ギュイイイイイイイイン、と、薄い鉄板を何枚も重ねて一息に引き裂くような音がした。地下倉庫の剥き出しのコンクリート壁にぶつかった音はすぐには消えず、天井を這う配管や積み上げられた石膏ボードの隙間で細かく震え、少しずつ痩せながら奥へ逃げていく。
楯岡博文は右手の人差し指を離した。電動ドリルの回転が緩み、先端の銀色のビットが甲高い唸りを残して止まる。静かになったというより、さっきまでドリルに押し潰されていた音が戻ってきた、という方が近かった。
旧式の蛍光灯がじじ、と鳴る音。どこかの配管から一定の間隔で水滴が落ちる音。通気口から入った風に、床へ敷かれたブルーシートの端がかさ、と身じろぎする音。楯岡は膝の上にドリルを置き、回転の止まったビットを眺めた。持ち手は黒と青で、溝には白い粉が入り込んでいる。使い込まれてはいるが、扱いは丁寧だ。傷の一つ一つに働いた時間が染みついているような道具だった。
「うちで使ってるやつよりいいな」
折り畳み椅子へ後ろ前に跨がっていた伊坂恭平が、背もたれへ腕を重ねながら言った。楯岡と年齢は近い。少し細身で、服の上から見れば筋肉質ですらない。どこにでもいる会社員か、夜勤明けのコンビニ店員に見える。
だが、その腕で殴ると人が死ぬ。以前、興味本位でパンチ力を測ったところ、数値が出る前に計測器が壊れたらしい。車が突っ込んでくるほどの力を、拳へ乗せられるのだと本人は言っている。大袈裟だとしても、実際に人間の胸郭が一発で潰れるので、バイクか車かの誤差の範囲だった。理屈は分からないが、この業界にはこういうタイプの人間も多いので誰もあまり気にしていない。気にしているのは伊坂本人だけだ。
「そりゃプロ用だからな。お前ん家にある5980円のやつとは格が違うって」
「うちの子の十倍は高そう。五万超え」
「もっとするんじゃないか、知らないけど」
「家が建てられるやつじゃないか」
「家建てる仕事してる人のやつだから」
伊坂が朗らかに笑った。笑うと少しだけ目尻が下がり、拳で人間を壊せる男にしては親しみやすい顔になる。
楯岡はもう一度スイッチを押した。ギュイイイイイン、と音が膨れ、蛍光灯の震えも水滴の音もまとめて呑み込む。ビットは何にも触れていない。ただ空中で回っているだけなのに、音にはすでに何かを削っているような手応えがあった。重いと言うだけで何かの信頼がもてるものだ。確認して数秒で指を離す。
「それ、さっきからなんで回してるの?」
「なんとなく。手持ち無沙汰だから」
「危ないよ。博文、そういう道具に慣れてないだろ。膝へ落として怪我したら、俺がみんなに怒られる」
「怪我するのは俺だろ」
「博文が怪我したら、俺がちゃんと見てなかったせいだって言われるじゃん。俺も自分を責めるし、周りからも責められる。何もしてないのに二重に苦しむ。俺はなんて不幸なんだ!」
「お前に俺の見守り義務はないよ」
「事が起こってから突然責任を押しつけるんだ」
「むしろ俺が責任を引き取ってるだろ」
「言葉じゃなくて俺は俺の気持ちの話をしてるんだよ!」
伊坂は鼻をすすった。まだ泣いてはいないが、声はもう泣く準備に入っている。
この男は自責的でありながら、同じくらい他責的だった。何かが起きるとまず自分を責め、その苦しさに耐えられなくなると、自分をそんな目に遭わせた周囲が悪いと言い出す。
自分を責め、他人を責め、最後には運命を責めて、「俺はなんて不幸なんだ!」と泣く。感情の流れる先が多すぎるうえに、底が取れたバケツのような人間だった。一応収めるべき場所は用意されているが、役には立たない。
非常に面倒な人間ではあるが、楯岡は伊坂を嫌いではない。伊坂の方も楯岡へかなり好意的で、「博文は俺の幸運だ」「博文がいると俺までまともになった気がする」「仕事が終わったあとも連絡ブロックしてこないし、俺と飯食べてくれるから好き」と臆面もなく言う。最後の理由が大半ではないかと思うが、指摘すると泣くので黙っていた。
楯岡博文は殺し屋だった。ただし、二十八年間の人生で一度も人を殺したことがない。
人が死ぬところは何度も見た。死体を運び、血を拭き、証拠を燃やしたこともある。最後の一押しだけをしたことがなかった。
殺人への強い忌避感があるわけではない。そんなものがあるなら、とっくに転職している。頼まれればやるつもりで現場へ行くのだが、楯岡が動くより先に、その時の相棒が済ませてしまう。それだけだった。
楯岡の仕事は、殺すことではなく、その場にいることだった。
本人は何もしていない。少なくとも、本人はそう思っている。
だが楯岡と組んだ人間は、異様なほど運がよくなる。標的が突然予定を変えて一人になる。警備員が腹痛を起こす。監視カメラが故障する。閉まっているはずの裏口が開いている。銃弾は急所へ入り、刃物は骨へ引っかからず、毒は想定した時刻ぴったりに効く。目撃者は携帯電話を見たまま通り過ぎ、通報を受けた警察車両は別件の事故で到着が遅れる。偶然と呼ぶには都合のよすぎる出来事が、楯岡の周囲では当たり前のように重なった。
今回のバディである伊坂の殺し方は、殴る。それだけである。
証拠は残るし、顔を見られる危険も高い。楯岡と組まなければ、とっくに捕まっていても不思議ではない。ところが楯岡がいると、標的は殴られた直後に階段から落ちたり、棚へ頭をぶつけたり、持病の発作を起こしたりする。検視で見落とされ、遺族は解剖を望まず、事件性なしで処理される。
伊坂は自分の拳を信じているが、自分の運はまったく信じていないので、「博文がいないと怖くて殴れない」と言う。楯岡は、そんな霊感商法みたいなものに縋られても困る、と思っていた。
業界では楯岡は幸運のお守りとして有名だった。仕事の依頼より先に、同行予約が埋まることさえある。
楯岡を巡って売れっ子同士が揉め、冗談で「俺のために争わないで!」と仲裁へ入ったら、双方から本気で「お前は黙ってろ」と怒鳴られたこともあった。人間というより装備品に近い扱いだが、この界隈には自分の得物へ名前をつけて偏愛する異常者が極めて多い。
「ジェシーの調子が悪い」と言われても、ペットか拳銃か分からない。人には愛着を持たないくせに、自分の所有物には驚くほど優しい者もいる。その人と成りを知っている者が見れば震えるような優しい声で体調を気遣われ、荷物を持たれ、食事の好みを覚えられ、帰りは必ず拠点まで送られる。総合すると得をする部分が多いので、楯岡は装備品扱いを甘んじて受け入れていた。
「それで、まだ考えは変わらないの」
伊坂がスマートフォンを確認しながら訊いた。さっき画面を点けてから、まだ三分も経っていない。
「変わらない。ちゃんと順番を踏んだ方がいい」
「もう結論は出てるじゃん。だったら簡単な方でよくない? わざわざ時間をかけたって一円にもならないし、腹は減るし、帰るのが遅くなる。明日は燃えるゴミの日なのに、朝起きられなかったら次は金曜だよ。俺は生ゴミを三日も置くことになる。臭う。冷凍庫で凍らせとけばいいと言うやつがいるけどさ、冷凍チャーハンの隣に置きたくはないんだよ。だからゴミ袋にそのまま入れてるけど、明日出せないと虫が来る。虫が来たら眠れない。俺はただ普通に暮らしたいだけなのに、どうしてこんな目に遭うんだ」
「まだ何も起きてないから大丈夫、モーニングコールをかけてやったっていい」
「早く帰れば早く寝れてモーニングコールにも出れるさ。でも博文は長くやる気なんだろ。丁寧に、相応の手続きを踏んで、二度と同じことが起きないようにするんだろ。絶対、日付が変わる。俺は十時間は寝たいんだ。100回のコールにだって出られないし、100回コールをかけた博文は俺を嫌いになるだろ!? 俺は嫌な予感だけは当たるんだ!」
「幸運のお守りが一緒だぞ、自信持てよ」
「博文と一緒だから俺は今生きてるんだ。博文がいなかったら、ここへ来る途中で事故に遭って死んでる」
「途中のコンビニでくじ当たってたじゃん」
「好きじゃないキャラの巨大フィギュアだった。あれで運を使い果たした」
「後ろの人にあげたら喜んでたよ」
「俺の幸運が他人へ流れたんだ。やっぱり俺は不幸だ」
楯岡はドリルの引き金を軽く押した。ギュイッ、と短く鳴る。伊坂が眉を寄せた。
「だから危ないって」
「手持ち無沙汰でさ」
「スマホでも見てればいいだろ」
「こういう時にスマホ見るの、感じ悪くない?」
「意味もなくドリル回す方が感じ悪いよ。博文って普段は気が利くのに、自分の機嫌が悪くなると急に周りが見えなくなるよね。冷静なつもりだから、指摘すると余計に機嫌が悪くなるし」
「そこまで言う? 機嫌悪くなってきた」
「ほら、言った通り。俺は博文が好きだから正直に言ってるんだよ。嫌いな人間なら勝手に嫌われて、勝手に失敗して、勝手に孤独になればいいと思う。でも博文には幸せになってほしいから、嫌われる覚悟で苦言を呈してる。俺は優しすぎるからいつも損をするんだ。本当に困る、優しいばかりに」
「最後に自分を褒めなきゃいい話だったのに」
「誰も褒めてくれないから自分で褒めるしかないんだ。悲しい人生だよ」
倉庫の奥で、き、と何かが軋んだ。椅子の脚が僅かに動いたような、乾いた音だった。伊坂は一度そちらへ目をやり、すぐ楯岡へ戻した。楯岡はドリルの側面についた白い粉を親指で擦った。
「これは感情の問題じゃないんだよ。こういう業界は契約が大事なんだ。最初に決めた条件を、終わったあとで都合よく変えても許されると思われたら、次もやる。俺たちだけじゃなく、業界全体が舐められる。だから一度、きちんとした形で示さなきゃいけない」
伊坂は疑うように目を細めた。
「上手いように言ってるだけで、自分が舐められたから怒ってるだけのくせに……」
「それもあるよ。割合で言えば九対一くらい」
「九は」
「俺を舐めやがったこと」
「合ってるじゃん! 俺が正解じゃん! なんでちょっと誤魔化そうとすんの!」
「ちょっと大人気ないかなあって」
「自覚はあるんだ……」
二人で笑った。笑い声はドリルより柔らかく、低い天井へぶつかって戻ってきた。けれど笑いが途切れると、楯岡の表情も消えた。ドリルを右手で抱えたまま左手で髪を掴み、「ぁあぁああ……」と長い溜め息のような、獣のような唸り声を漏らし根元から掻きむしる。顔を上げた時には、目だけが据わっていた。
「この俺を舐めやがった」
怒鳴ってはいなかった。泣き疲れた子供が、恨みだけを残して呟くような声だった。楯岡は踵を床へ叩きつけた。ガン、ガン、と靴底がコンクリートを打つ。
「何も知らねえくせに。俺が何もしてないと思いやがって。俺がいるのといないのでどれだけ違うか説明しただろ。納得して、自分から頼んできたくせに、全部終わったら必要なかったって何なんだよ。だったら最初から一人でやれ。俺を呼ぶな。他の予約を断らせておいて、終わったら役に立ってないって、俺の時間を何だと思ってんだ。お守りでも装備品でも好きに呼べばいいけど、使ったなら使った分は認めろよ。俺を舐めるな。舐めるなよ」
足を踏み鳴らすたび、床にうっすら積もった砂が跳ねた。伊坂は止めなかった。楯岡がこうなるのを何度も見ている。
普段は穏やかで、多少の無礼なら笑って流す。血の匂いをさせた人間が十人集まる部屋で、紙コップへお茶を注いで回るような男だ。その代わり、一度舐められたと感じると、どこに隠していたのか分からないほど激しく怒る。髪を掻きむしり、足を踏み鳴らし、同じ言葉を繰り返す。
「俺の悪いところなんだよなあ。舐められたと思うと、急に許せなくなるの。ガキの頃から変えられないんだ。自分でも面倒くさいと思うよ」
一通り吐き出すと、楯岡はぱっと普段の顔へ戻った。髪だけは乱れたままだが、声も目つきも穏やかだった。伊坂は深く頷く。
「俺も自分の性格は厄介だなと思うけど、それも含めて自分だから受け入れてる。大丈夫さ。あんまり気にしない方がいい」
「お前は気にして反省した方がいい」
「俺は慰めたんだから、そっちも俺を慰めて肯定してくれよ!」
「今の話を聞いて、どうしてお前を慰める流れになるんだ」
「持ちつ持たれつだろ。俺は博文の欠点を受け入れた。次は博文が俺の欠点を受け入れる番だ」
「受け入れてはいるよ。直さなくていいとは言ってない」
「俺だけ条件が厳しくない?」
「お前のは周りへ実害があるから」
「博文も床を何回も蹴ってたじゃん。床がかわいそうだろ。俺が床だったら泣いてる」
「お前が床だったら、もっと優しく踏むよ」
「本当に?」
「本当に」
「じゃあいいや」
伊坂は満足そうに笑った。同業者へ舐められた時の楯岡は、これでも多少は我慢する。大抵は自分より実戦経験が多く、正面からぶつかれば負けると分かっているからだ。
以前、売れ始めた若い殺し屋に「ラッキーアイテムのお兄さん」と笑われた時も、その場では笑顔を崩さなかった。帰宅後、翌月の予定表のフリーの日を全て有給に変え、申請の理由欄へ【心が傷ついて元気がないのでおやすみ】と書いた。楯岡のフリーを狙い予約を取りあっていた業界上位の人間たちは一斉にチャンスを失い、原因を作った若手へ揃って怒りを向けた。
楯岡は「あんな実戦経験の高い相手へ正面からやり返せるわけがない。か弱い俺には、相手へほんの少しヘイトを向ける程度の嫌がらせしかできない」といけしゃあしゃあと言ったが、業界のトップ層から一斉に恨みを買わせることが、些細で済むはずはない。
その若手は一週間で車のタイヤが二度パンクし、準備した毒を自分で飲みかけ、現場で警備員と鉢合わせた。二週間目には協力者から契約を切られ、三週間目には標的の反撃で肩を刺された。翌月の初め、両手いっぱいの菓子折りを持って楯岡へ謝罪すると、その日から不運は止まった。
楯岡を舐めた者には似たことが起こる。鍵を落とす。銃が不調になる。隠していた不倫が発覚する。普段なら笑って済ませる小さな不快が積み重なり、眠れなくなり、仕事を失敗する。捕まる者も、反撃されて死ぬ者もいた。同業者たちは、楯岡の幸運が反転して襲いかかったのだと言う。
楯岡本人は信じていない。ただ、自分を舐めた相手が酷い目に遭うのは気分がいいので、否定して回ることもしなかった。
「博文が怒ってる間に、もう八時半だよ」
伊坂が自分のスマホを持ち上げた。
「今日、何食べるつもりだったんだ?」
「近所の定食屋。鯖の味噌煮がうまいところ」
「九時までなら、もう間に合わないな」
「終わった。俺の楽しみが奪われた。昼も忙しくて菓子パンしか食べてないのに。腹が減った。帰りたい。もう簡単に済ませようよ。博文が納得できないなら俺が全部やるから。博文は見てるだけでいい。すぐ終わるし、帰りに牛丼くらい買える。俺、酒も飲まないし、騒がしい店も嫌いだから、お気に入りの店が閉まったらコンビニか持ち帰りしかないんだよ。人より少ない楽しみを奪われるのは、人より多く奪われるのと同じなんだ」
「それは悪かったな。俺に付き合わせてるもんな」
「そうだよ。俺は被害者だよ。でも博文を一人で残すのも心配だから帰れない。優しいせいで不幸になる」
「じゃあ、終わったあと事務所で鍋とかしないか? この前、お得意さんから良い肉が届いただろ。あれ勝手に使ってさ」
伊坂の顔がぱっと明るくなった。
「やったー! 鍋にしよう! 俺、白菜切る。博文はネギ切って。太さがばらばらだけど、家庭的でいいと思う」
「褒めてるのか馬鹿にしてるのか分からないな」
「褒めてるよ。博文の作るものなら何でも嬉しい。前の親子丼は鶏肉まで半熟で怖かったけど」
「あれは火が通ってると思ったんだよ」
「食べてたら食中毒で死んでたかもしれない。俺はなんて不幸なんだ!」
「食べる前に気づいただろ」
「博文といたから助かったんだ。やっぱり博文は俺の幸運だ」
機嫌を直した伊坂は、ちょうど持っていたスマホでそのまま鍋の具材を調べ始めた。楯岡はまたドリルのスイッチを入れる。ギュイイイイイイン。倉庫の奥から、何かが激しく身じろぎする音がした。硬いものが床を擦り、かた、かた、と不規則に鳴る。ドリルが止まると、それも止まった。
「本当に、そこまでやる必要ある?」
伊坂が画面を見たまま、酷くどうでも良さそうに言った。
「ある」
「俺には分からないなあ。最後が同じなら、途中が長いか短いかなんてどうでもいいじゃん。俺はいつも一回で済ませるし、困ったこともない。余計なことをすると服が汚れるし、腹も減る。必要だからやる。それだけでいいんだよ。変に特別な意味を持たせると、人間はすぐ苦しくなるから」
「お前らしいな」
「博文は意味を持たせすぎなんだよ。契約だ、業界だ、示しだって。実際は自分が腹を立ててるだけなのに」
「九割はそうだって言っただろ」
「だったら好きにすればいいよ。コンビニ飯になると思ってたけど、鍋があるなら多少は待てる。肉が俺を支えてくれる」
「肉に人格を与えるなよ」
「この業界では普通だろ」
「食材まで所有物として愛し始めたら終わりだよ」
「愛してるから一つになるんだ」
「怖い言い方するなあ」
伊坂はおもむろに椅子から立って肩を回した。関節が軽く鳴る。あの細い腕のどこへ、人間を一撃で殺す力が収まっているのか、楯岡はいまだに分からない。
「そういうところ、人殺しに向いてるよ」
伊坂は楯岡の膝にあるドリルを見た。
「博文、今まで一人もやってないんだろ。別に嫌なわけじゃないんだし、一回くらい経験しておけばいいよ。みんな武器を貸したがると思う。銃でもナイフでも選び放題だ。俺の腕は外せないから貸せないの、残念」
「外せても借りないよ。気持ち悪いから」
「酷いなあ。俺の一番便利な道具なのに」
「腕を外して渡そうとする発想が気持ち悪いんだよ」
「献身的な友情の証なのに」
「借りたとして返す時はどうすればいいんだ」
「つけてもらう。ガチャって」
「人間の身体って実はそう出来てないんだよな」
「じゃあ貸せない。残念」
伊坂は機嫌よく笑っていた。楯岡もつられて笑い、ドリルのグリップを握り直した。人を殺してこなかったのは、たまたまだ。やる前に相棒が済ませていただけで、倫理的な一線を守っていたわけではない。機会が来ればやる。その程度の認識だった。
倉庫の奥で、金属製の椅子が大きく軋んだ。伊坂が溜息をつく。
「もういいんじゃない。ずっと黙らせておくのも面倒だし、話を進めようよ。俺の意見は変わらないからね。普通に殺す。殴れば一発だし、博文がいるから死因も上手く誤認される。棚が倒れたとか、資材が落ちたとか、開放的なオナニーをしていたら事故が起こりましたってなるだけ。俺はさっさと済ませて鍋を食べたい」
その言葉で、それまで壁や配管やブルーシートの陰に隠れていた話の輪郭が、一斉に形を持った。
積み上げられた石膏ボードの向こうに、一人の男がいた。全裸で金属製の椅子へ縛られ、手首と足首には結束バンド、胴には荷締め用のベルトが巻かれている。口には布を詰められ、その上から粘着テープを貼られていた。椅子の下には、男自身の会社で使っている防水シートが敷かれている。
男は建設会社の社長で、少し前まで楯岡たちの依頼人だった。
競合会社の幹部を消すために二人を雇い、報酬と諸経費に加え、楯岡の同行料まで含めた契約を結んだ。伊坂は業界でも名の知れた殺し屋だが、楯岡が同行しない仕事は決して引き受けない。男は伊坂だけを雇いたかったらしいが、本人にきっぱりと断られている。
仕事は、拍子抜けするほど簡単に終わった。標的は予定になかった単独行動を取り、伊坂に殴られた拍子に、偶然固定されていなかった建材へ頭をぶつけた。現場の防犯カメラは停電によって停止し、駆けつけた救急隊も警察も、単なる事故として処理した。
ところが仕事が終わると、男は楯岡の取り分だけを出し渋った。伊坂の報酬は払う。必要経費も認める。しかし楯岡は現場で何もしていない。ただ立っていただけだ。幸運のお守りなどという曖昧なものへ金を払う必要はない。偶然を自分の功績にしているだけだ。
最後に男は笑った。
お守り代まで払うほど、こっちは馬鹿じゃない。
楯岡と伊坂が会社へ入った時、夜間警備員は腹痛で持ち場を離れていた。社長室の電子錠は設定不良で開き、非常ボタンは工事中で警備会社へ繋がらなかった。
逃げた男は足を滑らせ、伊坂の目の前へ倒れた。地下倉庫まで運ぶ間、一台のパトカーともすれ違わなかった。倉庫の鍵も、結束バンドも、ブルーシートも、電動ドリルも、すべて男自身が用意していたものだった。家を建てる仕事をしている人間の倉庫には、こういう時に便利に使える道具がよく揃っている。
伊坂が男の口から粘着テープを剥がした。ばりばり、と皮膚や髭を巻き込みながら剥がれる音が、ドリルとは違う生々しさで響く。布を引き抜かれた男は激しく咳き込み、唾液を垂らしながら息を吸った。
「払う。払います。全部払う。倍でも三倍でも払うから。悪かった。俺が悪かった。警察には言わない。何でもする。だから、もう終わりにしてくれ」
伊坂は困った顔で楯岡を見た。
「ほら、払うって。もう許してあげたら? 俺はこの人へ思い入れないし、殺すにしても一発でいいと思うよ。殴ればすぐ死ぬ。余計なことすると服に臭いもつくし」
楯岡はドリルの先を見つめた。
「金の問題だけじゃないんだよ」
「九割は舐められたことだもんね」
「そう。だから払って終わりにはならない。相応の手続きを踏んでもらう。苦痛で償ってもらって、そのあと殺す」
男の顔から血の気が引いた。
「待ってくれ。何もしてないだろ、あんたは。本当に何もしてなかった。殺したのはそっちの男だ。あんたは立ってただけじゃないか。そんなことで、こんな……」
伊坂が「ああ」と小さく声を漏らして、大袈裟に天を仰いだ。まずいところを踏んだ、と分かった時の声だった。信じてもいない神に向かい十字を切るが、適当すぎて逆十字にしか見えなかった。
楯岡の目が据わる。口元だけは口角を上げて笑みを作っているが、どう見ても作り笑いだった。ガツン、と癇癪を起こす手前の威嚇のような足踏みが倉庫に響く。
「もう一回言ったな」
「違う、そういう意味じゃない。認める。あんたのおかげだった。全部あんたのおかげだ。俺が間違ってた。頼む。助けてくれ。家族がいる。子供がいるんだ。殺さないでくれ。痛いこともしないでくれ。何でもするから。助けてください。お願いします。俺が悪かった。俺が悪かったから……」
声は次第に大きくなった。助けてください。お願いします。水滴の音も蛍光灯の唸りも、その声へ押し流される。伊坂が耳を塞いだ。
「プロ用は反動も強いから、両手で持った方がいいよ。あと喉は弱いから頭の方がいいかも、直す予定無かったら脳みそって案外丈夫だから長持ちするって言ってた。俺は一発で崩しちゃうから分かんないけど、ほら、あの毒使いのメガネ女。あいつが言ってた」
「分かった」
「頑張れー」
伊坂は無責任な声援を送りながら、巻き込まれないよう二歩だけ後ろへ下がった。楯岡は教えられた通りにドリルを両手で構える。
「助けてください! お願いします! 金は払います! 何でもします! それを置いてくれ! 近づかないでくれ! 誰か、誰か助けてくれ!」
楯岡は数秒、黙って聞いていた。いつもの穏やかな顔を保とうとしていた。けれど男の声は止まらない。払う。助けてくれ。悪かった。家族がいる。同じ言葉が繰り返されるたび、楯岡の頬が引きつり、口元から笑みが消えていく。
「助けてください! 本当に悪かった!」
楯岡はドリルの引き金を引いた。
ギュイイイイイイイイン。
男の悲鳴が一瞬、音に呑まれる。それでも口は動き続けていた。楯岡が指を離し、回転が弱まると、また声が戻ってくる。
「助けて、助けてください!」
楯岡は座っていた折り畳み椅子を後ろへ蹴り倒した。金属の椅子が床へ叩きつけられ、ガァン、と激しい音を立てる。
「うるせえなあ!!!」
怒鳴ると同時に立ち上がり、両手で電動ドリルを握る。引き金を最後まで押し込む。プロ用のモーターが甲高く吠え、ビットが蛍光灯の白い光を弾き飛ばしながら回転する。楯岡はそれを胸の前へ構え、全裸で椅子へ縛りつけられた元依頼人へ向かって駆け寄っていった。
ギュイイイイイイイイイイイイイイン、と、今度こそ何かへ届くための音が、地下倉庫いっぱいに膨れ上がった。
伊坂は少し離れた場所でスマートフォンを操作し、どこかで聞いたことのあるクラシック音楽を流した。
「こういう時、洋画の演出だとこんな感じだよね」
楽しそうに笑ったが、優雅な弦楽器の音は、電動ドリルの唸りと男の悲鳴にあっけなく呑み込まれ、ほとんど何も聞こえなかった。

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます