工具情事

「俺はなんて不幸なんだ!!」

 昼休みに入って十二分ほど経った人材派遣会社スモールアップルの第三業務室で、伊坂恭平は両手で頭を抱えていた。

 大声を出すほどの不幸に襲われているようには見えない。椅子に座れているし、両手足もついている。昨夜は楯岡の家に泊まり、家主のベッドを奪ってよく眠れたと言っていたし、出社してすぐに給湯室に置かれていた誰のものか分からない高級プリンを食べ、冷蔵庫へ戻しておけば気づかれないだろうと空容器だけ戻した男は、むしろ午前中だけでいつもより数倍健やかに幸福を享受していたはずだ。

「朝からうるさいなあ、なんで俺の前で大暴れしてるんだ」

 向かいの席に座った楯岡は、支給されたノートパソコンの画面から顔を上げなかった。
 灰色のシャツの袖を肘までまくり、昨日まで絆創膏が貼られていた右手の親指を、ときどき気にするように曲げ伸ばししている。

 怪我というほどでもない。電動ドリルを長時間握っていたせいで皮が擦れただけだ。会社に提出する作業報告書には、手袋を使用しなかったためと書いた。正確に言えば、最初は手袋をしていたが途中で滑るから外したので、安全管理上はもっと悪い。替えのものを用意しなかった楯岡の落ち度でしかない。

「お前の前だから暴れてるんだ! それに朝じゃないだろ、もう昼だ! 俺は午前中いっぱい耐えたんだぞ! まずそこを認めて褒めて欲しい。真面目にお仕事をしたのになんで責める方向へシフトするんだ! 悲しくなるからやめてほしいですそういうの!」

 伊坂は顔を上げ、スマートフォンの画面を楯岡へ突き出す。社内用の連絡アプリが開かれていて、部署も勤務地もばらばらな社員が好き勝手に使っている雑談用のチャンネルには、楯岡の名前が画面いっぱいに言及されていた。

 スモールアップルには業務連絡用、緊急招集用、経理連絡用、遺失物用、雑談用のほか、愚痴用と遺言用のチャンネルがある。
 愚痴用は匿名だが、書き方ですぐ誰か分かる。半分以上が伊坂のメモのような扱いになっていて、たまに他の人が書き込むと珍しさから反応が返ってくる。
 遺言用は半年以上更新がないと総務から本当にいいのかと確認が入る。遺言は常に最新のものを用意しないと、期限切れになったら規則通りに無縁仏扱いだ。死体が残っていた場合、焼いて粉にして花壇の肥料にされる。

「見ろ! 楯岡が人を殺してから、まだ一晩しか経ってないのにこの有り様だ! 情報社会はどうなっているんだ! 個人の尊厳はないのか!?」

 画面の一番上には、上半身裸の男が電動ドリルを肩へ担ぎ、解体途中の作業台の前で親指を立てている写真が表示されていた。男の肌は日焼けなのか地なのか分からないほど濃く、肩から胸にかけて丸く盛り上がった筋肉の上へ、細かな血飛沫が散っている。

 腹にも脇腹にもたっぷり肉がついているが、柔らかいというより、厚い。腕は細めの電柱くらいある。腰には黒い工具袋を巻き、ペンチ、モンキーレンチ、タガネ、ドライバーなど名前を知っている工具から何に使うか分からないものまで無秩序に差し込んでいた。写真の下には本人の投稿がある。

『楯岡の童貞はいただいた』

 その三分後に、別の部署の社員から詳細を求められたらしい。

『あいつ中々上手いぜ、抜かずにかき混ぜられて一発でイっちまった♡』

 さらにその下では、現場を知っている者と知らない者が入り混じり、楯岡が誰に何をしたのかについて不毛な推理を繰り広げていた。知っている者ほど悪乗りしている。

 写真の作業台に横たわっているものを拡大すれば、どちらの意味なのかは一目で分かるはずだが、血液と肉片が多すぎたせいで、自動的に不適切な画像としてぼかしが入っている。解除してまで確かめる者は少なかったらしいが、昨日仕留めた元依頼人の処理を頼んだ結果のこのザマだ。

 ぼかされている赤黒い塊は、楯岡が初めて殺した人間というだけで、童貞を捨てたというのならこの肉塊で捨てたと言った方が正しいだろう。嫌だけど。全く納得はできないけれど。

「俺の尊厳は?」

「既に剥奪されていると見ていいだろ。相棒のお前が社内でこんな性的な誤解を受けているのに、俺はどうすればいい!? どんな顔で仕事をすればいい!?」

「お前は無傷なんだから、今までどおりでいいだろ」

「今までどおりが分からなくなった! 俺はいま、お前を見ても、別部署のおっさんに突っ込んでかき混ぜて一発でイカせた男なんだなとしか思えない!」

「かき混ぜた相手は別人だよ」

「知ってるけど、こいつの発言のせいで誤認が発生してるんだ!! わざと誤解を招く言い方をしている!」

 楯岡はスマートフォンを受け取り、しばらく投稿を眺めた。怒るでもなく、恥ずかしがるでもなく、親指で画面を何度か滑らせる。画面を遡ると、騒ぎの発端となった二十ほどの投稿には、すべて鑿目玄翁という投稿者名がついていた。

 鑿目は、のみめ、と読む。玄翁は、げんのう、と読む。偽名にしても、もう少し隠す努力をするべきだった。本人は気に入っているらしい。入社時には別の名前を名乗っていたというが、社長に「工具使うなら工具っぽい名前がいいじゃん」と言われ、三日かけて考えた末に改名したという。

 名字にも名前にも工具を詰め込んだ結果、名刺だけ見ると江戸時代の大工の棟梁みたいになった。

「鑿目さんが俺に殺されたみたいになってる」

「そこか!?」

「俺が初めて殺したのは、鑿目さんじゃない。単に工具を使って処理したんだが、なんだ? 自分の得物を、他人の初殺しに使われると、こういう感覚になるものか? 例えば俺が伊坂の腕を借りて人を殺したらどう思う?」

「九割くらいセックスかなって」

「感性が特殊なんだよな、殺し屋って」

 楯岡はスマートフォンを返した。投稿を訂正する気はないらしい。仕事に関する誤解なら訂正したかもしれないが、童貞を奪われたという話は放っておけば消えるだろうと思っている。

 実際には、こういう話ほど消えない。人間の頭は死亡時刻や凶器や対象者の名前を忘れても、同僚が褐色の大男に童貞を奪われたという情報だけは、奇妙な鮮度を保ったまま長期間保存する。面白すぎるからだ。

「それにしても、誰が撮ったんだ、この写真」

「第二処理課の鷹無さんだ。鑿目さん、作業が終わるたびに記念撮影するから」

「家族旅行みたいに言うな!」

「鑿目さん、家族いないし」

「え、寂しい。今度一緒に撮ってやろう」

「優しいな」

 第三業務室には二人のほかに七名いたが、誰も会話へ加わろうとはしなかった。
 窓際の席では、白髪交じりの女が交通事故に見せかけるための車両を手配している。中央の机では、二十代くらいの男が、宅配便の伝票へ架空の住所を印刷していた。その隣に座った細身の女は、依頼者から送られてきた対象者の生活記録を読みながら、小袋に入った柿の種を食べている。静かな職場だった。

 電話が鳴れば誰かが取るし、コピー機の用紙がなくなれば気づいた者が補充する。月末には全員で共有部分の掃除をする。殺し屋が集まる会社としては、かなりまともな部類に入ると思う。同業他社とは潰し合いの結果、同じ規模のものが居なくなったので比較対象をどこへ置くかという問題はあったが。

 壁には社名入りのカレンダーが掛かっている。白地の中央に、小さな青いリンゴが一つ描かれていた。正面玄関の看板にも同じリンゴがある。

 丸く、少し歪んでいて、葉が一枚ついている。訪問者の多くは青リンゴを若さや成長の象徴だと思うらしい。実際にはマンチニールである。果実も樹液も葉も有毒で、雨宿りすれば樹液を含んだ雫で皮膚が焼け、燃やせば煙で失明すると言われる木だ。
 スモールアップルという社名は、社長が「小さいリンゴなら可愛いと思って」とつけた。可愛さの方向がわずかにずれている。

「楯岡、お前は気にならないのか?」

 伊坂は椅子の背もたれへ顎を載せ、正面から楯岡を見た。

「何が」

「おじさんとセックスしたことにされている!」

「そもそも童貞じゃないし、事実でもない」

「事実じゃないから腹が立つということもあるだろ!」

「別に、怒る程のものでも無いなと」

「お前、そういうところ強いよな。俺だったら耐えられない。俺はまだ誰にも奪われていないのに、奪われたことにされたら、その時点で俺の大切な何かが勝手に使われた気がする」

「お前の童貞、そんなに用途あるの? 年齢的には負債でしかないだろ、アラサーの童貞は」

「酷いことを言わないでください! これから用途を見つけるところなんだ! 人の将来性を在庫処分品みたいに言うな!」

 伊坂が再び机へ突っ伏したところで、第三業務室の扉が開いた。入ってきた男の頭が、最初に見えた。続いて厚い胸板と、工具袋を巻いた腹が見える。その下には血のついていない作業着のズボンがあり、重そうな安全靴が床を踏んだ。

 写真では分かりにくかったが、鑿目玄翁はかなり大きかった。身長は百九十を越えている。肩幅のせいで扉が狭く見える。髪は短く刈り、顎から頬にかけて濃い無精髭がある。
 年齢は四十前後に見えたが、本人は三十五だと言っている。誰も信じていないし、本人も必死に信じさせる気はないらしい。適当なウソを吐くことも多いので、もしかすると若作りが過ぎる五十代という可能性すらある。

「おう、楯岡。聞いたぞ」

 聞いたも何も、自分で言いふらした張本人が堂々登場している。伊坂は警戒の意志を示して両手を縦にして謎の構えを取り、楯岡は「来ましたね諸悪の根源」と“知ってるぞ”の意志を表した。

「お前、俺のことだいすきだったんだ?」

 鑿目は楯岡の机まで来ると、両腕を組んで見下ろした。からかう気しかない顔だ。口元が最初から笑っている。仕事中よりも、こういう時の方がよほど獲物を追い詰めたような顔をする。
 ニマニマと大変楽しそうなのだが、よくこういう行動をするだけあって、楯岡は対処方法を知っていた。

「まあ、同僚としては好きですよ」

「なんだよォ、からかいに来たのにそう言われると照れるな。酒飲みに行こうぜ、夜空けとくから」

 鑿目は本当に照れた。太い指で鼻の下を擦り、楯岡から少しだけ顔を逸らす。褐色の頬では赤くなっているのか分かりにくいが、耳が赤い。今朝、倉庫で人体を解体していた男とは思えないほど反応が素直だった。

 鑿目は人間を切り分ける時、部位ごとの重量を予想し、実際に量って誤差を確認する。誤差が百グラム以内なら機嫌がよくなるが、今日は胴体で四百グラム外したので、昼休みに入るまで少し不機嫌だった。
 それがいまは、仕事帰りに酒へ誘えたくらいで嬉しそうにしている。

 伊坂は黙って鑿目を見上げていた。なんて普通に可愛い反応をするんだ、と思ったらしい。表情に全部出ていた。

「ん? なんだよ、伊坂。お前も来るか?」

「俺は邪魔では?」

「なんでだよ」

「楯岡の初めてを奪った男と、奪われた男の飲み会だろ? 俺が行ったら構図が崩れる」

「構図ってなんだよ。三人で飲むだけだろ」

「そういうところだぞ、お前!」

「何が?」

 楯岡としても“何が?”だが、殺しのプロ達特有の何かがあるのかもしれないので黙っておいた。楯岡は殺し屋のお守りとしての歴は長いが、実際に殺したのは一人だけなので、「今週は十五人しか殺れなかったなあ」などと朗らかに会話をしている者たちの感性にはまだ届かない。

 ギャースカ騒ぐ伊坂を見下ろしながら、鑿目は首を傾げている。
 仕事中に飛び散った血はすでに洗い流して、作業着も替えているし、髪はまだ少し濡れていた。ドライヤーが苦手だと言っていたので、乾かすことをせずにそのまま歩き回っているのだろう。
 備え付けのリンスインシャンプーの匂いがするが、それでも近くに立たれると、わずかに血のにおいが混じった。
 鉄と生肉が混ざったようなにおいで、浴びた本人よりも、鼻の奥に残った他人の方が長く気づく。

「鑿目さん、まだ血なまぐさいですよ。ちゃんと洗いました?」
「あー? 生理生理」

 室内の女性三名が同時に顔をしかめる。窓際の女は通話中だったが、鑿目へ中指だけ立てた。鑿目は悪びれずにピースサインを返して笑った。彼はこの返しを気に入っており、血のにおいを指摘されるたびに使う。社内の女性社員にはかなり嫌われていた。

 仕事の腕は信頼されている。重いものを運ぶ時には呼ばれるし、高い棚のものを取る時にも呼ばれる。飲み会では会計を多めに払う。頼まれれば車も出す。体調不良で休んだ社員の家へスポーツドリンクと大量の果物を届けたこともある。
 そういう細かな好感を、下品な冗談で地道に削っていた。本人は女性に嫌われる理由を、顔が怖いからだと思っている。

「それ、本当にやめた方がいいですよ」

「お前もそう思う?」

「ちょっと言葉の加齢臭がキツすぎる」

「マジか。傷つくなァ」

 鑿目はそう言いながら笑い、楯岡の机の端へ腰を載せた。机がわずかに軋む。社員用の備品は一般企業向けの製品をそのまま使っているので、鑿目の体重と筋肉量には対応していない。

 以前、折り畳み椅子を二脚続けて壊したため、彼の所属する第二処理課には一脚だけ耐荷重二百キロの椅子が置かれている。背もたれに油性ペンで『玄翁』と書かれていた。

 自分で持ち運ぶため、一度忘れた時は全体会議で二時間空気椅子で誤魔化し続けて「酷い目に合わされた」と泣いていた。
 こういう他責はどの部署でも共通で【伊坂行為】と言われており、伊坂は「俺はなんて不幸なんだ! 俺はちゃんと真面目に会議に出ていたのに、俺の関係の無いところで俺の名を揶揄されている! いじめだ!」と騒いだ。
 これは実際事実なので、楯岡は引き出しにいれたままだったのど飴をあげて慰めてやったのを覚えている。

「で、どうだった、初殺人」

「死にました」

「そりゃそうだろ」

「ドリルって思ってたより手に来ますね」

「だろ? 長く使うなら肘を固めすぎんな。あと押しつけりゃいいってもんでもねえからな。刃に仕事させろ。道具を信用しろ」

「頭に使う場合も?」

「頭だからだよ。骨で跳ねるから、最初に角度つけすぎると持ってかれる。目玉とか鼻と、穴空いてるとこからいれると楽だぞ。腕の力だけじゃなくて身体の重みで圧入れるのも疲れねえからな」

「待ってください、メモ取ります」

「待て待て待て!」

 伊坂が勢いよく立ち上がり、鑿目と楯岡の間に身体を滑り込ませて脇腹を机に打ち付ける。「痛い! 酷い! なんで俺ばかり!」と流れるように嘆いてから、キッと鑿目を睨みつけた。

「何を勝手に楯岡へ工具の使い方を教えているんだ!」

「何って、仕事の話だろ」

「そういうことじゃない! 楯岡の得物は工具で固定されたわけじゃないだろう!」

「初仕事でドリル使ったんだから、向いてると思うだろ。こいつはセンスがある、俺が育てる」

「一度使っただけで専属面するな! 他の人間にも楯岡を指導する権利があるはずだ! 銃が合うかもしれない、刃物かもしれない、毒物かもしれない、素手で殴り殺すことに天賦の才があるかもしれない! それを初回から工具使いとして囲い込もうとするのは横暴だ! 俺としては一度撲殺をチャレンジして欲しい。俺と一緒に仲良く人を殴り殺そう!」

「一般論としては適性を広く見るべきだと言ってるんだろうが、内容だけが致命的に間違っているなコイツ」

 第三業務室の何人かが顔を上げた。致命的に間違っている、という表現が少し面白かったらしい。手続きをしに来た銃器管理課の男が一度だけ頷き、刃物を研いでいた女は楯岡の手元を見た。
 毒物調整班から書類を届けに来ていた社員も、話の成り行き次第では自分の部署へ声をかけるつもりらしく、その場に残っている。

 人材派遣会社スモールアップルは、人材派遣会社を名乗っているだけの殺し屋企業だ。

 派遣先へ送られる人材は、たしかにいる。ただしイベント会場や工場ではなく、依頼者の指定した場所へ赴き、指定された人間を殺すために派遣される。社内にいるのも殺し屋か、死体や証拠を処理する者か、その仕事が滞りなく進むよう支える者だけだった。

 依頼の精査から死体の処理、警察や病院への根回しまで、ひとつの殺人に必要な工程を社内で分担している。

 営業部は依頼人と話し、調査部は対象者の生活を洗い、実行部は殺し、処理班は残ったものを消す。
 経理は報酬を回収し、総務は社員の身元を隠し、医務室は銃創や刺創を治療する。

 受付に座っている者も、来客の顔と歩き方を見れば武器を隠し持っているか判断できたし、胸元のボールペン一本で、五人程度なら制圧できる戦闘力が求められている。

 楯岡と伊坂が所属する第三業務室は、現場へ直接出る実行部門の一つである。依頼書に書かれるのは、対象者の名前と、望まれる結果だけだった。殺してほしい、消してほしい、喋れなくしてほしい、二度と近づけなくしてほしい。生まれたことを後悔させて欲しい。各々の手段は担当者へ任される。

 社員ごとに得意なやり方はあるが、最初からひとつに決める必要はない。
 実際にいくつか試し、対象者や現場との相性も見ながら、自分に合うものを選んでいく。

 銃を使い続ける者もいれば、刃物しか持たない者もいる。事故に見せかけることを好む者、人間関係を壊して対象者自身に死を選ばせる者、現地で拾ったものしか使わない者もいた。

 鑿目は工具を中心に使うが、工具しか扱えないわけではない。ただ、本人がそれを好み、処理班との兼任を希望した結果、朝から晩まで切断と解体を担当することが多かった。

「お前らはいいよなァ。二人で外に出て、その場で考えて、その場で殺して帰ってくるんだろ。俺なんか朝から晩まで切ったり詰めたりだぜ」

「鑿目さん、それ好きでやってるんじゃないんですか」

「好きだけどよ。好きと楽は別だろ」

「わかる、俺も別に人殺しは好きじゃないんだ。生まれた時から得意だったってだけで。本当に、俺はなんて不幸なんだ……! 本来の俺は花を愛で歌を紡いで生きていくタイプの男なのに……っ」

「それを言うなら俺だって本来は酒を飲んでセックスして生きていくタイプの男だが」

 鑿目がそういうと、両手で顔を覆って嘆いていた伊坂はパッと顔を上げて不満気な顔になった。やはりと言っていいのか、涙は一滴も出ていない。

「人生が欲望と癒着しすぎている。俺と一緒にしないでくれ」

「なんだこいつ生意気な」

 頭をホールドされ捏ねられて「嫌だ! 取れる! 社内で暴力事件です誰かァ!」と叫ぶ伊坂と「助けは来ねえぜ」と悪ノリする鑿目、退いてくれないかなあと自分の机の前で暴れる二人を眺めている楯岡の後ろから、ポーンと軽い電子音が聞こえた。エレベーターが着いた音だった。

 しばらくして、金属の車輪が床を転がる音が近づいてくる。第三業務室の扉は開いたままだったが、伊坂と鑿目以外の室内にいた全員がなんとなく姿勢を正した。仕事の手を完全に止める者はいない。いちいち起立されると邪魔だからやめろと、本人から言われている。

「楽しそうだね」

 御六名無は、電動車椅子を片手で操作しながら部屋へ入ってきた。膝から下どころか、大腿の半ばより先がなかった。黒いスラックスは座面の上で丁寧に畳まれ、余った布が身体の下へ巻き込まれている。上は淡い水色のシャツに細い黒のネクタイという、ごく普通の格好だった。
 社員証も首から下げている。写真と実物の顔がほとんど同じなのは、撮影したのが先週だからだ。

 御六は若く見えた。二十代後半と言われても不自然ではない。肌には目立つ皺も染みもなく、顎の線は滑らかで、鼻筋は細い。睫毛が長く、瞳は左右でわずかに色が違った。本人へ年齢を尋ねると、その日の気分で答えが変わる。二十九と言う日もあれば、七十三と言う日もある。

 戸籍上の年齢は総務部長しか知らない。顔が若い理由については、以前、本人が「すっごく改造してるから」と答えた。整形のことだろうと全員が思っているが、どこをどの程度直したのかは誰も聞いていない。両脚をなくした理由より、そちらの方が聞きにくかった。

「社長、聞いてください!」

 伊坂がなんとか鑿目の腕から抜け出て、救いを求めるように御六へ近づいた。

「鑿目さんが楯岡の性的な噂を社内に流しています!」

「性的な噂?」

 御六は車椅子を止め、少しだけ首を傾けた。声も外見に合って若い。柔らかく、聞き取りやすい。怒鳴ることはほとんどない。腹を立てると、むしろ声が小さくなる。

「楯岡の童貞を奪ったと!」

「奪ったぜ」

 鑿目が胸を張った。

「奪われてません」

 楯岡が即座に訂正した。

 御六は三人を順番に見た。鑿目の耳がまだ少し赤いことにも気づいたらしい。最後に楯岡を見て、穏やかに尋ねた。

「楯岡くん、嫌だった?」

「別にですね」

「では、今のところ被害者はいないね」

「俺がいます!」

「何をされたの?」

「心が傷つきました!」

「この会社って、見えないものは存在しないことになっているんだよ」

 話は終わった。御六は壁際の複合機へ向かい、排出トレイに置かれていた書類を取った。社長自ら印刷物を回収しに来たらしい。
 会社の最上階には社長室があるが、御六は一日に何度も各部署へ下りてくる。社員の働きぶりを監視しているようにも、単に暇だから歩き回っているようにも見えた。車椅子なので歩いてはいない。

「ただし鑿目くん、社内アプリに作業中の写真を載せるのはやめて。背景から倉庫を特定される可能性があるから」
「ぼかし入ってますよ」
「対象にじゃなくて、背景に入れて」
「ああ、そっち」

「性的な表現については?」
「スモールアップルは多様な表現を尊重しています」
「これだから多様性社会は生きにくい!!」

「それと楯岡くん」
「はい」
「現場で電動工具を使う時は、保護眼鏡を着けてね。目に入ると感染症が怖いから」
「すみません」

 御六は一人一人に声をかけ話を聞いたあと、笑った。声を立てず、口元だけで笑う。笑うと左の頬に浅い窪みができる。おそらくそこも改造済みだった。

 人材派遣会社スモールアップルの社長、御六名無。御六は警察の隠語で死体を意味し、名無に敬称をつければ名無さん、なむさん、南無三になる。偽名としては冗談が過ぎている。
 本人へ本名かと尋ねると、「会社を登記できたんだから本名みたいなものだよ」と答える。戸籍があるかどうかすら、総務部長以外は誰も知らない。少なくとも銀行口座は持っているし、税金も納めている。
 会社は人を殺すが、脱税はあまりしない。税務署の方が警察よりしつこいからだと、経理部長が言っていた。

「ところで鑿目くん、午前の作業、終わった?」

「いま冷やしてます。夕方には箱詰めできますよ」

「送り先、間違えないでね。前回、東北と北陸が逆になってたから」

「あれ伝票書いたの俺じゃねえですよ」

「最終確認は担当者の仕事」

「へいへい」

「返事は一回」

「へい」

 鑿目は御六にだけは素直だ。体格差で言えば、片手で車椅子ごと持ち上げられそうだが、一度も逆らったことがない。
 以前、酒の席で理由を聞かれ、「社長は俺より道具の使い方が上手いから」とだけ答えた。その場にいた者は、御六が何の道具を使うのか聞かなかったし、鑿目も説明しなかった。もしかしたら、会社と社員をまとめて“道具”としているのかもしれない。そう考えると、確かにとしか言えない。

 御六は印刷した書類を腿の上へ置き、電動車椅子の向きを変えた。「じゃあみんな、安全第一に頑張りましょう」の言葉に、全員が声を合わせて「おー! 」と元気に返事をすると、満足そうにふむふむと頷いてから、電動車椅子を走らせていった。

 御六が去ると、車輪の音が廊下の奥へ遠ざかっていく。室内に残っていたわずかな緊張も一緒に消える。女性職員の一人がノートパソコンを閉じ、椅子の背へ身体を預けた。

「鑿目、あんたまた生理って言ったら、次は股間をホッチキスで留めるからね」

「医療用?」

「この前買ったやつ」

「業務用かよ、優しいじゃん」

「これ」

「それホッチキスじゃなくてガンタッカーって言うんだわ」

 女が引き出しから取り出したものをみて、鑿目は両手を上げて降参した。ガンタッカーなら工具扱いで鑿目の得物のひとつになる。その攻撃力は本人が一番わかっているし、股間にバチンは尋問の時によくやるので効果もわかる。スモールアップルでは脅しにも具体性があった。
 上げた手を下ろし、そのまま楯岡の肩を軽く叩く。軽くの基準は鑿目のものなので、楯岡の身体が少し傾いた。

「じゃ、今夜な」

「今日ですか」

「夜空けとくって言ったろ」

「もう空けたんですか」

「元から予定ねえよ」

「俺も行くぞ!」

 伊坂が慌てて割り込むと、鑿目が伊坂の頭をまたホールドして「ギャ」と悲鳴をあげさせる。なまじ腕力で全てを解決出来るせいか、伊坂は捕縛されやすい。身内にやられると腕力で解決できないので、途端に弱くなってしまう。伊坂が殴れば鑿目ですら穴が空くので我慢するしかない。

「おう。三人で飲もうぜ」

「俺がいないところで何か重大なイベントが発生したら困るんだ……! お前たちだけ関係性が一段階進んで、明日から俺だけ会話についていけなくなるかもしれない! 見つめあうだけで会話が成立する関係になってしまったら、俺は自分かどうなるか見当もつかない……!」

「飲みに行くだけだろ」

「人間関係は飲み会で壊れるし始まるんだ! 俺は何度も見てきた!」

「お前、酔うと人のカバン狙ってゲロ吐くからすぐ嫌われるもんな」

「悪気は無いんだ……たぶん……覚えてないけど……」

 最後の声は小さかった。ホールドから解放され、よろよろと机へ突っ伏した伊坂の後頭部を、楯岡はしばらく眺めたあと、試すように一回だけ撫でる。伊坂は動かなかった。嫌がっているのか、喜んでいるのか、考えすぎて処理が止まったのか分からない。

 鑿目は二人を交互に見て、何かに気づいたような顔をしたが、珍しく何も言わなかった。口を開けば余計なことしか言わない男にも、言わない方が面白いと判断できる瞬間はある。  

 壁の時計が午後一時を指した。窓際の女が立ち上がり、昼休みの終わりを告げる代わりに照明を一度消して、すぐにつける。第三業務室の社員たちは、それぞれの作業へ戻り、鑿目も自分の部署へ戻ろうとして、扉のところで振り返った。

「なあ、童貞じゃないんだろ? いつか本当に遊ぼうぜ。仕事終わりでもいいからよ」

「血なまぐさい身体はちょっと」

「じゃあ、全部わけ分かんなくなるまでお前が洗ってくれよ」

「なんか……なんかえっちなこと言ってるんだろ!? 俺にだってそれくらいは察せられるぞ!」

 伊坂が椅子を鳴らして立ち上がり、鑿目は豪快に笑いながら廊下へ消えた。楯岡は何事もなかったように画面へ向き直り、周囲の社員たちも誰一人として顔を上げずに、気にした様子も無い。

 伊坂だけがぎゃあぎゃあわあわあと騒ぎ続け、数分後には仕事に戻れと投げナイフの投擲とともに叱られて悲鳴をあげた。人材派遣会社スモールアップルの午後は、今日もおおむね平常運転である。

 

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!