正常転調

 蜂屋弥一郎がスモールアップルに移って三日、少なくとも現場へ出て人を殺すところまでは、前の会社と大して変わらないことが分かってきた。依頼書を確認して、対象を見つけて、殺す。死体を残すか回収するか、事故に見せかけるか、指定されたものを持ち帰るか。そのあたりは会社が変わったところで急に別の職業になるわけでもない。
 蜂屋は前の会社でも実行担当だったので、細かい書式や連絡先を覚えてしまえば困ることはなさそうだった。

 違うのは、むしろ殺したあとだった。

「これ、対象が事前情報より強かったら追加で出るんすか」

「出る。確認は入るけどな。武装してないって聞いてたのに銃持ってたとか、警備が三人の予定だったのに十人いたとか。依頼人が嘘ついてた場合は向こうに請求することもある」

 隣に椅子を持ってきた伊坂が、蜂屋の画面を指差しながら説明する。業務中の負傷、私物の破損、予定外の長時間拘束、深夜帯の急な呼び出し。
 蜂屋が前の会社ではあまり見なかった項目がずらずら並んでいる。服が破れれば条件次第で補填が出るし、自前の道具を業務中に壊した場合にも申請できるらしい。前の会社ではそのへんは基本的に自腹だった。

「服も?」

「仕事で破れたなら出るよ。自分で転んだとかじゃなきゃ」

「前の会社、自腹だったんスけど。武器も自前のやつなら基本自腹っすね」

「最悪だな。なんで仕事して金減るんだよ。俺だったら絶対嫌だ」

 伊坂は心底嫌そうな顔をした。蜂屋としても、改めて並べて比べてみると前の職場はなかなか渋かったらしい。
 給与そのものに不満はなかったし、それが普通だと思っていたので深く考えたこともなかった。前の会社は潰れた。正確には潰されたあと、残った社員ごとスモールアップルに吸収された。
 会社では強襲合併などと呼ばれている。蜂屋自身、履歴書を書いた覚えも面接を受けた覚えもないので転職と呼んでいいのか怪しかったが、給料は下がらず、補填も増えて、仕事の内容もそう変わらない。

 転職して良かったな。強襲合併だけど。

「じゃあ現場関係はだいたい分かります。前んとこと同じ感じなんで」

「だろ。そこは俺も教えることあんまないんだよな。蜂屋、普通にできるし」

 初日に殺されかけた相手から言われると妙な感じだったが、蜂屋も伊坂の実力についてはもう疑っていなかった。面倒な人ではある。本当にかなりめちゃくちゃ面倒な人ではあるが、強い。
 蜂屋が避けるのに慣れていなければ、初日のあれで普通に死んでいた。死んでいた上に、そんなに反省もされないタイプの殺され方をするところだった。仕方ないね、処理課にまわせる死体ができたしちょうどいいね、で終わる。

 問題は、その伊坂が椅子に座ってからだった。現場へ出るまでの説明はまだ良かった。依頼書の見方も、対象の確認方法も、予定外の事態が起きた時の判断も、少なくとも人を殺す仕事について話している間はちゃんと経験者らしい。

 蜂屋が前の会社との違いを尋ねればすぐ答えが返ってきたし、実際の現場で起きそうな例もいくつか挙げてくれた。ところが、パソコンの画面を開いて事務処理の話になった途端、急に雲行きが怪しくなった。

「で、帰ってきたら報告書。依頼番号と時間入れて、予定と違うことがあったらここに……いや、こっちか。待って」

「はい」

 伊坂の指が入力欄の上を行ったり来たりする。さっきまで迷いなく説明していた人と同じとは思えない動きだった。蜂屋は横から画面を覗き込みながら、とりあえず黙って待つ。伊坂はひとつ欄を開いて数秒眺め、違うと思ったのか閉じ、別の項目を押して、また首を傾げた。

「この追加報告って対象以外を殺した時だっけ。建物壊した時もこれだった気するんだよな。いや、物損は別だったか」

「はい」

「……ちょっと待ってな」

「はい」

 蜂屋は待った。急かしてどうにかなる感じでもない。伊坂は画面を上へ下へ動かし、共有フォルダを開き、目的のものが見つからなかったのかまた閉じて、さっき見ていた入力画面へ戻る。
 それから思い出したように別のタブを開いた。蜂屋はその一連を眺めながら、ああ、この人は本当に分かっていないんだな、と静かに理解した。

 分からないなら最初からそう言えばいいのに、伊坂はどうやら自分の記憶を最後まで信用したいらしい。「たしか」「たぶん」「これだった気がする」が少しずつ増えていくたびに、蜂屋の中では説明を受けるというより、一緒に正解を探している感じが強くなっていった。

「たぶんこれ」

「たぶん」

「俺、事務あんま得意じゃないんだよ」

「そうみたいっすね……」

 そこはもう、今日初めて知ったことではなかった。昨日も何かの書類を総務から返されていたし、一昨日は署名が足りないと内線が来ていた。今朝に至っては領収書を添付し忘れ、「俺の机にあるんだから紛失したわけじゃないだろ」と電話口でそこそこ真剣に揉めていた。
 向こうが何を言ったのかは聞こえなかったが、最後には伊坂が「はい……付けます……」としょんぼり返していたので、たぶん全面的に伊坂が悪かったのだろう。

 初日に殺されかけた時の印象とは、ずいぶん違う。あの時の伊坂は速かったし、迷いもなかった。蜂屋がどこへ逃げるかを読んで回り込み、手が届く距離へ入れば一切ためらわず殴ってきた。動きだけを見れば、むしろ判断の早さが怖いくらいだった。それが今は、報告書の項目ひとつを前にして十分近く足踏みしている。

 実戦能力と事務能力が、同じ人間の中に入っているとは思えないくらい差がある。少なくとも蜂屋がこれまで会った中では、人間を殺すより報告書を書く方に苦戦している殺し屋は伊坂が初めてだった。

「会社ももっと分かりやすくすればいいと思わない? 現場から戻ったあとって疲れてるんだからさ。そこでこんなの何種類も書かせるの、絶対効率悪いよ」

「伊坂さん、これ何年やってるんですか」

「年数は関係ないだろ」

 関係あるだろうな、と蜂屋は思った。ただ、このまま伊坂の記憶が戻るのを横で待っていても仕方がない。
 画面を行ったり来たりする指先を見ているうちに、教わるより自分で調べた方が早そうだという結論に至った。蜂屋は昔から、人の説明を順番に聞くより、必要な情報がまとまっているものを一度読んでしまった方が頭に入る。前の会社でも、新しい規定や手順が増えた時はだいたいそうしていた。

「おっけーッス。とりあえず業務マニュアルみせて貰えます? 俺こういうの見て情報とるの得意なんで」

「あ、ほんと? じゃあ助かる。ここ。共有の業務資料ってフォルダに全部入ってるから」

「了解っす」

「分かんなかったら検索すると大体出るよ。じゃ、俺自分の仕事戻るな」

 伊坂は素直に頷くと、本当にそのまま椅子から立ち上がった。蜂屋も止めなかった。現場へ出るまでのことは一通り聞いたし、事務処理ならマニュアルを読めばどうにかなりそうだ。
 そもそも教える側が一緒になって迷っているのだから、ここから先は自分でやった方がお互い早いだろう。

 そう思って、共有フォルダの中から業務マニュアルを開こうとしたところで、斜め向かいから楯岡の声が飛んできた。

「いやお前、それはダメだろ」

 伊坂が止まった。蜂屋も手を止める。

「お前が指導係なんだからちゃんと指導しないと。蜂屋くんが一人でできるって言ったからって、そのまま放り出してどうすんの」

「いや、でも蜂屋こういうの得意だって────」

「NO!」

 伊坂の口が閉じた。

 声を荒らげたわけではない。楯岡は自分の席に座ったままで、顔つきもいつもと大して変わらない。それなのに、言い訳が始まりそうになった瞬間だけ妙に切れ味のいい「NO!」が飛んできた。

「得意かどうかは関係ないよ。最初は一通り教えるのがお前の仕事だろ。そのあと蜂屋くんが自分で読んで覚えるなら好きにしてもらえばいいけど」

「でも俺が説明するより自分で読んだ方が────」

「NO!」

「……はい」

 また止まった。

 蜂屋はまだマウスへ手を置いたまま、二人を交互に見る。伊坂は明らかに納得していない顔をしていたが、楯岡の方はその顔を見ても特に気にした様子がない。

「分からないなら一緒に調べればいいんだよ。教える側が全部暗記してなきゃいけないなんて言ってないだろ。どこに何が書いてあるか一緒に確認するのも指導だから」

「俺だって途中まではちゃんと説明したし」

「NO!」

「まだ何も言ってないだろ!」

「言い訳しようとしただろ」

 していたな、と蜂屋は思った。

 伊坂は口を開きかけて、今度は自分から閉じた。楯岡に三回も止められて、ようやく学習したらしい。

 怒鳴っているわけでもなければ、怖い顔をしているわけでもない。楯岡は仕事の手を完全に止めることすらせず、伊坂が余計な方向へ話を持っていこうとするたび、その入口だけを確実に塞いでいる。

 犬を叱る時のコマンドみたいだ。

 蜂屋の実家でも飼っている忍犬(日本スピッツの沙華ちゃん3歳)が食卓へ鼻を突っ込もうとすると、父が短く「駄目」と言って止めていたが、だいたいあれと同じだった。長々と言い聞かせない。駄目なものは駄目と、その場で止める。

 違うのは、相手が成人男性で、しかも蜂屋が初日に本気で殺されかけたくらい強い殺し屋だということくらいだった。

 初日に伊坂と会った時から、なんとなく面倒そうな人だとは思っていた。その後三日ほど一緒に働いて、なんとなくではなくなった。強いし、別に意地悪でもない。新人の蜂屋にも普通に声を掛けるし、分からない場所があれば教えてくれる。昨日は給湯室まで案内してくれた。
 ただし、そこで「名前が書いてないものなら食っていい」と教えられ、あとから楯岡に止められた。親切ではあるのだ。その親切にちょくちょく余計なものが混ざる。

「伊坂さんを上手くいなしてる……」

 つい声に出た。楯岡が蜂屋を見た。

「別にいなしてないよ。言い訳を最後まで聞くと途中から本人も本気になってくるから、最初に止めてるだけ」

「俺、犬みたいにNOって言われたんだけど」

「嫌なら一回で言うこと聞きなよ」

「俺にも人としての尊厳がある」

「蜂屋くんの指導放り出した奴が今それ言う? 尊厳を主張したいなら責務は果たそうな」

 伊坂が口を閉じた。蜂屋はちょっと感動した。

 楯岡博文については、スモールアップルに来る前から噂だけ知っていた。現場へ同行させると不自然なくらい物事が上手くいく、殺し屋たちに幸運のお守り扱いされている男。そこについては今も半信半疑だった。
 蜂屋の実家は忍者の家系だが、忍者だから何でも不思議な話を信じるわけではない。足音を消すのにも、人の視線から外れるのにも、それなりの技術がある。

 ただ、楯岡本人はすごくちゃんとした人だった。出した書類は不備の付箋付きで戻って来ることはない。電話は普通に丁寧。頼まれた仕事を忘れない。蜂屋が社内のシステムで迷っていた時も、横から全部やってしまわず必要なところだけ教えてくれた。伊坂が何かやらかせば注意するし、注意したあとは普通に話している。

 なんて尊敬できる社会人だ……。

「ほら、伊坂。マニュアル開いて」

「はい」

「蜂屋くんと一緒に確認して」

「はい」

「分からなかったら聞いて」

「はい」

 今度は伊坂も大人しく座り直した。楯岡に言われた通り、画面の端へ業務マニュアルを表示して、ひとつずつ確認しながら説明をやり直す。そうすればさっきまでの迷走が嘘みたいに話は進んだ。
 報告書の提出方法、経費申請、予定外の殺害が出た場合の追加報告、会社の備品を壊した時の手続き。分からないところは無理に誤魔化さず、途中で楯岡に二回聞き、一回は総務へ電話した。総務から何か言われたらしく、受話器を置いたあと少しだけ不満そうな顔をしていたが、今度は余計なことを言わずに説明へ戻った。

 最初からこれで良かったのでは、と蜂屋は思ったが、言わなかった。少なくともマニュアルさえ横にあれば、伊坂の説明はそこまで分かりにくくない。現場経験そのものは豊富なので、「こういう時にこれが必要になる」という実例も出てくる。事務仕事が苦手というより、記憶だけで何とかしようとすると急に駄目になる人なのかもしれない。

 一通り終わったところで、斜め向かいから楯岡がこちらを見た。

「蜂屋くん、大丈夫そう?」

「大丈夫っす。あとは自分で読めばいけます」

「うん。じゃあ伊坂もお疲れ」

「俺も頑張った」

「頑張ったな。次から最初から頑張ろうな」

「……はい」

 褒められたのか叱られたのか微妙な顔で、伊坂は自分の席へ戻っていった。蜂屋もマニュアルを閉じ、次に見るよう言われていた資料を開く。これで新人教育はいったん終わりらしい。

 そのはずだった。

「……おれはなんてふこうなんだ……」

「今なんて言った」

「大変申し訳ありませんでした反省していますごめんなさい」

 蜂屋はまた手を止めた。

 反応が速い。さっきまで机に突っ伏しかけていた伊坂が、楯岡に声を掛けられた瞬間にはもう背筋を伸ばしていた。顔まで妙に真面目になっている。

「俺がなんか理不尽なこと言った?」

「言ってません。俺が悪かったです。蜂屋の指導を途中でやめようとしました。反省してます」

「うん。蜂屋くんが自分でやれるって言ってくれたからって、それに甘えていいわけじゃないからな」

「はい」

「次から気をつけて」

「はい」

 楯岡はそれ以上引っ張らず、そのまま自分の画面へ戻った。伊坂もしばらく大人しくしていたので、今度こそ本当に終わったらしい。

 蜂屋は手元の資料へ視線を戻しながら、少しだけ楯岡の方を見た。

 すごい人だなあ。

 楯岡博文については、入社前から妙な噂を聞いていた。同行させると仕事がうまくいく。事故みたいな偶然が重なって、結果的に殺し屋側へ都合のいい状況になる。だから社内では幸運のお守りみたいに扱われている、と。

 そこについては今も半信半疑だった。まだ一緒に現場へ出たこともないし、幸運なんて言われても見ただけで分かるものではない。

 ただ、少なくとも普通の会社員として優秀なのはもう分かる。

 仕事は早いし、書類で揉めているところも見ない。新人の蜂屋にも必要なことはきちんと教えてくれるし、伊坂が余計な方向へ行けばちゃんと戻す。しかも怒鳴り散らすわけでもなく、駄目なものだけ駄目と言って、終われば引きずらない。

 伊坂をこれだけ普通に働かせられる時点で、幸運の噂が本当かどうかなんて、蜂屋にはもう別にどうでもいい気さえしてきた。

 

 それから一時間ほどして、蜂屋は自席で書類の整理をしていた。
 紙で残っている依頼書と社内データの番号を照合し、抜けがあれば付箋を貼る。単純作業ではあるが、こういうものは嫌いではない。蜂屋は昔から大量に並んだ情報の中から必要なものを拾うのが得意だった。
 第三業務室は静かで、キーボードを叩く音、紙をめくる音、少し離れたところで誰かが電話をしている声が聞こえる。

 蜂屋自身もほとんど音を立てない。子供の頃から家の中を走る時にも足音を出すなと教えられてきた。
 廊下で踵を鳴らせば注意され、階段を駆け下りて板を軋ませればもう一度上からやり直し。今では革靴でも意識しなければほとんど足音が出ない。そのぶん他人の足音はよく耳に入る。

 ダダダダダダダダダダッ、と廊下の向こうから騒音がした。

 蜂屋は顔を上げた。誰なのかは考えるまでもなかった。速度を緩める気配もなく足音が近づき、第三業務室の扉が勢いよく開く。

「蜂屋!」

 伊坂だった。

 他人の足音でもこんなにうるさいのは伊坂さんくらいだな、と蜂屋は思った。初日に蜂屋を追い回した時もそうだった。

 隠れる気が一切ない。それなのに追いつかれたら普通に死ぬくらい強いので意味が分からない。忍者として育てられた蜂屋からすると欠陥のように思えるのだが、本人はこれまで特に困らず生きてきたらしい。

「なんすか」

「楯岡がキレてるの見ないか?」

 蜂屋は持っていた書類を机へ置いた。

「あの穏やかな人がキレてる!?」

「キレる。今ちょうど地下で暴れてる」

「見ます」

 即答した。完全に物見遊山だった。午前中に伊坂を淡々と叱っていた人である。言い訳が始まるたびに「NO!」の一言で止め、最後まで声を荒らげることもなかった。
 仕事も早くて人当たりもよく、新人の蜂屋にも親切で、今のところ蜂屋の中では「特殊な幸運体質については半信半疑だが、社会人としてめちゃくちゃ尊敬できる人」という位置にいる。その楯岡がキレていると言われれば、見たい。

 伊坂について地下へ向かった。前を歩く伊坂は階段でもダンダンとうるさく、蜂屋はその数歩後ろを無音でついていく。

「何があったんですか?」

「金払ってない依頼人がいてさ。三回請求しても払わないし、連絡つかなくなったから、そろそろ一回見せしめにしようって」

「それ楯岡さんがやる案件なんすか」

「話だけだったんだけど、楯岡のこと怒らせたんだって。ほんとは取り立てって俺らの担当じゃないんだけど、相手が逃げててさ。今日、車折と仕事行った帰りにそいつの潜伏先に行ったらこうなったって」

「で、なんで楯岡さんが拷問を…………」

「社長がやっていいって言ったから」

「合法の拷問……?」

 言った瞬間、蜂屋はちょっと恥ずかしくなった。何だその反応。一般人みたいなことを言ってしまった。殺し屋派遣会社へ勤めている人間が、いまさら拷問の合法性へ疑問を呈してどうする。

「会社的には合法。支払いが焦げ付いてるし、今後も払う気ないみたいだから、そろそろ見せしめにしていいって社長の許可が出た。死んでも別にいい。むしろ一人くらい死んだ方が他の未払い客には効くかもしれないって」

 さすがスモールアップル、邪悪だ。

「じゃあ楯岡さん、殺しちゃってもいいんすか」

「うん。だから今日は止める人いないよ。あいつの癇癪がいつ終わるかだけ」

 

 聞き取り室のある廊下へ入る前から、何かを蹴る音がした。ドンッ、と一発。少し間が空いて、もう一発。人間の苦しそうな声が続き、それを掻き消すくらい大きな声が響く。

「だから何で俺がお前のためにこんな時間使わなきゃいけないんだよ! お前が最初から払ってれば俺はいま家に帰れてたんだぞ! 仕事終わったんだよ! 今日の仕事はちゃんと終わったの! なのに何で終わったあとにお前みたいなののところ寄って、金払えって話からしなきゃいけないんだよ!」

 蜂屋の足が止まった。楯岡だった。

「俺が悪いのか!? 違うだろ! お前が払わないからだろ! 俺だってこんなことで怒りたくないのにお前のせいで怒ってんだよ!」

 さらに何度か音が続く。伊坂は足を速めた。楽しそうだった。

「まだやってる」

 聞き取り室の扉は開いていた。隠す必要もないらしい。伊坂が入口の壁へ寄り、蜂屋もその横から中を覗く。
 まず床に転がった男が見えた。五十前後だろうか。シャツは腹のあたりまで捲れ上がり、真新しいアザが出来ていた。身体を丸めようとしているが、楯岡がその周囲を苛立たしげに歩き回っているので上手く動けない。少し離れた壁際には車折美嘉が折り畳み椅子へ座ってスマートフォンを弄っていた。

 その前で楯岡が、蜂屋の知っている楯岡博文とは似ても似つかないことになっていた。

「何で払わないんだよ! 払えないなら最初から頼むなよ! 金がないなら人殺しなんか依頼するな! 自分でやれよ! こっちは慈善事業じゃないんだが!?」

 怒鳴りながら床を踏み鳴らす。片足を何度も叩きつけるようにして、ダン、ダン、ダン、と地団駄を踏み、その勢いのまま男の脇腹を蹴った。

 男が息を詰まらせて身体を縮めると、楯岡はそれがまた気に障ったらしく、両手を自分の髪へ突っ込んでぐしゃぐしゃに掻き回した。少し離れて、また戻る。何か言いかけてやめたかと思えば、次の瞬間には別の腹立たしいことを思い出したらしく、床を踏みつけながら男を指差した。

「その顔も腹立つなあ! なんでお前が被害者みたいな顔してんだ! どう考えてもこっちが被害者だろ! 金払ってもらってないの俺らなんだけど!? 俺はお前に何かしたか!? してないだろ! 頼まれたことやったんだよ! ちゃんと殺したんだよ! 仕事をして真面目に生きてる人間を搾取して、お前みたいなやつがいるから社会はよくならないんだ! 謝れよ!!」

「す、すま……」

「何勝手に喋ってんだてめえ!! それが人の話を聞く態度か!!」

 すごい暴論のコンボをきめて蹴っている。
 一度では終わらなかった。男が痛みに身体をよじると、その動きを見て位置を変え、もう一度蹴る。蹴ったあとには二歩離れ、両腕を苛立たしげに振り、また床を踏み鳴らす。

 泣くでもなく、悲しむでもなく、傷ついた様子を見せるでもない。怒りだけで身体全部が忙しい。腕を振る。髪を掻く。男を指差す。何もない床を睨む。地団駄を踏む。いったん壁際まで行ったのに、途中で何か思い出したらしく踵を返してまた戻ってくる。怒鳴っている最中に次の腹立たしいことが浮かぶのか、話が終わらない。

「三回だぞ! 三回連絡してんだぞ! 一回目で払えよ! 一回目で払わなかったとしても二回目で払えよ! 何で三回目まで無視して、それでもまだ払わないんだよ! 仕事してんだよこっちは! なんでお前に電話かけなきゃいけねえんだよこっちが言う前に入金しろよ! 何だったら払うんだよ! 俺がこうやって来なきゃ払わないなら最初からそう言えよ! そしたら最初から殴りに来たのに!」

「ぐ、ぅ……わかった、払う、払うから……」

「今更?! 今払うって言えるなら昨日払えただろ! 今日になったら急に金が生えてきたのか!? 生えてないだろ! じゃあ昨日もあったんだろ! 何で昨日払わなかったんだよ!」

「ひっ……」

「そこで黙るなよ! こっちが聞いてんだろ! 返事しろ!」

「払、います……」

「同じ話繰り返してんじゃねえぞ!」

 また蹴った。蜂屋は思わず少しだけ顔を引いた。癇癪というものを、ここまで長時間維持できる人間を初めて見た。
 子供なら途中で疲れて泣くか、親に抱えられてどこかへ連れていかれる。楯岡にはその終点がない。成人男性の体力で怒り続け、しかも誰も止めない。社長の許可まで出ている。

「すごいっスね……」

「だろ? 俺、楯岡が暴れてんのみるの好きなんだよなあ」

 伊坂はにこにこしていた。聞き取り室の中から車折が顔だけこちらへ向ける。

「あ、伊坂来たんだ。わかる。普段見れない『雄』の顔みたいでイイよね」

「分かる」

「でしょ? いつもニコニコしてるし、怒っても普通に説教するだけじゃん。こういう時だけめっちゃ荒いの、結構イイ」

 イヤイヤ期のガキの大暴れにしか見えねえなあ。

 蜂屋は口には出さなかった。人の性癖に余計なことを言ってはいけないし、車折にはあれが普段見られない雄の顔に見えるのだろう。
 蜂屋には今のところ、買ってもらえなかった何かを成人男性の筋力で表現しているようにしか見えなかった。

「お前さあ! 一回でも自分でおかしいと思わなかったのかよ! 人に仕事を頼んだら、対価を支払うものだろ!? なんで自分で依頼出して踏み倒せると思ってんだよ! 食い逃げだって食ったら払うだろ! お前がやってんの食い逃げより悪いからな! 人殺させ逃げだからな!」

 言いながら楯岡は男の足元へ移動し、蹴った。位置を少し変えて、また蹴る。蜂屋は途中から、その蹴り方をよく見るようになった。

 適当に暴れているように見えて、適当ではない。伊坂のように一発で壊す蹴りではなく、男が倒れてからかなり経っているはずなのに、まだ意識がある。声も出る。動ける。楯岡はそれを確認しながら、痛みだけが強く残るように力と場所を変えている。

 一番痛くて、一番長持ちするやつだ。

 蜂屋にもそれくらいは分かった。殺していい相手なのに、まだ殺していない。手加減というには優しさがなさすぎる。むしろ長く怒るために壊し切らない。楯岡は技術を使って癇癪を長持ちさせている。

「お前のせいで帰るの遅くなってんだぞ! 俺、今日もう仕事したんだよ! 朝から車折さんと外出て、ちゃんと仕事終わらせて、帰ってきたの! なんでそのあとにもう一仕事増えてんだよ! お前のために残業が発生してんの! 今日は帰りに映画観るつもりだったのにさあ!!」

 楯岡が怒鳴る後ろで、車折はスマートフォンをポケットへしまった。

「今日の仕事さ、マジでヤバかったんだよ。楯岡さん乗せてったら最初の信号から全部青。現場着いたらいつも埋まってる搬入口が一台分だけ空いてて、対象の車もこっちが触りやすいところに勝手に停まってんの」

「これが楯岡の力だ」

「誰目線よあんたは。警備も一人腹壊して抜けてたし、対象は予定より二十分早く出てきたくせに、こっちの準備終わったちょうどあと。あたし何も調整してないのに全部ちょうど良かった」

 楯岡が男を蹴る。

「お前が払わない金のために経理が何回確認したと思ってんだよ! 総務だって連絡してんだぞ! 俺だけじゃないんだよ! お前一人が払わないせいで何人の勤務時間使ってんだよ! 人の時間を何だと思ってんだ!」

「しかも帰りにガソリン入れたら、入店百万人目だった」

「えっ」

「記念品もらった」

 車折は足元に置いてあった紙袋を持ち上げ、中から妙なぬいぐるみを出した。丸いガソリン計量機に筋肉質な手足が生え、頭頂部から給油ノズルらしきものが伸びている。顔は妙に爽やかで、胸に大きく「H」と書いてある。片目だけ閉じて親指を立てていた。

「ハイオクマンたん」

「いいなあ! 俺好きなんだよこいつ! 国道のガソスタのキャラだろ!? 非売品じゃん……羨ましい……!」

「そう。あと三万円」

「三万も!?」

「現金。太っ腹だよね」

 蜂屋はハイオクマンたんを見た。全然可愛くない。三万だけでいいよな。

「それ楯岡さんが貰ったんスか」

「運転してたのあたしだから、一応あたしが百万人目。でも楯岡さん乗せてなかったら絶対ならなかったし。半分あげるって言ったら、いらないって」

「ハイオクマンたんも!?」

「人形は一個しかないからあたしの」

「ずるい!」

「何がずるいの。自分で百万人目になりなよ」

 すぐそこで楯岡が大癇癪を起こしているのに、二人は普通に喋っている。蜂屋は半信半疑だった楯岡の方を改めて見た。本当に運が良くなるんだな。さすがに偶然だけで片づけるには出来すぎている気がしてきた。
 現場の信号、駐車場所、警備員、対象者の行動、帰りのガソリンスタンドで百万人目。そのうえ三万円。

 俺も今度、楯岡さんと組んでもらおう。

 そこまで考えたところで、床の男がまた余計なことを言った。

「金なら……払うって、言ってるだろ……もういいだろ……」

 楯岡が動きを止めた。蜂屋は、今ので終わるかな、と思った。

「何でお前が終わりを決めてんだ?」

 終わらなかった。楯岡はその場で両足を踏み鳴らした。さっきより大きい。ダンダンダン、と何度も床を踏み、苛立ちの持っていき場がないように一度その場をぐるりと回ったあと、また男のところへ戻る。

「もういいだろじゃないんだよ、俺がいいって言ったら終わりなの。お前が始めたんだろこれは、金を払わなかったのお前。俺を残業に追い込んだのも業務を増やしたのもお前。 なのにさあ!! ここ来て、お前の顔見て、お前の言い訳聞いて、まだ終わりまでお前が決めるのかよ! 何で全部お前の都合なんだよ!」

 蹴る。

「俺だってこんなことで怒りたくないんだよ! 怒るの疲れるし! 喉痛くなるし! 手も足も痛くなるし! 何にも楽しくないんだよ! 全部お前のせいだろ!」

 さらに蹴る。

「まーもーれーよ! 契約っ! 約束っ!! 大人だろ! なんで出来ねえんだよ!」

 その言い分は少しだけ責任転嫁ではないか、と蜂屋は思った。ただし今は言わない。絶対に言わない。

「これ長い時のやつだな」

「分かるんスか」

「分かる。短い時はもっと早く息切れする。今、言いたいこといっぱいあるからまだ続くよ」

「癇癪の見極め慣れてるんスね」

「付き合い長いからな」

「そこ誇るところなんスかね」

 車折が笑った。

「でも今日すごいよ。さっき一回静かになったんだけど、相手が『たかが殺し屋風情が』って言ったら第二ラウンド始まった」

「あー」

「最初は『支払いだけお願いします』って普通だったんだよ」

「そこからこれになるんだ……」

 蜂屋が見ている間にも、楯岡は男の周囲を歩き回っていた。三歩行って戻り、何か言いかけてやめ、床を一度強く踏み、また男を睨む。

「金も払わねえ寄生虫風情に、何で俺がお前に馬鹿にされなきゃいけないんだよ! 俺たちは頼まれた通りやっただろ! お前ができないこと代わりにやったんだぞ! それで金も払わない、態度も悪い、呼んでも来ない、やっと捕まえたら偉そうにするって、何なんだよお前! どこまでやったら気が済むんだよ! 酷いだろうが! 謝れ! 謝れ謝れ謝れ謝れ!!」

 男はもう答えなかった。

「黙ってんなよ!」

 蹴られた。答えても怒られる。黙っても怒られる。どうすれば正解なのか蜂屋にも分からなかった。たぶん正解は最初から金を払うことだったのだろう。

 楯岡はまた離れた。部屋の隅まで行き、壁に片手をついて何度か呼吸する。今度こそ終わったように見えた。男も動かない。

「あ、そろそろかな」

 伊坂がそう言った直後、楯岡が壁を見たまま数秒黙り、それから急に振り向いた。

「……いやでもやっぱおかしいだろ! 今考えてもおかしい! 何で三ヶ月も払ってない奴が俺らに偉そうにできるんだよ! 恥ずかしくないのかよ! 俺だったら無理だよ! 自分が金払ってない相手の前でそんな態度取れないよ! どんな神経してんだ、もっと申し訳ない顔をしろ!!」

 戻ってきて、また蹴った。

「まだあった」

 伊坂が嬉しそうに言った。エンドロールのあとに少しだけ『その後』の映像がある映画への反応みたいだ。嬉しそう。

「雄だねえ」

 車折も満足そうだった。

 イヤイヤ期のガキだよなあ。蜂屋はやっぱり言わなかった。

 それからさらに数分続いた。支払いを放置したこと、連絡を無視したこと、経理へ余計な仕事を増やしたこと、わざわざ捕まえに行かせたこと、仕事帰りの時間を潰したこと、捕まったあとも謝らなかったこと、払う側なのに偉そうだったこと。ひとつ怒鳴ると、その内容から別の腹立たしい点を思い出し、それを怒鳴っているうちにまた次が出てくる。一向に怒りが尽きない。

 ただ、蹴りだけは最後まで雑にならなかった。息が上がっても狙いは変わらず、男が意識を失いかければ少し間を空ける。死んでも構わないと聞かされているのに、癇癪が続いている間だけは殺してしまう方が都合が悪いらしい。全ては楯岡の癇癪がどのタイミングで終わるかにかかっている。

 合法の拷問……?

 蜂屋はもう一度思ったが、今度は口には出さなかった。

 やがて楯岡の動きが少しだけ鈍くなった。男から離れ、腰へ手を当てて息を吐く。蹴られた側より蹴った側の方が疲れているように見えるのはどうなのだろう。

「……もういい」

 誰に言うでもなく楯岡が呟いた。

「あ、終わった」

 伊坂が言う。今度こそ本当に終わったのだろう、目に見えて雰囲気が変わる。目に見えて、というところが異様だった。ここからだと後ろ姿しか見えないのに、何故かわかる。

 楯岡は髪を両手で整えた。さっき自分で掻き回したせいでかなり乱れている。それを指でざっと直し、シャツの裾を軽く引っ張り、床へ転がっている男を一度見下ろす。

「次は払ってくださいね」

 声がもう普通だった。男は返事をしなかった。出来なかったともいう。今から迅速に適切な処置をするかしないかで、経理へ行くか処理課へ行くかのルート分岐がはじまっている。

 楯岡が顔を上げる。入口にいる三人と目が合った。蜂屋は反射的に少し身構えた。

「あれ」

 楯岡の顔から怒りが消えた。

「あ、蜂屋くん呼んできたの」

 本当に、一瞬だった。眉間に寄っていた皺がなくなり、肩から力が抜ける。さっきまで部屋中に響く声で怒鳴り、床を踏み鳴らし、人を蹴り続けていた男が、知り合いを見つけただけでいつもの楯岡へ戻った。

「恥ずかしいな、俺の悪いくせなんだ。どうしても我慢できなくなっちゃってさ。大人気なくて困っちゃうよな」

 そう言って照れたように笑った。

 蜂屋は楯岡を見て、それから足元に転がっている男を見た。少し離れた床には、暴れている最中に倒したらしい椅子がひとつ転がっている。楯岡は頬を少し掻きながら、いつもの穏やかな顔で笑っていた。

「俺、そんなに怒るつもりなかったんだけどね。なんか話してたら腹立ってきちゃって」

 さっきまでのものが「なんか腹立ってきちゃった」で処理された。蜂屋は妙なところで感心した。怒りを引きずらないという話ではない。さっきまで確実にあったものが、蜂屋たちを認識した瞬間に表から消えた。呼吸も声も顔も普通に戻っている。

 すごい変わり身の速さだ。うちの家業に向いてるな。

「そういう時ってあるっすよね、わかります」

 蜂屋は素直に頷いた。横では伊坂がハイオクマンたんを車折から買い取ろうとして、普通に断られていた。

 

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!