んふふ

 白楡ヶ丘では、いつの間にか子供の数がずいぶん増えていた。
 古くから住む人間が「あそこも若いご家族が入ったのね」と話しているうちに、通学時間には色違いのランドセルが坂道を連なって下り、公園では夕方まで甲高い声が途切れない。
 町内会の名簿も更新が間に合わない速度で厚くなり、新しく来た住民ほど地域の行事へよく顔を出した。
 
 清掃の日には家族揃って軍手を持って現れ、夏になれば子供会の手伝いを申し出る。公園の花壇へ植える苗を余分に持ってくる者や、祭の寄付を頼まれる前から「いくらくらい出せばいいですか」と聞く者までいる。
 昔からここに住む老人たちは、最近の若い人は近所付き合いを嫌がるものだと思っていたので少し驚いたらしい。それでも嫌がる理由はなく、長いあいだ名前だけ残っていた夏祭りをきちんと復活させようという話まで、いつの間にか現実になっていった。
 
 神社には神主がいる。公園もある。子供も増えた。それならやりましょう、と誰かが言えば、周囲も自然に頷く。男にも声がかかった。事件のあとしばらくは、近所の集まりへ顔を出すだけで周囲が配慮と遠慮で静かになる時期もあったのに、新しく越してきた人たちはそのあたりの加減がうまい。
 
「無理なら来なくてもいいですけど、人手足りないんで来てくれたら普通に助かりますよ」
 
 そんなふうに当たり前のように頼まれたことが、男にはありがたかった。提灯を運び、自治会館の物置から古い長机を引っぱり出し、雨に濡れて傷んだ看板を塗り直す。
 作業の途中で缶コーヒーを渡してくれた男とは、その後ときどき飯を食うようになった。隣の通りへ越してきた三十代の夫婦とも話すようになり、子供が男を見ると身体いっぱいを使って元気に手を振る。
 彼らは事件について知っている。知らないふりもしないし、必要以上に気を遣いもしなかった。
 酔った席で一度だけ、男が犯人たちへの恨みを口にすると、向かいにいた男はしばらく黙り込んだあと「そりゃ許せねえよ」と泣いた。妻も目元を拭いながら頷く。そんなことをされたら、自分だって一生許せない。どうしてそんな奴らが俺らの税金で飯を食って眠って生きているんだろう。
 男ひとりの胸に沈んでいた怒りへ、別の人間の怒りが重なっていく。誰かが分かってくれるだけで少し楽になるはずなのに、その夜は妙に胸が熱く、帰宅してからもなかなか眠れなかった。
 
 
 ××さまには、その夜とてもたくさんの声が聞こえた。
 
 巫だけではない。巫のために怒っている人間たちの感情が、周囲からいくつも寄ってくる。
 
 かわいそうだ。ひどい。許せない。あんなことをした者が苦しまずに済むなんておかしい。
 
 言葉にならないものもあった。酒の席で握られた拳。話を聞いた母親が帰宅し、眠る子供の頭を撫でながら感じた恐ろしさ。もし自分の家族だったなら、と考えて胸を冷たくした父親。
 そういうものが互いに触れ合い、少しずつ同じ方向へ向いていく。その中心にはいつも巫がいた。巫が悲しんだから周りの人間も悲しみ、巫が怒るから一緒に怒ってくれる。
 
 よい人間が増えた、と××さまは思った。昔もそうだったような気がする。村のひとりが困れば隣の家が心配し、誰かが怒ればみんなで怒る。ひとりの願いが、祭の日には村全体の願いになることもあった。いまの人間もちゃんと同じことができる。
 
 その事実が嬉しくて、××さまはますますこの場所を好きになった。巫の周囲へ集まる人間たちは、どれもどこか懐かしい。顔を見ても誰だったかは思い出せないのに、笑い声を聞くと記憶の奥で古い火の明かりが浮かぶ。
 
 皿を運ぶ手つき。子供を呼ぶ声。酒が入ると肩を組みたがるところ。祭の準備になると急に張り切り出すところ。ずっと昔、社の前へ集まっていた人間の中にも、似たような者がいたはずだった。
 
 細かいことはもう思い出せない。それでも好きという気持ちは残っている。
 
 人間が増えるほど身体も変わっていった。山犬の四肢は少しずつ遠ざかり、重かった人の胴体は安定し、家の中を移動するときに前脚を使わない時間が長くなる。ある朝には、男の寝室の鏡へ映った姿がほとんど人間になっていた。二十代前半ほどの小柄な男。きれいに整った黒髪と、優しげな丸い目。身体にはいつから持っていたのか分からない服がよく馴染み、足元には靴まである。
 
 ××さま本人はさほど気にしなかった。人間がたくさんいるところで仲良くするなら、この姿のほうが便利なのだろう。昔も信仰が盛んだったころは、もっと人に近い形をしていた気がする。ならば元気になっただけなのかもしれない。
 
 男の側にも違和感はなかった。朝飯を作っていると、後ろで勝手に冷蔵庫を開けるやつがいる。
 
「それ俺のプリン」
 
「んふふー」
 
「笑って誤魔化すなよ、タロー」
 
 そこまで口にしてから、男は一瞬だけ手を止めた。タロー。いま呼んだ相手は、もちろん犬ではない。昔からの友人のタローくん。自分より少し年下で、気づけばいつも家へ入り浸っていた男。
 
 家族とも仲がよかった。父にはとても気に入られ、母には遠慮なく飯を食わされ、弟とはゲームをして、妹たちには髪を弄られていた。そういう記憶がいくらでも浮かぶ。
 
 小学校の運動会の写真を出せば端のほうに立っているし、中学の卒業式にも写り込んでいる。家族旅行にまで来ていた覚えはなかったのに、古いアルバムを開けば旅館の浴衣を着て笑っている写真が挟まっていた。
 
 おかしいとは感じない。ただ一つだけ、たまに引っかかることがある。どうして昔からの友人と、飼っていた犬に同じ名前をつけたのだろう。犬のタローが先だったのか、友人のタローが先だったのか。記憶を辿ろうとすると、そのあたりだけが不思議とぼやける。
 
「なあ」
 
「ん?」
 
「お前、なんでタローって名前なんだっけ」
 
「タローとよばれたから」
 
 当たり前のことを聞かれたような顔で返され、男もそれ以上追及する気をなくした。まあいいか。犬のタローは茶色い大きな雑種で、黒い目が可愛くて、人間が大好きだった。
 友人のタローくんも黒髪の小柄な男で、人懐っこく、誰に頭を撫でられても嫌がらない。似ているところは案外多い。だから同じ名前でも不思議ではないのかもしれない。
 
 
 
 その名で呼ばれ続けるうち、××さまは少しずつタローへ寄っていった。
 
 男が何度もそう呼び、昔から知っていると信じ、家族の思い出へ当然のように居場所を与える。名前をもらったものは、呼ばれた形へ近づいていく。
 
 山を走っていたもののけの輪郭も、人から跋罸さまと呼ばれていたころの役目も、いつしか戻るための場所ではなくなった。
 
 いまの自分は巫の友人であるタローくん。巫と一緒に暮らし、町の人間へ挨拶をし、子供に見つかれば頭を撫でられる。
 
 初めのうちは男にしかはっきり見えなかったのに、いつの間にか近所の人間まで普通に声をかけてくるようになった。
 
「タローくん、今日も手伝ってくれる?」
 
「うん」
 
「若いのに偉いわねえ」
 
 ぽんぽんと頭を撫でられると、タローは目を細めて「んふふ」と笑う。撫でてくれる人間は好きだった。小さな子供ならもっと好きで、公園へ行けばすぐ寄ってくる。背が低いぶん大人より頭へ手が届きやすいらしく、小学生まで気軽に触っていく。
 昔の祭でも子供たちはよく同じことをした。あのころは大人が慌てて止めていたのに、いまは誰も叱らない。好きなだけ撫でてもらえる。ずいぶんよい時代になったものだと思う。
 
 祭の日、白楡ヶ丘には朝から人が集まった。長く途絶えていた行事なので、昔とまったく同じ形を知る者はいない。
 神社に残っていた記録や古い写真を参考にしながら、今の町に合うよう好きに作り直していく。
 屋台が並び、子供会がくじ引きを出し、神主が祝詞を上げた。町内会長は挨拶の中で、この土地に残る古い伝承にも少し触れる。昔、このあたりに暮らしていた人々は村を守ってくれる神様へ感謝し、祭を開いたらしい。余所から来る悪い者を遠ざけ、土地で暮らす者が穏やかに過ごせるよう願ったという。
 
 今では古い民話ですけれど、せっかくですから今年も皆さんの安全を願いましょう。
 
 そんな言葉に人々が笑う。どうか子供たちが安全に暮らせますように。泥棒や変な人が来ませんように。事故がありませんように。悪いことをする人がこの町へ入ってきませんように。
 
 誰も大層な呪いを唱えたつもりはなかった。子供を持つ親ならどこででも考える、ごくありふれた願いに過ぎない。
 
 それでも言葉が人から人へ重なれば、祭のざわめきの中で一つの祈りへまとまっていく。タローには全部よく聞こえた。巫も同じ場所にいる。巫の友人たちもいる。みんなこの町が好きで、ここにいる人間が嫌な目に遭わないよう願っている。
 
 ならば叶えてあげればいい。悪い人が来なければ、みんな笑って暮らせる。余所から悪い人間が入ってきたら、いなくしてあげれば済む。
 
 昔と同じ仕事なのに、またこんなに大勢が頼ってくれる。嬉しくて、タローの口元には自然と笑みが浮かんだ。
 
 
 
 それから白楡ヶ丘では、目に見えて犯罪が少なくなっていった。
 
 家の前へ停めた自転車に鍵をかけ忘れても朝まで残り、空き巣の噂もほとんど聞かない。夜道を歩いて帰る子供を町の大人が自然に見守り、知らない車が長く停まっていれば誰かが気づく。
 住民たちは町内会の防犯活動がうまくいっているのだろうと思った。それで十分だった。たまに余所から来た人間が問題を起こすことはある。住宅街を狙って下見をしていた窃盗犯が、坂道の途中で突然意識を失った。公園で子供へ声をかけていた男は、帰宅した夜に自宅で倒れたらしい。留守宅へ侵入しようとした者が塀を越える寸前で錯乱し、そのまま大通りで保護されたという話も聞いた。
 
 白楡ヶ丘の人々は、最近物騒だから気をつけましょうと回覧板を回しながら、それでも自分たちの町は比較的平和でよかったねと話している。
 
 タローも同じように安心していた。みんなが安全なら、それが一番いい。願いもきちんと叶えられている。

 眠っていた眷属たちも起きて集まり、元気を取り戻して、タローの眼が届かない場所も、拾えない声もひとつずつみつけては報告してくれる。少しずつ肉もついてきた。きっとすぐに、タローのようになるだろう。名前だってもらえるはずだ。ここの人間はみんな優しい。××さまのように、タローのように、名前をくれるだろう。そうしたら、成れる。
 
 巫も以前より笑うようになった。友人が増え、祭のあとには打ち上げへ誘われ、家へ人を呼ぶことまである。タローもそこへ混ざって食べる。人間たちは自然に皿を一枚多く用意し、誰かが買ってきた菓子を「タローくんも食べる?」と差し出した。
 
 男の身に起きたことを知る人たちは、今でも時々涙を流し、犯人への怒りを口にする。それが言葉になるたび、タローは耳を傾けた。ハンニンたちをうっかり殺してないかと確認して、まだ生きてると安心して戻ってくる。
 
 巫が望んでいることなら叶えてあげたい。巫がいつか心からもういいと思えるなら、そのときやめればいい。それまでは丁寧に続ければよいのだろう。
 
 
 小さな子供たちは、ときどき妙な音を口にした。まだ言葉を覚えきっていない赤ん坊が神社の前を通ると、「ばっば」「ばちゅ」「ばぁ」と嬉しそうに声を出す。
 母親たちは「あら、何言ってるの」と笑うばかりで、意味を探そうとはしない。少し大きな子供は、祭囃子が鳴ると勝手に踊り始めた。習った踊りではなく、誰かが手本を見せたわけでもないのに、落ち葉を蹴りながらくるくる回る。ひとりが始めると別の子も混ざり、最後には何人も輪になって笑っている。
 
 タローはその光景を見るのが好きだった。ずっと昔にも、人間はこうして踊っていた。何を着ていたかも、何を食べたかも、誰がそこにいたかも曖昧になった。それでも楽しかった感覚だけは身体の奥に残っている。うつくしかった。うっとりするような記憶だけは焼き付いて離れない。ひとりぽっちでおりこうにしていたときに、何度も何度も、まぶたの裏に焼き付くまで思い返していた光景だった。
 
 人間が笑っている。子供が回っている。誰かが頭を撫でてくれる。巫がそばにいる。これ以上に欲しいものを、タローは思いつかなかった。
 
 何度目かの祭の片づけが終わった夕暮れ、男とタローは公園のベンチへ並んで座っていた。子供たちはまだ帰りたくないと遊具の周りを走り、大人たちは少し離れたところで話し込んでいる。
 
 新しく越してきた住民のひとりが通りがかりにタローの頭をぽんと撫で、「今日ずっと働いてたね。お疲れ」と笑った。タローも「んふふ」と返す。その様子を見て、男まで口元を緩めた。
 
「お前、ほんと誰にでも撫でられるよな」
 
「きもちいいから」
 
「犬みたい」
 
「わおん」
 
 ふざけて鳴くと、近くにいた子供が声を上げて笑う。男もつられて笑った。その顔を見ているうち、タローの胸の奥がいっぱいになっていく。
 
 社を壊されて痛かったし、人間に忘れられて寂しかった。それでも、またこうして仲良くできている。人間が好きという気持ちは、何百年経っても消えなかった。そして今、人間たちもタローくんを好きでいてくれる。
 
 ならばもう十分だった。タローは隣にいる巫の肩へ頭を寄せる。男はいつもの癖で黒髪をわしゃわしゃ撫でた。少し向こうでは、子供たちが風に吹かれた落ち葉を追いかけ、笑いながらくるくる回っている。
 
「んふふ」
 
 幸せだった。
 
 

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