午後二時半を少し過ぎた第三業務室で、楯岡博文は午前中に終わらせた仕事の報告書を作っていた。
依頼人との接触時刻、対象を確認した場所、実行時刻、撤収経路、現場へ残したものがないことの確認。特に難しい内容ではない。ただ、現場では数分で済んだことでも会社へ戻れば書くことが増える。
殺して終わりでは会社員ではないので、殺したあとに報告し、報告したことを記録し、必要なら別部署へ共有し、交通費が発生していれば精算する。
今日の楯岡は自家用車を使っていないので電車賃だけだった。往路と復路の金額を入力し、添付された経路が最安になっていることを確認する。
向かいでは伊坂が同じように事務仕事をしていたが、こちらは十分ほど前から一枚の書類を総務との間で往復させている。 内容が間違っているのではない。日付も依頼番号も合っているし、交通費の計算も珍しく一円も違っていない。ただし本人の署名がない。ついでにその前に提出した一枚にもなかったらしく、とうとう総務から来た社員が伊坂の机から少し離れたところで書類をひらひらさせながら声を上げた。
「また伊坂くんのサインが無いんだけど!! なんで自分の名前だけ毎回忘れるの!?」
「もうあいつのハンコだけフリーにしない? 俺そこのダイソーで買ってくるよ。伊坂なんて珍しい苗字でもないし、確実にあるだろ」
「一応法的にさあ……本人の知らないところで勝手に押せる状態にするのはちょっと……うちでもそのへんは一応……」
殺人を業務として斡旋している会社でどのあたりから法を気にするべきなのか、楯岡はいまだに詳しく知らない。たぶん税務と労務と印鑑あたりは守った方がいいのだろう。
人を殺した報告書だからといって署名欄を空白にしていい理由にはならないし、経費精算で架空の交通費を計上すれば普通に怒られる。
伊坂は二人の会話が自分についてのものだと分かっているはずだが、聞こえないふりをしてパソコンへ向かっていた。名前を書けば済む話なのに、いま声を掛けられると怒られると思っているのだろう。怒られるのが嫌だから自分から出ていかず、結果として相手の苛立ちを長引かせる。昔からそういうところがある。
楯岡は、あとで少し強めに言って泣かせておこうと思った。
伊坂なら一度しっかり泣かせておけば、一ヶ月くらいは反省する。そのあたりでまた忘れ始めるだろうが、とりあえず今はそれでいい。
そう考えながら報告書の次の欄へカーソルを移したところで、フロア入口のエレベーターが着床音を鳴らした。
帰社した社員かと思って特に気にしなかったが、扉が開いて中から出てきた男には見覚えがなかった。
二十代前半くらいで、肌はよく日に焼けている。黒い細身のパンツに丈の短いジャケット、耳には小さな銀色のピアスが二つ。髪はかなり明るい金色だった。ただし洒落た染め方ではない。前に染めてから美容室へ行く時期を一度逃し、そのままもう一度くらい逃したらしく、頭頂部から四センチほど地毛の黒が伸びている。
いわゆるプリンというやつだが、本人がそれを意図している感じはなかった。染め直そうと思ってはいるんだろうな、と他人事ながら分かる頭だ。
楯岡は男の首から下がっているカードへ目をやった。社員証ではない。以前どこかで見たロゴが隅についている。
記憶を辿り、そういえばこの間うちが強襲合併した会社だと思い出した。
正式にはもちろんそんな名称の企業手続きはない。先方の経営陣へ実力を伴う交渉を行った結果、経営権と人材の一部がこちらへ移ってきただけである。社内では面倒なので強襲合併で通っている。
なら新しく移ってきた社員だろうかと思ったが、男は第三業務室へ一歩踏み入れるなり、口元をにやりと持ち上げた。本人としては不敵な笑みのつもりらしい。
「どーも。天下のスモールアップルさんって、ここで合ってるっすよね。ずいぶん好き勝手してくれたみたいなんで、今日はちょっとご挨拶に────」
視界の端で伊坂が「わー!」と立ち上がった。男はそちらを見ない。せっかく考えてきたらしい台詞を途中で止める気もないようだった。
「そっちが潰した会社から来ました。まあオレも色々と思うところがあるっていうか、せっかくなんで今日は……」
伊坂が「わー!」と走った。男がようやくそちらを見る。
「え」
伊坂が「わー!」と殴りつけた。真正面から鼻を潰す軌道だ。男の上体がぶれ、拳が顔面を通り抜ける。
空振ったのではない。殴られる直前までそこにあった顔が、紙一枚ほど横へずれている。身体の軸を崩さないまま首と肩だけを逃がしたらしい。
上手いな、と楯岡は思った。伊坂はそのまま二発目を打った。今度は顎だったが、男は半歩だけ退いて避けた。
伊坂が追う。男も退く。そこで楯岡はいったん興味を失い、報告書へ視線を戻した。少なくとも伊坂が殺しに行ったなら、自分が参加する必要はない。出来ることもない。
周囲も似たような判断だったらしい。エレベーターが開いたときには何人か顔を上げていたが、伊坂が走り出したところで二、三秒眺め、それぞれ机へ戻った。さっきの総務社員も書類の話を続けている。
「本人そこにいるんだから捕まえて押させればいいじゃん」
「いま走ってる人をどうやって捕まえるのよ。嫌だよわたし、巻き込まれたら」
「あとででいいか。これ今日中だから。あとこっちにもサインないんだけど、二枚まとめて渡しといてくれる?」
書類が楯岡の机の端へ置かれた。頼まれたので仕方なく受け取る。その向こうを、知らない金髪の男がかなりの速度で横切っていった。
半秒ほど遅れて伊坂が追いかける。椅子と椅子の間を男は腰を落として抜け、伊坂は椅子を蹴らないよう片足を浮かせて追った。
備品を壊すと始末書が増えることだけは双方分かっているらしい。殺されそうな側まで会社の備品に配慮しているのは偉い。経理の好感度だけ上がりそうだ。
楯岡は書類を机へ置き、内線電話を取った。
相手が侵入者ならこのまま伊坂が殺すだろう。まだ息があるうちに処理課へ連絡しておけば、死んでから待たせずに済む。
第二処理課の番号を押すと、呼び出し音が二度鳴ったところで繋がった。
「はい、第二処理課です。裂谷です」
「お疲れさまです。第三の楯岡です。急なんですけど、今日これから一体追加って大丈夫ですか? まだ生きてるので時間ははっきりしないんですけど、たぶんそんなにかからないと思います」
「わあ」
電話口で裂谷が明らかに嬉しそうな声を出した。すぐに普段の落ち着いた調子へ戻ったものの、最初の一音は隠せていなかった。
「もちろんです。ご連絡ありがとうございます。こちらは現在使用していない作業台がございますので、ただいまから受け入れられる状態へ整えておきますね。器具類につきましても、状態がまだ分からないとのことですので一通り使用できるよう準備しておきます。もしお手数でなければ、死亡確認がお済みになった時点で、外傷の程度と搬入予定のお時間だけ一度お知らせいただけますでしょうか。搬入そのものはいつでも結構ですので、そちらのお仕事を優先なさってください。こちらは急ぎませんので」
「ありがとうございます。お願いします」
「はい。どうぞお気をつけて」
丁寧な人だなあ、と楯岡は思いながら受話器を置いた。急な仕事なのに嫌な顔ひとつしない。それどころか喜んでくれた。人が喜んでいるのを見るのは純粋に嬉しい。
本人の趣味嗜好が業務内容とかなり深いところで直結しているため、その「好き」の内訳まで細かく考えると多少難しいところはあるが、人間、機嫌よく働けるに越したことはない。一緒に働いていて気持ちの良い同僚だ。好感しかない。
楯岡は電話の横へ処理課への連絡済みとメモを置き、報告書を進めた。
そろそろ死んだかな、と思って顔を上げると、不思議なことに死んでいなかった。
多少息は上がっているものの、血も出ていない。伊坂の拳を避け、机の端へ片手をついて身体を浮かせ、蹴りまで紙一重でかわしている。
速い。純粋な走力なら伊坂と大差ないか、もしかすると一瞬の加速だけなら上かもしれない。ただし逃げることへ全力を使っているので反撃する余裕はないらしく、最初に作っていた不敵な表情は完全に消えていた。
「待って待って待って!! 違うんスって、話聞いて! マジで殺さないで!!」
「うるさい! 俺には実務しかないのに、なんでその実務でまで結果を残せないんだよ! お前が避けるからだろ! そもそも俺は事務仕事をしてたんだぞ! 苦手なのに! 頑張っていたんだ! 既に四回も怒られて心はボロボロだ!」
「だから一回止まってくれれば説明するっすから! つーか普通もうちょい聞くでしょ! オレまだ何もしてないじゃないっすか!!」
「人の会社に勝手に入ってきてそれっぽいこと言ってる奴の話を最後まで聞く必要あるか!? アポイントを取るのは社会人としての基本だろ! なんで俺が非常識な奴のせいで仕事を中断しなきゃいけないんだ! 俺はなんて不幸なんだ!!」
伊坂の中で、殺せない自分への不満から始まった話が、侵入者の社会人としての常識の欠如へ移り、最終的に自分の人生全体への嘆きまで育っていた。今日も今日とて通常運転である。
知らない男の方は、一度でも当たればまずいことを途中で理解したのだろう。伊坂が大振りするたび、ほんの少しだけ必要な分を避けている。大きく逃げると次の動作へ繋がらないので、最小限しか動かない。そのせいで見ている側には毎回当たりそうに見えた。
変身ヒーローや魔法少女が名乗っている最中は一応最後まで待つという文化が世間にはあるらしいが、第三業務室の社員にはあまり浸透していない。変身が終わるまで待つくらいなら途中で殴ればいいと思っている人間の方が多い。
最近はゲームでそれをやると変身演出中の敵から回避不能の即死反射を食らうことが増えたため、ゲームをする社員の中には多少警戒する者も出てきたが、伊坂が家でやるのは牧場物語とどうぶつの森くらいである。主に果物や花を収穫し、住民に配って楽しんでいる。
伊坂の場合、殺される可能性があるなら、その前に殺す。現実だけで育った野生の判断力だった。
こういうとき真っ先に動けるところが、普段の行いが悪くてもなんだかんだ許されている理由のひとつなのだろう。たぶん、かわいげというのはこういうものだ。欠点ならいくらでも挙げられるし、付き合いが長くなるほど増えていく。それでも見限られる寸前くらいになると、ちゃんと良いところも見せる。
楯岡も伊坂のこういうところは認めていた。褒めれば絶対に調子へ乗るので癪ではあるが、あとで軽く褒めておこうと思う。
知らない男にとっては運が悪い。楯岡がそんなことを考えていると、廊下から小さなモーター音が近づいてきた。
第三業務室の入口へ御六名無の車椅子が現れる。社長は室内へ顔を覗かせ、ちょうど自分の車椅子の前をものすごい速さで横切っていった金髪の男と、その後ろから追っていく伊坂を見て、不思議そうに首を傾げる。
「あれ? 挨拶は終わったかい。蜂屋くん、ずいぶん元気だね」
伊坂が止まった。金髪の男は止まらなかった。伊坂が急に追ってこなくなったことへ気づくまで三歩ほど余分に走り、振り返ったところで机の脚へ踵を引っかけ、そのまま床へ尻餅をつく。
「……挨拶?」
「うん。今日から第三業務室へ入る蜂屋弥一郎くん。前の会社では実行を担当してたんだ。急接近して短時間で片づける仕事が得意みたいだから、こっちでもそのあたりを中心にお願いしようと思ってる。伊坂くん、今日からしばらく教育係をよろしくね」
「新人?」
「新人というか、中途かな。会社は変わったけど経験者だから、現場そのものを教える必要はないよ。社内の手続きとか、こっちのやり方だけ見てあげて」
伊坂は黙った。床へ倒れた蜂屋も黙った。名前だけ聞けばずいぶん古風だが、実物は根元の黒くなった金髪にピアスをつけた若者である。
蜂屋は床へ両手をついたまま大きく息を吐き、とうとう目元を手の甲で擦った。
「……ちょっとしたジョークだったんスよ~……」
泣いていた。登場した時は強敵っぽく口角を上げていた男が、いまは床へ座り込んで鼻を啜っている。
「初日だし、印象残した方がいいかなって思って……前の会社から刺客が来た、みたいな感じで入ったらちょっと面白いかなって……最後まで言えばちゃんとネタバラシするつもりだったんスよ。なんで誰も話聞かないんスか……」
「刺客が来たら殺すだろ」
「まだ刺客とも言い切ってなかったじゃないっスか!! そっちが潰した会社から来ました、今日はご挨拶に、くらいしか言ってないっスよ!!」
何が面白いのか楯岡には分からなかったが、本人の中では完成された登場だったらしい。会社ごとに文化は違う。スモールアップルでは受けなかった。
蜂屋は泣きながら、エレベーターの中で台詞を二回ほど練習し、本当なら何人かが身構えたところで笑って社員証を見せる予定だったことまで訴えた。そこまで聞いて伊坂は「知らないよ」と言った。たしかに知らない。事前に共有されていない演出の完成形を察してやる義務までは同僚にない。
御六だけは少し面白そうに笑っていたので、社長相手なら成功した可能性はある。
楯岡はそこで、さっき電話した相手のことを思い出した。
「そうか……困ったな……」
思ったより深刻な声が出たらしい。伊坂だけでなく、近くにいた社員までこちらを見た。床の蜂屋も泣くのを少し止める。
「何が?」
「いや、裂谷さんに連絡を入れたので。もう一体来ますって言っちゃったんです。いま一生懸命準備してくれてるんですよ」
事情を聞いた周囲の顔が曇った。
楯岡は電話口で聞いた「わあ」を思い出した。空いている作業台を整え、必要になるかもしれない器具を一通り出すと言っていたから、もう始めているだろう。
いまさら「すみません、殺しちゃダメなやつでした」と連絡したら、裂谷ならきっと嫌な顔はしない。「そうでしたか。それは何よりです」とでも言って、蜂屋が無事だったことを喜ぶはずだ。
だからこそ言いづらい。
「それは……困るな」
伊坂まで眉を寄せた。
「俺はあの人のこと怖いけど、いい人だってのは知ってるからな。ガッカリしてるの想像すると嫌な気持ちになるよな。分かるよ。できれば俺の知らないところで笑って生きててほしいタイプの人だし……俺の近くには来ないでほしいけど」
かなり勝手な願いではあるが、気持ちは分かる。伊坂は裂谷を人として嫌っているわけではない。怖いのだ。性癖も仕事中の格好も、自分が死んだら人格も関係なくその対象になり得るという事実も怖い。
ただ、普段は親切で、頼まれたことを嫌がらず、誰かが困っていれば普通に助ける人間だということも知っている。
だから裂谷の幸福については、可能な限り自分から遠い場所で達成されることを願っている。周囲でも似たような空気が広がった。
「困ったな……。もう準備入ってるなら、今から無しですって言うの可哀想じゃない? 誰か近くにターゲットいるやついない? 二十分くらいなら都合つけられるから、時間ずらしてもらえれば俺行くけど。今日殺す予定のやつなら前倒しても問題ないだろ」
「俺の午後の対象は死体を現地に残す指定なんだよな。持って帰ったら逆に怒られる。今出てるやつ……田沼くんって連絡したら間に合わないか?」
「時間的にもう現地処理終わってると思う。直帰申請出てるから、わざわざ呼び戻すのもなあ。娘さんの迎えがあるって言ってたし……。第一に聞けば何かあるかもしれないけど」
フロアにいた数人がそれぞれ予定を確認し始めた。あくまで今日殺す予定の人間の中から、処理課へ回せるものがないか探している。
裂谷を喜ばせるためだけに無関係な人間を一人殺そうとは誰も言わない。その程度の常識はある。契約外の人間を勝手に殺せば会社へ迷惑がかかる。
ただ、本日中に死ぬ予定の人間なら、一時間や二時間の前後を大きな問題だとは思っていなかった。
床へ座ったままの蜂屋だけが、社員たちの会話を順番に目で追っていた。今日配属されたばかりなのだから、裂谷という名前にも、その人物が何を楽しみにしているのかにも心当たりがない。
「あの……何が起きてるんスか?」
蜂屋が恐る恐る聞いた。楯岡たちが見ると、少し身を引きながらも続ける。
「なんかオレのせいっぽいじゃないっスか。だったら代わりにやりますよ。初日から迷惑かけんの普通に嫌なんで。何の準備してる人なんスか? 道具運ぶとか掃除とか、そういうのならオレやるっすよ」
悪い人ではないらしい。自己紹介の方法を大きく間違えただけで、自分が原因なら埋め合わせをしようという感覚はある。楯岡は少し感心した。伊坂も同じことを思ったのか、さっきまで殺そうとしていた相手を見る目がわずかに柔らかくなった。
「お前の死体を解体する予定だった人が、解体できなくなって悲しむだろうなって問題が発生してる」
「……はい?」
「ほんとうに申し訳ないんだけど、一旦死んでくれないか?」
「一旦もクソもねえんスわ」
即答だった。さっきより涙が引っ込んでいる。生命の危機は人をしっかりさせるらしい。
「いや、待って。なんでオレが死ぬこと前提で話進んでたんスか? この人が急に殴ってきただけでしょ!?」
伊坂はまずいと思ったのか、まっすぐ楯岡を見ながら訴えてきた。特に言葉を交わしたわけではないが、殺し屋はこういうところで妙に勘がいい。伊坂と楯岡の繋がりが強いこと、それ以上に、楯岡だけは伊坂へかなり強く出られる人間だということを察したのかもしれない。
別に助ける気はなかったのだが、伊坂は楯岡の意見が蜂屋側へ傾く可能性を感じ取ったらしい。途端に勢いを増して自分の正当性を訴え始めた。悪手である。
「お前が刺客みたいな入り方したからだろ。俺は悪くない! それにもう処理課へ連絡したんだから、お前がちゃんと死んでれば何も問題なかったんだぞ!」
「その理屈でオレが納得するとでも思ってんスか!? つーか処理って何!? なんで死体になることより死んだ後の予定の方が先に決まってるんスか!!」
「会社なんだから段取りは必要だろ!」
伊坂は自分が殺しかけたことについてはすでにかなり被害者側へ移動していた。自責の時間が短かったので、他責へ移るのも早かった。今回の件は蜂屋にもそれなりに問題があるので、仕方ないことだろう。
蜂屋の方は配属初日に教育係から「死んでいれば問題なかった」と言われている。今後、伊坂と仕事をするなら初日のうちにこの人間の厄介さを知っておくのは悪いことではない。自分の命は自分で守ってもらうしかない。
楯岡は助け舟を出そうかと思ったが、何を言えば助けになるのか思いつかなかった。それより、裂谷へどう説明するかの方が気になる。
裂谷は仕事中の姿こそ異様で、伊坂の言うように怪異という表現が妙にしっくりくるが、それ以外では本当に良い人だった。出先へ行けば必ず土産を買ってきて、わざわざ他部署である第三業務室にも配ってくれる。何気ない会話の中で聞いた誕生日を覚えていて、当日には丁寧な祝いの言葉と小さな贈り物を渡してくれたこともある。人の美点を見つけるのが上手く、本人も意識していないような長所を会話の流れでさらりと褒める。外見にも清潔感があり、細身の身体つきと整った顔立ちのせいで、黙っていればどこか儚げな雰囲気すらある。そして、とにかく腰が低い。要するに、善人なのだ。
そんな人間が珍しく楽しみにしているものを、こちらの都合で取り上げるのは避けたかった。
ここにいるのは全員殺し屋だが、だからといって何でも平気なわけではない。クリスマスの朝、子供がようやく見つけたプレゼントを目の前で取り上げるような真似は、さすがにやってはいけない悪事だと思っている。
むしろ、そういうことを平気でする人間を殺すために自分たちがいる、という節すらあった。
フロア全体へじわじわと沈んだ空気が広がり始めたところで、御六が「ああ、そういうこと」と言った。
「それなら、今日一体回せるよ。第二へ持っていく予定じゃなかったものだけど、保管期限に余裕があるから順番を変えれば大丈夫。夕方に一体戻ってくる予定だから、それを裂谷くんへ回そうか」
「いいんですか?」
「うん。依頼人から処理方法の指定がないものだから問題ないよ。保管庫へ入れる予定だったけど、今日処理してしまっても構わない。総務には僕から変更を出しておくね」
「良かった……」
本当に安心した。伊坂も同時に息を吐いた。
「良かったなあ。これでガッカリさせなくて済む」
周囲からも「良かった」「じゃあ予定いじらなくていいな」と声が上がり、開かれていた予定表が閉じられていく。
裂谷には死体が一体届く。蜂屋は死ななくていい。綺麗にまるく収まった。
楯岡は念のためもう一度第二処理課へ電話を入れ、搬入されるものが当初連絡した第三業務室発ではなく別件へ変わったことだけ伝えた。裂谷は理由を聞かなかった。ただ、搬入時刻が夕方になると分かると、「承知しました。それでしたらこちらも余裕を持って準備できます。ありがとうございます」とやはり丁寧に答えた。
最初に聞いた声と同じくらい機嫌が良さそうだったので、楯岡も嬉しくなる。電話を切って大丈夫だったと伝えると、何人かがまた「良かった良かった」と頷いた。伊坂も満足そうだった。
「これで安心だな。俺、あの人が悲しんでると思いながら晩飯食いたくないもん」
「伊坂くん、そこまで気にするならもう少し裂谷さん本人に優しくしたら? この間本人の前で怪異って言ってたでしょ」
「それとこれとは別だろ。俺はあの人に幸せでいてほしいけど、俺の視界には入らないでほしいんだよ。人間には適切な距離ってものがあるんだ」
「本人に聞かれたら傷つくから、そこは黙っておきなよ」
「分かってるよ。俺だってそこまで無神経じゃない」
楯岡は、そこまでではないかどうかについてだけ判断を保留した。
裂谷は何も知らない。自分へ回るはずだった死体が途中で別人へ変わり、その穴を埋めるため第三業務室で何人かが予定を前倒しできないか検討していたことも知らない。
知らないまま夕方には一体が届き、いつものように仕事をする。それでいいのだと思う。本人が楽しく一日を終えられるなら充分だった。
実際、その日の終業間際、第二処理課から上がってきた業務連絡には予定より処理完了が早かった旨が記載されていて、翌日たまたま給湯室で裂谷と会った社員によれば、珍しく向こうから「昨日は作業が捗って助かりました」と話しかけてきたらしい。
それを聞いた第三業務室ではまた何人かが良かった良かったと喜んだ。
蜂屋弥一郎だけは、その話を聞いてもまるで安心していなかった。
配属初日にふざけて刺客を演じたら最後まで名乗らせてもらえず殺されかけ、その後は自分が生きていたせいで知らない処理担当者が落ち込むことを全員から心配された挙句、別の死体が用意できたことでめでたしめでたしになった。
蜂屋は自席へ座り、教育係になった伊坂がまた署名を忘れて総務に怒られているのを横目に見ながら、自分の新しい社員証をしばらく黙って眺めていた。
強敵登場のつもりで考えた初日の自己プロデュースは完全に失敗した。
次から普通に挨拶しようと決めるには、充分すぎる一日だった。

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