月末の午後、人材派遣会社スモールアップル第三業務室の複合機前で、伊坂恭平は三人の女子社員に囲まれていた。
囲まれている、と表現するしかない配置だった。背後には用紙を補充するために開け放たれたコピー機、左には壁、右には葉先の枯れた観葉植物がある。
正面には女が三人。観葉植物は頼ったところで庇ってくれそうになかった。
三人とも腕を組んでいる。偶然そうなったのではなく、伊坂へ圧をかけるため、廊下で軽く打ち合わせてから揃えたのだろう。人を殺す時にも、ここまで露骨な包囲はあまりしない。逃げ道を完全に塞ぐと、対象者が死にものぐるいで抵抗するからだ。少しだけ希望を残し、逃げ込んだ先で始末する方が楽だと社内研修でも習う。
つまり三人は、伊坂を逃がす気がないうえに、死にものぐるいで抵抗されても問題ないと判断している。
「ちょっと、楯岡さんはあんただけのものじゃないでしょう?」
最初に口を開いたのは首藤環だった。
第三業務室の隣、第一特務課に所属している。黒髪を背中まで伸ばし、今日は襟の高いブラウスに細身のスカートを合わせていた。爪は淡い桃色で、耳には小さな真珠がある。
殺す時もだいたい同じ格好をしている。首へ細いものを巻きつける際、袖や飾りが邪魔にならない服を好むらしい。
伊坂は一度、飲み会の終わりに彼女のカバンの中へ吐いたことがある。吐いた直後の記憶はない。気づいた時には両手首と足首を結ばれ、こんがり焼かれる豚のような形に吊るされて、ホテルの非常階段で首へベルトを巻かれていた。あと少し締められていたら死んでいたため、後日、社内では五分の四殺しと記録された。
鞄代は弁償した。だが、金を払えば同じ型の同じ色が戻ってくるわけではない。首藤はまだ怒っている。
伊坂は、女は一度怒ると長い、と理解していたが、楯岡からは「今回はお前が全て悪い」と言われて一度も慰めてもらえなかった。逆に「殺さないでいてくれたんだ、首藤さんは優しいな」とまで言っていたのでその時は憤ったが、弁償のため“クロコのバーキン”というものの値段を調べたあとは納得した。恐ろしい女性だが、優しくもあるのだろうと思う。
「俺は楯岡を所有しているなんて、一度も言っていない。人間を所有物として扱うのはよくないし、楯岡は自由な成人男性だ。本人の意思が尊重されるべきだと思う。俺は常に他人の自由を尊重して生きている」
「ゲロ坂が人権を語らないでくださる? 人の鞄を便器として扱った男が」
「その呼び方は名誉毀損だ! 弁償もしたし、謝ったし、あれから酒を飲む時は他人の鞄から二メートル以上離れるようにしている! 人は失敗から学ぶんだ!」
首藤の眉が僅かに動いた。伊坂は口を閉じた。ここでいつもの文句を言えば往復ビンタが来る。
最初に殴られた時は二発目で「俺はなんて不幸なんだ!」と叫び、直後に「どの口で何言ってやがる!!」と左右からもう二発ずつ追加された。八回目くらいで、言わずに耐えれば被害が増えないことを覚えた。学習には時間がかかる方だったが、できないわけではない。伊坂が黙ったのを見て、首藤は満足そうに顎を上げた。
「デスクが近いからって生意気なのよね。毎日顔を合わせているから自分が特別だと思っていらっしゃるのかしら。泊まりに行っただの、夕飯を一緒に作っただの、朝は起こしてもらっただの、聞いてもいないのに喋って回って。あれ、何のつもり?」
「自慢ではなく事実の共有だ。人間関係の円滑化には、適切な自己開示が必要なんだよ。俺は職場のみんなと親しくなりたいから、自分の生活を分かりやすく伝えているだけで、楯岡との親密さを見せつけて優位に立とうとは少ししか思っていない」
「少しは思ってんじゃん。マジで性格終わってる」
首藤の左に立っていた車折美嘉が、長い付け睫毛の下から伊坂を睨んだ。明るく染めた髪を高い位置でまとめ、制服代わりのジャケットの下には胸元の開いた派手なトップスを着ている。爪には銀色の小さな部品がいくつもついていたが、それで細かな機械操作ができる。
車折は対象者が乗る車両へ細工をするのが得意だった。ブレーキを完全に壊すのではなく、必要な曲がり角へ到達した時だけ効かなくする。自分で運転して轢く方が早い時にはそうする。社用車の縦列駐車が一番上手いのも彼女で、下戸であることも合わせて都合がよく、飲み会の帰りにはよく運転手を押しつけられていた。
「つーかさ、楯岡さんって普通に男としてもよくない? 気ぃ利くし、話聞いてくれるし、顔もまあまあだし、変な威張り方しないし。こないだ彼女いないって言ってたから、うち全然ありなんだけど。伊坂が毎晩みたいに電話してたら、他の女が入る隙なくなるじゃん」
「毎晩じゃない! 一昨日は電話していない!」
「一昨日は家に泊まってたからでしょ」
「そうだけど、それは電話ではないだろ! 事実を曲げるな!」
「曲がってんのはお前の距離感だっつーの。楯岡さん、あんたの彼氏でも保護者でもないんだけど」
伊坂は反論しようと口を開き、何も出てこなかった。彼氏ではない。保護者でもない。友人で、同僚で、相棒で、自分の幸運である。
昨夜は楯岡の家で風呂に入り、楯岡の部屋着を借り、ベッドの中央で寝た。楯岡は床に敷いた布団で寝ていたが、それは本人がそちらの方が落ち着くと言ったからで、決して伊坂が追い出したわけではない。
最初に「お前が泊まると俺の寝床がなくなる」と言われた気はするが、最後には布団を買って用意してくれたので同意は成立している。おそらく。
「楯岡は俺からの電話を嫌がっていない。出ない時もあるが、出ないだけでブロックはされていないし、翌朝にはだいたい折り返してくれる。それは俺たちの関係が良好だという証拠だ。お前が楯岡と付き合いたいなら、俺へ文句を言う前に本人へ言えばいいだろ。恋愛は当事者同士の問題なんだから、第三者である俺を排除しても成功率は上がらない。むしろ楯岡は、友人を大切にしない女を嫌うと思う」
「うわ、出た。自分を楯岡さんの友人代表に置いて、審査員みたいな顔するやつ。何様なの、マジで」
「友人だ! そこは疑いようがない!」
「友人一名しかいないくせに、友人関係の専門家みたいに喋るの、恥ずかしくないんですか?」
三人目の針生小鞠が、笑顔のまま伊坂の腹へ言葉を刺した。二十代前半で、三人の中では一番小さい。丸い目と短く切った前髪のせいで学生にも見えるが、医務室から盗み出した注射器一本で七人を始末したことがある。
針を使うから針生なのか、針生という名字だったから注射器を選んだのかは、本人に聞いても答えが変わる。今日は白いカーディガンの袖を指先まで引っ張り、子供のように首を傾げていた。
「伊坂さんって、楯岡さんがいなかったらほんと何もできないんだね。かわいそー。一人で寝れない、朝も起きられない、自分だけでお仕事にも行けない。大人の男なのに、ぜーんぶお友達頼み。なのに態度だけは大きくて、他の人が楯岡さんと仲よくしようとすると、すぐ泣くんでしょ? めんどくさ。そういう男、女の子から一番嫌われるよ」
「俺は女の子に好かれたいとは言っていない!」
「好かれたことないもんね」
「これからの可能性を過去の実績だけで否定するのはよくない! 採用面接でもポテンシャルを見るだろ!」
「伊坂さんのポテンシャル、そんなになくない? 個体値低いでしょ」
「人を成長性のない株みたいに言うな! 俺はまだ上がる!」
「何が?」
伊坂はまた口を閉じた。言い返せないというより、言い返すとまずい言葉しか浮かばなかったらしい。
三人は待ってくれない。首藤が一歩近づくと、伊坂は反射的に一歩下がり、開け放たれたコピー機の給紙トレイへ尻をぶつけた。プラスチックが嫌な音を立てる。壊せば総務へ報告しなければならない。人を殺すより備品を壊す方が始末書は面倒だった。
「そもそも、どうしていつもあんたが一番なのかしら」
首藤の声が低くなった。伊坂は意味が分からず、瞬きをした。
「一番とは何の話だ。人間に順位をつけるのはよくないぞ。俺は自分が楯岡にとって最も親しい存在だとしても、それをわざわざ他人へ見せつけるような下品な人間ではない」
「普段の行いはなんだと思っているの? 無自覚はやめてもらえるかしら」
「楯岡さんの来月の空き、もう六日しかないじゃん。しかも夜ぜんぶ埋まってるし」
車折が自分のスマートフォンを伊坂の鼻先へ突きつけた。画面には来月の同行シフトが表示されている。
楯岡博文の名前が並ぶ列の横には、依頼番号と担当者名が記載されていた。その半分近くが伊坂恭平になっている。連続した三日間もある。楯岡が休みを取る前日には、伊坂が朝から夜まで押さえていた。
「私、月末に高速使う仕事あんだけど。あそこ事故ると絶対ニュースになるから、楯岡さん連れてきたいのに、またあんたが取ってる。何なの? そんな毎回毎回、殴るだけの仕事に幸運のお守り必要?」
「必要だ! 俺が殴った相手が死ぬとは限らないだろ!」
「死ぬよ。お前が殴ったら」
「死んだあとが大事なんだ! 俺一人だと目撃者が現れるかもしれないし、監視カメラが動いているかもしれないし、帰り道で職務質問されるかもしれない! 俺は殺すところまではできても、そのあと普通に帰宅できる自信がない!」
「それを世間では仕事ができないって言うんですよ、伊坂さん」
針生がにこにこと笑っている。伊坂は視線だけで逃げ道を探した。右の観葉植物を倒して走れば、車折の横は抜けられるかもしれない。だが、車折は動くものへ反応するのが速い。車道へ飛び出した対象者を避けるふりをして確実に当てられる人間だ。左は壁。背後のコピー機を飛び越える方法もあるが、給紙トレイを踏めば壊れる。正面突破は論外だった。首藤に触れられる距離へ入ると、次に目を覚ました時には天井から吊られている可能性がある。
「俺は何も不正な方法で取っているわけじゃない。シフト公開と同時に申し込んでいるだけだ。皆も早く申し込めばいいだろ。平等な競争の結果だ」
「公開日の午前零時に、楯岡さんの枠だけ全部押さえてから依頼を探すのは、不正じゃなくても卑怯と言うのよ」
「依頼より先に同行者を確保するの、意味分かんないんだけど。楯岡さんありきで働くのやめなよ」
「俺が働くには楯岡が必要なんだ!!」
伊坂が叫ぶと、室内の何人かが顔を上げた。今まで誰も助けに来なかったのは、関わりたくないからだった。月末の午後は忙しい。自分から女性三人の不興を買うほど、同僚愛の強い者は第三業務室にいなかった。伊坂の正面で、首藤がゆっくり息を吸う。
「だから、楯岡さんはあんただけのお守りじゃないと言っているの。私たちだって使いたいのよ。あの人がいると、対象者がちょうど一人になり、警備は離席し、エレベーターは目的の階へ直通する。
私は来月、首が太くて用心深い男を三人まとめて処理しなければならないの。あんたのように正面から殴れば済む仕事ばかりではなくてよ」
「うちだって高速で大型車二台絡むから、楯岡さんいないとマジで怖いし。事故らせる側が事故るとか笑えないじゃん」
「小鞠も病院のお仕事あるんですけど。楯岡さんがいると、看護師さんが勝手に薬間違えてくれるから楽なんですよね。伊坂さんは素手で何でも壊せるんだから、一人で行けばいいじゃん。力だけはあるのに、心はちっちゃくてかわいー」
「俺の心が小さいんじゃない! 世界が俺へ大きすぎる不幸を与えてくるだけだ!」
言ってしまってから、伊坂は首藤を見た。首藤の手が動く気配はない。今回は「俺はなんて不幸なんだ」とまでは言っていないので、ぎりぎり耐えたらしい。伊坂は小さく息を吐いた。そこを車折に見つけられた。
「今、助かったって顔したでしょ。環にビンタされんの怖いんじゃん」
「暴力を恐れるのは人間として正常な反応だ! 俺は争いを好まない平和主義者だから、話し合いで解決したいと思っている!」
「殴って殺す人間が平和主義を名乗るんじゃありません」
「仕事と思想は別だろ! 生活のために望まない職業へ就いている人間は大勢いる!」
「望んでないわりに、先月の自己評価へ『一撃で終わらせて対象者の苦痛を最小限にした。人道的な配慮ができた』って書いてたよね。あれ読んだ時、総務でちょっと笑われてたよ」
「なんでお前が知ってるんだ!? あれは上司へ提出するための個人的な書類だぞ!」
「コピー機に原本忘れてたから」
伊坂は背後のコピー機を振り返った。過去の自分へ裏切られた顔だった。いま使おうとしているコピー機と同じものではないかもしれないが、機械の方は何も悪くない。八つ当たりする相手すら見つからず、伊坂は肩を落とした。三人の包囲は狭くなっている。首藤の香水、車折の甘い整髪料、針生の袖口からわずかに漂う消毒薬の匂いが混ざり、逃げる方向を考えるたびに別の死に方が浮かんだ。
「分かった。少しは譲る。来月の三日と四日なら空けてもいい。ただし、楯岡が了承した場合に限る。本人の意思を無視して分配するのはよくないからな」
「両方とも楯岡さん休みだけど」
「だから空けられるんだ。はじめてユニバ行くから今から楽しみにしてる。ハリーポッターは炎のゴブレットまで読めたけど、来月まで全部読めるか少し不安」
「てめえ休み合わせて遊びに行く日だろそれ! 何ひとつ譲ってないじゃん。
ほんとセコい。泣き虫で、図々しくて、ケチで、友達少なくて、酔ったら人の鞄に吐くし、都合が悪くなるとすぐ被害者になるし、楯岡さんこんなやつのどこが好きなんだろ」
「すすすす好きとか別にそんなんじゃないし友達だし」
「あんたみたいな人間に親切にする人って、好意がないとやってらんないでしょ。私絶対あんたに優しくしたくないしふたりでユニバとか行きたくないもん。
家に泊めるくらいだし。楯岡さんって面倒見いいよね。そこも素敵。顔も見てるうちにどんどん格好よく見えるようになるタイプだし」
車折は途中から本気で恋愛の話をしていた。首藤は同行枠しか見ていない顔をしているが、楯岡を男としてどう思うかと聞かれれば、悪くはないと答えそうだ。針生はその辺りにあまり興味がなく、単に伊坂が困っている様子を楽しんでいる。
三人とも目的が同じではない。それでも伊坂を責める時だけは息が合う。敵対勢力が一時的に手を組む理由として、日頃の行いの悪さから伊坂恭平はかなり優秀だった。
「楯岡は誰にでも優しいわけじゃない。俺には特別に優しいんだ。お前たちが付き合ったとしても、俺と同じ扱いを受けられるとは限らないぞ。
俺は楯岡が疲れている時に話しかけても、三回に一回しか怒られない。家へ行けば入れてくれるし、冷蔵庫を開けても強くは叱られないし、夜中に泣いて電話しても、最初の五分くらいは話を聞いてくれる。これは長年かけて築いた信頼関係の結果であって、後から来た人間が簡単に手に入れられるものではない!」
「自慢の内容が全部寄生虫なのよ、ゲロ坂」
「お前、楯岡さんに嫌われないギリギリを探る能力だけ高いよね。殺しの腕よりそっちの方が才能あるんじゃない?」
「うわあ、迷惑かけてる自覚あるんだ。最低だね、伊坂さん。楯岡さん、優しいから追い出せないだけかもしれないのに」
伊坂の顔が僅かに強張った。さっきまで口数だけは減らなかったのに、そこで初めて黙った。針生は笑ったまま見上げている。首藤が何か言いかけたが、車折が先に「あ」と声を漏らした。少しだけ空気が変わった。伊坂はそれをごまかすように胸を張った。
「楯岡は嫌なら嫌と言う。俺たちは、そういうことを言える関係だ。たぶん。少なくとも俺はそう思っている。楯岡も同じだと思う。聞いたことはないけど、同じであってほしいと思っているし、いま確認すると怖いから後日にする」
「どんどん声ちっちゃくなってんじゃん」
「うるさい! そもそも三人で囲むのは卑怯だろ! 一人ずつなら俺だってもう少し上手く喋れる! お前たちは殺し方まで違うのに、どうしてこういう時だけ団結するんだ! 俺が何をしたと言うんだ!」
「バーキンに吐いた」
「楯岡さんの同行枠を取った」
「いじめると面白い」
三つ目だけ理由として弱かったが、針生は悪びれなかった。伊坂はついに観葉植物の方へ身体を寄せた。葉先が頬へ触れ、乾いた部分がかさりと鳴る。逃げられる幅はない。
正面にいる三人を押し退ければ済むが、伊坂が力を入れれば怪我では終わらない。身内を殴れないせいで、腕力だけなら社内で一番の男が、女子社員三人に追い詰められている。
「誰か助けてくれ! この職場には正義感のある人間はいないのか! 三対一だぞ! 数の暴力だ! 俺は話し合おうとしているのに、最初から殺意のある人間に囲まれている!」
室内の誰も目を合わせなかった。窓際の社員は電話を始め、近くの男は空だったマグカップを両手で持ち、何かが入っているふりをして飲んだ。伊坂は絶望した顔で周囲を見回し、最後に扉の方へ視線を向けた。そこに楯岡がいた。
「楯岡! 助けてくれ! 虐められているんだ!!」
「やあアラサー男性、自分で頑張って逃げられないか?」
楯岡は開いた扉のすぐ横で、缶コーヒーを飲んでいた。壁へ片肩を預け、片手はズボンのポケットに入れている。いつからいたのか分からない。少なくとも伊坂が自分たちの信頼関係について声高に語っていた辺りでは、もうそこにいたらしい。缶は揺れると小さく水分がぶつかる音が鳴った。残っているのは半分程度だろう。
「なんで見てるんだ!」
「廊下を歩いてたら、なんか伊坂が絞められてるなと思って。見に来たら本当に絞められてた」
「まだ物理的には絞められていない! でも時間の問題だ! 首藤さんがさっきから俺の首を見てる!」
「見ていませんわ。跡が残りやすそうだと思っていただけです」
「それを見てると言う!」
楯岡は首藤へ軽く頭を下げ、車折と針生にも目を向けた。三人の表情が分かりやすく変わる。さっきまで伊坂へ向けていたものより、数段柔らかい。
「楯岡さん、来月の枠なんですけど、伊坂がまた全部取ってるんですよ。うち、月末の仕事だけでも一緒に来てほしくて」
「私もお願いしてもよろしいかしら。こちらは三名同時ですので、なるべく不確定要素を減らしたいのです」
「小鞠も病院行きたいです。伊坂さん、楯岡さんがいないと何もできないって泣いてますけど、少しくらい一人で頑張らせた方が本人のためだと思いまーす」
「俺は泣いていない! 怖くて少し目が潤んでいるだけだ! 楯岡、こいつらは俺とお前を引き離そうとしている! 仕事上の安定した関係を外部から破壊する行為だぞ!」
楯岡はコーヒーを一口飲んだ。少し考えているように見えたが、実際には缶の底へ残った砂糖の甘さをどう処理するか迷っていただけかもしれない。
「俺は別に、伊坂以外と組んでもいいよ。来月は伊坂が先に申請したから入れてるだけで、全部必要だとは思ってないし」
伊坂の顔から血の気が引いた。首藤が笑い、車折は「ほらね」と言い、針生は指先で小さく拍手をした。
「楯岡、そんな簡単に俺を売るな! 俺はお前がいないと本当に困るんだぞ!」
「みんな困るから取り合ってるんだろ。来月の半分くらいは譲ったら?」
「半分!? 俺の生存率も半分になるじゃないか!」
「お前の場合、俺がいなくても対象者よりは長生きすると思うよ」
「そういう意味じゃない! 仕事から帰って、警察に捕まらず、家で風呂に入って、ちゃんと布団で眠るところまでが健康で文化的な最低限度の生存なんだ!」
「要求が細かいなあ」
必死に訴えても、楯岡は助ける気はないらしい。伊坂は三人と楯岡を順番に見て、自分に味方する者が一人もいないことを確認した。観葉植物にももう期待していなかった。乾いた葉が肩へ載っている。
「分かった、話し合う。話し合うから、せめてコピー機の前から出してくれ。俺は包囲されると頭が働かなくなるんだ。公平な交渉には安全な場所と、俺の味方が必要だと思う」
「味方って誰よ」
「楯岡」
「俺、今回はお前が枠を取りすぎだと思ってる側だよ」
伊坂はしばらく何も言わなかった。泣く前の顔になったが、首藤がいるので声には出さず、口を真一文字に結んで耐えた。八回も殴られれば、人間は多少成長する。首藤はその努力だけは認めたらしく、往復ビンタの構えを解いた。
楯岡は空になった缶を軽く振り、廊下の自動販売機の横へ捨てに行こうと壁から身体を離した。伊坂が慌てて声を上げる。
「待ってくれ! どこへ行くんだ!」
「仕事に戻る。あとは当事者同士で話し合って」
「俺も当事者なのに、俺以外の意見が一致しているんだ! それは話し合いじゃなくて多数決による処刑だろ! 楯岡、お願いだからここにいてくれ! お前がいるだけで俺の運がよくなるんだ!」
「じゃあ、同じフロアにいる間は運がいいんじゃない? 頑張れ」
楯岡は適当に片手を上げた。伊坂は追いかけようとしたが、首藤が右へ、車折が左へ動き、針生が正面で両腕を広げた。細い身体なのに、三人で並ぶと廊下より遠い。楯岡は一度だけ振り返り、まだ殴られてはいないことを確認してから、そのまま視界から消えた。
「楯岡あああ!!」
第三業務室に伊坂の悲鳴が響いた。誰も助けなかった。月末は忙しいし、来月の楯岡の同行枠は、誰にとっても他人事ではなかったので。

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