いきてきたるif⑥完結

 帰りたい! 帰りたい! 帰りたい! 帰りたい!
 頭の奥でそれだけが鳴り続けている。あいつらはみんな嘘つきだ。悪い奴らに捕まったんだ、だから焼いた、俺は悪くない。悪くない、悪くない、悪くない。きらい、きらい、きらい。家に帰る。帰れば大丈夫だ。帰れば全部元に戻る。みんな俺の事探してる。心配かけちゃった、謝んなきゃ。冬ちゃんと夏くんは泣いてるかもしれないし、陽火くんは頼りないから俺がみんなをみてないとダメなんだ。焦凍だって、俺のこと心配するかもしれないだろ。一応あいつも俺の弟だし、許してやったっていいんだ。俺はお兄ちゃんだから、焦凍のこと許してやってもいいって思ってるんだ。

 身体が重い。自分のものじゃないみたいに鈍くて、視界が記憶より高い位置にずれている。足が地面に着くたび、距離感がおかしくて、思ったところに身体が動かない。変なところが引っ張られるみたいに動いて、世界の縮尺が狂っている。建物も人も、全部が知らないものに見える。家の場所がわからない。
 知っているはずの道の名前、駅の名前、バス停の名前を思い出すのに、ひどく時間がかかる。頭の中で何かが剥がれ落ちていく感じがする。起きたらバカになってた。身体も可笑しくなってて、声も変で、なんで。

 お父さん、お父さん、たすけて。ヒーローなのに、なんで来てくれないの。
 なんで俺のこと無視すんの。胸の奥がこんがらがって痛い、息がうまく吸えなくなる。頭の中がぐちゃぐちゃで、言葉が絡まって、考えようとすると余計に崩れる。ひぃひぃって、変な音が喉から勝手に漏れる。
 苦しい。空気が薄い。視界の端が暗くなって、指先が痺れる。頭を掻きむしって、叩いて、痛みで無理やり意識を繋ぎ止めて、ようやく家の場所を思い出した。
 お金は持ってない。いつの間にか着ていた知らない服のポケットは空っぽだ。だから改札を通り抜けた。勝手に入った。悪い事をした。わかってる。これはダメなことだ。電車の乗り方がわからない。切符の買い方も、路線図の見方も、全部ぼやけて、知っていたはずなのに思い出せない。わかんなくなっちゃった。思い出せない。バカになっちゃった。わかんない、わかんない、わかんないよ! 心臓が痛い。頭も、お腹ん中も。全部痛い。身体の内側が熱い。また燃える。火傷する。痛い。

 今乗っている電車は、本当に家に着くのか。行き先表示を何度も見た。たぶんこれであってる、と思う。でも確信が持てない。不安でたまらなくて、胸の奥がずっとざわざわしている。
 乗り換えはあるのか、降りる駅はどこだっけ、次で合ってるのか、考えようとすると頭がうまく回らない。俺の席の周りには誰も近寄らなかった。空いているのに、避けるみたいに距離を取られている。たぶん俺がおかしいからだ。呼吸の仕方も、視線の置きどころも、全部ずれている自覚はある。落ち着かなきゃ、と無理に姿勢を正して座り直した瞬間、尻の下にごわっとした感触があった。
 何かある。驚いて身体を浮かせて座席を見た。雑誌だ。前の人が忘れたのか、置いていったのか、表紙が少し曲がっている。捨てるわけにもいかなくて、拾って膝の上に置いた。表紙に載っている人の顔を見て、胸の奥が一瞬ひっかかる。知っている気がする。でも思い出せない。俳優かな、モデルかな、それともヒーローか。たくさんのこと考えるのが怖くて、逆に目を逸らさず、意識だけを外から逸らすために敢えて眺め続けた。写真の笑顔は柔らかくて、どこか落ち着いていて、見ていると呼吸が少しだけ楽になる気がした。ずっとざわざわしていた胸の中が、ちょっとだけあったかくなる。

 だんだん、文字も頭の中に入ってくるようになった。最初は形としてしか認識できなかった黒い線が、音を伴って浮かび上がる。「と」「ど」「ろ」「き」ゆっくり、一文字ずつなぞるみたいに読む。次に、下の名前。陽火。────轟 陽火

 陽火くんだ。

 え?

 心臓が一拍遅れて跳ねた。頭の中が一気に静かになる。なんで。なんでここに載ってる。なんで、こんなところで。雑誌を持つ手が震えて、ページの端がかすかに擦れる音がした。胸の奥に、痛みと一緒に、かすかな熱が灯る。雑誌の中で、どうしてこの名前を見るんだ。わからない。でも、目が離せなかった。
 記憶の中より大きくなった気がする。写真の中の陽火くんは前より背が高く見えて、肩も広くて、顔つきも少し違う。わかんない。もともと陽火くんはずっと俺より大きかったから、どこからが成長でどこからが錯覚なのか判断がつかない。
 文字がたくさん並んでいて、目が滑る。読むのがしんどい。
 陽火くん、なんでこんなところにいるの。ヒーローになったの? 俺はなれないのに? なんで。なんで陽火くん、俺のこと置いてくの。ずっと一緒って言ったじゃん。嘘ついたの。嘘だめなんだよ。陽火くんはお兄ちゃんなんだから、おとうとに嘘つかないでよ。
 胸の奥がひりひりして、怒りなのか悲しみなのかもわからない。おかしい。ひどい。視界が滲んで、雑誌の文字がぐにゃっと歪む。読めない。読みたくない。でも、目が勝手に追ってしまう。

 「わ、たし、は」声に出さないと、文字がただの形に戻ってしまいそうで、一文字ずつ、ゆっくりなぞる。意味を繋ぐみたいに、息を整えながら読む。わたしは。私、は。

「わたしは、『とうやがいきている』としんじています」

 頭の中で、もう一度なぞる。音にしなくても、意味がまっすぐ落ちてくる。

 私は、燈矢が生きていると信じています。

 胸の奥で、何かが音を立ててほどけた。さっきまで絡まっていた不安も怒りも、全部その一文に吸い込まれていく。

「わたしは、『とうやがいきている』と、しんじています……。わたし、は……」

 声に出さず、口の中だけで形をなぞる。途中で途切れてもいい。続きが読めなくてもいい。繰り返し、繰り返し、これしか読めなかった。

 なんで陽火くんの写真が載っているのか、陽火くんが何をしたのか、きっとその先を読めば書いてある。わかっているのに、そこへ進めない。指がページをめくることを拒んでいるみたいに動かない。今は、この一文だけで手一杯だった。

 心臓があったかい。さっきまで冷たく縮こまっていた胸の奥が、じんわりと熱を持っている。陽火くんの、ちっちゃな火。「身体の中にいれたから、ずっと一緒」。まだ残っていた。俺の中に、ちゃんとあった。俺の心臓の中に、ちゃんとしまわれてた。焼き尽くしてなかった、あったかくて優しい熱を確かめる。思い出す。陽火くんのちっちゃな火は、やさしくて、俺、すごい好きだった。きらきらしてて、陽火くんみたいで、大好きだった。陽火くんは俺のこと、忘れてなかった。置いていかなかった。待っててくれてる。ずっと。

 電車の揺れに身を任せながら、文字を追う。追うというより、抱きしめるみたいに目でなぞる。降りなきゃいけない駅の名前がアナウンスで流れるまで、何度もそれだけを繰り返し読んだ。とうや、いきてる、しんじてる。とうや、いきてる。しんじてる。
 生きてるよ。俺、生きてる。家に帰るんだ。陽火くんが待ってる。お父さんも、きっと俺のこと待ってる。夏くんも冬ちゃんも、母さんも、焦凍も。
 母さんにひどいこと言ったから、謝んなきゃだめだ。あれは俺が言いすぎたし、悪い言葉だった。
 お父さんが来てくれなかったのも、謝ってくれたら俺、許すよ。いいよって言う。次は来てねって言うから。今回のだけ、許してあげるんだ。
 胸が詰まって、喉の奥が痛くて、泣きそうになるのを必死に堪えながら、降りるべき駅で電車を降りた。
 前の人に合わせるみたいに改札を抜ける。ここまで来たら、もう帰り方がわかる。知らない店が増えていて、知ってるはずの店がなくなっている。でも、道はわかる。真っ直ぐ行く。迷わない。俺の家はでかいから、遠くからだって見える。帰るんだ。帰れるんだ。走る。走って、走って、息が上がって、足が重くなっていく。それでも止まらない。

 ……帰って。……帰れる……。

 急に、怖くなる。今がいつなのかわからない。この雑誌、いつのだろう。この時は、陽火くんは俺のことを待っててくれた。でも、“今”はどうなんだ。もし諦めてたら。もし、もう待つのをやめてたら。俺のこと、忘れちゃってたらどうしよう。
 胸をおさえて、陽火くんのちっちゃな火を探す。ちゃんとある? ずっと一緒にいる? 足に何かが絡みついたみたいに動きにくい。

 陽火くん、俺のこと、わからなかったらどうしよう。変に大きくなって、顔も身体も、火傷でおかしくなってる。声も全然違う。昔の俺じゃない。電話したって、きっと燈矢だって気づかれない。知らない人みたいに扱われたら。呼び止められなかったら。考えるだけで、足先から冷えていく。こわい。

 怖くて、苦しくて、また息ができなくなった。胸が潰れるみたいで、空気が入ってこない。足に力が入らなくなって、道の端でしゃがみこむ。アスファルトが近い。視線が低くなって、世界が傾く。
 ゼイゼイって音が喉から勝手に鳴って、止められない。頭がぐらぐらする。考えようとすると、余計に息が詰まる。帰りたい。ただそれだけなのに、どうしてこんなに遠い。

「大丈夫、ですか?」

 声がした。すぐ近くで、はっきりと。誰かが俺に話しかけている、と遅れて理解する。すっと影が落ちて、直射日光が遮られる。歪んだ視界の中に、色が見えた。白と赤。縦に分かれた、半分ずつの色。知ってる。知ってるはずなのに、名前がうまく出てこない。
 しょう、と……。舌の奥で音だけが引っかかる。

 次の瞬間、甲高い声が弾けた。

「燈矢にいだ!!! 陽火にい! 燈矢にい居た!!」

 耳の奥がきん、と鳴る。言葉の意味を理解する前に、別の声が重なって響いた。遠くから、でもやけに近くに感じる声。

『でかした焦凍!! 逃がすな捕まえてろ! 火には気をつけろよ、今行くからな!!』

 なに。
 どうして。

 頭の中で、さっきまで必死に繋いでいた思考が一気にほつれる。息が止まりかけて、視界の端で影が大きく揺れた。捕まえるって、なにを。逃がすなって、誰を。火って、俺のことか。わからない。わからないのに、名前だけがはっきり聞こえた。燈矢、って。

 呼ばれた。
 俺は、呼ばれた。
 おれのこと、覚えてるひと、いた。