岩角鹿の処理が終わる頃には、先ほどまでの騒ぎが嘘のように森へ静けさが戻っていた。
雪の上には蹄と人間の足跡が無茶苦茶に残り、何人かの神官は法衣の裾まで濡らしている。それでも怪我人は一人もいない。あの巨体を相手にして、である。
ブラムウェルは改めてルーヴェルの神官たちを眺め、それから何でもない顔をして地図を取り出した。格好よかった。ものすごく格好よかったけれど、俺はまだ許してないからな! という、我ながら妙に意地になっている感情が胸の内から零れかける。ふん、いくら格好よくったって、そんな簡単に絆される俺じゃないぞ。そういう気持ちだった。
学生時代のブラムウェルは、友人からよく「お前、許し時を見誤っていつまでも素直になれないヒロインみたいな行動を取るところが気持ち悪い」と、なかなか容赦のない暴言を浴びせられていたのだが、どうやらあの頃の問題点は今になっても大して改善されていないらしい。
仕方ないだろう。この年までそうやって生きてきてしまったのだ。もはや性格というより、背負った業のようなものである。
火口が見つかった地点から先は、予定通り北と北東を中心に探す。ただし、先ほど考えていたように小さな班を扇状へ散らす形は取りやめることにした。
ブラムウェルは地図を広げ、増水した川と、その上を並行して伸びる崖へ指を滑らせていく。川へ落ちた可能性を消せない以上、崖下は必ず確認しなければならない。
一方、上には狩人小屋がいくつかあり、昨夜のレオンハルトが風を凌げる場所を探したなら、そちらへ向かった可能性も十分残っている。どちらも外せないから二手には分かれるものの、人数まで細かく割る気はなかった。
「ここからは川沿いへ下りる班と、崖の上を進む班に分けます。下はバルトさんたち土地を知る人を中心にしてください。雪解けで水量が増えていますし、崖際は雪で境目が分かりにくくなっています。勝手に先行しないように。上の班も細かく散らばらず、互いの姿か声が届く範囲を保ってください」
「先ほどより人数を固めるのですね。地形が険しくなるからでしょうか?」
「それもあります。ただ、一番の理由は氷嶺白虎です。この辺りから先は、あの親子の行動範囲と我々の捜索場所が重なってきます」
ヘルマンの顔が引き締まり、周囲にも似たような緊張が走る。ついさっき岩角鹿を蹴り飛ばしていた連中まできちんと警戒してくれるなら結構なことだ、とブラムウェルは思った。
大型魔獣という分類だけなら同じ箱へ入るのかもしれないが、白虎にまで同じ勢いで蹴りかかられたらたまったものではない。そもそも向こうは、こちらが戦えるからどうこうという相手ではなかった。出来るだけ戦わない。それが最初から最後まで正解になる。
「以前にもお話ししましたが、この山の成獣は人間を積極的に獲物として狙う個体ではありません。こちらから距離を詰めず、敵意を示さず、とくに子供との間へ入り込まなければ、見かけただけで襲われる可能性は低いと考えています。
ただし、今の時期は成獣だけを警戒すればいいわけではありません。最後に確認した四頭の幼獣は、そろそろ住処の周辺で外遊びを許されてもおかしくないくらいまで育っています」
「外遊びというのは、子供だけで歩かせるという意味でしょうか。以前は成獣か若い個体が付き添っていたと聞きましたが」
「完全に放っておくわけではありませんよ。保護者である成獣たちのテリトリーからは出ない。住処に近く、何かあればすぐ駆けつけられる範囲だけ自由に動かせる。
人間で言えば、家の前から少し遠くまで子供だけで遊びに行かせるようになる頃でしょうか。ただし白虎の『近所』は、人間の感覚より遥かに広いです」
最後に観察した時、四頭はまだ親族の目が届く場所から大きく離れず、成獣が移動を始めれば揃って後を追っていた。それでも巣穴から数キロ離れた斜面までは普通に出てきていたのだから、さらに身体が育った今なら行動範囲も広がっているはずである。
成獣たちが自分たちの縄張りを安全だと認識しているなら、幼獣だけで過ごす時間が増えていても不思議はない。そして困ったことに、その範囲へこちらから踏み込まなければレオンハルトを探せない。
人間の子供を捜索しているうちに、虎の子供の遊び場へ入る。報告書に一行で書けば間抜けな記述に見えるが、現場にいる側としては少しも笑えなかった。
「むしろ今日、私が一番警戒しているのは幼獣です。成獣は自分がどれだけ強いか知っていますし、人間が自分たちより遥かに脆い生き物だということもある程度理解している。幼獣には、その経験がありません。人間そのものを見る機会もほとんどないでしょうから、怖がるより先に『知らないものがいる』と興味を持つ可能性があります。
近づく、匂いを嗅ぐ、前脚を出す。こちらが逃げれば、追いかけてくるかもしれない。向こうに悪意がなくても、人間にはそれで済まないんです」
「ものすごく大きくて力の強い子供が、初めて見る小さな生き物を見つけるようなものですね。触ってみたい、捕まえてみたい、走ったら追いかけたい。子供がカエルをどう扱うか考えると分かりやすいと思います。
向こうにとっては全部遊びでも、人間の方は骨が折れるかもしれない、と考えれば分かりやすいと思います」
横からアリアがまとめると、護衛の何人かが明らかに納得した顔を見せた。ブラムウェルは少しだけ眉を上げる。お。やるじゃないか。初めて神獣を目の前にした時には、散々注意したにもかかわらず、かわいいという感情ひとつで危うく全部吹き飛ばしかけた女とは思えない。
まあ、あれだけの経験をして何も学んでいなかったら、その方が困る。昔、港の濡れた岩で三度続けて滑り、三回目になってようやく長靴の底へ縄を巻いた幼馴染よりはずっと優秀だろう。どうして今あいつを思い出したのかは自分でも分からない。現実逃避かもしれない。早めの走馬灯では無いことだけ祈る。
「ブラムウェルさん、今なんだか失礼なことを考えませんでした?」
「説明が分かりやすくて助かると思っていただけですよ」
「その前にありましたよね。顔がちょっとだけ生暖かかったです」
「人の顔を勝手に温度で分類しないでください。続きを話しますよ」
アリアはまだ怪しんでいる様子だったが、それ以上は食い下がらなかったので話を戻す。白虎と遭遇した場合は走らない。背中を見せず、大声を出さず、こちらから距離を詰めない。触ろうとせず、武器を向けるのも避け、必要もないのに魔法を使わないこと。
とくに攻撃だけは絶対にしないよう念を押した。
幼獣だけが見えていても、周囲には成獣か若い親族がいるものとして動かなければならない。本当に命へ関わる状況なら防御まで禁じるつもりはないものの、最初の選択肢を攻撃にするのは論外になる。
「もし向こうから飛びついてきた場合でも、まず避けるか、防ぐ。そういう認識でいいのですね。幼獣へ傷をつければ、近くにいる成獣を刺激する可能性もある」
「それもあります。ただ、親に見られているから攻撃するなというだけではありません。向こうが遊びのつもりなら、こちらから敵対関係へ変える必要がないんです。
盾や結界で受けられるならそうしてください。どうしても命が危ない場合は別ですが、その前にまず興奮させないことを考えてください」
そこまで説明したところで、山の奥から低く長い鳴き声が響いた。耳で聞くというより身体へ押しつけられるような音で、胸の奥まで細かく震える。
木々の枝に積もっていた雪がさらさらと落ち、周囲の人間が一斉に身体を強張らせた。護衛の手が武器へ伸び、ルーヴェルの神官たちも先ほどの岩角鹿と同じように立ち位置を変えようとするのが見える。ブラムウェルはすぐに片手を上げた。
「待ってください。武器は出さないで」
「今のが白虎ですか? かなり近くから聞こえましたが、こちらへの威嚇ではないのでしょうか」
「成獣ですね。ただ、威嚇とは違います。威嚇ならもっと短く、相手へ向けて何度か繰り返すことが多い。今のは親が離れた子供を呼ぶ時の声です。居場所を知らせたり、戻ってくるよう促したりする時に使う。少なくとも、何かに激怒しているとか、争っているとか、そういう鳴き方ではありません」
周囲の張りつめ方がほんの少しだけ和らいだ。ブラムウェル自身も一度息を吐き、それから自分の説明を頭の中でもう一度なぞる。
大きな問題が起きたわけではない。親が離れた子供を呼んだ。それだけのことなら─────そこまで考えたところで、別の意味が浮かび上がってきた。この位置ではっきり聞こえる距離で、親が外へ出ている幼獣を呼んでいる。
「……いや。安心するのは少し早いですね」
「何かおかしいんですか?」
「おかしいというほどではありません。ただ、あれが外遊びに出ている子供を呼ぶ声なら、その幼獣が親のそばにはいないということです。この場所まではっきり声が届いているなら、子供の方がこちらの近くまで来ている可能性があります」
一度緩みかけた空気が、今度は違う形で硬くなる。それでも誰も武器へ手を伸ばさなかったので、先ほど説明した意味はきちんと伝わっているらしい。
ブラムウェルは全員を見回し、もう一度だけ念を押した。白虎が現れても絶対に攻撃しない。気づかれず通り過ぎるなら、そのまま行かせる。向こうから近づかれても走らず、散らばらず、背中も見せない。幼獣の場合はとくに、人間の反応そのものを遊びへ変えさせないこと。
「皆さん、白虎を見つけても、今度は誰か一人が真っ先に飛び出して身を張るのはやめましょうね」
「……分かっています。私たちも、何でもかんでも自分の身を差し出して助けようとしているわけではありません」
「さっきの皆さんがあまりにも自然だったので、ちょっと心配になっただけです。助けなきゃと思った瞬間に、自分の怪我を勘定から外すのはやめましょう! 次は全員で、怪我ひとつ……ひとつふたつくらいまでに収めて、揃って生きて帰る方向でお願いします!」
オスカーが非常に言いたいことのありそうな顔になった。ブラムウェルは黙っておく。アリアにだけは言われたくないだろうな、とは思ったが、それを口にすれば確実にこちらへ飛び火する。
本人に見つからない程度に頷いたつもりだったものの、アリアがすぐこちらを向いたので、何でもない顔で地図へ目を落とした。
その時、右手の茂みからガサ、と音がした。一度だけではなく、少し間を置いてガサガサと枝が続けて擦れる。積もっていた雪が落ち、木々の向こうで何かが地面を踏む気配まで伝わってきた。小動物より明らかに重い。しかし成獣が歩いていると考えるには枝が揺れる位置が低く、その直後、喉の奥を震わせる唸り声まで混じってくる。
「ゥルルル……」
高い。ブラムウェルはすぐに分かった。本人は低く唸っているつもりなのだろうが、先ほど山へ響いた成獣の声と比べればあまりにも軽い。胸郭も喉もまだ育ちきっていない、子供特有の響きが残っている。
「幼獣です。動かないでください。背中を見せない。走らない。急に手を動かすのもやめてください」
茂みが大きく揺れ、白い身体がひとつ飛び出した。そのすぐ後ろからもう一頭が現れ、先頭の腰へ勢いよく横からぶつかる。
二頭はまとめて雪の上へ転がり、そこへ少し遅れて現れた三頭目が何の迷いもなく飛び込んだ。白い身体が三つ、雪煙の中でぐちゃぐちゃに重なる。
片方が仰向けになって四肢で相手を押し返せば、押された方は転がった勢いを利用して三頭目へ体当たりし、今度はその三頭目が首筋へ噛みついた。けれど爪はほとんど出ておらず、牙も毛の表面を浅く咥えているだけに見える。以前観察した時と同じ、幼獣同士の遊びだった。
ブラムウェルは身体を動かさないまま、視線だけで三頭を追った。
二十日ほど前より確実に大きくなっている。冬毛は少しずつ抜け替わり、脚が少し伸びて胸や肩へ肉もつき始め、子供らしい丸みがわずかに抜けつつある。
それでも成獣と比べれば頭部の割合が大きく、丸い耳も太い足先もまだ幼い。
三頭のうち一頭は他より明らかに体格がよく、以前の観察でも四頭の中にいた大柄な個体と特徴が一致していた。今回も真っ先に茂みから飛び出し、その直後きょうだいに突っ込まれて転がったあたり、見覚えのある落ち着きのなさまで変わっていないように思える。
もう一頭が前脚を伸ばしたところで、ブラムウェルの視線がそこへ止まった。左前脚を横切る黒い縞が、一本だけ途中で切れている。これも以前記録した特徴と一致する。ならば少なくともこの二頭は、神獣と思われる幼獣と一緒にいた四きょうだいのうちの二頭で間違いない。
残る一頭は二頭ほど目立つ特徴を持っていなかったが、大柄な個体と左前脚の模様が特徴的な個体の間を行ったり来たりしながら遊んでおり、三頭の距離感にも不自然なものはなかった。おそらく同じきょうだいと見ていい。
そこで、ブラムウェルはふと三頭の額を見比べた。一番大きな個体にも黒縞がある。左前脚の模様が特徴的な方にもあり、最後の一頭は細い線が円を描くように曲がっている。もう一度、順番に確認した。やはり三頭とも同じだった。
いない。
神獣と思われる幼獣には、額の縞がなかった。四頭を初めて詳しく観察した時から、それがもっとも分かりやすい識別点になっている。
家族が移動を始めた際、一頭だけ少し遅れて雪へ足を取られ、そのあと人間の幼子のような声で家族へ呼びかけた、あの個体。それだけが、この場に見当たらない。
ブラムウェルは三頭が飛び出してきた茂みへ視線を移した。枝はもうほとんど揺れておらず、新しい足音も続かない。少し遅れて出てくるのかと思ったものの、白い影が追加で現れる気配はなかった。
四頭がいつでもひとまとまりで行動するとは限らないし、外遊びを許される段階まで育ったのなら、興味を持ったものが違って一頭だけ別方向へ行くこともあるだろう。それ自体は異常とは言い切れない。それでも、先ほどの成獣の声と重ねると妙な引っかかりが残る。
親は子供を呼んでいた。この三頭を呼んでいるだけなのか、それとも三頭から離れてしまった残りの一頭へ向けた声だったのか。
よりによって、ここにいないのは人間の言葉を発した神獣個体である。そして自分たちは今、人間の子供を一人探している。そこまで考えた瞬間、嫌な形で二つを結びつけそうになり、ブラムウェルはすぐに思考を切った。証拠もないものを都合よく繋ぐな。そういうことをするために山へ来たわけではない。
その時、一番大きな幼獣がこちらを見た。じゃれ合いがぴたりと止まり、雪の上へ半分寝転んだ姿勢のまま、まず丸い耳だけが人間たちの方へ向く。それから頭を持ち上げ、残る二頭もきょうだいの視線を追った。
見つかった。ブラムウェルは息を浅くする。後ろで誰かの服が小さく擦れたが、それ以上の動きは起きない。それでいい。そのままでいてくれ。
大柄な幼獣が身体を起こし、一歩だけこちらへ進んだ。耳は伏せておらず、尻尾も膨らんでいない。身を低くして飛びかかる準備も見られず、敵意を示す唸り声さえ消えている。代わりに金色の目がまん丸に開き、人間の集団を食い入るように見つめていた。
しばらくして口がわずかに開き、カカカカ、と奇妙に細かな音が漏れ始める。
吠え声とも唸りとも違い、喉の奥で短い音を続けざまに弾ませながら、下顎だけを小刻みに震わせている。遠くにひどく気になるものを見つけ、興奮が身体より先に喉から飛び出したような響きだった。
カッ、カカ。もう一度音を鳴らし、大柄な幼獣は首をこてんと横へ傾けた。ブラムウェルには、それが威嚇ではないとすぐ分かってしまう。
左前脚の縞が切れた個体もきょうだいの横へ並び、人間たちへ鼻先を向けた。最後の一頭は二頭よりわずかに後ろへ残っているものの、逃げるために距離を取っているのではなく、前の二頭がどうするか見てから自分も混ざろうとしているように見える。三頭とも目がらんらんと輝き、怖がる様子など欠片もなかった。
楽しそうだった。
知らないものを見つけた。それもたくさんいる。動くし、匂いもするし、自分たちの縄張りではほとんど見たことがない。
近くへ行けばもっと分かるかもしれない。そんな幼い好奇心が、言葉などなくても嫌になるほど伝わってくる。
ブラムウェルは、ほんの少し前に自分が皆へ話した内容をそのまま思い出した。怖がっている白虎なら逃げ道を空ければいい。警戒しているなら、こちらも余計な刺激をせず距離を保てる。敵意がある場合ですら、少なくとも何をしようとしているのかはある程度予測できる。
けれど、この三頭は違う。大柄な個体がまたカカカと喉を鳴らし、一歩だけ前へ進む。
それにつられるように残る二頭も身体を前へ傾けた。珍しい。面白そう。近づきたい。触ってみたい。たぶん、それくらいしか考えていない。
そのうえ、自分たちが軽く前脚をかけるだけで、人間など簡単に地面へ倒れてしまうこともまだよく理解していない。
しかも、四きょうだいのうち神獣だけがここにはいない。
つまり彼らは今、最も危険な状態の幼獣と遭遇したのである。

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