いきてきたるif⑤

 漫我くんと遊んで帰ってきた焦凍は、病室のドアを開けるなり「かいてもらった」と誇らしげに言って、ちぎり取ったお絵かき帳の紙を両手で差し出してきた。
 端っこがギザギザになったその紙には、猫、犬、オールマイト、わけのわからないくらい躍動感のある恐竜、あと多分“漫我くん本人”と思われる吹き出し顔の自画像とサインまで詰まっている。線が迷ってなくて、色の置き方がうまくて、影のつけ方までちゃんとしてる。なにこれ、幼児の絵じゃない。絵が……上手すぎる……! 普通に俺より上手い……!

 「凄すぎるな……」と本気で感心していると、焦凍は返事の代わりみたいに、すとん、と俺の体に重みを預けてきた。座っている俺の肩に額を寄せ、頬をすり寄せる。くっつけた頬が、子どもの体温でじんわり温まる。

 どうしたんですか? 突然そのように可愛さを見せつけて。お兄ちゃんびっくりしちゃった。

「なに、どうした」

 笑いそうになるのを堪えて、ほっぺたをくっつけたままの焦凍の頭を撫でる。髪は細くて、手のひらにふわふわ引っかかる。すると焦凍は、くっついたまま小さく息を吐いて、喉の奥でこぼすみたいに言った。

「……おんなじだ」

 同じ? 聞き返す前に、視界の端に焦凍の赤い髪が映る。俺の髪と、同じ色。ああ、なるほど。同じ赤髪だな。
 焦凍が言っている“同じ”は、きっとただの色のことじゃない。台所で小麦粉まみれになって、悪戯を叱られた時に「しろくしたかった」と涙声で言っていたことを思い出す。焦凍にとっての赤い髪は、呪いみたいなものだったのだろう。
 漫我くんとおしゃべりしているときに、何かそういう話題にでもなったのだろうか。あの子はうちの父さんを知らない。だから焦凍の赤髪は、ただ俺と同じ色だったのだろう。それが、救いになったのかもしれない。

「……同じだな」
 俺はそう返して、焦凍の頭をもう一度撫でた。肯定の回数を、焦凍が安心できるまで重ねるみたいに。

 焦凍はしばらく黙ってから小さく頷いて、それからもう一度紙を指さした。

「これ、オールマイト」
「うん、すごい。めちゃくちゃ似てる」
「……つぎも、かいてもらう」

 その声は、さっきより少しだけ明るい。“欲しい”を、またひとつ言えた声だった。
 俺は絵を丁寧に重ねて、しわにならないように端を揃えながら頷く。

「いいな。じゃあ大事にしまっとこう。宝物だ」
「うん」

 焦凍は口数が少なくて、言葉を選ぶのが少し苦手だ。頭の中にはちゃんと考えがあっても、それを的確な形に並べるのに時間がかかる。その代わり、目はやけに雄弁で、視線の動きや瞬きの仕方だけで、いま何を感じているのかが分かってしまうことがある。そしてもうひとつ、言葉の代わりに使う手段を、焦凍は最近ようやく思い出し始めていた。甘える、という身体の使い方だ。

 気づくと、自然な動きで俺に抱きついてくる。肩に額を預けたり、腕に絡まったり、足にしがみついたりする。そのどれもが無意識で、計算がない。
 かつて撫でられるだけで全身を強張らせ、呼吸まで浅くなっていたことを、本人はもう覚えていないのだと思う。覚えていないくらいで、ちょうどいい。

 冬美と夏雄が母さんと一緒に売店へ行き、袋いっぱいのお菓子を抱えて戻ってくる。病室に甘い匂いが広がって、テレビをつけて、誰が見るともなく画面を眺める。
 会話は途切れ途切れで、笑いも控えめで、それでも“なにもしない”という時間が、確かにそこに流れていた。目的も成果もない、ただ同じ空間で息をしているだけの時間。俺たちには、それが必要だった。

 入院期間は、俺の退院予定に合わせてきっちり十四日。区切りがあるからこそ、安心できる。永遠じゃないと分かっているから、やるべき事をまとめられる。

 

 その十四日のあいだに、漫我くんは帰っていった。
 漫我くんのお父さん、言見先生の義兄が急ピッチで仕事を片づけ、言見先生の“預かり期間”が終わったのだという。迎えに来たその人は、俺でも知っている大人気週刊漫画の作者で、漫我くんを力いっぱい抱きしめながら「六週分ストックを作ってきました。これで、これで戦える!」と半分泣きそうな顔で宣言していた。どうやら入院前から溜めていたネームに、数日間で一気にペンを入れたらしい。修羅場の匂いがする。大人の世界も大変だ。

 漫我くんは「バイバイ! またねー!」と、いつもどおり元気いっぱいに手を振っていった。その声は明るくて、後ろを振り返らない。本人は“また”が来ると信じているだろうが、たぶん、もう会うことはないだろう。彼は一時的にここに来ていただけで、本来は違う土地に住んでいる。交わった線が、またそれぞれの場所へ戻っていく。それだけのことだ。

 焦凍はその背中を見送りながら、小さく言った。
「……漫我がさきで、よかった」

 理由を聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
俺のほうが先にいなくなったら、漫我は寂しくなるから。だから、バイバイはむこうが先でよかった。そういう計算を、焦凍は自分なりにしていたのだ。

「さみしい?」
 そう聞くと、少し間を置いてから、焦凍は俺の足にぎゅっとしがみついた。逃げないようにするみたいに、指先に力を込めて。

「……さびしい」

 たったそれだけの言葉。でも、ちゃんと“言えた”。自分の感情をちゃんと言葉でいえて、意味も飲み込めた。俺は何も言わずに、焦凍の頭に手を置いた。撫でるというより、そこにあることを確認するみたいに。

 

 

 

 十四日の入院生活も終わりに近づいた夜、消灯後の病室で、俺の“灯火”を囲んだ轟家きょうだい会議は、いつのまにか六回目になっていた。
 明るすぎない光が、みんなの顔を下から照らしている。この輪に入る前に言わなきゃいけない言葉があるのは分かっていたし、それを口にした瞬間、俺の正気が疑われることも分かっていた。今ここで言わなければ、たぶん一生言えなくなる。
 だからこそ、全員が自分で食事を取れるようになって、ストレス由来の症状が医者の太鼓判付きで改善された“今”を待った。

「俺な、燈矢は生きてると思うんだよ」

 一瞬、空気が止まる。これを言わなきゃ始まらない。でも、これを言ったら全部がひっくり返る。
 冬美が、困惑と戸惑いをそのまま声にしたみたいに言う。「……陽火くんが「死んだ」って、言ったんだよ」それは責める声じゃなくて、言い聞かせる声だった。分かってる。俺はそう言った。父さんに対して、そこまで言わないと何も響かないと思ったからだ。父さんをいちばん傷つける言葉がそれだと思って言った、ナイフの代わりの言葉だった。
 燈矢と縁が薄かった焦凍は話についていけずにポカンとしている。一方で夏雄は、「……忘れちゃった?」と泣きそうな顔で続ける。
「親父も、母さんも、言ってただろ。仏壇に写真、あるだろ」
 ここで“前世の記憶があって原作知識があってですね”なんて言えるわけがない。だから俺は、“生きている”ための理屈を、ひとつずつ積み上げるしかなかった。

「俺は、燈矢がどこでどうなったかっていう“場所”を知ってたから、一人で確かめに行ったんだ。確かに痕跡はあった。あったけど、途中で消えた。沢に向かっていったところまでは、ちゃんと続いてた」

 そう前置きして、三人の顔を見る。

「冬美、夏雄、焦凍。今からちょっと怖い話をするぞ。嫌だったら耳、塞いでいい」

 そう言ったのに、誰も耳を塞がなかった。ただ、じっと俺を見て、続きを待っている。

「燈矢は焼け死んだって言われてる。あいつの個性が、自分のことも焼くって知ってるだろ。だから“個性事故”って結論がついた。骨も一部だけ見つかった、ってな。でもさ……」

 言葉を選びながら続ける。一度深く息を吸って、吐いた。

「人間が、ほとんど無くなるまで焼けると思うか? 燈矢は確かに強かったし、炎も強力だった。でも、沢で……水に浸かりながら、全身を“ほんの小さな欠片”にするまで燃え続けることが出来ると、俺は思わない。それよりも、“その状態の燈矢を、誰かが連れていった”って考えたほうが、現実的じゃないか?」

 誰も口を挟まない。俺はそのまま、理屈を重ねる。

「燈矢は、いつも一人であの山にいた。これは知ってる人は知ってる情報だ。うちはNo.2の家だってことも、公然の事実だ。父さんは……父親としては本当にクソだと思ってるし、ミリも許してない。でも、日本のNo.2なんだよ。燈矢が憧れたみたいに、たくさんの人を救ってる。それと同じ数だけ、ヴィランを捕まえてる。これも事実だ」

 少し間を置いて、はっきり言う。

「それってつまり、敵が多いってことだ」

 燈矢は、そういう父さんに恨みを持つ誰かに攫われて、帰って来られなくなったんじゃないか。

 俺はそう締めくくって、灯火の揺れを見つめた。信じるかどうかは、みんなの自由だ。実際にこれが正解かわからない。前世の俺は、原作を読み込んではいなかった。
 “燈矢”が“荼毘”になるシーンだって、惰性で流し読みしていた気がする。仏壇に自分の写真があったことが引き金だったのか、他に何かあったのか、忘れてはいけないことを全て忘れてしまっている。ただ、燈矢は一度帰ってくるんだ。必死に、ボロボロの身体で、「ただいま」を言うために。

「燈矢が帰ってきた時に、『燈矢』がいないを当たり前にしてたら大変なことになるだろ」

 そう言った瞬間、自分でも驚くくらい、その言葉には一切の感情が乗っていなかった。可哀想だとか、辛いだとか、そういう同情のための言葉は、ここでは使えない。これは情緒の話じゃない。現実的な危機管理の話だ。

 案の定、ピンと来ていないのは焦凍だけだった。焦凍はまだ燈矢という兄を、写真や断片的な話としてしか知らない。記号としての「亡くなった兄」だ。
 一方で、冬美と夏雄は、ほぼ同時に「あ」という顔をした。言葉にしなくても分かる、という顔だ。この二人は知っている。
 燈矢がどれだけ厄介で、どれだけ執拗で、どれだけ感情の振れ幅が大きくて、どれだけ発想が常識のレールを踏み外す人間だったかを。
 癇癪を起こした時のしつこさも、納得がいくまで食い下がる粘着質さも、父さんへの歪んだ執着も、そして何より、俺に対してだけ発揮される遠慮という概念の欠如も、全部、身をもって知っている。

 あの燈矢が、だ。必死に生き延びて、ボロボロになって帰ってきたその先で、「お前はもういなかったことにされている」「家族は燈矢の不在に慣れきっている」という現実を突きつけられたら、どうなるか。考えるまでもない。悲しみや寂しさで済むはずがない。

 あの執着は、向かう先を失えば簡単に憎悪に反転する。しかもその矛先は、きっと外には向かない。父さんか、家族か、それとも俺か。いずれにせよ、誰かが無事でいられる展開じゃない。それは悪夢だ。感傷を挟む余地のない、純度の高い悪夢。

 だから、「可哀想だから」じゃない。「優しく迎えてあげたいから」でもない。「大変なことになるから」なんだ。燈矢を生かすためであり、俺たちが壊れないための話だ。
 冬美と夏雄がすぐに理解したのは、燈矢の危うさを責めるためじゃなく、愛情と暴力性が同じ場所にある人間だということを、あの二人が誰よりも知っているからだろう。

 

「燈矢は本当に厄介だった。“ちょっと情緒不安定だった”なんて生ぬるい言葉で片づけられる類じゃなくて、あいつには最初から感情のアクセルしか付いてなかった。ブレーキは存在しない。嬉しいも、悔しいも、怒りも、全部が即フルスロットルで、納得するまで絶対に止まらないし、その“納得”の基準も本人の感情だけ。話し合いで終わることはほぼなくて、自分の中の“正解”以外は認めない。
父さんに認められない、それだけで『存在を否定された』に直結して、勝手に絶望して、勝手に燃え上がる。視野は極端に狭いから、解決方法が“もっと強くなる”しかなくて、結果的に全部を悪化させる。
俺に対してだけは距離感ってものが完全に壊れてて、他責も、上から目線の暴言も、言いがかりみたいな押しつけも、全部『陽火くんのせい』の一言で片づけるくせに、自分がおかしなことを言ってる自覚だけはあって、そこを突かれると一気にパニックになって、もう何を言ってるのか分からなくなる。本当に、手に負えないくらい厄介だった。──────でもさ、どうしようもないほど可愛かったんだよなあ」

 

 可愛かったんだよ、本当に。赤ちゃんの時だって覚えてるんだ。俺の指を掴んではなさなくて、可愛くて仕方なかった。

 あいつが俺にだけ向けてきた、あの厄介さの全部は、「俺を見て」「俺を褒めて」「俺を見捨てないで」っていう、言葉にできなかった声だった。そういうものだって、俺は分かってた。

 

「冬美と夏雄は、燈矢が優しかったことも覚えてるだろ。あれも嘘じゃない。あれも、燈矢の“本当”のひとつなんだ。
あいつは本気で、お前らの“良い兄ちゃん”だった」

 

 だからさ。俺、燈矢のことを諦めたくない。面倒で、危なくて、どうしようもなく厄介でも、“死んでない”可能性があるなら、そっちを取りたい。……付き合ってくれ。

 綺麗に理屈を並べていうはずだった言葉も、最後には詰まって感情的になってしまった。上手くいかないな、と視線を下げたら、「いいよ」と、焦凍の声に視線が上がる。迷いのない動きで、いつもの少しだけ高い声で、「陽火にいのいうこと、しんじるよ。燈矢にいが帰ってきた時、おかえりっていうの、やるよ」と、焦凍は笑う。その笑顔は幼くて、それでいて不思議なほど落ち着いていて、まるで“決めた”あとの顔だった。
 冬美と夏雄も、誰かに引っ張られるようにではなく、自分の中で一度噛み砕いてから、静かに頷いた。

 仏壇に置かれた写真一枚と、灰しか入っていない骨壷だけで「死んだ」と飲み込めるほど、燈矢という存在はこの家から薄れていない。

 怒鳴り声も、笑い声も、廊下を乱暴に歩く足音も、泣きじゃくる声の重さも、全部がまだ生活の延長線上にある。

 だからきっと、信じるかどうかじゃない。そうやって“迎える準備をする”と決めるかどうかだ。いつか、燈矢が「ただいま」と言えるように。俺たちが「おかえり」を言えるように。そのために今できることをする、と確認するみたいに、ひとりずつ指を差し出して、指切りをした。

 子どもの約束みたいだと思って、俺たちは子供だと思い直した。馬鹿みたいで、稚拙で、それでも俺たちにとっては、どんな誓約書よりも現実的で、重い約束だった。