“いなくなったら”ちぎられない

 白楡ヶ丘の一連の不審死について、最初に「土地そのものではなく、一軒の家を中心に何かが動いている」と公言したのは、霊能者の天ヶ羅玻璃乃だった。
 四十代半ばの女で、長い髪を銀色に近い金へ染め、季節を問わず白い服を着ている。テレビにも何度か出たことがあり、普段は都内で予約制の鑑定所を開いていた。
 月の満ち欠けに合わせた浄化水だの、水晶を用いた波動調整だの、男が聞けばその時点で胡散臭いと思っただろうことをいくつも商売にしている一方、見えるものは本当に見えた。
 
 正体を言い当てるより、危ないものには近づかないことで長く生き残ってきた種類の人間でもある。
 白楡ヶ丘についても、はじめはインターネットで流れている怪談の一つとして耳にしただけだった。強盗殺人事件について悪意ある投稿をした人間が死ぬ。現場付近でも妙に人が亡くなっている。呪われた一家だ、死んだ犬の祟りだ。尾ひれのついた話の大半はくだらない。それでも玻璃乃は、死亡したとされる何人かの写真を見たところで笑えなくなった。
 
 首の周囲に同じ傷がある。肉体には残らない場所へ、何かが何度も指をかけた痕跡。しかも一息に断つ力がありながら、わざわざ少しずつ裂いているものまで混じっていた。
 調べていくうちに、中心にいるらしい男の存在へ辿り着く。家族五人を強盗殺人で失った唯一の生存者。亡くなった一家を面白半分に中傷した人間が死に、事件当夜の異変へ気づきながら何もしなかった近隣住民も何人か亡くなっている。玻璃乃は男が術者なのだと思った。あるいは本人の知らないうちに何かと契約しているのかもしれない。
 ここまで強いものを飼いながら放置しているなら、少なくとも一度は話をしなければならない。そう考えて白楡ヶ丘まで来た。
 
 門前へ立ったところで帰ればよかったのだが、彼女には仕事として霊能者を二十年以上続けてきた自負もあったし、何より全国に名を知られた天ヶ羅玻璃乃が住宅街の一軒家を見ただけで逃げ帰るという選択肢を、その時点ではまだ取れなかった。
 
 インターホンを押すと、しばらくして男が出てきた。玻璃乃の顔を見ても驚かない。テレビをあまり見ないのか、そもそも有名な霊能者へ関心がないのかもしれない。
 
「突然すみません。少し、お話をさせていただきたくて」
 
 丁寧に切り出しながら、玻璃乃は門の内側へ視線を滑らせた。ひどい。想像していたよりずっとひどかった。
 
 敷地全体が一つの社になっている。庭はもちろん、家の全体に、同じものの気配で繋がっていた。その中心だけが規模に対して異様に小さい。庭の端にある犬小屋。あれが本殿なのだと分かった瞬間、喉の奥が乾いた。
 
「この家で、何かをお祀りしていますか」男は少し考え、「仏壇ならありますけど」と答えた。
 
「そういうものではなくて。神様とか、土地のものとか……犬小屋に、何かいませんか」
 
「犬小屋?」
 
 そこで露骨に怪訝そうな顔をされる。男にしてみれば、事件のあとにはこういう人間が何度か来ていた。死者の声を聞いたと言う者。家を浄化させてほしいと言う者。先祖の因縁がどうこうと言い出した者もいた。
 金を要求する前に帰ってもらったので、大きな被害には遭っていない。目の前の女もその類だと思った。服装からしていかにもである。首から透明な石を何本も下げ、手首にも色の違う石がじゃらじゃら巻かれている。
 
 名刺には「霊視・魂律調整 天ヶ羅玻璃乃」と金色の文字まで刷られていた。
 
「うちはそういうの、いいです」
 
「待ってください。あなた自身が何をしているか分かっていないなら、なおさら聞いてください。この周辺で亡くなった方々の中に、自然な死ではないものが混じっています」
 
「はあ」
 
「あなたの感情に反応しているものがいるんです。強い憎しみを持った相手が、そのあと亡くなっていませんか」
 
 男は眉を寄せた。急に来た知らない女から、まるで自分が人を殺しているかのようなことを言われている。さすがに気分が悪い。
 
「知りませんよ」
 
「知らない、では済まないんです。今もこの家にいます。あなたが餌を与えている。祈りも、憎しみも、全部あれに流れてる」
 
 あれ、と玻璃乃が犬小屋を指した瞬間、男の顔つきがわずかに変わった。彼女には分かった。あそこは男にとって触れられたくない場所なのだ。
 
「帰ってもらえますか」声は荒くなかった。それがかえって玻璃乃を焦らせた。
 
「あなたを責めに来たわけじゃありません。ただ、止めないともっと人が死にます。すでに何人も……」
 
「帰ってください」
 
「あそこにいるものは、あなたの犬じゃありません」
 
 男の指がぴくりと動いた。その一言は駄目だった。男はタローが本当に犬小屋にいると信じ切っているわけではない。死んだことも、火葬したことも知っている。ただ、あそこへ行けばまだいるような気がする。それだけが慰めになっていた。その小さな逃げ道へ、初対面の女が靴のまま踏み込んできた。
 
「知ったようなこと言わないでください」
 
 玻璃乃はまだ喋ろうとした。事件後の混乱へつけ込む連中と一緒にされたくなかったのだろう。自分には本当に見えている。それを伝えなくてはいけないと考えていた。
 
「本当に危険なんです。あなたが誰かへ消えてほしいと考えるだけで​─────」
 
 
 うるさいな。
 
 
 男は口にはしなかった。家まで来て、訳の分からないことを延々喋って、タローのことまで知ったように言う。もう帰ってくれればいいのに。
 
 いなくなってほしい。
 
 
 その瞬間、天ヶ羅玻璃乃の口が閉じた。男は一瞬、ようやく伝わったのかと思った。ところが様子がおかしい。女は唇を半開きにしたまま、門の向こうでも男の顔でもなく、その肩越しを見ていた。
 さっきまで血色のよかった顔から、見る間に色が抜けていく。視線だけがゆっくり上へ動いた。男の頭のあたりを越え、玄関のひさしを越え、そのさらに上。首まで少しずつ反っていき、とうとう顎が天を向いた。
 
 男もつられて後ろを見た。何もいない。家があるだけだった。玻璃乃には見えている。最初に匂いが来た。濃い犬の匂い。大型犬の毛へ顔を埋めたときの温かい獣臭が、息をするたび肺へ入り込んでくる。
 
 その奥に、巨大な茶色の胴体があった。太い四肢を地面へつき、男の背後から門を覗き込んでいる。本来なら犬の頭がある場所には、黒髪の青年の上半身が伸びていた。人の部分と獣の部分の釣り合いは悪く、胴がゆるく前へ倒れ、長い両腕が重力に引かれてぶらぶら揺れている。
 
 それでも以前よりずっと形が整っていた。男から流れ込む祈りと憎悪を食べ続け、艶のある黒髪の横には小さな髪飾り。肩には柔らかな布が掛かり、首元にはいくつもの飾りが重なっていた。
 
 顔立ちだけを見れば驚くほど端正で、丸みのある目には親しみさえ感じる。その整った顔が、玻璃乃を見つめていた。嬉しそうに。
 
 玻璃乃は理解した。自分はいま、この男へ害を与える人間として見られた。何か術を仕掛けられた感覚はない。呪文も印も必要ない。ただ男が、いなくなってほしいと思った。それだけで、あれは動く。巨大な人の手がゆっくり伸びてくる。玻璃乃の肉体ではなく、その奥へ向かって。
 
 
「あ、あな、あなた」
 
「はあ」
 
「あなた、わたしに、しねっておもった?」
 
 
 男は一瞬意味が分からず、それからすっかり呆れた。なんて失礼な人なのだろう。知らない家へ押しかけてきて、意味不明なことを散々言った挙げ句、今度はこちらが殺意を持ったと決めつけるらしい。
 
 「思ってませんよ」本当に思っていない。死ねなんて考えるわけがない。ただ、いなくなってほしいと思っただけだ。玻璃乃の目には、背後のものがにこにこと笑っていた。
 
 巫のお願いが来た。この人間はいなくなればいいらしい。悪い余所者だ。××さまは長い腕をもう少し伸ばした。
 
「いやあああああっ!」
 
 突然の悲鳴に男のほうが飛び上がった。玻璃乃は後ずさりし、門柱へ肩をぶつけ、足をもつれさせながら道路へ転がり出た。手首の石が一つ切れて、色とりどりの玉がアスファルトへ散る。それを拾おうともせず立ち上がり、振り返りもせず走っていく。「ちょ、荷物」困惑したままの男が呼んでも止まらなかった。白い服が角を曲がって消える。男はしばらく呆然と立ち尽くし、足元に転がった水晶らしい玉を一つ拾った。
 
 何だったんだ、あの人。
 
 ××さまも門の内側から見送っていた。あの人間は怖がっていた。どうしてだろう。自分はまだ何もしていない。昔の怖い人間のような力も感じたけれど、前に来た若い人間より少し強いくらいで、××さまをどうにかできるようには見えない。それに巫は死ねとはお願いしていないらしい。いなくなってほしいだけ。だったら、もういなくなったので願いは叶っている。追いかける必要もない。
 
 ××さまは満足して家へ戻った。男もそれから先のことは知らない。天ヶ羅玻璃乃がその日のうちに白楡ヶ丘について予定していた配信を中止し、過去に投稿した事件関連の文章まで消したことも、その後しばらく鑑定の予約をすべて断ったことも知る機会はなかった。
 
 近所では少し前まで人がよく亡くなっていたが、最近はそういう話を聞かない。たまたま時期が重なったのだろう。高齢者の多い地域だったし、事件のあとに体調を崩した人もいた。新しく越してきた家族は若く、子供も多い。夕方になればあちこちから笑い声が聞こえ、町の空気まで前より明るく感じられる。
 
 空き家になっていた二軒も、しばらくして取り壊された。隣り合った土地だったため、そのまままとめて小さな公園にする話が持ち上がったらしい。土地の所有者が「子供が増えたなら、そのほうがいいでしょう」と快く貸したと聞いた。大した広さはない。滑り台とブランコ、小さな砂場、それにベンチが二つ。それでも夕方には子供が集まる。幼児を連れた親も来るし、小学生がランドセルを家へ放り出して遊びに来ることもある。男は買い物帰りにその前を通り、ずいぶん賑やかになったなと思った。
 
 
 もう一つ、町の端にある古い神社にも変化があった。ずっと無人に近く、正月にだけ誰かが掃除をする程度だった場所へ、若い神主が常駐するようになった。
 
 氏子の名簿を整理し、傷んだ由緒書きを調べ、地域に残る古い文書まで集め始めたという。秋祭りを復活させたいらしい。自治会の回覧板にも簡単な由来が載っていた。今の白楡ヶ丘がまだ別の名前で呼ばれる村だったころ、この一帯には村人を守る神様がいた。山の外から悪い者が来れば追い払い、村の者が困れば助けた。祭の日には姿を見せることもあり、子供から大人まで親しんでいたという。
 
 名前の読み方は記録ごとに少し違っていた。古い文字が潰れているものもあって、どれが正しいのかはまだ調査中らしい。
 
 男は回覧板を読んで、いい話だと思った。悪い人間を追い払って、村の人を守ってくれる。昔話の神様というのはもっと祟ったり、生贄を要求したりするものだと思っていたので、随分優しい神様もいたものだ。子供たちにも好かれていたというところが特にいい。
 
 タローも人間が大好きだった。知らない人へ尻尾を振り、子供に耳を引っ張られても怒らなかった。そういうものを昔の人は神様にしたのかもしれない。
 
 
「いい神様だったんだな」
 
「んふふ」
 
 
 すぐ耳元で笑い声がした。男は特に驚かなかった。“昔からの友人”が隣にいるのだから、それくらい普通のことだった。名前を呼ぼうとして、ふと回覧板へ目を戻す。神様の古い呼び名を眺めていると、なんとなく懐かしい気がする。どこかで聞いたことがあっただろうか。思い出せないまま首を傾げると、隣にいた友人も同じように首を傾けた。黒い髪がさらりと揺れる。
 
 男より少し低い位置にある頭。整った顔。丸く人懐っこい目。ずっと前から知っている笑い方。「んふふ」また笑う。男も少し笑った。公園のほうから、子供たちの声が聞こえていた。
 
 

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