善積あいは奮起した。
後輩が、講義終わりの薄暗い廊下で、あまりにも軽い調子で持ってきた噂話を、あいはなぜか笑い飛ばせなかった。
怪しいよ、変だよ、普通じゃないよ─────そう言う声が周囲からいくつも重なっていたのに、「でもそこって、困ってる人に分け隔てなく“あかり”を渡してくれるんっすよ。しかも無料で」という一言だけで、行かねばならないという直感のような気持ちが湧き上がったのだ。
困ってる人に、分け隔てなく。そんな当たり前のことが、どうして噂話になるんだろう。
善意は巡るものだし、情けは人の為ならずだし、正しいことはいつだって正しい。果たしてそれが、なにか特別なことなのだろうか?
そう思いながら、一人で赴いた先で聞いた“あかりさまのおはなし”は、善積あいの人生を静かに、しかし決定的に肯定するものだった。
奪わない、選ばない、見捨てない。必要な人に必要な分だけ、あかりを分ける。それで終わり。そこに強制も契約も上下もない。ただ善意が差し出され、善意が返るだけの循環。
あかりを受け取った人が少し楽になり、余裕が生まれ、次の誰かへ援助の手を伸ばせるようになる、その連鎖を“教義”と呼ぶなら、世界は最初から教会だったのだと気づかされる。
これが、ヴィランの所業と呼ばれるなんて、それは「知らない」からだ。
本当の意味であかりさまのことを理解すれば、きっと誰もがあかり教をうけいれるでしょう、善積あいは本気でそう思った。
だってこれは奪う話じゃない、縛る話でもない、優しさが優しさのまま回っていく、あまりにも健全で、あまりにも合理的なシステムだ。
善意と善意が交換され、無理のない範囲で助け合い、誰か一人が損をし続けることのない構造。
今まで自分がやってきたことと、何が違うというのだろう。
サークルの雑務を引き受け、後輩の相談に乗り、誰かの穴を埋めてきた自分の行為が、やっと名前を得たような感覚があった。
だから善積あいは決めた。大学に、新たなサークルをつくる。
宗教じゃない、勧誘じゃない、ただの活動。困っている人の話を聞き、余裕のある人が手を貸し、受け取った人が次に渡す。
その輪を、見える形にするだけ。知らないから怖がるなら、知ってもらえばいい。理解すれば、拒む理由はない。善意は正しい。善意は巡る。善と善で世界は回れる。その確信を胸に、あいは歩き出した。少しだけ浮き足立った足取りで、でも迷いなく。光はもう、ここにあるのだから。
はじめは【あかりさまを知る会】と名付けた。
あいにとっては、これ以上なく誠実で、これ以上なくわかりやすい名前だった。
だって、知ってほしいのだ。正しく、偏りなく、あかりさまのことを。ところが、志を同じくし、あの集会に誘ってくれた後輩は、紙に書かれたその文字を見た瞬間、ほんの一拍だけ黙り込み、それから静かに首を横に振った。
「あいパイセン、そりゃ怪しすぎます。初手でアウトっす」
「わかりやすいのが良くない?」
善いものは、隠す必要がない。むしろ堂々としていた方が、誤解も生まれないはずだ。何が悪いのかと首を傾げると、後輩はまた大袈裟にひとつ首を横に振る。
「わかりやすくても怪しいのはダメっす。宗教っぽいのは、大学的に即警戒されます。中身がどうとか以前の問題で」
後輩は困ったように笑い、「ボランティア部とか、フェアネス研究会とか、なんか他のにしましょ」と続けた。
その言葉を聞きながら、あいは一瞬だけ考える。ああ、そうか。これは“知らない”から出る反応なんだ、と。
拒絶ではない、無知だ。だったらなおさら、入口は広く、柔らかくあるべきだろう。名前はただの看板で、中身が変わるわけじゃない。あかりは、名前を変えてもあかりのままだ。善意は、別の箱に入れても善意のまま巡る。だったら、ここは譲ろう。理解のための一歩として。
「……じゃあ、もっと入りやすい名前にしよっか」
そう言って笑ったあいの声には、迷いはなかった。これは後退じゃない。より多くの人に、正しさを届けるための調整だ。善意は形を変えても、必ず返ってくる。その確信だけは、揺るがなかった。
後輩の顔の広さと、あい自身の積極的な活動、それからこれまで積み重ねてきた行いの良さもあって、【ゆるボラ部】──正式名称は最終的にそれに決まった──は、驚くほど順調にメンバーを増やしていった。
誰かが困っていると聞けば自然に人が集まり、終わった後には「助かった」「ありがとう」が残る。
その空気を、あいは誇らしく思っていた。
ほら、やっぱり善意は巡る。正しく回せば、世界はちゃんと応えてくれる。
特に活動に理解を示し、継続的に関わろうとするメンバー、言い換えれば“善意を渡しても返してくれる”と感じられる相手には、あいは自ら声をかけ、直接“あかり”を分け与えた。
“あかり”は人に分け合ってこそのものだが、誰彼構わず広めるのも良くない、とあいは本気でそう思っている。
善いものだからこそ、扱う人間は選ばなければならない。
あかりさまの御心を理解し、善意とは何かを知り、それを正しく次へ渡そうとする人だけが、その灯火を預かる資格を持つのだ。
真に善意ある正しい人間が、善意の輪を広げるための薪となり、火を絶やさぬ糧になる。それは特別扱いではなく、役割分担にすぎない。誰かが前に立ち、誰かが支え、誰かが次へ渡す。それだけの話だ。
そうして始まった“聖火式”と名付けられたあかりの授与は、いつしか部内で神聖なものとして扱われるようになった。
騒がしいサークル棟の一角、暗幕を掛けた小さな部屋で、余計な音も光も遮って行われるその時間は、儀式というより確認作業に近い。
あなたは善意を信じているか、善意を渡し、受け取り、また返す覚悟があるか。
その答えが、言葉ではなく態度で十分に示されたとき、あいは迷いなく“あかり”を手渡す。
これは支配ではない、選別でもない。ただ、正しい人に正しいものを預けているだけ。
そう確信しながら、善積あいは小さな光が人から人へ移っていく様子を見つめていた。
静かで、温かくて、正しい光。これが“ヴィランの所業”と呼ばれる理由が、あいには最後まで理解できなかった。
こんなにも優しく、こんなにも理にかなっているのに。知らないから、怖がるのだ。ならば、もっと丁寧に、もっと正しく伝えていけばいい。ゆるやかに、しかし確実に。善意の輪は、もう止まりようがなかった。
数日後、学内掲示板の前で足を止めたあいは、貼り出された一枚の注意喚起をじっと読み、「サークル活動を装った宗教勧誘に注意」という太字に、わずかに眉を寄せた。
「ええ、怖いね……」と、心底からの調子で呟く。その声には警戒も、疑いも、責任感も、全部が素直に混ざっていた。
「知らないうちに巻き込まれちゃう人もいるんだろうね。みんなにも伝えて、ひっかからないように気をつけなきゃね」
善意としては百点満点の反応だった。後輩はその横で、掲示板から視線を外し、スマホをいじりながら「そうっすね」と気楽な声で返す。深く考えているようでも、考えていないようでもある相槌。その短いやり取りのあいだに、何かが噛み合っていないことに気づく者はいない。
あいはもう一度掲示を見上げ、これは“守るための注意”なのだと納得し、歩き出す。
正しい人が、正しいことを伝える。それだけだ。
ゆるボラ部の活動予定が頭に浮かび、次は誰に声をかけようかと考えながら、あいは何も疑わず、何も間違えた自覚もなく、その場を後にした。善意は今日も正しく働いている、はずだった。
個性名:【無害化】
本人および本人が関与する人間関係・活動・空間を、周囲にとって「特別危険ではない」「よくあるもの」「深刻に警戒する必要はない」と感じさせやすくする認知補正型個性。怪しさや違和感を消すというより、評価を一段階“軽く”落とし込む作用を持つ。本人が心から無害だと信じている対象にのみ発動し、意図的な隠蔽や悪意を伴う行為では機能しない。そのため本人に発動の自覚はなく、個性を使っているという認識もない。幼少期の個性検査で「何かはある」と言われた記憶はあるが、日常生活に支障がなく、本人の性格も相まって深く考えていない。結果として本人や周囲は常に“感じのいい安全圏”に見え、善積あいの活動や人間関係が過度に問題視されにくい土壌が自然と形成されている。
