父は葡萄酒を変なところへ入れたらしく、盛大に咳き込んだ。​「ならん。誰から聞いた」​「ママ。陞爵のお話があってもおかしくないって言ってたもん」​「セシリア」​「可能性の話をしただけですよ。あれだけの働きなのですから、少しくらい期待したっていいでしょう」​「そういうものは、話が来てから期待してくれ」​ 父は呆れたように返したものの、まんざらでもなさそうに口元を緩めていた。リュシエナはそれを見逃さず、もし本当に伯爵家になったら学院で伯爵令嬢たちと同じになるのだろうか、と一人で想像を膨らませた。​ だから数日後、王家の紋章が押された封書が届いた朝、最初に浮かんだのも良い知らせだった。​ 朝食の途中、執事が銀盆に載せて運んできた封書を見て、母は目を輝かせた。父はその反応を見ただけで嫌そうな顔をしたが、封蝋を確認するとさすがに姿勢を正す。リュシエナも椅子の上で身を乗り出し、父の手元を覗こうとしてすぐ注意された。​「パパ、なに? 勲章? 伯爵?」​「食事中に立つな。それに、まだ何も分からん」​「でも王様のお手紙でしょう? パパ、このあいだすごく褒められたじゃない」​「だからといって全部が褒賞とは限らない。座りなさい」​ 渋々腰を下ろしたものの、期待は消えなかった。母も「陛下直々のお呼び出しなら、治水事業についてのお話かもしれませんね」と嬉しそうにしている。父だけは妙に慎重で、手紙を最後まで読むと眉間を揉んだ。​「午後から登城する。陛下から直々にお召しだ」​「まあ、それならなおさらではありませんか。財務卿からも、今回救われた穀物だけで国庫への影響がずいぶん違うと伺いましたよ」​「期待するなと言っているだろう」​「パパが伯爵になったら、わたしも伯爵令嬢になるんだよね?」​「だから、まだならん」​ 母が笑い、リュシエナも笑った。その日は家庭教師の授業中も少し上の空で、とうとうマダム・エルデから文章をもう一度読むよう注意されたほどだった。​ ところが、夕方になっても父は戻ってこなかった。​ 最初は上機嫌だった母も、日が傾くにつれて口数を減らしていった。夕食の時間が近づいた頃には何度も時計へ目をやり、そのうち父より先に王宮から使者が到着する。渡された書類へ目を通した母は、途中から完全に顔色を失っていた。​「ママ?」​「……リュシエナ。今日はもう、お部屋へ戻っていなさい」​「なんで? パパが帰ってくるんでしょう? わたしも待つ」​「お願いだから、今は言うことを聞いて」​ いつもの母とは声が違った。怒っているのでもなく、体調が悪いときとも違う。目の縁が赤くなっているのを見つけ、リュシエナは不安になりながらも自室へ引き上げた。​ もちろん、大人しく待てるはずがない。お気に入りの兎のぬいぐるみを抱えて寝台へ座ってみたものの、五分もしないうちに扉を開けて廊下を覗き、また戻る。それを何度か繰り返しているうち、ようやく玄関前へ馬車が止まる音がした。​「パパ!」​ 母から部屋にいるよう言われたことも忘れ、階段を駆け下りた。​ 玄関へ入ってきた父は、朝より十歳くらい老けて見えた。​ 仕事で遅くなった夜にも疲れた顔をすることはある。それでも今日は何かが違う。肩が落ち、外套を受け取る従僕へ礼を言う声にも力がない。リュシエナが駆け寄っても、いつものように頭を撫でてはくれなかった。​「パパ、どうしたの? 王様に怒られたの?」​ 父は答えず、その後ろにいる母を見た。母はもう泣いていたらしく、目元を布で押さえている。​「ママまでどうしたの? ねえ、何なの?」​「リュシエナ。こっちへ来なさい」​ 父に連れていかれたのは、小さな家族用の居間だった。冬になれば三人で暖炉を囲む部屋で、卓の脚にはリュシエナが四歳の頃、木馬をぶつけて作った傷がまだ残っている。いつもなら落ち着く場所なのに、今日は母がソファへ座って俯き、父がなかなか口を開かないせいで、ひどく息苦しかった。​ しばらくして、父が娘の正面へ立った。​「リュシエナ。三年後、お前は王立学院へ入学できない」​ 一瞬、何を言われたのか分からなかった。​「……え?」​「王都の王立学院へは通わせられない。今日、陛下から正式にそう申し渡された」​「なんで!?」​ 声が裏返る。次の瞬間には椅子から立ち上がり、父へ詰め寄っていた。​「なんでよ! わたし、ちゃんと勉強してるもん! マダム・エルデだって、このままなら試験は大丈夫って言ってくれたし、マナーも上手だって褒めてくれる! わたし何も悪いことしてないもん!」​「リュシエナ、まず話を聞きなさい」​「やだ! なんで学院行けないの!? わたしずっと楽しみにしてたのに! 制服だってママと決めてたじゃない! 春のお祭りも行くの! 図書館だって見るって決めてるの!」​ 涙が一気に出てきた。外では絶対に使わない声を上げ、父の上着を両手で掴む。​「やだやだ! 王立学院がいい! パパ、王様に言ってよ! パパすごい仕事したんでしょう!? 王様だってパパのこと褒めてくれたんでしょう!? だったらお願いしてよ!」​ 父の顔が苦しそうに歪んだ。​ 怒鳴られると思ったのに、そうはならなかった。父はゆっくり床へ膝をつき、娘と目線を合わせる。そのまま両肩へ手を置かれ、リュシエナは泣きながら父の顔を見た。​「どうしてお前は、自分の立場を理解できなかったんだ……」​ 今まで聞いたことのないほど疲れた声だったので、泣き声が少し止まる。​「……なに?」​「先日の交流会で、ヴェルグレイヴ辺境伯家の御息女に何を言った」​ 胸の奥がどくりと鳴った。言われて初めて、あの日のことが頭へ浮かぶ。​「エルシノア様……?」​「そうだ。お前はエルシノア・ヴェルグレイヴ嬢の容姿を笑ったな」​「笑ってないもん! ちょっと話しただけ! 目が細いって言ったり、鼻が低いって……でも、ほかの子も言ってたし、わたしだけじゃないよ! ちゃんとエルシノア様って呼んだし、悪い言葉も使ってないもん!」​ そこまで言ったところで、父が目を閉じた。深く息を吐き、片手で額を押さえる。​「……そうか。お前は、本当にそれで礼儀を守ったと思っていたんだな」​「だって、マダム・エルデだってわたしのマナーはちゃんとしてるって……」​「それは座り方や話し方のことだ。どの匙を使うか、誰へ先に挨拶するか、言葉をどう整えるか。お前はそういうものをよく覚えた。だが、それだけ覚えていれば貴族として振る舞えるわけじゃない」​ 父はしばらく黙り、それから娘の肩へ置いた手を少し緩めた。​「まず、お前が笑った方が誰なのかを話す。エルシノア様は、北西国境を預かるヴェルグレイヴ辺境伯の長女だ。ハルヴェイン子爵家とは比べものにならないほど大きな家を背負う御令嬢で、そして先日、第四王子オズリック殿下との婚約が正式に決まった」​ リュシエナは瞬きをした。​「……王子様の?」​「ああ」​「お嫁さんに、なるの?」​「将来な」​ じわじわと意味が染み込んでくる。けれど恐怖より先に、別の感情が湧いた。​「そんなの知らなかったもん!」​ また声が大きくなった。​「婚約するなんて、あのとき誰も言ってなかった! 知ってたらわたし、そんなこと言わなかった!」​「それが一番駄目なんだ、リュシエナ」​ 父の声が低くなった。​ 怒鳴られてはいない。それでも先ほどまで泣き喚いていた口が閉じる。​「王子の婚約者だと分かっていれば笑わなかった。それでは何も分かっていない。辺境伯令嬢ならどうだ。伯爵令嬢なら。お前と同じ子爵家なら構わないのか。もっと下の家なら、平民なら、相手が傷つくとわかる言葉を使っていいのか?」​「……そんなこと、言ってない」​「だが、お前が今言ったのはそういうことだ」​ リュシエナは父から目を逸らした。口では何か言い返したかったのに、うまい言葉が見つからない。​ 父は一度立ち上がりかけ、思い直したようにそのまま膝をついていた。少し離れたソファでは母が俯き、両手で布を握っている。​「今日、陛下がお怒りになったのは、お前がエルシノア様へ悪口を言ったという一件だけじゃない」​「……じゃあ、何なの」​「俺たちだ」​ 父が答えた。​「お前を育てて、あの交流会へ送り出した両親。それから、お前と同じようなことをした子供たちを育てた、それぞれの家だ」​ リュシエナには意味が分からず、眉を寄せる。​「でも、言ったのはわたしだよ」​「ああ。お前が言った。だが、お前は子供だ」​ 父の声から、少しだけ険しさが抜けた。​「たった七歳の子供が何も間違えずに育つなんて、陛下も思っていない。だから今回、お前たち子供を大人と同じように罰するつもりはないと最初にはっきり仰った。その代わり、子供の子供へ何を教えたうえで外へ出したのか、家のほうを見られている」​「家……?」​「そうだ。王立学院へ入れば、お前はただのリュシエナではない。ハルヴェイン子爵家の娘として人と付き合うことになる。お前が相手を馬鹿にすれば、『あの子は失礼だ』で終わらず、『ハルヴェイン家では、ああいう振る舞いを許しているのか』と見られる」​ そこで父は少し間を置き、床へ落ちていた娘の涙を親指で拭った。​「今回、特に重く見られた理由がもう一つある。交流会に集められていたのは、三年後に王立学院へ入る予定の子供たちだ。お前も、エルシノア様も、それからオズリック殿下も同じ子供だろう」​ リュシエナは小さく頷いた。​「つまり、お前たちは殿下と同級生になる予定だった」​ そこまで言われ、ようやく少しだけ分かってきた。​「王立学院は貴族の子供が勉強する場所だが、同時に、王家の子供が将来一緒に国を動かす人間と出会う場所でもある。三年後、殿下のすぐ近くで学ぶ子供たちが、今どんな考え方をしていて、それぞれの家がどう育てているのか。今回の件で、王家はそこを見直すことにした」​「わたし……王子様には何もしてないよ」​「分かっている。だから『殿下へ危害を加えた罰』ではない」​ 父は首を振った。​「だが、将来殿下の隣で学ぶ子供が、誰か一人を皆で笑っていて、それを悪いとも思っていなかった。しかも相手は、偶然にも殿下の婚約者になった方だった。王家からすれば、三年後に何も考えず全員を同じ学年へ入れていいのか、一度立ち止まるのは当然だ」​ リュシエナの指先が冷たくなっていく。​「じゃあ……わたし、王子様に嫌われたから学院へ行けないの?」​「違う」​ 父は今度こそ即座に否定した。​「オズリック殿下がお前を嫌ったからでも、エルシノア様が仕返しを求めたからでもない」​「じゃあ、なんで……」​「信用の話だからだよ」​ 父は疲れた顔で、それでも一つずつ娘へ分かるように言葉を選んでいた。​「お前がもう二度としないと言えば、父はそれを信じたい。だが、国を動かす側は、父親の気持ちだけで決められない。王立学院へ殿下と同じ学年として迎えても問題ないと、今のハルヴェイン家を信用できるか。今回の件で、そこへ疑問を持たれた」​「でも、わたし、ちゃんとする……」​「ああ。これからちゃんとすればいい」​「なら学院……」​「それとこれは別なんだ」​ リュシエナの目から、また大粒の涙が落ちた。​「三年あるのに……三年もちゃんとしたら駄目なの?」​ 父の顔がまた歪む。​「陛下も、そこまで考えなかったわけじゃない。だからお前の教育を止めろとは言われていない。外国の学院へ進学することは認められているし、必要なら王家から推薦状も出してくださる。お前から学ぶ機会そのものを取り上げる気はないそうだ」​ 父はそこで少し言葉を切った。リュシエナが泣きながら見上げているのを確かめてから、今度は先ほどよりゆっくり続ける。​「それに、王立学院へ二度と入れないという話でもない。初等部を終えて中等部へ上がるのは十五歳だ。その頃までに、お前が今日のことをきちんと理解して、外国の学院でも問題を起こさず学び、自分のしたことと向き合えていると認められれば、王立学院への編入を願い出ることが許されている」​「……十五歳になったら、王立学院へ行けるの?」​「必ずではない。希望すれば、そのとき改めて審査していただけるということだ。十五歳のお前がどういう人間になっているかを見て、それから決める」​ 七歳のリュシエナには、三年ですらひどく長い。十五歳なんて、ほとんど大人になったあとのことに思えた。​「そんなの……遅いよ。わたし、十歳からみんなと行きたいもん」​「分かっている。けれど陛下は、お前が間違えた七歳のままで一生を決めるつもりもないんだ。変わったなら、変わったお前を見てくださる。その道まで閉ざされたわけじゃない」​ それが温情なのだろうと、父の顔を見れば分かった。けれど今のリュシエナには、十五歳の自分に残された扉より、三年後に入れるはずだった扉が閉じたことのほうがずっと大きい。​「そんなの嫌! 王立学院がいい!」​ リュシエナは父の胸へ飛びついた。父は抱きついてくる娘を一度きつく抱きしめ、それから背中を撫でた。​「ごめんな。これは俺にも変えられない」​「なんでよぉ……!」​「今回の判断は、お前一人への罰じゃないからだ」​ その言葉で、リュシエナは少しだけ顔を上げた。​ 父は泣いてはいなかったものの、泣いている母より疲れた顔をしている。​「今日、陛下は俺の治水事業についても話された。今回守られた町と街道、それに王都へ届いた穀物まで含めて、高く評価してくださったよ」​「じゃあ……」​「仕事の功績は仕事の功績として、きちんと褒賞する。それと娘の教育についての責任は別だ、と仰った」​ 朝、伯爵になるかもしれないと笑っていたことを思い出し、リュシエナの喉が詰まった。​「パパ、褒められたの……?」​「ああ」​「でも、わたしのことで怒られたの?」​「それも、ああ」​ 父が少しだけ苦笑した。​「『河川の流れを読むことには長けているようだが、娘の胸の内まで測れなかったらしいな』とまで言われた」​ 母が泣きながら顔を上げた。​「陛下、そんなことまで仰ったのですか?」​「最後に少し笑っておられたから、半分は昔馴染みへの嫌味だ」​「今それを聞かされて、わたしはどう反応すればいいのです」​「俺も分からん」​ いつもならリュシエナも笑ったかもしれない。今日はそんな気分にはなれず、父の服を握ったまま鼻を啜るだけだった。​ すると母がソファから立ち、親子のところへ来て膝をついた。そのままリュシエナを横から抱きしめる。​「ごめんなさい、リュシエナ。もっとちゃんと教えてあげればよかった」​「ママ……」​「外で綺麗にお話しできるから、お辞儀も食事も上手だから、もう分かっていると思ってしまったの。家ではまだパパとママって呼んで、眠くなったら抱っこしてほしいって言う子なのにね」​「抱っこはもう言わないもん……」​「先週言いました」​「……あれは眠かったから」​ こんなときなのに母が少し笑い、それからまた涙を流した。​「お父様の功績があったから、あなたはこれだけで済んだのよ」​ リュシエナは母を見る。​「どういうこと……?」​「ハルヴェイン家そのものには、何の処分もないの。お父様のお仕事も取り上げられないし、治水事業の褒賞も予定通りいただける。あなたも外国ならきちんと学院へ通えるよう、王家が助けてくださる」​ 母は途中で声を詰まらせ、娘の髪を撫でた。​「爵位の差というものは、本当に大きいのよ。相手が辺境伯家で、しかも王家との婚約が決まった以上、もっと厳しいことになってもおかしくなかった。それでも陛下は、あなたが子供であることと、お父様が国へ尽くしてきたことを考えてくださった。ごめんなさい。ママが、もっとちゃんと教えてあげればよかった」​「もっと厳しいって……なに?」​ 母は答えに詰まった。​ 代わりに父が口を開く。​「今回の交流会にいた家は、全部同じ扱いではない」​「みんな学院行けないの?」​「何も言わなかった子まで処分されるわけじゃない。何をしたのか、その後どう話したのか、家がどう受け止めたのかで違う。お前と同じように王立学院への入学を断られた子もいるし、そこまではされなかった子もいる」​ 父は少し迷い、娘を見た。​「ただ、別のところで大きな影響が出た家もある」​「……なにがあったの」​「姉や兄の婚約がなくなった家がある」​ リュシエナの泣き声が止まった。​「なんで……? だって、お姉様とかお兄様は何もしてないでしょう?」​「王家が婚約を解消させたわけじゃない。相手の家が自分で断ったんだ」​「どうして……」​「今回の話を聞いて、『幼い娘が上位家の令嬢を皆で笑っていて、親もそれを知らず交流会へ出し続けていた。その家と今後も縁を結んで大丈夫なのか』と考えたからだ」​ リュシエナは母の服を掴んだまま、動けなくなった。​「そんなの……その子のお姉様、関係ないのに……」​「家同士で結ぶ婚約は、本人同士だけの話じゃない」​ 父の声が低くなる。​「俺が国を裏切れば、お前たちまで何も知らなかったでは済まない。逆に、お前が外で大きな問題を起こせば、俺たちの育て方まで見られる。貴族として家名を持つというのは、いいところだけ家族で分けることじゃないんだ」​「……」​「だから陛下は、悪口を言った子供を片っ端から罰しているわけではない。その家が、王家の子供と同じ場所へ子を預ける家として信用できるかを見ておられる。今回の交流会は、ちょうど殿下と同学年になる子供たちの集まりだったから、普段よりずっと厳しく確認された。それだけだ」​「それだけって……」​「お前には大きなことだな」​ 父は苦しそうに笑った。​「でも、国の側から見れば、殿下が十歳になって学院へ入る前に気づけてよかった、とも考える。入学してから同じことが起きれば、もっと大きな問題になっていたかもしれない」​ リュシエナは黙った。少しずつ、話が繋がってくる。自分がエルシノアを笑った。父と母はそれを知らなかった。そのこと自体を、王家は「この家では子供へ何を教えているのか」という目で見た。しかも三年後には自分もエルシノアも、第四王子も同じ学院にいる予定だった。​ ただの女の子同士の話ではなかったのだ。​「子供でも、許されないことってあるの……?」​ 小さな声で尋ねると、父はしばらく答えなかった。​「ある」​ やがて、静かに頷く。​「でも、お前は幼いから随分許してもらっている。本当に大人と同じ責任を取らされているなら、これでは済まない。お前自身に分からないことがあるからこそ、その分は俺たち親の責任になる」​「……王様、怒ってる?」​「怒ってはおられた」​「エルシノア様も?」​「それは父には分からない。ただ、あちらからお前を罰してほしいという話は一度も出ていない」​「……」​「むしろ、できる限り子供たちへやり直す機会を残してほしいと、ヴェルグレイヴ辺境伯から話があったそうだ」​ それを聞いたほうが、怖かった。​ 誰かが自分を嫌って仕返しをしたのなら、まだ分かりやすい。そうではなく、大人たちが冷静に話し合った結果、この子は三年後に同じ学院へ入れないほうがいいと決めたのである。​「わたし……そんなに、駄目だったの……?」​「お前が駄目な子だと言われたんじゃない」​ 父がすぐに答える。​「このまま何も教え直さず送り出すのは駄目だと言われたんだ」​「でも王立学院は……」​「行けない」​ 今度ははっきり言われた。​ リュシエナの顔がぐしゃりと歪む。​「やだぁ……」​ また泣き出した。​「やだよぉ……わたし、あの制服着たかったの……ママと髪飾り決めるって……学院祭も行きたかった……」​「うん」​「外国なんか怖いよぉ……パパもママも毎日いないじゃん……」​「うん」​「お願い、どうにかしてよぉ……」​「ごめんな」​ 父は何度頼まれても、それ以上は言わなかった。​ 今までなら、駄目と言われても泣けば少しくらい変わった。寝る時間を三十分延ばしてもらったこともあるし、夕食前なのに菓子を半分だけ許してもらったこともある。雪の日に外へ出たいと泣いたときには、父が「五分だけだぞ」と外套を着せて一緒に庭へ出てくれた。​ 今日は、父も母も泣いているのに何も変わらない。​ そのことに気づいた瞬間、リュシエナの泣き声が少しずつ小さくなった。​「……わたし」​ あの日の交流会が頭に浮かぶ。花の形の砂糖菓子。丸い卓。誰かがエルシノアの目尻を真似して、みんなで笑ったこと。エルシノアが途中からあまりこちらを見なくなったのも覚えている。それでも自分は気にせず、帰る頃には別の話をしていた。​「わたし……王子様のお嫁さんになる人を、みんなで笑ったの……?」​ 父は何も言わなかった。​「知らなかった……」​ 口にした途端、さっきの言葉が頭の中へ戻ってくる。​ 知らなければ、やってよかったのか。​「……違う」​ 自分でも気づかないうちに呟いていた。​「何が?」​「知らなかったからじゃない……」​ 喉が震える。​「エルシノア様が王子様のお嫁さんじゃなくても……あんなこと、言っちゃ駄目だった……?」​ 父は娘の顔をじっと見て、それから一度だけ頷いた。​「ああ」​ その瞬間、身体から力が抜けた。​ 母に抱きついていた腕まで緩み、そのままずるずると絨毯へ座り込む。立ち上がろうと思っても膝へ力が入らず、両手を床についた。​ 怖い。​ 辺境伯が怖いとか、国王陛下が怖いとか、そういうものとは少し違った。​ 自分は今朝まで、きちんとした令嬢のつもりでいた。家庭教師にも褒められるし、人前ではパパやママなんて呼ばない。綺麗な敬語を使い、お辞儀もできる。それなのに、本当に大事なところを何も分からないまま、相手を傷つけて笑っていた。​ もし父が国の役に立つ仕事をしていなかったら。​ もし王が子供だからと考えてくれなかったら。​ もし自分に兄や姉がいて、その人の婚約までなくなっていたら。​ もし、もっとひどいことをしていたら。​「ママ……」​ 歯がかちかち鳴りそうなほど身体が震えた。​「わたし……どうしよう……」​ 母がすぐ隣へ座り込み、娘を抱き寄せる。​「これから覚えるのよ」​「でも……」​「ママも一緒に覚え直します。お父様も。今度は、外で綺麗に見えるための礼儀だけじゃなくて、どうして人を大切にしなければならないのか、ちゃんと教えるから」​​ 床へ座り込んだまま立ち上がれず、父と母に両側から支えられても膝が言うことを聞かなかった。​ つい今朝まで、三年後には当然あの制服を着ているものだと思っていたのに、未来というものは、自分の行いによって知らないところで容赦なく形を変えるらしい。​ リュシエナは震える指で母の袖を握りしめながら、自分が失くしたものの大きさを、ようやく少しだけ理解した。​​​

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