父さんの謝罪を聞いて、この人謝ったら死ぬ病の生き物じゃなかったんだ!? と驚くと同時に、なに人間っぽいことしてんだよ……! という八つ当たりじみた感情も湧いてきた。お前、ここまでやったんだからせめて憎みやすい造形であれよ……! 謝られたら、許さないも許すも全部俺の負担になるだろうが……! 大人しく有害サンドバッグでいろ……!!
その感情が喉までせり上がってきて、言葉にしようと口を開いた瞬間だった。胸の奥が、ぎゅっと雑巾みたいに絞られて、次の瞬間、胃の裏側から一気に熱が込み上げてきた。
あ、やばい。
思うより先に、口の中に熱いものが広がる。咄嗟に息を吸ったせいで、喉の奥が焼けるみたいに痛くて、咳き込んだ拍子に、赤いものがぼたぼたと落ちた。腕の中に抱き込んでいた夏雄と焦凍の、白い髪に赤が落ちるのが視界の端でやけにゆっくり見えた。
あ、汚した。
その思考が浮かんだ瞬間、全身の力が一気に抜ける。踏ん張ろうとした足が言うことを聞かなくて、視界が傾いた。倒れる、と思ったが、前じゃなく横だ。よかった、横だ。冬美の方じゃない。潰さずにすむ。その確認だけは、妙に冷静だった。
腹が、異常に痛い。内側から引き裂かれるみたいに、ぎゅうぎゅうと締め付けられて、息を吸うたびに鈍い激痛が走る。なんだこれ。殴られた痛みとは全然違う。胃? 腹? 内臓? ああ、これ、ストレスで穴が空くとか、そういうやつか。はじめてのタイプの痛みだな。
視界の中で、夏雄が泣き叫んでいる。焦凍も声を上げているはずなのに、音が遠い。いや、遠いどころか、何も聞こえない。鼓膜が破れたのは片方だけのはずなのに、世界が無音だ。
口が動いている感覚はあるのに、自分が何を言っているのか分からない。言葉になっているかどうかも怪しい。ただ、反射みたいに「だいじょうぶ」と繰り返している気がする。
だいじょうぶ。
だいじょうぶだから。
そう思っているのに、咳き込むたびに、口の端から熱いものが零れていく。床に落ちる感触が分かる。量が増えているのも、なんとなく分かる。視界の端で、父さんが駆け寄ってくるのが見えた。何か叫んでいるはずなのに、やっぱり聞こえない。表情だけがやけに大きく見える。
大丈夫、大丈夫。ほんとに。たぶん胃に穴が空いたとか、その程度だ。即死するやつじゃない。即死はしないはず。だから、心配しなくていい。俺はまだ、やることが残ってる。大丈夫、冬美。お前たちをおいていかないから。
思考がそこで途切れる。視界が急に暗くなって、遠くで誰かが俺の名前を呼んでいる気がしたけど、それが本当かどうかも分からないまま、意識はそのまま、静かに落ちていった。
目が覚めたら知らない天井だった。
あれ、これどっかで聞いたことあるやつだな、と思いながら瞬きをする。元ネタは知らない。何かしらのミームなんだろうな、という確信だけはある。人はみな一度は知らない天井を見上げる。そういう集合無意識。知らんけど。
ぼんやりとした白が視界に馴染んでくるにつれて、消毒液の匂いと、機械の規則正しい電子音が遅れて脳に届く。
ああ、病院だ。そう結論づけたあたりで、横から声をかけられた。医者だ。白衣だ。何の個性なのかは分からないが、頭の後ろに吹き出しみたいなものが浮かんでいる。『起きた!』『安心』と書かれているのが、こちらにもはっきり見える。すごいな……なんて生きにくそうな個性なんだ……。本心が可視化されるタイプなら、日常生活めちゃくちゃ大変そうだ。
暫定お医者様のマスク越しの声が、思ったよりもはっきり聞こえる。
音がぼやけていない。遠くもない。頭の中で反響もしない。
「……聞こえてる」
思わず呟くと、医者が「ええ、戻ってますよ」とあっさり言った。破れたはずの鼓膜は、治療系の個性を持つ人が処置してくれたらしい。個性、便利だな……いや、便利で済ませていい話じゃないんだが。
ただしその治療、保険適用外で、かなりの高額だったらしい。
「お父様が支払われました」
その一言を聞いて、ほんの一瞬だけ、やるじゃん父さんと思ってしまった。その一瞬後に「いや、俺の鼓膜ぶち破ったのは父さん」と思い出したので改めて評価を下げておく。最大限金を出せ。No.2の有り余る財力を使って高額医療を受けさせてくれ。
ここは母さんと同じ病院で、俺は二日ほど眠っていたらしい、と説明を受けたところで、思わず声が裏返った。
「え、そんなに重症だったんですか!?」
自分では、せいぜい気絶して半日くらいだと思っていた。せいぜい一晩。二日は盛りすぎだろ、と思ったのだが、医者は首を横に振った。
「重症、というより……無理が祟った、が正確ですね。ところで、一日の平均睡眠時間は?」
「三時間くらいです。ショートスリーパーなもので」
医者の背後に吹き出しが飛び出る『ダウト』『ダウト』。そんな……ダブルダウトですか……?
「それはショートスリーパーではありません。過覚醒からの不眠症です」
淡々と、しかし容赦なく続けられる。言葉も顔つきも冷たそうな印象なのに、背後の吹き出しには『がんばったね』『治そう!』がポコポコ飛び出てくるので、この人は案外この個性で上手くいってるのかもしれない。
「あなたの身体は、休まないのではなく、休めない。常に警報が鳴っている状態で、眠りに入れないだけです。今回の吐血と失神は、急激な心理的ショックをきっかけに、身体が“これ以上動いたら死ぬ”と判断して、強制的にシャットダウンした結果です」
論破された。
いや、論破しないで欲しい。患者を論破する医療行為、聞いたことない。反論しようと口を開いたが、喉が乾いていて、言葉がうまく出てこなかった。代わりに、ああ、そうか、という妙な納得だけが胸の奥に落ちていく。俺、あれ以上やったら危なかったのか……。
淡々とした医者の説明と、吹き出しからの過剰なまでの応援を浴びながら、俺はどうにか現状を整理する。俺の吐血そのものは内科案件で、胃だの自律神経だのの話になるらしいが、いちばん重いのはどう考えてもメンタルの問題だそうだ。
根本をどうにかしない限り、薬を入れて血を止めても意味がない。だから結果として、ここは母さんと同じ病院になる。聞いているだけで胃がひっくり返りそうだ。
通常なら、こういう話は保護者に向けてされるものだろう。実際、最初は父さんが呼ばれたらしい。……らしい、というのは、俺が意識不明で爆睡している間に、医者と何かしらあったようで、保護者としての父さんの話が出る度に、この医者の背後に浮かぶ吹き出しは『💢』『💢』しか出なくなった。
さっきまで『だいじょうぶだよ!』『ぼくがついてる!』とか出していた人が、今は怒りの絵文字しか発していない。こんな善良そうな医者すらキレさせる父さんのコミュ力の低さ、心から恥じてほしい。何を言ったんだよ、逆に気になる。
「君の年齢で、当人に直接こういう話をするのは、本来は問題があります」
前置きはきちんとしているが、視線は逸らさない。
「ただ、総合的に判断して、今回は当事者である君に話す方がいいと判断しました」
医者はそう言って、自分の胸に手を当てる。心臓のあたりだ。
「君は、ここが相当弱っています。無理を続けて、限界を越えた。だから倒れた」
言葉は静かだが、逃げ場を残さない言い方だった。俺の目をまっすぐ見てくる。背後の吹き出しが一瞬だけ『……』になって、次に『休まねば』と太字で出たのが見えた気がする。
「だから、お休みが必要です。強制的にでも、です。必要な機関と手続きを進めましょう」
手続き、という単語に嫌な予感がする。「……退院は」聞きたくないけど、聞かないわけにはいかない。
「最低でも十四日後です」
「そんな」
思わず声が出かけて、途中で止まる。言い返す材料が何もない。二日間、意識が飛んでいた人間が、何を主張するつもりなんだ。
「そんな顔をしないでください。これは罰ではありません。治療です。君が“何もしない”ことが、今の治療なんです」
そんなことを言われてもなあ……という気持ちが、胸の奥でぐずぐずと居座っている。
休めと言われたところで、家のことが気になるし、何より弟妹が心配だ。特に夏雄はあの状態で、父さんが適切なケアができたとは思えない。正直、今日にでも退院したい。今すぐ戻って、顔を見て、声を聞いて、それでようやく落ち着ける気がする。――が、それを口に出した瞬間、「無断帰院の可能性あり」とカルテに書き足される未来が、やけに鮮明に見えた。あの医者の背後に『💢』が増える光景までセットで想像できる。やめよう。賢明ではない。真面目に働いているお医者様を困らせるつもりはない。
基本は病室から出るな、と釘を刺されてはいるものの、母さんの病室へ行くことだけは許可された。そこだけ妙にあっさり通ったのが、逆に引っかかる。
母さんも母さんで、メンタルをやっている扱いらしく、俺が倒れたことは伏せられているという。俺の設定は【不眠症気味で検査入院】。設定、って言い方するんだ……と一瞬思ったが、すぐに納得もした。
つい最近、五歳の息子に熱湯をぶちまけて入院している母親だ。ストレスで血を吐いた俺より、危険度が高いと判断されるのは仕方ない。……そんなに危険な人には見えないけど、と考えかけて、そこでふと気づく。
そういえば俺、母さんとあまり関わってない。
年子の弟の燈矢が、両親……いや、主に父さんの期待を一身に浴びて、家の中心に立っていた頃、俺はというと、成人男性自認の長男として、他の弟妹の面倒を見る“大人しい子”のポジションに収まっていた。
手がかからない。言わなくても分かる。自分でなんとかする。その結果、母さんと腰を据えて話す機会は、ほとんどなかった気がする。近くにいたはずなのに、距離はずっと遠かった。こういう態度も、母さんを追い詰めたのかもしれない。相変わらず俺は詰めの甘い人間だ、自己嫌悪しちゃう。
家に連絡を入れたい気持ちはあるが、まだ午前中。みんな学校だろう。
今日は水曜日だから、真っ直ぐ帰ってきたら夏雄が一番早く帰宅するはずだ。その前に、今できることをしよう。母さんに会いに行こう。
そう決めて、点滴スタンドを引き連れながら、許可された“散歩”に出る。カラカラと小さな音を立てる点滴の支柱が、妙に頼もしい相棒みたいだ。廊下は静かで、消毒液の匂いがどこまでも続いている。何度かお見舞いに来たことのある道を辿って、数分。記憶通りの場所に、母さんの病室はあった。
こうして俺は、点滴をぶら下げたまま、母さんの病室の前に立ったのだった。
お見舞いに来た時は、特に何も考えずに入れたはずなのに、今日はなぜか病室の前で足が止まる。ドアノブに手をかけては離し、ノックしようとしては指が宙を切る。二度、三度。空振り。自分でも何を躊躇っているのか分からないのが、いちばん厄介だ。深呼吸して、心の中で「よし」と短く気合を入れ、ようやく指を曲げてドアを叩いた。
少し間があってから、「どうぞ」と小さな声が返ってきて「俺が来ましたよ~~」と、わざと間の抜けた調子で言いながらドアを開ける。
母さんはベッドの上で、少し疲れた顔をしていた。目の下に薄く影が落ちていて、肩もどこか下がっている。でも、俺の姿を認めた瞬間、驚いたように目を見開いて、ふっと笑った。だが表情が曇って、「検査入院って聞いたけど、大丈夫なの?」と不安そうに言いながら、ベッドから降りようと身を起こした。
「いい、いい。俺が行くから」
慌てて言って、ベッドの縁に腰をかける。母さんが動こうとするたびに、なぜかこちらの方が落ち着かなくなる。点滴スタンドが小さく鳴って、あ、俺も患者だったな、と思い出した。
母さんの顔は近くで見ると、やっぱり少し痩せたように見えた。俺はどう声をかければいいのか分からない。そういえばいつも冬美か夏雄がいたから、会話は二人が中心だった。俺一人っていうのは初めてだ。
それでも、ここまで来て黙るわけにもいかなくて、俺はベッドに腰をかけたまま、少しだけ肩の力を抜いた。母さんは俺をじっと見ている。
「母さん、俺は反省しました」
自分でも驚くくらい、言葉はすっと出た。用意していた台詞みたいに滑らかで、逆に怖い。母さんは一瞬きょとんとしたあと、困ったように微笑んだ。
「どうしたの? なにか悪いことでもしたの」
口ではそう言いつつ、俺が“悪さをした”とは本気で思っていないのだろう。その証拠に、声の調子はいつもと同じで、やんわりと次を促す余白がある。その余白に、俺は逃げずに言葉を置いた。
「轟家がやばいっていう事実から、俺がずっと目を逸らしてきたの、悪かったなあって思うんだよ」
母さんが、完全に動きを止めた。瞬きを忘れたみたいな顔で、ぽかんと俺を見る。俺がそんなことを言い出す想定は、たぶん無かった。
「俺さ、物分かりのいい振りして、安全地帯に逃げてただけなんだよ。結局のところ、母さんひとりで父さんに立ち向かってたろ」
言葉にしてみると、喉の奥がひりつく。酷い話だ。俺は背が伸びるのが早かったから、だいぶ前から母さんの身長を追い越している。痩せて、小さくて、たくさん子供を産まされて。
一人産む度に、女性の身体は脆くなって行くと聞いたことがある。そんな女性が、エンデヴァーに敵うわけがない。恋愛結婚じゃないんだ、俺だって知ってることは、燈矢だって知っている。個性婚で嫁いだのだから、抵抗なんてほとんどできない中で、それでも母さんは限界まで“母さん”でいてくれた。
そうじゃないと、焦凍がいまでも母さんが好きという理由がつかない。火傷を負わされても、それは母さんの本心ではなかった。そう理解できるくらい、焦凍はちゃんと母さんに愛されていた。
「無理だよ。あんなクソデカでバカ強い親父に、こんな痩せたちっちゃい女が立ち向かうなんてさ。俺がちゃんと、母さんの味方だって表明しときゃよかったんだよ」
だから、ごめん。
そう続けようとした、その直前だった。
母さんが、俺の手を掴んだ。驚くほど強い力で、細い指が食い込む。
「違う……!」
短く、息を裂くみたいな声だった。
「違う、違うのよ、陽火!」
首を振りながら、必死に言葉を探すみたいに続ける。
「貴方は謝らなくていいの、悪くないの……!」
そのまま、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「貴方は子供なんだから、そんなこと気にしなくてよかったの。ごめんなさい……ごめんなさいね。貴方のこと、いつも一人にしていた。気づいていたのに、何も出来なかった。母さん、貴方に何もしてあげられなかった……!」
握ったままの俺の手が、わずかに震えている。
「貴方がしっかりしているからって、全部任せてしまっていたの……」
俺が謝りたかったはずなのに、いつの間にか、母さんの方が深く頭を下げていた。罪悪感に飲み込まれたみたいに、小さく丸くなって。ベッドの上で、謝る必要のない人が、何度も「ごめんなさい」を繰り返している。
胸の奥が、きし、と嫌な音を立てた。
俺が“何も言わずに大人しくしていた”せいで、ずっとここに溜まり続けていたもの。
俺は母さんの手を、そっと包みなおした。記憶よりもずっと小さい手をしている。“何もしてあげられなかった”ことなんてない、俺は、母さんの手に引かれて歩いた記憶がある。大丈夫だよ、という気持ちを込めて、しばらく黙って手を撫でていた。
「だからさ」
少し間を置いてから、俺は肩をすくめるみたいに言った。
「もう少し入院することになったから。その間、いっぱい喋ろう。俺さ、母さんに甘えるの、足りなかったと思うんだよね。だからさ……甘やかしてよ」
自分で言っておいて、若干照れる。年齢的にも立場的にも、今さら何を言ってるんだという自覚はある。でも、これ以上取り繕う気力はなかった。笑って誤魔化すくらいは、まだできる。
母さんは一瞬驚いた顔をしたあと、ゆっくり息を吐いて、少し困ったように、でもどこか懐かしそうに笑った。
「……そうね」
そのまま、そっと俺の頭に手を伸ばしてくる。
「たくさん、お話しましょう」
指先が髪に触れた瞬間、身体が一瞬だけ固まった。まだ俺と燈矢しかいなかった時みたいな撫で方だった。力も角度も、覚えているそれと同じで、胸の奥がむず痒くなる。今さら子供みたいだな、と思う反面、これを拒まないのも親孝行だろう、と自分に言い聞かせる。
「……また、来る」
「無理しないでね」
「そっちこそ」
そんな、ありふれたやり取りを最後に、俺は病室を出た。点滴スタンドを引きずる音が、廊下に吸い込まれていく。ドアが閉まる直前、母さんがまだこちらを見ている気配がして、振り返らないまま、手だけ軽く上げた。
