楯岡が異変に気づいたのは、背後で扉の閉まる音がしたあとだった。
第三業務室から地下の資料庫へ向かうだけなら、エレベーターを降りて右へ曲がり、防火扉を二枚抜ければいい。
何年も通っている経路で迷うような場所ではないし、前を歩いていた伊坂も、途中までは昨夜食べた冷凍餃子の皮が一枚だけフライパンにくっつき剥がれ落ちたことについて、製造元の怠慢と自分の不幸を結びつけて熱心に話していた。
それが二枚目の防火扉を開けた途端、二人は見覚えのない部屋へ入っていた。
壁も床も天井もわざとらしいまでに白い。
地下だから当然だが、窓はない。家具は中央に置かれた大きなベッドと、壁際の小さな棚だけだった。
棚には未開封の水が二本、薄いタオルが数枚、避妊具の箱と、何に使うか考えるまでもない粘性のある液体が詰まったボトルが並べられている。ベッドの上には枕が二つあり、掛け布団は妙に丁寧に角を揃えて畳まれていた。
誰が用意したのか知らないが、寝具へ埃ひとつないことだけは分かる。清潔なのは悪いことではない。ただし、清潔なら何をしても許されるわけではなかった。
楯岡は振り返って扉の取っ手を回した。動かない。鍵穴はなく、蝶番も見当たらない。ドアの形をしたハリボテに成り下がっている。
隣で伊坂が急に静かになったので、そちらを見た。伊坂は正面の壁を見上げていた。そこだけ黒い文字が浮かんでいる。印刷でも投影でもなく、最初から壁の中に文字が埋まっていたように見えた。
「セックスを完了しない限り、この部屋から出ることはできません。完了の判定は当室の基準に従います。無理な行為は推奨しませんが、長期間滞在する場合の食料補給は保証されません、だって。最後の一文で急に脅してくるな。無理はしなくていいけど餓死はしてもらうという意味だろ。選択肢を与えているようで、全然与えていない。俺はこういう卑怯な文章が一番嫌いなんだ」
伊坂は壁の文章を読み終えると、眉間に皺を寄せた。怒っているというより、考えるために顔の中央へ力を集めているらしい。
楯岡はもう一度扉を調べた。爪を差し込める隙間もない。壁へ耳を当てても、配管や空調の音は聞こえなかった。床は固いが、コンクリートではない気がする。叩けば僅かに響く。
異常現象に巻き込まれるのは初めてではない。楯岡本人は初めてだったが、会社全体としては年に何度かある。
三年前には経理部の社員が、帰宅途中で見知らぬ学校へ転送され、首輪をつけられてデスゲームに参加させられた。最後まで生き残って月曜日には普通に出勤してきたものの、経費精算へ使える領収書が一枚もなく、交通費まで自腹になったことへ一番腹を立てていた。
別の社員は、対象者の家へ入った瞬間に時間が巻き戻り、同じ一日を二十三回繰り返した。二十四回目でようやく殺せたが、勤務時間の扱いをめぐって総務と一か月揉めた。
そう考えると、今回は仕事が増えないだけ楽な方だった。どうにか外へ出ればいい。部署へ戻ったあと、現象発生報告書を書く必要はあるだろうが、デスゲーム参加者一覧や殺害人数を添付するよりは簡単で済む。
楯岡がポケットからスマートフォンを出すと、圏外だった。時計は動いている。伊坂にも確認させようと顔を上げた時には、もう遅かった。伊坂はジャケットを脱ぎ、邪魔にならないよう丁寧に床へ畳んで置いていた。
「何してるんだ」
「壁を壊す。こういう部屋を作るやつは、利用者が指示に従うことを前提にしているんだ。ルールを作った側は、ルールそのものが守られない可能性を軽視する。支配する側にありがちな想像力の欠如だよ。俺たちは殺し屋なんだから、正面から付き合う必要はない。仕事でも対象者が玄関を開けてくれないからって、いつまでもインターホンを押し続けたりしないだろ」
言っていることはまともだった。部屋の命令に従う義務はない。壁が壊せるなら、それで終わる。
楯岡としても異論はなかったが、壁の材質も厚さも分からない状態で、いきなり素手を使う必要はない。棚を解体して道具にするなり、ベッドの脚を外すなり、いくらでも手順はあった。止めるほどのことでもないかと思ったのは、伊坂の腕が道具より頑丈だからである。
伊坂は右腕を軽く回し、最も近い壁の前へ立った。助走はつけない。腰も深く落とさない。拳を肩の辺りへ引き、少しだけ身体を捻った。
本人にとっては普通に殴っただけだった。拳が壁へ触れた瞬間、部屋全体が短く揺れた。車が正面から突っ込んだほどの力が、細い人間の拳一つへ集中している。
白い壁の表面に亀裂が走り、粉が弾けたが、穴は開かなかった。鈍い金属音がして、伊坂が目を丸くする。
「痛っ。なんだこれ。思ったより固いぞ。俺の手に痛みを与えるなんて、壁のくせに生意気だな」
伊坂は拳を開いたり閉じたりした。赤くも腫れてもいない。少し痛かったことに驚いただけらしい。楯岡が壁へ近づいて亀裂の奥を見ると、太い鉄筋のようなものが埋まっていた。構造を支える部分へまともに当てたのだろう。伊坂は自分が殴った場所を睨み、そこから半歩だけ横へ移動した。
「ちゃんと弱いところを表示しておいてほしい。初見の利用者へ不親切すぎる。こういう配慮不足が事故を招くんだ」
今度の拳は、さっきより軽く見えた。軽く見えただけで、威力が弱いわけではない。二度目の衝撃で壁が内側から爆ぜた。
白い破片が廊下の向こうへ飛び、粉塵が一気に舞い上がる。大人一人が屈まず通れるほどの穴が開き、その向こうに見慣れた灰色の床と、非常灯の緑色が見えた。地下資料庫へ続く、いつもの廊下だった。
さっき通ったはずの防火扉も数メートル先にある。距離も向きも辻褄が合わないが、外へ出られるなら問題はない。伊坂は穴の縁を蹴って、落ちかけた壁材を外へ押し出した。粉だらけになった自分の袖を見下ろし、少し嫌そうな顔をする。
「ほら、出られた。何がセックスだ。設計者はもう少し壁の強度を考えるべきだったな。利用者の善意に頼った仕組みは長続きしないんだよ」
「お前の拳を基準に建物を作ったら、普通の人が壁へ画鋲を刺せなくなるぞ」
楯岡は床に畳まれたジャケットを拾い、粉を払って伊坂へ渡した。閉じ込められてから、五分も経っていない。昼休み中に戻ることもできそうだった。
資料を取って戻れば、現象については退勤前に報告すればいい。伊坂はジャケットを受け取り、片腕を通しかけたところで動きを止めた。穴の向こうではなく、部屋の中央に置かれたベッドを見ている。さっきまで何の興味も示していなかったくせに、今になって初めて存在へ気づいたような顔だった。
楯岡は少しばかり嫌な予感がした。伊坂が何かを後悔する時は、出来事が終わったあとだ。動いている間は自分の選択を疑わず、結果が出た瞬間に、選ばなかった可能性を全部拾い集めて胸へ抱える。それで重い重いと泣く。手放せば済むのだが、伊坂は自分が拾ったものにも捨てられたと思われたくないらしい。
「待ってくれ! 博文が……俺の幸運のお守りがここにいて、この部屋が発生したということは、俺にとっての幸運はこれだったんじゃないか!? なにか……なにか重大なイベントを破壊したんじゃないか……! ああ、俺はいつもこうだ! 考えなしに行動する! 壁が脆いのがいけないだろ、設計者の自助努力が足りないんだ! 俺はなんて不幸なんだ!」
伊坂はその場へ膝をついた。爆泣きと呼ぶのがふさわしい勢いだ。涙が頬を伝い、粉のついた床へぼたぼた落ちる。壁を破壊した拳には傷一つないのに、起きたかもしれない出来事を失っただけで顔をぐしゃぐしゃにしている。
何を失ったのか本人にも分かっていない。楯岡とセックスをしたかったのか、したくなかったのか、閉じ込められたまま話し合いたかったのか、単に人生が変わる瞬間を見逃した気がして悔しいのか。全部少しずつで、どれも本人の中ではまだ言葉になっていないのだろう。楯岡は笑った。腹が立つほどではない。呆れるには少し面白すぎた。
「お前は俺とどうなりたいんだよ」
言いながら穴をくぐって廊下へ出る。背後で伊坂が鼻をすすり、膝を床へ擦る音がする。答えを待つつもりはなかった。待てば伊坂は考える。考えれば考えるほど、選択肢を増やして不幸になる。
今のところ二人は同僚で、相棒で、伊坂が勝手に泊まりに来てベッドを奪い、楯岡が仕方なく床で寝る程度の関係だった。それで困っているかと聞かれれば、特に困ってはいない。先のことは先で考えればいい。少なくとも、白い部屋に命令されて決めることではなかった。
「分かんないけど! なにかが変わる可能性が示されていたんだ!」
泣きながら叫ぶ声が背中へ追いつく。楯岡が振り返ると、伊坂は片腕しかジャケットを通していない状態で、慌てて壁の穴を跨ごうとしていた。
その靴底が廊下へ着いた瞬間、白い部屋は音も光もなく消えた。穴も、壁の破片も、ベッドも、床に落ちた涙も残らない。そこには最初から何もなかったように、地下資料庫へ続く灰色の壁があるだけだった。
伊坂は一度だけ消えた場所を見て、それから置いていかれたことの方が重大だと気づき、泣きながら楯岡の後を追った。

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